「この屋敷だな。仕事をしてくるからそこで待っていろ」
「ついていくわよ?」
「無用だ。むしろ、馬としてそこにいてくれたほうが助かる」
「分かった」
この屋敷は初めて来た。屋敷は大きかったが、螢はその屋敷に住む人の名前は知らなかった。大きな企業の社長でもあれば名前くらい聞いたことがあるはずだが、聞いたことがないのだからそこまで有名な家ではないのかもしれない。もしかしたら、吾妻咲では有名な誰かかもしれなかった。
「御免ください」
引き戸を叩き、いるのかも分からない家主に声をかけた。
「御免ください」
返事が返ってくることはなく、誰かが玄関を開けようとする音もしない。今、家主は家を空けているのかもしれない。螢が引き戸に文を挟んでその場を去ろうとしたそのとき、背後から「もし」と声をかけられた。
「どちら様でしょうか?」
肩ほどまでの黒い髪に、瑠璃色の目。着流しを着たその人は、その家の主だった。
「美波間から参りました、文屋でございます。以後、お見知りおきを」
螢はその人に向かって一礼した。相手の女性も螢に向かって礼をする。
「イナハのカザミヤ……
「あっ……ありがとうございます」
「返事の文を山羊様にお送りすることもできますが、いかがいたしましょうか?」
「あ、えっと……」
「二時間程度ならお待ちできますが」
「えっと、その、すぐにはお返事できないと思いますので……」
「そうですか。では、私はこれで」
「あ、あの」
「何か?」
「ありがとうございました」
「いえ、仕事ですから。では、また」
螢は一礼をすると、その場を去った。
螢が去っていくのを見て、手紙を受け取った女性、
「ただいま帰りました」
玄関で鈴色はぽつりと呟いた。それに返す声はないと分かってはいるが、鈴色は習慣づいてしまったこれを未だにやめることができない。
鈴色は自分の部屋に仕事道具を置くと、すぐにその隣の隣の部屋に行ってノックをした。
「鈴色です、入ります」
部屋の中にいる者の返事を聞くことなく、鈴色はその部屋の襖を開けた。
「なんだ、帰ってきたのかよ」
「ただいま帰りました」
部屋の中にいたのは、ひとりの男の鬼だった。鬼は布団に横たわったまま、目だけを動かして鈴色を見た。鈴色は鬼の枕元へ行くと、先ほど文屋から預かった手紙を鬼へ見せた。
「靖助さん、届きました。伊南波の山羊家からのお手紙です」
「あ? ああ……」
鈴色の報告に靖助は眉を顰めた。その手紙を見て驚く様子はなく、煩わしそうに手紙を一瞥して目を閉じた。
「まさか、あの家が返事を出すとはな」
「私も驚きました。仕事にならないような仕事の相手はしないと聞いていたので」
「お前、何かしたんじゃないのか?」
「何かって何ですか? 私は普通にお手紙を書いただけです」
「なら、俺がいかにも奇妙だったってことかねー」
「そんなっ」
「おい、読むならさっさと読め」
「あ、は、はい」
鈴色の反論に靖助は聞く耳を持たない。鈴色は、靖助に言われるまま手紙に目を通した。鈴色も鈴色で、靖助を言い負かそうなどとは思っていなかった。
鈴色は、山羊家から送られてきた手紙をじっと読んだ。読み間違いがないよう、読み落としがないよう丁寧に読んだ。何度も何度も同じ文章を繰り返しながら読んだ。
そして、「ああ」と消え入るような細い声を漏らした。
「どうした? 絶望するような内容だったか?」
「はい……」
「そこで正直に頷くのがお前らしいよ。ちったあ俺のことも気遣ってそこは嘘でも言っておけよ」
「ごめんなさい……」
「ま、いいけどさぁ。お前、外でもそんなんだったらやってけねぇんじゃねぇのか?」
ぽろぽろと涙を流す鈴色をよそに、靖助はぶつぶつと文句を言う。
「でも、だって、こんな……」
「いいんだよ、別に。最初から期待なんてしてなかった。伊南波の山羊家はそんなもんだ。あそこは力こそ強いが仕事にならん仕事はしねぇからな。ま、返事がきただけアレだったってことだ」
「でも、でも……」
「鈴色、喉が渇いた。お茶」
「はい……」
鈴色は涙を手で拭ってしまうと、部屋から出ていった。
鈴色が部屋から出ていくと、靖助はかすかに動く右手で鈴色が置いていった手紙を手に取った。顔を顰めて目を細め、字を読もうとした。ぼんやりと見える文字をなんとか読み、ため息をついた。
「そうか、そうか、これは、治らないなぁ……」
治ると思っていたわけではない。しかし、治ればいいのにという希望がなかったわけでもない。その一通の手紙が与えた衝撃はそう小さいものではなかった。靖助は口では「期待なんてしていなかった」と言ったが、手紙を読み終えた後の落胆のため息を止めることはできなかった。
「失礼します。靖助さん、お茶を持ってきました」
「ああ」
何度目かのため息をついたとき、鈴色がお茶とお茶菓子を載せたお盆を持って部屋に入ってきた。靖助は体を起こそうとし、鈴色はそれに手を貸して靖助の上半身を少しばかり起こさせた。靖助の背中側にはクッションが積まれている。
「靖助さん、お茶です」
「悪いな」
靖助にコップを持たせると、靖助はゆっくりと口に近づけてお茶を飲んだ。
「鈴色」
「はい」
「お前、あの手紙のことは気にするな」
「……」
先ほど読んだ手紙のことを靖助は話す。
「どうせ、俺はあの手紙を読んだことを忘れるんだろう。それに、俺を痛めつける根源がどれかすら忘れてしまったのに、それを忘れろと言われたってどうしようもねぇ。きっと、俺の中には残っているんだろうが、どうしようもねぇよ」
「でも、靖助さん」
「いいんだ、鈴色。いいんだ……」
靖助はそう言って鈴色を睨んだ。それ以上は言ってくれるなと言うようだった。
手紙には、靖助の謎の病を治すには、靖助の痛みの元である一番痛む部分を失くすしかないと書かれてあった。靖助は身体全体に痛みが走る。全身が痛くてたまらないため、日がな一日布団の中で横になっていることしかできないのだ。その上、靖助は自身の記憶も失いつつある。どこから靖助の病が始まったのかということを、靖助自身忘れてしまっていたのだ。
「私、もう一度お手紙を書いてみます」
「鈴色」
「だって、これでは靖助さんは……」
「だからいいって言ってるだろ。いい加減にしろ。いつまで経っても終わんねーだろ」
「もう一度。もう一度だけですから」
「あ、おい」
そう言いきると、鈴色は靖助のいた部屋を出ていった。靖助は鈴色を呼びとめようとしたが、鈴色が靖助の呼びかけに止まることはなかった。鈴色に閉められた襖を見て靖助は長いため息をつき、再び布団に横になった。見上げた天井は木目色で、靖助の見慣れた天井だった。
靖助の部屋を飛び出した鈴色は、そのままの勢いで自室へと向かった。手にはあの伊南波の山羊家からの手紙が握られていた。
鈴色は、あの手紙を読んでぴんときたことがある。それは、靖助の痛みの元のことだ。鈴色には、靖助の痛みの元について思いあたることがあった。しかし、鈴色はそれを靖助に打ち明けることができなかった。なぜなら、鈴色はその靖助の痛みの元を頭か心臓であると踏んでいるからである。
『伊南波 山羊家当主様』
鈴色は筆を取り、再び文をしたため始めた。
靖助の痛みの元がもし鈴色の思うように頭か心臓だったなら、そこを失くしてしまうことはできない。他の治療方法はないのか、と鈴色は尋ねる気でいた。
鈴色は思ったことを書いた。情では動かないとの噂もある伊南波の山羊家だが、また今回のように返事をくれるかもしれない。何か、山羊家の興味を引くようなことがあるかもしれないと、書けることは全て書いた。
とはいえ、相手に失礼がないようにと何度も手紙を書き直し、手紙を書き終えた頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。鈴色は、手紙を明日出すことにしてとりあえず眠ることにした。眠る前に一度靖助の部屋を覗くと、靖助はもう眠ったようで鈴色の呼びかけに対して答えることはなかった。