【エター】ヒカルの碁 -relight- 作:エターなる
『おい、進藤』
『和谷……?』
『気持ちは分かるけどさ、そろそろ止めとけ。お前酒飲みすぎ』
『………。』
『ったく、ひでぇ顔だ。どんだけ飲めばそうなるんだよ』
『ごめん……』
『謝んなくていーって。それよりほら、タオル。シャワー浴びてこい。そんなナリじゃ葬式に出られないだろ?』
『うん……』
『ショック受けてんのはお前だけじゃねー。俺も、他の棋士も、みんな同じだ』
『……もう少し、もう少しだったんだ。もう少しで俺は……』
『もう少しとか、もしもとか、そういう話は止めようぜ。どうしようも無かったんだよ、どうしようも』
『……シャワー浴びてくる』
『おう、俺は車回して来るわ』
2005年、初春。一人の棋士が交通事故で亡くなった。
その棋士の名は桑原 仁。当時本因坊のタイトルを所持していた偉大な棋士。
これは進藤ヒカルが本因坊のリーグ戦を見事勝ち抜き、挑戦権を得た直後の話である───
●
「……負けましたッ」
「ありがとうございました」
少年にとって屈辱でしかない敗北宣言を、しかし対面の青年は当たり前のように受け取っていた。
ここはとある碁会所。小学生の少年と、サラリーマン風の青年が本日二度目の対局を終えたばかり。
二人は常連客で出来たギャラリーに囲まれていた。どうやら彼らにとって自分達が打つ囲碁よりも、二人の対局を見ることのほうが重要だったようだ。
「くそ、手も足も出ねぇ!」
「はっはっは、当たり前だ少年。年季が違うんだよ、年季が」
青年は笑いながら、くしゃくしゃと少年の頭を撫でまわす。少年は唇を尖らせながらその手をはらい、「もう一局勝負だ!」と声を荒げた。
しかしそれに待ったがかかる。二人の対局を観戦していた常連客達からだ。
「おいおい、独占は困るよ!」
「ワシらだって先生と一局お願いしたいんだぞ!」
ずんずん迫ってくる大人達の迫力に思わず後ずさる少年。その様子を苦笑しながら見ていた青年は、
「全員まとめてお相手しましょう。多面打ちでね」
と、挑発する。
その言葉にギャラリー達は待ってましたと盛り上がった。
「先生! そのセリフ後悔させてあげますよ!」
「そっちのテーブルこっちにくっつけようか!」
「碁盤足りないな、そっちにあるの持ってきて!」
「マスター、お茶ちょうだい、冷たいの!」
「こっちは熱いので頼まぁ!」
にわかに活気づく碁会所。店主は人数分のお茶をコップにそそぎながら、楽しそうにその光景を眺めていた。
その店主のもとへ仏頂面の少年がやってくる。
「おや、追い出されたのかい?」
「一回休みだってさ」
「ハハッ、三谷くんは今日二回もやってるからねェ」
「俺は今日こそ勝つつもりだったッ」
カラカラと笑う店主にますます唇を尖らせる少年──三谷 祐輝。
三谷少年はあの青年相手に連敗続き。一度も勝ったことがない。
店主はおぼんにコップを並べながら「しょうがないさ」と慰める。
「なんてったって相手は元学生三冠の天才棋士。ちょっと前に囲碁を始めたばかりの三谷くんじゃあまだまだ勝てないヨ」
「……次は勝つさ!」
三谷は店主からおぼんを奪い、肩をぷりぷりいからせながらギャラリーのもとへお茶を運びに戻っていく。店主はやれやれと思いながらも、どこか嬉しそうだった。
店主の言葉通り、三谷は少し前に囲碁を始めたばかりの初心者だ。しかし才能があったのだろう、すぐにこの碁会所で一番強い碁打ちにまで成長した。
だからだろうか。三谷は己の強さに過信し、天狗になってしまった。
そんな三谷少年の前に、今やギャラリーの中心となっている青年が現れたのが一週間ほど前の話だ。
『君──もしかしてシンドウヒカルって名前かい?』
三谷の姿を見た青年が確認するように話しかけた。どうやら彼はシンドウヒカルという名の強い碁打ちを探し、ここへやって来たようだ。
常連客の一人が思わず彼を指差し『元学生三冠の!』と言ってしまったため、ちょっとした騒ぎになる。
その騒ぎの中、三谷は群がる客達を押しのけて青年に勝負を挑んだ。
『シンドウなんとかってのは知らねー。でも俺だって強いぜ?』
『へぇ。それじゃ一局打とうか』
決着はあっさりと付いた。綺麗に六目半、三谷の敗北で終わる。
そしてその時からだ。三谷から増長が消え、囲碁に対して真摯に打ち込むようになったのは。
孫のように思っていた少年の確かな成長に、店主は嬉しさを隠せなかった。
(そろそろこの碁会所に来ても良さそうなもんだが……)
青年がこの碁会所に入り浸ってすでに一週間。
シンドウヒカルの『武者修行』のターゲットがここになるのは、そう遠くないだろう。
青年がシンドウヒカルを探している理由。それは単純に『仲間のかたき討ち』のためだった。
最近、近辺の碁会所を荒らしまわっている小学生が居る。その小学生の名がシンドウヒカル。「三月に開かれる囲碁大会に向け武者修行している」というのがその子供の言葉だ。
子供が、それも小学生が囲碁に興味を持ち、大人達ばかりが居る碁会所に訪れるというのは珍しい。故に多くの大人が少年の武者修行を笑顔で迎えた。
……大人達の笑顔が引きつるのに時間はかからなかった。その少年はあまりにも強すぎた。
碁会所巡りが七つ目を超えたころには、それはもう『武者修行』ではなく『道場破り』として認識されるようになる。
そして噂が広まった。シンドウヒカルという名の強い小学生が居る───と。
そのシンドウヒカルに青年の友人が負けた。大敗だった、と友人は語った。
友人は青年には及ばないものの、アマチュアでも上位レベルの棋力を持つ。
その友人が敗北した。ただの小学生に。
相手はプロ初段に相当する棋力を持つと噂されている『塔矢アキラ』ではない。シンドウヒカルという無名の子供。
(サボってるのが上司のオッサンにバレる前に会えればいいんだけどなー)
最も、かたき討ちとは最早ただの名目にすぎない。それを言い訳に青年は仕事をサボるようになったからだ。元々仕事には熱心なほうではなかったので、言い訳さえ出来てしまえばサボるのに躊躇はなかった。
その青年の名は『門脇 龍彦』 元学生三冠の、界隈では名が知られた天才棋士である。
●
【平成11年 1月】
第1回こども本因坊戦。参加資格は小・中学生のアマチュアのみ。二月から地区予選が行われ、勝ち抜いた32名が頂点を目指して争う。
その大会で優勝を目指すヒカルは、己を鍛えるための武者修行として碁会所巡りを行っていた──ただしそれは表向きの理由。
碁会所巡りの真の理由。それはヒカルが前世で友人関係にあった人物、三谷祐輝に会うためである。
(この時期の三谷は、まだ真っ当な碁打ちのはず……)
ヒカルが三谷と出会った当初。彼はイカサマ使いの賭け碁打ちだった。
出会ってからそう時間も経たないうちに、彼は信頼していたはずの身内から裏切られ、粛清される光景を見た。今でもそれを覚えている。
完全に自業自得。しかし彼には、三谷にはあの手の辛い思いをしてほしくないとヒカルは思っていた。
武者修行と称し、幾つかの碁会所を経て三谷のホームグラウンドである碁会所へと入り、接触する。それがヒカルの計画だった。
三谷と接触さえしてしまえばあとはどうとでもなる──ヒカルはそう思っていた。
そして今、ヒカルは三谷のホームである碁会所「囲碁さろん」の前まで来ている。
「それじゃ爺ちゃん、中に入るけど席料は大丈夫だよね?」
「おお、任せておけ。たっぷり持ってきとるからのッ」
パンパン!と財布が入ってるポケットを景気よく叩いて答える平八。
子供のような無邪気さを見せる祖父に苦笑しつつ、ヒカルは碁会所のドアを開けた。
若干の緊張を孕みつつ、ヒカルは中へと入る。目的の人物は……居た。最後に見たのは前世から数えて半世紀以上だが、それでもその姿は覚えている──三谷だ。
彼は今、誰か対局している。相手はギャラリーの陰になっていてヒカルからは見えない。
「いらっしゃい。打つのかい?」
「はい。子供一人、大人一人でお願いします」
席料を支払った後、利用客用の名簿に祖父と自分の名前を書く。
──ヒカルの名前を確認した後、店主の様子が少し変わった。
「きみ、もしかして最近色んな碁会所をはしごしてる子?」
「え? ええ、確かに最近色々な碁会所を巡ってますが……」
「ちょ、ちょっとここで待ってておくれ!」
席料のお釣りを平八に渡した後、店主は慌てて「先生~!」とギャラリーの中心へ向かって走っていった。
その様子をポカンと見つめる二人。そして……
「君が、シンドウヒカル君?」
三谷と対局していた相手──門脇 龍彦がヒカルの前に姿を現した。
●
●
私、進藤ヒカルは驚いていた。
三谷と対局し、同年代にも強い相手がいること、そして囲碁の面白さを改めて彼に理解させることを目的に、今日ここへ来た。
彼とて囲碁を愛する棋士だ。囲碁と真摯に向き合うように導けば、イカサマや賭け碁なんてくだらない真似は決してしないだろう。
そう思い、今日はここへ来た。なのに……これは一体どうしたことか。前世で仲間として、ライバルとして切磋琢磨したあの門脇さんが、私の目の前に居るではないか!
「げ、げぇ~! あんたは確か学生三冠の……!」
「どうも。門脇龍彦です」
祖父は門脇さんのことを知っていたのか驚き戸惑う。そんな祖父に対し彼は友好的な笑みを浮かべながら握手を交わした。そして──
「シンドウヒカル君……だね?」
「はい。俺の名前は進藤ヒカルです。よろしく」
私とも握手を交わす。しかし祖父の時とは違い、その眼は笑っていなかった。
彼の様子から察するに、どうやら私を待っていたらしいが、その理由は不明だ。彼に名前が知られている、その理由も不明。
その辺りのことを問い質すべきなのかもしれないが……いや、それは後回しで良いだろう。
彼は表情で語っている。今すぐ君と打ちたい──と。
門脇さんはすぐそばの席を指差し、私に対し宣戦布告する。
「一局、打とうか」
「喜んで」
彼の言葉に私は即答した。しかし───
「ちょっと待てよ、あんた俺とまだ打ってる途中だろうが!」
そこに三谷が割って入ってくる。彼は顔を真っ赤にしながら キッ とこちらを睨んだ。
ふむ……。門脇さんの注意が今日来たばかりの、名前も知らない子供に向いた。対局相手である自分を一切無視して。三谷はそれが気に入らない──といったところか?
彼のこの反応、もしかしたら……。私がやろうとしたことをすでに門脇さんが成している可能性が生まれた。少し様子を見る必要があるだろう。
「門脇さん、もしかしたらお二人はまだ対局中だったのでは?」
「あ~……まぁ、そうなんだけどさ。なぁユウ坊、今日はちょっと譲ってくれないか」
「ダメだ! ほら、さっさと続きやるぞ!」
そう言って、三谷は門脇さんを引っ張って行く。門脇さんは「ごめんな」と謝罪のポーズを取りながら元の席へと戻っていった。
私は事の成り行きを見守っていた祖父と顔を見合わせた後、二人の対局を見守るべくギャラリーの輪へと加わった。
●
静かに対局が進んでいく。誰も語らない。誰も話さない。ギャラリー達は固唾を呑むように二人の対局を見守っている。
ヒカルは三谷の打ち筋を見て驚いていた。ヒカルが知る中学時代の三谷よりも明らかに強くなっている。まだ小学生の彼が、中学時代の彼の実力を上回っていることに驚いたのだ。
三谷をここまで成長させたのは門脇だろうとヒカルは当たりをつける。そしてその考えは間違っていなかった。
序盤戦が終わり、中盤。三谷はここまで失着らしい失着はない。学生三冠相手に上手く戦えていた。
しかしここで門脇が一手仕掛ける──
「うっ───」
三谷の思考が一瞬止まる。門脇が今打った一手。それは明らかに──
「失着?」「いやまさか」「だけどこれは…」「むぅぅぅ…」
ギャラリーもざわめく。
そう。門脇が打った一手。それは三谷と、そして周囲のギャラリー達から見れば明らかな失着だった。
門脇らしからぬその一手に、三谷は思わずその視線を盤上から上げて──
「~~~~~ッ!!」
いつも通りの不敵な笑みを浮かべる門脇を見て、彼の感情は一瞬で沸騰する。
(上等だッ! 俺相手にちょうどいいハンデだってんだろ? ぜってぇ後悔させてやるッ!!)
門脇の白を殺すべく、連絡を絶つ一手を放つ。
門脇の白が生きるか、三谷の黒が殺すか。上辺での激しい攻防が始まると、多くの者が予想していた。
ギャラリーの中でただ一人、ヒカルだけが門脇の狙いに気付いていた。
一手、二手、三手──手番が進めば進むほど、三谷が望んだ通りの展開になる。しかし……。
「──っ!?」
白、16の八。門脇のその一手に三谷の手が止まる。
彼はここにきて、やっと門脇の思惑に気付いた。
「は、ハメかよ……! くそ、まんまと……!!」
ハメ手。隙の大きい手をわざと打ち、そこに相手を引っ掛けさせ、カウンターで大損害を与える戦法の一つ。
正しく対応すればハメ手側が逆に追い詰められてしまう結果になるのだが……。
(経験さえあればあの程度のハメ手にはすぐに気付けただろう。……そうか、門脇さんは三谷を鍛えているのだな)
ヒカルは一人うなずく。三谷はこの手の戦法を使う相手との対局経験が無い。だから気付けなかった。
門脇もおそらくそのことに気付いている。だから自分がその相手になった。
経験し、理解さえしてしまえば、それを糧に三谷はさらに成長する。門脇はそう確信していた。
(門脇さんの罠に完全にはまり、優勢の状況から一転、絶体絶命の窮地。されど気力は衰えず──見事だ、三谷)
ヒカルは改めて認識した。『過去の三谷』と、いま目の前で対局している『現在の三谷』はやはり違うと。
敗色濃厚にもかかわらず、三谷はまだ勝負を投げ出していない。
普通、このような状況に陥れば平常心を失い、焦り、いつもの打ち方が出来なくなるものだ。そうなるともうお終いだ。大抵の人は勝ちを早々と諦め投了する。そしてヒカルが知る『過去の三谷』ならば、ハメに気付いた時点で素直に投了していたはずだ。
しかし今の三谷からは焦りは感じない。勝負を投げていない。諦めていない。
それは生来の負けん気から来ている意地なのか。それとも、最後まで打ち切った後に“何か”があると感じているのか───
───終局。
「負けました」
「ありがとうございました」
わあっ、とギャラリー達が盛り上がる。白、門脇の勝ち。
それは二人の力量差が如実にあらわれる、当たり前の結果であった。
「次、代わるぜ」
「ああ、ありがとう」
三谷がヒカルに席を譲る。すれ違った時に見た三谷の表情には悔しさが見られたが──
(今回の敗北から何かをつかんだか)
何人もの弟子を持っていたヒカルだからわかる。
三谷は決して腐ることなくその敗北を受け入れていた。
負けは確かに悔しい。悔しいが──それだけじゃない。負けたことで見えてくるものもある。
足りないもの、確かめたいこと、試したいこと……。三谷にはおぼろげながらそれが見えてきた。
そして──
「やあ、待たせたね」
「いえ。お二人とも、とても良い碁でした。……すぐにでもはじめますか?」
「もちろん。さあ、始めようか」
ヒカルと門脇、二人の戦いが始まる。
〇
「──何を考えているんだ、君は!」
「えっ、えっ?」
藤原サイトの言葉に、塔矢アキラは激高する。
尋常ならざるアキラの態度に困惑するサイト。怒声が気になったのか、受付嬢の市川や常連客の何人かが様子を見に二人のもとへやってきた。
怒りの表情でサイトを睨むアキラに、市川が訪ねる。
「ちょっと二人とも、どうしたの。ケンカ?」
「──彼が院生試験を受けたいって言うんだ」
様子を見に来た全員が「あぁ~…」と納得した。あの温厚なアキラが怒るのも無理はない。
分かっていないのはサイトだけ。常連客の北島や広瀬達が諭すように言う。
「サイト君、さすがにそれはダメだわぁ」
「サイト君は強すぎるからね。その強さに院生の子がつぶされちゃうよ」
「そんなぁ。私はただ、若き棋士達と打ちたいだけなのに…。囲碁大会だって皆さんに止められたから参加をガマンしたのですよ!?」
「サイト君が同年代の子と打ちたいのもわかるわ。でも、ねぇ……?」
そして始まる市川達の説得。アキラは思わず「はぁ…」とため息をついた。
同年代の子供達と囲碁を打ちたい。アキラとて、サイトのその気持ちは分からなくもない。
しかしサイトは強すぎた。その強さは、手筋から『本因坊秀策』の姿を幻視してしまうほどである。
そんな彼が同年代の若い棋士と打ってしまった場合。その隔絶した力の差に相手は心を折られ、トラウマとなり、そして囲碁から距離を置く──という結果になる可能性がある。そういう事態を避けるため、アキラ達はサイトを説得し、止めている。
つい最近も「全国こども囲碁大会」に参加したいとサイトが望み、それでひと騒動があったのは記憶に新しい。
さて、今度はどうやって説得するかと悩むアキラの前に――
「アキラ君、これは一体なんの騒ぎだ?」
――少しいじわるだが頼れる大人、緒方 精次があらわれた。
「いいんじゃないか? 院生なら」
「緒方さん!?」
あっけらかんと言う緒方に、アキラは思わず困惑の声をあげてしまった。
緒方は胸ポケットから取り出したタバコに火をつけながら「まあ待て」と言葉を続ける。
「アマチュア大会への参加はさすがに認められないが、院生なら話は別だ。俺はむしろ推奨する」
「若い才能の芽をつぶすのが良いというのですか!?」
「むしろ逆だ。院生のレベルを底上げさせるために彼の院生入りは有効な手だと思ったのさ」
声を荒げ反論するアキラは、緒方の「院生のレベルを底上げする」という言葉に沈黙してしまう。
その反応に満足したのか、緒方はニッコリと微笑みながら問いかけた。
「最近、院生のレベルが落ちているという評判は知っているね?」
「……はい」
「藤原君と院生の実力の差なんて語るまでもない。文字通り大人と子供の差だ」
「そうです」
「だが藤原君は、そんな『子供達』の心をへし折るような物騒な棋士ではない。むしろ相手の潜在能力を引き出すような碁を打つ」
「……はい。僕もそう思います。他ならぬ『僕達』がその証人ですから」
サイトと打つのは楽しい。彼と打つと自分の碁の見知らぬ側面に、新しい可能性に気付く。対局すればするほど自分がどんどん強くなっていくのが自覚出来る。だから楽しいし、何度でも打ちたくなる。
その彼を院生へ送り込む。その結果どうなるかは、あえて語ることでもないだろう。
場の空気が穏やかになっていくのを見て、サイトの表情がワクワクとしたものになっていく。院生入りし、若き碁打ち達と心行くまで囲碁を楽しめる、そう思ったのだが──
「だが今はダメだ。退院したばかりだし、何よりもう少し体力つけてからじゃないとな」
「予定よりも早めに退院しましたものね、サイト君は。貧弱君です。ダメダメです」
「そ、そんなぁ~~~!」
──緒方とアキラにバッサリと切られ、ガックリとうな垂れた。
●
【三谷 祐輝の自宅】
何度も、何度も寝返りを打つ。……眠れない。
目をつぶればあの二人の対局を否応なく思い出してしまう。だから眠れない。
イラついた三谷は、ふとんを跳ね起き上がった。
「眠れねぇ……」
門脇 龍彦。何度やっても一度も勝てなかった男。いつか必ず超えると誓った男。
その男を圧倒する碁打ちが今日、目の前にあらわれた。
その碁打ちの名は進藤ヒカル。自分と同じ小学六年生。春からは同じ中学に通う少年。
「くっそ……」
三谷は嫉妬していた。
自分と同じ年齢のヒカルが門脇を圧倒したことに? いや、それは違うと否定出来る。
何に対して嫉妬しているのか、三谷にはハッキリと分かっていた。
「なんで……」
ヒカルが見せた囲碁。三谷はそこに宇宙を幻視した。
石の流れの一手一手から見られる淡い輝き。星と星が繋がり、宇宙をも幻視する打ち筋。
三谷は──その場にいたギャラリー達も──ヒカルの碁に魅了されてしまった。
「なんで、俺じゃねーんだ……」
そう。彼は門脇に嫉妬していた。何故ヒカルの対局相手が自分ではなく門脇のオッサンなのだと嫉妬していたのだ。
「……シャワーでも浴びっかな」
バスタオルを片手に風呂場へと向かう。むき出しにされた醜い感情を洗い流してしまうために───
●
【新宿 某飲食店】
「門脇、お前会社辞めたんだって?」
「会うなりいきなりか。メシの注文ぐらいさせろって」
ブザーをならし店員を呼び、注文を終える。
まずはビールがお通しと共に運ばれてきた。
「かんぱ~い!」
「おつかれ~ぃ!」
ゴキュ、ゴキュ、と互いにのどをならしながら、一気に飲み干す。
二本目のジョッキを注文し終えた時に、二人はやっと話し始めた。
「んで、仕事辞めたんだって? なんでよ」
「棋士だよ棋士。俺、プロの碁打ち目指すわ」
「……マジ?」
「おう。俺は本気だぜ。ここ最近囲碁ばっかやっててなー、昔の情熱が戻ってきちまったんだわ」
二本目のジョッキをちびちび飲みながら、門脇は今日の出来事を友人に語った。
友人が言っていた進藤ヒカルに出会ったこと。彼と対局し、完敗したこと。その強さは友人が言っていた通りのものだったこと。
ほほを染めながら門脇は語り続ける。顔が熱いのはアルコールのせいなのか、それとも対局を思い出して興奮しているのか。門脇自身にもわからなかった。
二本目のジョッキを空けたあと、門脇は友人に問いかけた。
「なあ、囲碁の歴史上最強の棋士って誰だと思う?」
「お、なんかの雑誌でそんな記事あったな。確か秀策だったか?」
「週刊囲碁な。俺もそう思ってる。ならよ……」
「なら?」
「秀策が現代の囲碁を覚えたら──どうなると思う?」
「……誰も勝てねー! 無敵の棋士が爆誕だ!」
がっはっは!と豪快に笑う友人。門脇もそれにつられて笑った。
昔のこと。これからのこと。二人は深夜遅くまで楽しく語り合った。
門脇は友人に話していないことが一つだけある。
ヒカルはプロを目指すと言っていた。ならばすぐに誰もが気付くだろう。
しかし今は。今だけは『それ』を自分だけで独占したい。
次は早めに投稿出来るかも!
なお七誌ちゃんにとっての「早め」は半年~一年を意味する模様