「あれ、お出かけですか?」
「ああ? あー、イナハのカザミヤの」
「
「そう、山羊さん。なに? ご依頼?」
「あ、はい。主人から文を預かっているんです。これを」
「あー、アガツマザキのほうね。承りましょう」
「ありがとう。これ、お代です」
「……確かに」
山羊という女性から代金を受け取った店主は、その代金が、設定されたものより少し多めなのを見てほくそ笑んだ。
店主の名前は
「それで、どこにお出かけの予定だったんですか?」
「アオグモのほうに行くんですよ。ご依頼があったもんで」
「へぇ……文屋さんって出張みたいなこともされるんですね」
「訳ありでしてね」
よっこいしょ、と言いながら螢は机に置いていたソフト帽を手に取りかぶった。髪も短く背も高い螢は、帽子までかぶってしまうと男性のように見える。しかし螢自身はそれを悪いようには思っておらず、むしろそうしたいようだった。
「じゃあ、私も出ますので」
「あ、失礼しました」
螢が店の鍵をちらつかせる。山羊は急いで店を後にした。その後、螢が店を出て鍵を閉める。
「では、文のほう、よろしくお願いします」
「ええ、お任せください」
どこか気だるげな礼をし、顔を上げると、山羊はにこりと微笑んで踵を翻した。それを見ると螢も自分の行く方向を向いた。そのとき、背後から誰かに抱きつかれる。背中に当たるふっくらとした胸の感触に、それが女性だということが分かった。そして、その女性に思いあたりのある螢は煩わしそうに言った。
「ちょっと、やめろよ」
「えー? あなたが置いていこうとするからじゃなぁい」
「ちょっとアオグモに行くだけだ。貴様の足を借りるほどじゃない」
「そうなの? それならそうと言ってくれればいいのに。でも、一緒に行くわ」
「来なくていい。言う必要もない」
「一緒に行くわよぉ。だって、あの子のところに行くんでしょう?」
「来なくていいって言ってるだろ」
「もーう」
螢が次第に早足になるのを女も追いかける。その女は螢の家に住み着いている妖であり、雷獣である。白く長い髪を揺らしながら、螢の後をついていくのをやめない。
そして、彼女は螢の腕をつかむ。
「あたしがいないとすーぐ他の妖にちょっかい出されちゃうくせに」
「……」
「護衛役ってことで」
「護衛なら、護衛らしく少しは離れて歩け」
螢は雷獣の妖の腕を振りほどいた。ばつが悪いとでも言うように頭の後ろを掻きながら、螢はだるそうに歩いた。その三歩後ろを妖は嬉しそうに歩いている。
歩いていると川の流れる音が聞こえてくる。ずっと、川沿いを歩いているのだ。少し川を覗けば亀がひょこっと顔だけを出していた。それを見つけて嬉しくなった雷獣は軽い足取りを更に軽くして気だるげに歩く螢の後ろを歩く。
二人が向かっている
歩いて十五分もすれば、依頼があったという家に到着する。それは小さな一軒家で、玄関ではなく庭へ回ると若い男の妖が出迎えた。
「あ、美波間の文屋さん。こんにちは」
「いつもお世話になっています」
だらんとした螢の礼は、ただの前屈運動のように見える。しかしそんな螢の態度を気にする素振りもなく、男の妖は中へと案内した。
「いつものところにいるから、上がって」
「お邪魔します」
「お邪魔しまーす」
庭に靴を脱ぎ、二人は縁側から家の中に入った。
「先に行ってていいのか?」
「うん。僕はお茶を入れてくるから」
「気が利くな」
「まあね」
へへっと笑って男は螢の進む方向と違う方へ向って走っていった。
彼は、この家に住む妖だ。詳しく言えば、時計の付喪神である。名前を
螢は迷いなくその家の主の部屋まで歩いていった。何度も来たことのある、いわば常連の家なのである。
「美波間の文屋です、よろしいでしょうか?」
襖の向こう側にいるであろう家の主に声をかける。「どうぞ」という声が返ってくると、螢は襖に手をかけた。
「こんにちは。遅くなってしまって申し訳ありません」
「いいえ、お待ちしていました。大丈夫ですよ、こちらは急いていませんから」
暁海は笑って答えた。
「お体はどうですか?」
「悪くないですよ」
「そうですか。それで、ご依頼のほうはいかがしましょうか?」
「ああ、お願いします。すみません、手を煩わせてしまって」
「いえ」
螢は持ってきた鞄から道具を取りだすと、筆を手にして一枚の紙と向き合った。
「準備は整っています。どうぞ」
「じゃあ、始めますね」
それを合図に、暁海は「前略」と言って話し始めた。それを螢は聴き取り、書き取っていく。手紙にしているのだ。
暁海は目が見えない。とはいえ、最初から見えなかったのではない。最近見えなくなってしまったのである。医者曰く、彼女は原因不明の病にかかっているのだ。暁海が病にかかってから、暁海は、家を出た彼女の姉に定期的に手紙を出すようになった。最初こそ暁海自身が書いた手紙を文屋である螢に届けるよう頼んでいたのだが、目が見えなくなってからというもの、こうして螢が暁海の代筆をするようになった。いつも気だるげそうで有名な螢だが、これを提案したのは螢のほうだった。
「目が……目が、見える時間がまた少なくなりました。日の出ている間は全く、月が出ている間ですら、見える時間が短くなってしまいました。けれど、その分きちんとトキちゃんが手伝ってくれています。最近はお裁縫もできるようになったみたいです」
暁海の最近の事情は、螢が全て知っていると言っても過言ではない。暁海が姉に伝えたいことを全て聞いてしまうのだから、当然と言えば当然だ。しかし、聞いてはいけないことまで聞いてしまっているようで、螢は手紙を書きながら少しばかりの罪悪感を覚える。
「お姉ちゃんも、体には気をつけて。お休みがとれそうだったらまた会いましょう。ではまた、お手紙を書きます。草々」
暁海の言った言葉通りに螢は手紙を書ききった。草々、と書いて筆を置くと一息ため息をついた。
「お疲れ様でした」
「今日は少し短いですね」
「そうですか? もうちょっと書いてあげたほうがよかったかしら?」
「いえ」
いつもより便箋が一枚少なく済んでしまったと思いながら螢は書き終えた手紙を封筒に入れた。そして、部屋の中に辰儀が入ってきていたことに気がつく。
「文屋さん、お茶です」
「ありがとう」
「途中で声かけようかと思ったんだけど、喋る口が止まらなかったから。あ、暁海さんにもお茶です」
「ありがとう」
「冷めてるからすぐ口を付けて大丈夫ですよ」
「ありがとう」
辰儀にしてもらうことひとつひとつに暁海は礼を言う。それに辰儀は頬を綻ばせながら、せっせと暁海に世話を焼いていた。
「じゃあ、文もいただいたことですし、私たちはこれで失礼します」
「もう行かれるんですか?」
「残念ながら。他のご依頼が入って、これからアガツマザキのほうに行かないといけないんですよ」
「まあ、
「いいえ、こいつの足を使えばすぐそこです」
「あ、やっぱり、大人しくしてるけどいらしてたんですね、
「へへ、こんにちはー」
「こんにちは」
雷獣は答えた。螢は今までその名前で彼女を呼ぶことはないが、彼女を知る者は彼女のことを「光」という名で呼ぶ。
「光の速さで飛んでいくよってね」
「光の速さで行くな。私が置いて行かれる」
お茶を啜りながら螢が言った。
「あ、そうだ。お代のほうを。トキちゃん」
「はい」
暁海に言われて、辰儀が懐から封筒を取り出した。差し出された封筒を螢は受け取り、中身を確認する。
「……多くないですか?」
「いいえ、きっかりです」
「そうですか」
螢は何か言い返そうとしたが、そのまま引き下がった。
「じゃあ、失礼します。次はまた一週間後を予定していますが、何かありましたら遣いを飛ばしてください」
「ありがとうございます」
「またご利用ください。じゃあ」
螢は立ち上がると、部屋を出た。その後に光も続く。
「僕、表までお見送りしてきます」
辰儀も立ち上がり、暁海の部屋を後にした。
歩き慣れた廊下を歩き、入ってきた縁側のほうへ歩いていく螢。家の中に入って脱いでいた帽子を再びかぶり、靴を履いた。螢はこう見えて、ファッションは新しいものを取り入れている。早々に和服を着るのをやめてシャツと羽織という姿にした。最近は靴を購入し、草履より歩きやすく長時間歩くことができると言った。螢は、最近のファッションの利便さを気にいっていた。
「文屋さん、今日はありがとうございました」
靴を履き、これから出ようとして螢たちの後ろで、辰儀が縁側で正座をして頭を下げた。辰儀に気がついた螢は辰儀のほうへ歩み寄ると、一度懐に収めた封筒を出し、中のお金をいくらか取りだして辰儀に渡した。
「やっぱり、この額は多い。暁海さんはお礼だとおっしゃるかもしれないが、私は受け取れない。そっと、暁海さんのお財布に返しておいてくれないか?」
「え、でも……」
「いいから。頼む」
「承知しました」
螢にお金を握らせられ、辰儀はそれを受け取った。
「でも、きっと暁海さんは気がつきますよ?」
暁海は鼻がいい。一度螢に渡したお金を元の場所に返したとして、螢のにおいに気がついてしまうと辰儀は言ったのだ。
「それならそれでいい。そのときは、私がどうしてもと言って引き下がらなかったと言ってくれ」
「では、そのようにさせてもらいます」
辰儀は折り畳まれ小さくなったお札をちらりと螢に掲げ、言った。
螢は、辰儀がそうするのを見て踵を翻した。
「ねえ螢、今から行くの? 吾妻咲」
「ああ、この足で行く」
「なんならあたしひとりで行けるけど?」
「ハッ、馬鹿を言うな、貴様におつかいなんざ百年早いわ」
「失礼ね、おつかいくらいできるわよ」
「信頼が必要なんだよ、私の知らないところで何かされたら困る」
「ちぇーっ」
「イナハのカザミヤから預かった文の宛先は初めて見るところだ。自分で行っておきたい」
「あらそう。じゃあ、行きましょう」
光はきょろきょろと辺りを見回すと、瞬時に獣の姿になった。人間の姿から妖の姿に戻したのである。雷獣である光の妖の姿は二、三メートルはある。螢が背中に乗るには十分の大きさだ。
「早く乗ってよ」
「いつも思うが、妙だよな、これ」
「えー? 大丈夫よ、普通の人には馬に見えるようにしてるから」
「それにしてもだ。足が速すぎる馬に見えていないか?」
「大丈夫、そこまで行くと風に見えてるわ」
「そうは言ってもなあ……」
「仕方ないでしょ。ほんとは空を行きたいけど、人間って生身で空を行けないんでしょ? 地を行くしかないんだから、文句言わないでよ」
「まあ、そうだが」
「ほら、早く乗る」
光に急かされて螢は光の背に跨った。螢が背に乗ったのを確認するや否や、光がびゅんと走り出す。風を切って走っていくのに、螢は未だに慣れない。目を開ききることができないまま、光の背につかまっていることしかできない。
「アガツマザキは分かるな?」
「分かるわよ。だてにいつも遊び歩いてるわけじゃないわ」
「そうか」
光の話にツッコミを入れる気力もなく、余裕もなく、螢は光が知っているというらしい吾妻咲へと向かった。