季節は巡り来る。ドンドルマは猛暑を越えて涼しい風が風車を回し始める頃。
エレナが忙しなく吐く息を置き去りに坂を駆け上る。足と地面が奏でる単調なリズムを耳にしながら走るエレナに目的地はない。強いて言うなら理由がある。
いつの間にか数日前の話になったリオレイア戦。エレナは驚くべき集中と目の力によって神業たる動きを見せたのだが長くは続かなかった。エレナは急成長するあまり根本にあるべきものを持っていなかった。
基礎的な体力だ。表面的な力ばかりが身について身体がそれに追いつかなくなってしまった。それをジルバの助言によって気づかされ、今こうしてエレナは体力づくりのために毎日、ドンドルマを駆け回っている。
エレナは立ち止まって自分の走って来た道を振り返った。
長く急な坂。複雑で細い路地裏。昨夜、降り注いだ雨で濡れた足場の悪い草地。この数日でいくらか楽に走れるようになった。
もうすぐ夕暮れ時になる。地の向こうへ逃げようとする太陽に目を眇めながらエレナはドンドルマを見渡した。
ふと、マードックの言葉が頭に浮かんだ。
『僕はね、この街が好きなんだ。特にここからの景色がね』
新しい体験に不安を感じ、ジルバの言葉を受けながらも不安を拭い切れず彷徨していたあの日。
偶然、出くわしたマードックに流れのままに心の内を打ち明けていた。ジルバの忠告が頭を過ぎり、理性ではいけない、と分かっていてもエレナの口は止まらなかった。
彼はしばらく考えて連れて行きたい場所がある、と言った。その時、エレナの理性が一瞬、躊躇ったが又しても直感がこれを押し通した。
そうして連れて来られた場所から見えた景色が今見える景色だ。
『綺麗ですね』
『そうだろう。君ならそう言ってくれると思っていた。……辛い時、苦しい時、僕はいつもここへ来てこの景色を見るんだ。どうだい? 心の曇りは晴れたかい?』
あの日、マードックが見せた微笑みが今でもエレナの頭の中から離れずにいた。
――もしも、今の現実は何かの間違いで本当は冤罪だったのなら。
――例えそうでなくとも彼が生きていたのなら。
「ありがとうって言いたかったなぁ……」
エレナは首飾りを握り締めながらゆっくりとドンドルマの景色を見渡した。
◆ ◆ ◆
「竜とそれを操りし者がこの世界に法を作った。竜と竜騎士が世界を破滅から救った。出てきた資料はこんなお伽噺ばかりだな」
ラルフが呆れた様子で資料を読み上げる。
ジルバは鍛冶屋を離れた後、書士隊の宿舎を訪れていた。予め、ラルフに竜操術について調べて欲しいと言伝を飛ばしておいたのだ。
しかし、彼が言うにはそれらしい文献はあれども詳細は載っていないという。どれもお伽噺や伝説の類いらしきものでジルバが求める現実的なものはなかったらしい。
「こんなところだ。それで、親父は例のイャンクックを狩るつもりなのか?」
「ああ。勿論じゃ」
「書士隊の立場から言わせてもらうが、止めた方が良い。事が異例過ぎるために未知数だ。それに個体に計り知れぬ数の生物の要素を詰め込めば不安定になるのは目に見えている。寿命は短い筈だ」
「それではジャンボ村に危害が及ぶ可能性が捨て切れん。いつまた奴が動き出すか分からんのじゃからな」
「避難させればいいだろう? 何も狩る必要はない」
「奴がどこまで活動範囲を広げているか分からん。それにジャンボ村はクシャルダオラ接近のせいで枯渇状態にある。簡単に避難は出来ん」
「だったらッ……何も親父が出る必要はないだろ」
途端、室内は嘘のように静まり返った。直後、ラルフは石のように固まった。先に自分が次いで漏らした言葉を思い出したのだ。
目を丸く開けたジルバの視線を受け、逃げるように視線を落としたラルフが言葉を落とす。
「……死んでほしくないんだよ。アンタが過去に俺と母さんを見捨てていようとも俺にとっては唯一の父なんだ」
「……ありがとう、な。しかし、ワシがやらねばならんのじゃ」
「っ、ああ。分かってる。……書士隊が持つ資料から飛竜や古龍に関する幾つか使えそうな物を取って来た。役に立つかは分からないが、使ってくれ」
「スマンな」
書士隊の宿舎を出るまでの間、ラルフは無言のままジルバの後ろに続いた。
そして、別れ際、ラルフは恥じる思いを振り払って声を振り絞った。
「親父。また帰って来いよ。親父と酒を飲んでみたい」
「……ああ。飲もう」
清々しい気持ちでラルフはジルバの背中が見えなくなるまで見送り続けた。
◆ ◆ ◆
頭上でがちん、と硬い物がぶつかる音がしてエレナは肝を冷やした。
慌てて屈んだのが幸いした。両手足で地面を捉えながら幹の奥へと身体を放り込む。すぐさま巨大な鋏がエレナを追ったが、それは見事に木に阻まれた。
追撃。そうダイミョウザザミが踏み切った時、発砲音がして多数の小さな弾が盾蟹の名に相応しきヤド、もとい竜の頭骨に着弾した。
標的がエレナからアルへと。純粋な殺意を真正面に受け取ったアルが身構え、更に散弾を発砲する。まるで効果が無いように見えるが、ダイミョウザザミの歩く速度は遅らせている。それにダイミョウザザミ自身もこれを嫌がっているのだろう。こちらに標的を変えたのが証拠だ。
「っ……」
アルは軽銃を折り畳み片手剣に持ち直す。そして力強く緊張するように柄を握り締める。
リオレイア戦でアルは近接戦においての経験と技量の不足を感じていた。今回の敵、ダイミョウザザミの動きは比較的鈍い。十分に、いや、最良の動きができれば圧倒できるはずだ、とアルは意気込んでいた。
が、彼女は急いていた。幾度かダイミョウザザミと交戦したものならばそれを入念に危険視するはずだというのに。
「駄目だ、エレナちゃんッ!」
アルの忠告は間に合わず、木陰から飛び出したエレナは一瞬、身体に急停止をかけた。
ダイミョウザザミの隙を見つけ、背後を取ったかのように思われた次の瞬間、唐突に赤い巨体が地から離れた。驚くべき脚力を活かした飛び退き。ダイミョウザザミからすればそれは簡単な動きだが人間からすれば脅威でしかない。
突然、硬い竜の頭骨が眼前に押し寄せ、エレナは腕で防いだ。無論、衝撃は背中へと突き抜けて小柄な体が吹き飛ばされる。背中を樹木に強く打ち付け、空気を一気に吐き出す。
「かッ、っあ」
「やっぱり何か……ッ」
そうアルは言葉を落として盾だけを腕に備えて駆け出した。
閃光玉は竜の頭骨が邪魔で届かない。狙撃で足を狙うにも細過ぎる。加えて爆撃がエレナを巻き込みかねない。剣を投げるか、否、効果が薄すぎる。全部、却下だ。
思考は止まらず続き、アルは投げナイフを二本だけ手に取って跳びかかる。足の関節、思い切り振り下ろして投げナイフを捻じ込ませようと――火花が散る。阻まれた。
二本目を同じ個所に叩き込むも今度は投げナイフが割れて飛んだ。
しかし、これでいい。確かにダイミョウザザミは気が散った。これで間に合うはずだ。
「ッ、ッ!」
アルはぐったりとするエレナに勢いよく飛びついた。刹那、横薙ぎに振るわれたダイミョウザザミの爪が樹木を削いで飛ばした。
支えを失った樹木が嫌な音を立てて倒れ始める。傍の樹木に阻まれながらも樹木は逃げ道を探して倒れようとする。それは自然と木の無い方、砂浜側へと大きな音を立てて倒れた。
奇しくも盾蟹と狩人を阻む倒木。瞬間、アルはすぐさま好機と捉えた。倒木が立てた音と衝撃でダイミョウザザミが怯んだのだ。
それは生命の終わりにしてはあまりに一瞬だった。
軽銃を展開したアルが即座に発砲。込められていたのは徹甲榴弾。爆発と共にアルは飛び出し焼けて砕けた甲殻に剣を突き込む。肉を裂き動脈を貫いた剣は心の臓を突き抜けた。これが絶命の引き金となった。
剣を強引に引き抜くと大量の血が噴き出して血塗れになったアルはダイミョウザザミが息を引き取ったのを見届けながら剣の血を拭きとっていた。周囲の警戒も怠らない。
アルはある程度、処理を済ませてからゆっくりとエレナに歩み寄った。目を伏せて座り込んだままエレナは動こうとしない。
「大丈夫?」
「うん」
「ねえ、もしも悩み事があるのなら……ぼ、僕で良ければ相談に乗るよ」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」
アルは苦々しい表情をする。心の中でエレナの言葉を強く否定した。しかし、その言葉は喉すら通らない。
「っ……ジルバさんに相談してみようよ。僕もお願いしてあげるから! あ、大丈夫。僕は聞かないようにしてあげるから。だから……その……――ごめん」
「ア、アルが謝る必要はないよ! 私が謝らないといけないんだ。ごめんね。ちょっと初めての事だったから……でも、もう大丈夫だから」
そう答えたエレナの眼はまだ何かを見つめていた。悩んでいるのだと苦しいのだということは誰にも分かった。彼女は純粋過ぎる。分かり易いのだ。
現にアルは今、彼女がマードックの事を考えているのだろう、ということを分かっていた。ほんの少し会って話だけであっても、彼女にとっては
アルは身内が死んだことを、カルラやルーク、父母が死んだことを思うと真っ黒なぞっとする感情に肝を冷やした。アルにはエレナの気持ちが痛いほど分かった。
しかし、結局はどう言葉をかけていいかも分からずアルは苦渋の表情を浮かべたまま剥ぎ取り作業に取り掛かった。
ゆっくりとエレナも起き上がり、ダイミョウザザミの身体に手をかけた。
しばらく無言の時間が続き、エレナが静かに声を漏らした。
「アルは……優しいね」
「……優しいだけじゃ、駄目なんだ。現に僕は何もしてあげられない」
「ううん。私は助かってるよ」
「お世辞でも嬉しいかな」
アルの言葉を最後に二人は黙々と剥ぎ取りにかかった。
涼しい木陰の真ん中で鼓膜を優しい波の音に包まれながらアルは重たい甲殻を葉から差し込む陽の光に照らした。