其の壱
「暖けぇ」
事の発端は港を眺めていた時だった。突然後ろから声をかけられて、ジルバは人とあまり馴れ合わない性分だから無言で立ち去ろうとした。
しかし急に手首を掴まれて抵抗もし辛く否応なしに彼女の家に連れて来られた。その奔放さに圧倒されて仕方なく家にお邪魔した感想がそれだった。
木造の家は何の風変りもない普遍的な家だが、この町では十分に目を惹く珍しさ。この辺りで良質な石が取れるのでこの町の住宅のほとんどが石造りなのである。
燃え盛る暖炉は外気の寒さを感じさせない温度を保つ。壁と天井に囲まれ、雨に濡れる心配だってない。尻の下の絨毯はいつもの小汚い地面などではない。壁に大猪の角や流麗な刀を飾るなど贅沢過ぎて言葉も出ない。
とにかく快適でジルバからしてみれば現実離れした空間だった。
まるで、子どものような輝く目で部屋中を見渡す。すると、二つのコップから湯気をあげながら、この家の住人が徐に隣に座った。
「はい、スープ」
「お、おぉ。ありがとう」
「……名前は?」
「ジルバ……アンタは?」
「メルラよ」
暖炉で揺れる火を見つめながら言葉を交わす。名を訊かれたのは何年ぶりだろうか、ジルバはふと思い返していた。
コップを傾け、温かいスープを少し飲んでからメルラがまた口を開いた。
「どうして、そんなに傷だらけなの?」
「アンタには……関係ねぇよ」
「ダメ。ちゃんと言わないと助けてあげられないでしょ?」
澄んだ茶色の瞳が眼前に迫る。穏和で宝石のような瞳には暖炉の炎の揺らめきが映し出されていて気づけば見つめ返してしまった。
近くで見ればよく分かる。白鳥のように白い肌は炎の光でほんのり赤らんでいる。桃のような唇は心臓の動きを増幅させるほどに潤っていて美しい。
自分の頬が火照るのが分かって誤魔化すように目を逸らしてつい口走った。
「や、やられたんだよ。ハンターに」
「ハンター? 何でハンターが……」
「スラム街では当たり前の話だ。そんなことも知らねぇのか」
「むっ。知ってますよだ。私、これでもギルドガール目指してるんだから」
メルラは胸を張ってそう言う。
ギルドガール。ハンター達にクエストを提供したり、資料を整理したりする職で博物学、地理学、モンスターの生態に関する学問など幅広い知識を求められ、就くのは困難とされる職業である。
だが、スラム街に生きる者としてその情報の必要性は皆無。名も知らないジルバの反応は曖昧だった。
「あれ、ギルドガール知らないの?」
「当たり前だろ。こっちは毎日、生きるのに必死なんだ。そんな情報を頭に入れても無駄なだけだからな。そもそも……興味ねぇ」
「な……興味ないって。折角――っ!」
穏やかだった空気が一変。しかし、ジルバが身構えることは無かった。不思議とメルラが手を出さないことを悟っていた。ジルバにとって毎日が生存競争だ。こういう判断には長けている。
事実、露わにした怒りを静まらせたメルラの顔が悲しげに曇った。訳が分からない、とジルバは素直に感じた。
「でも、そうだよね。ジルバは……よく頑張ってるんだね」
「は……?」
メルラは何かと自分を重ねているらしく、ジルバを差し置いて自分の世界に入ってしまった。置いていかれたジルバは頭を掻きむしって遂には思考を放棄する。
そういえば、と受け取ったコップに初めて口を付けた。小さく刻まれた野菜が温かいスープと一緒にすんなり喉を通って体の芯まで温めてくれる――美味い。
こんなに液体が美味しいとは思いもしなかった。思わず、舌が火傷してしまうくらいに喉に流し込んでいた。奪われては堪らない、と本能が警告でもしたのだろうか。
「ふふっ。そんなに美味しかった?」
「……っ、あ、あぁ。悪くねぇ」
子どものように喜んだ自分が恥ずかしくてつい伏し目になってしまう。喉まで出かかった感謝の気持ちもそれどころじゃなくて飲み込んでしまった。
あっという間に空になったコップの底をジルバは惜しそうに見つめる。これが世間の言う普通の暮らしならば、自分はどれだけ運が悪いのだろう、と神様を怨んだ。
――やばい。――涙が出そうだ。
慌てて目を擦り、視線を明後日の方向に向ける。泣き顔を見られる訳にはいかない、と必死で堪えた。弱みだけは見せない、スラム街で生き残る極意の一つだ。
それでも彼女の言葉は優し過ぎて、家の温度が温か過ぎて、思いとは裏腹に心が満たされてしまう。
「泣いても……良いよ?」
「……っ……今だけだ。……すまねぇ」
絞り出した声は震えていて、眼を擦って誤魔化そうにも、もう遅い。
幸せ過ぎた。
この日は特別だった。灰色だった視界は温かい色に包まれてきて、隣に居る彼女は自分の不幸を全部包んでくれた。
そして――。
「ハンターにならない? ジルバは強いから……きっと良いハンターになれるよ」
――この日、この言葉を境にジルバはハンターの道へと足を踏み入れることになる。
この幸せの日々が手に入るのなら、こんな無価値な命など喜んで投げ出せる自信がジルバにはあった。
◆ ◆ ◆
人々の喧騒。料理と酒と煙草の匂い。物騒な鎧と得物を身につけて酒場に集うハンターはもう見慣れてしまった。
何故なら自分もそのような格好をしているのだから。彼らと同じハンターなのだから。
背負うのはアイアンハンマー。鉄製の素朴なハンマーで真四角な鉄の塊に棘をつけただけのシンプルな外見。身に纏うのは赤と鼠色で占めたイーオスシリーズ。その名の通り、ドスイーオスとその取り巻きであるイーオスの鱗や皮を使って作られる防具である。
ハンターを志してから一年が経とうとしている。ジルバの成長には目を見張るものがあった。固定の隊を組まず、数々の隊を出入りしながらほとんどを単身で熟している。
ジルバは集会所の真ん中を堂々と歩き、クエストカウンターの前で立ち止まる。依頼書通り、ドスファンゴを仕留めた証拠に骨や皮、牙なんかを長机に置いた。
「お疲れ様」
そう言って渡された金袋を掴み、置いた素材を袋に詰め込んだ。ジルバは笑みを返して疲れた足を出口へと向ける。
その時だった。
「そうそう、ジルバさん。イャンクックに挑戦する気はない? 近接戦を得意とするハンターを一人募集した貼り紙があるんだけど……」
「イャンクック、か……」
怪鳥イャンクック。これを狩らねば、飛竜との舞台には立てないとハンター達の間では言われている。故にハンターの登竜門としても知られ、越えることで初めて初心者を卒業したと周りから認められる。
得物はまだまだ心許ないが、怪鳥を相手取る自信はあった。命を賭す職業なためにハンターは依頼書選びには慎重にならねばならない。しかし、及び腰では前には進めない。
ハンターを初めて凡そ一年になる。これを記念と考えるのも悪くはなかった。
「分かった。その貼り紙、どこにある?」
受付嬢の細い指が差す方を見遣る。勧められた貼り紙を見つけ、そこに並べられた文字を読み流した。
太刀使いのアラン、ヘビィボウガン使いのオスター、片手剣使いのマルク。既に三人は固定の隊を組んでいて、きっと彼らは隊の四人目を探しているのだろう。
とりあえず貼り紙に自分の名前と得物の種類を書き、貼り直した。貼り紙の主はこれを確認し、実際に会って査定する。
だが、何も査定するのは主だけではない。ジルバも同様に彼らを査定するのだ。そろそろ、本格的に隊を組んで更なる上を目指そうとジルバも考えていた。
◆ ◆ ◆
時間はあっという間に流れるもので、初のイャンクック戦を経て長い年月が過ぎた。
しかし、ジルバは今でもあの日の死闘を忘れることはない。初めて組んだとは思えない連携で共に助け合い、猛然たる怪鳥と激しい攻防を積み重ね、見事に勝利したあの嬉々とした時間を。
あのイャンクック戦で見事に意気投合したアラン、オスター、マルク、そしてジルバは固定の隊を組み、今となっては酒を飲む時も夜を明かす時も、毎日を共に過ごす仲になっていた。
それは最早、同業者という枠を超えて無二の親友という間柄を築き上げていた。
そして、今日は初めて飛竜の象徴とも謳われる雄火竜リオレウスを狩った日。祝杯を挙げぬ訳にはいくまい。
「……もう何年前だよ、イャンクック狩ったの」
アランは口周りに泡を付けながら麦酒の入ったジョッキを机に叩きつけた。飛沫が机に料理に飛び込もうとも関係ない。どこまでも柔らかくなった脳はどうやら正しい行儀を考えなくなったらしい。
「思い出せねぇよなぁ。気付いたらリオレウスを狩っちまって……かぁー、俺たちも一丁前になったもんだなぁ! お前があの時来てくれたからだよ! ありがとうなぁ、ジルバぁ!」
次いで口を開いたマルクは顔を真っ赤にしながら赤葡萄酒を呑み込んだ。
ジルバも彼らと同じように顔を真っ赤にして、全身を多幸感に包んでいた。
酔うと途端に饒舌になるマルクも、黙り込んで瞑想するオスターも、同じことばかり言うアランも今日ばかりは格好良く映える。傍から見れば迷惑な客だが、ここは行きつけの酒場――店主とも仲が良い。
イャンクック戦を終えた夜も確かこんな風景だったか。ふと、スラム街で蹲っていた自分の姿を思い出して、ジルバは遠い目をする。
お調子者のアランに飛びつかれ、すぐにそれどころで無くなるのだが。
「うぉっ、酔い過ぎだ! 馬鹿野郎!」
引っ叩いても笑顔を続けるのは気色悪い。先ほどに彼らの事を格好良いと思ったのは全力で撤回する。やっぱり、どうしようもない馬鹿で愉快な奴らだ。
ジルバはスラム街にいた頃の自分をすっかり忘れて、腹の底から笑った。それこそ、店内に響き渡るくらいに。
ジルバは酔い潰れた体格の良いオスターをアランと担ぎながら夜道を歩いていた。マルクは最近、自宅を持ち始めて清楚な妻もいる。今頃、マルクは妻にぺこぺこと頭を下げているだろうとその光景を想像してジルバは内心で笑った。
今夜は明るい月夜だった。真ん丸の月は幻想的な光で酔い潰れた三人を気遣うように照らしていた。
借家までは近いようで遠い。歩く速度は亀より遅く、遂には道端で歩き疲れてしまう始末。無駄に大きいオスターを座らせて、アランとジルバは夜空を見上げた。
「寝ちまいそうだ……」
「だな……」
道端に座り込み、眠たいと呟く二人を咎める常識人はここにはいない。
沈黙が流れた。波の音とオスターの鼾だけが鼓膜を打つ。
ジルバはボンヤリと満月を仰ぎながら、過去を振り返っていた。長く続いた夢のような幸せ。今日のリオレウス戦もそうだが、決して狩り場は悠長な場ではない。常に死と隣り合わせで常人は堪えられない、と声を揃えて言うだろう。しかし、ジルバにとっては今がこの上ない幸せで、狩人の道を閉ざしスラム街に戻ることなど考えることもできない。
何もかも彼らが与えてくれた、教えてくれた幸せだ。
ジルバは怨んだ神様を心の底から尊んだ。
どれくらい経ったのだろうか。本当に寝てしまったのか、と隣のアランを盗み見ると、隠しようのない大粒の涙が彼の澄んだ茶色の眼が溢れ出していた。自分と同じように過去を振り返るような眼。しかし、自分と違って確かに大粒の涙が目から零れている。
慌てて視線を戻し、ジルバは満月を仰いだ。
「悪ぃな。変なとこ見せちまった」
「あ、あぁ。いや……その俺も悪い。見るつもりはなかったんだ」
先ほどまでの幸せな空気がひんやりとした夜風と共に冷え切ってしまう。ジルバは思わず身震いした。
きっと酒のせいで感極まっているのだろう。ジルバは気にしないように努めた。
彼が自ら語り始めるまでは。
「こんな俺だけどさぁ……この隊のリーダーをやってるだろ? 正直さ……怖いんだ。俺の判断で皆が死んでしまったらどうしようって……。怖くてたまらないんだ。」
アランは満月を仰ぎながら、独り言のように震えた声で呟く。ジルバは寝てしまったように黙って聞いていた。
「今日も、俺の出した指示の所為でオスターが危なかった。でも、お前がオスターを助け出してくれた時は心底ホッとしたんだ。ジルバ、本当にありがとうな……」
「そんなことない。俺はお前を信頼してる。お前の指示なら信じて従うさ……これからも頼むぜ、隊長さん」
酔った所為か、言葉が独りでに漏れてくる。悪い気はしない。
「ありがとう、な……」
言ったものの恥ずかしくて照れ隠しにアランは茶色の髪を掻いた。
冷たい夜風が心地良く、真ん丸の月がやたらと大きい。
ひんやりとした夜風に冷やされた幸せが更に温かくなって戻ってくる。
ジルバはこの夜のことを二度と忘れることは無い。これが絶望の道を辿った第一歩なのだから。
◆ ◆ ◆
ドンドルマ。屈強なハンター達が集う猛者の都市。
澄んだ茶色の眼で淀んだ灰色の空を見上げ、胸元でくるんと巻いた茶色の髪を靡かせて、メルラは帰路を歩いていた。余計な肉を削いだような華奢な足は満足そうに軽やかなステップを踏む。
上機嫌に笑う目が大きな合格の文字を映し、今度は口が笑う。ギルドガールの就職を目指しドンドルマに移住してもう数年が経った。ようやく待ち侘びた晴れやかな職場への招待状。姫様にでもなったような気分だった。
鼻歌を刻みながら、街灯の下に引っ掛かった紙を見つけ立ち止まる。今日の号外だ。風が強いので飛ばされてきたのだろう。
そういえば、試験の合否が気になりすぎてここ数日間は気にしていなかった、とメルラは思い出した。
メルラは興味本位で拾って羅列した文字に目を通してみた。
大きな見出しに視線が止まった――
――その瞬間、メルラの時間が凍りつく。
強風に煽られ、紙が宙を舞う。茶髪が靡き、その合間から覗く彼女の顔は――絶望に染まっていた。
――何で、そんな。私の故郷が、壊滅―――……。
メルラが心の中で呆然と呟く。
突然の事だった、老山龍が石の港町を地図から消したのは。
メルラは眼を絶望に染め、嗚咽を手で押さえつけた。しかし堪えきれず打ちひしがれ、道の真ん中で悄然と座り込んでしまった。
まるまるです。
お気づきの方も多いかと思いますが、メルラやジルバの故郷が前の章のナルガクルガ後半戦で戦った舞台となります。