結局、ベースキャンプを出発したのはあれから三十分ほど経ってからだった。
そのため、時刻は夜。真ん丸の月が大地を満遍なく照らす月夜である。
夜の狩人と称されるナルガクルガにとっては又とない絶好の舞台。欲張るのであれば暗闇に包まれた夜を願っていたが、狩人たちの思惑なのだから仕方ない。
満月の光を頼りにジルバ達は茂みを抜けて明らかな人工物と思われる石造りの建物が見られるエリアに到達した。そこにはボロボロになった土嚢の壁や整備されていただろう道などもある。
今はもう見る影もないが、当時は石造りを基とする栄えた町だった。崩れ落ちた家の壁は風よけくらいになる程度だ。しかし、巨体が動き回れる空間があるかと問われれば否である。
詰まる所、ナルガクルガはこの場で本領を発揮し辛い。地の利を得るのだ。
しかし、この場にナルガクルガを誘い込まねば話は進まない。
誘い込む過程には必須とされる事がある。アルが置いてきた弾丸、また同じエリアに放置された荷車。そこには罠や大タル爆弾などが積まれている。これを安全に運び出し、態勢を立て直す必要があった。
方法は幾つかある。夜は音がよく響くため角笛を吹けば、発達された聴覚でナルガクルガを呼び出せる。だが、この案はジルバが強く否定した。角笛に惹かれるのは何もナルガクルガだけではない。それこそ、このエリア一帯が混戦状態と化すだろう。それにあの狡賢いナルガクルガが警戒もなしに来るとは思えない。
ならばどうやって――囮だ。危険性を伴うが単純明快。問題は囮の適任者を見つけることだが――
「ッ……さあ、こっちに来い!」
ナルガクルガと対面したハザンが声を荒げた。
――これはハザンが自ら申し出た。
ジルバは重度の手負いでエレナは経験も実力も不足。アルは弾丸を拾わなければならないのもそうだが、囮の役割に適さない。残るはハザンだが、適任者かと問われれば否である。彼もまた実力も経験も足りていない。精神面に関しては最も不安である。
しかし皆はハザンが申し出たことに異論を唱えなかった。名誉挽回させたい考慮もあっただろうが、彼には肯定させるだけの信頼性と気迫があった。
皆が預けてくれた使命。何としてでも果たさねばなるまい。ハザンは覇気に溢れていた。
しかし、ナルガクルガとてそう易々と勝ちを譲る訳にいかない。月夜といえども樹木という天井があれば話は別。樹冠の下では暗闇が広がり、夜の狩人は暗闇に紛れ込む。
ハザンを中心点に苛烈な速度で周回。列を成す樹木を諸共せずナルガクルガは加速し、ハザンは騒音と暗さに気が狂いそうだ。
心臓を握られているような感覚。研ぎ澄まされた神経は既にナルガクルガの位置を見失った。
(ジルバさんはこれを見切ったのか……っ!? 格が違い過ぎる、人間の業じゃないぞ……)
参考にするため本人から話は聞いていた。
体験するとその凄味が解る。正に異端児。そう成り得た理由はハザンにも解る。幾度となく狩り場に身を投じ、数々のモンスターと対峙し勝ち抜いてきた経験。その年月は想像すらも難しく現実味が持てない。
ジルバのような人間離れした業をハザンは持っていない。しかし打破せねばならない。この険しい窮境を。
奴の位置を知覚できるのは光る赤眼と凄まじい速度の巨体が出す音。
「来る――ッ!」
瞬間、ハザンが刮眼。押し寄せる黒い数本の棘を認識。屈んで回避。
俄然、轟と空気が振動。本能が身体を突き飛ばす。
迫る尖鋭の黒。胸と肩からバッと赤い花が咲く――傷は浅いが鎧が歪んだ。
痛覚はまだ来ない。戦える。転じて、反撃だ。
太刀で顎を突上げる。再び咲いた赤の花は迅竜の身から。
最早、痛みを感じない。戦いに専心する脳が痛覚を麻痺させたか。それとも気付かないだけか。
地を蹴って、間合いを読む。靴跡を引いて身を止める。
そして、綻ぶ。
「人間を……無礼るなよ」
ナルガクルガが唸り声をあげ、尻尾を地面に叩き鳴らす。
◆ ◆ ◆
満月の光は夜の寂しさを払拭させるだけの頼もしさがあった。
しかし、崩れ落ちた家屋の中に潜む狩人たちは別の不安を抱えていた。ハザンと別行動をしてからどれほどの時間が経ったか分からない。静謐に包まれたこのエリアは海に近く、虫の鳴き声と波の音だけが聞こえる。
不気味なほどに静まり返った一帯。別々の位置に身を潜めるエレナ、ジルバ、アルは他の二人がちゃんとこの一帯にいるのかどうかさえ疑わしいと感じていた。無論いるのだが、それほどに静かであったのだ。
時々聞こえる草木が揺れる音は生き物が蠢いているのか、風の所為か。どちらにしても、音自体が奇々怪々で心細い。
エレナは崩れた壁に背中を預けてふと、視線を落とす。石段の合間からふわっと覗く一輪の花。心細かったエレナは綻んで一輪の花に問いかけた。
「あなたも頑張って生きてるの? 私と一緒だね」
当然だが返事は来ない。しかし揺れる花が心なしか頷いているようだった。
一輪の花から思い出したように連想されるのはミラ。彼女と仲良くなるために過ごした日々は充実していて楽しかった。心残りなのは頭に花を飾ったミラをハザンに見せ、彼の面白い反応が見られなかったことだ。
今度こそは面白い反応を期待する。だから、無事でいてほしい。だが、時間の経過と共に不安は募るばかりだ。
心音に耳を澄ませ、一輪の花に別れを告げる。
突然、野鳥が一斉に羽ばたいてエレナはびっくりして首を引っ込めた。軽快な動きで巨体が飛び跳ねるような音が連続、切迫する。
(……来た!)
不安が吹き飛ぶ。同時に思考を切り替えた。
それが出て来たら瞬く間、寂れた町は狩り場へと変貌する。
音のする方へと目を凝らし、茂みと樹木の向こうにある闇を窺う。小型には有り得ない重量を予想させる地の震動。夜の狩人と称されるほど隠密に長けたナルガクルガの仕業なのだから皮肉なものだ。
予想より現れるのが遅く不審に思った転瞬の後、ハザンが駆け込んできて木が薙ぎ倒されてナルガクルガが飛び出してきた。
全速力で駆け抜けるハザンは遠くから見ても分かるぐらいの傷を負っている。血液を無造作に垂れ流し、後ろを振り返る。間合いは十分に保ったはずだ、しかし、既に間合いは縮められていた。
このエリアは元々石造りの町で、道のために敷き詰められた石が長い間放置されていた為に盛り上がっていてもおかしくはない。疲れを溜め込んだハザンの足の爪先がそれにぶつかる。
「クソ――ッ!」
体勢を崩し視界がぐるん、と一回転。吹き飛ばされたように三回転した挙げ句、柱にぶつかって身体は止まった。
悪寒が走り、慌てて振り返る。殺られる、と思ったその時、月夜の明るさを跳ね退けるほどの爆炎が生じた。それがアルの撃ち出した徹甲榴弾と理解するのにそう時間はかからなかった。
兇悪な相貌が辺りを巡った後、ハザンを向く。
迅竜の鋭利な視線がハザンを射抜いた。これを遮るようにエレナが飛び込んで迅竜と寇する。
「ハザン、立てる!?」
「ああ……」
不思議だ。仲間がいるだけで胸を突き上げてくる感情が快い。安らかな気持ちだ。絶望的な脅威は目の前にあるというのに。
紅く光るは双眸。夜空には真ん丸の月。狩り場は寂び果てた石の町。月夜の空を穿つのは迅竜の喊声。
賽は投げられた。
さあ、雌雄を決すべき時が来た。あるのは生か死か。弱肉強食の世界。
増えた敵を認識し、ナルガクルガが威迫の怒鳴り声をあげる。だがエレナもハザンも屈することは無かった。
衰えぬ俊敏さで巨体を宙に躍らせ前脚を振り下ろす。敷き詰められた石を砕き盛り上げるほどの威力。だが手応えはない。
左右に散開したエレナとハザンは両サイドから同時に得物を振るった。黒毛を刈り取り、鱗を剥ぎ飛ばす。血潮が飛び出て二人が返り血で真っ赤に濡れる。
これを何事も無かったかのように何時もの如く跳躍して二人を引き離す。しかし、どうだ。ナルガクルガは石の壁を砕きながら体勢を崩した。
欠かさず銃弾の雨が刺し、駆け込んだ二人が獲物を浴びせかける。耐え兼ねたナルガクルガが悲鳴を撒き散らして石を弾き飛ばしながら再跳躍。猛攻から慌てて逃れた。
エレナは堪らず腕で顔を覆って小石を防いだ。一方でハザンは飛来する石を最小限の動きで避ける。
「グルルゥ、グゥ……」
彼らの企みを覗き見たナルガクルガが癪に障ったのか唸りを漏らす。称賛の意も含まれていたのかもしれない。
しかし、このナルガクルガはこれまでもひと際異彩を放ってきた。怒りを理性で抑え込み、冷静沈着を常としナルガクルガは奇策を考えるのだ。
震え、唸る。即時に体を反転、尻尾を叩きつけた。道が割れ粉々になった石が無数に弾け飛び――しかし又もや手応えはない。
狭い範囲で行える必殺の攻撃を繰り出す志向性に変更した――だけなら平々凡々。
棘に覆われた尻尾は地面に突き刺さり、一定時間の隙を生み出す。この好機を活用しない手はない。エレナは速断し腰を落とし足に力を込めた。
目前に手が差し出された時までは。
「えっ……」
「待て。よく見ろ……石の雨だ」
それは名の通り、大量の石が空から降って襲いかかり地面に激突した。きっとあの場にいたら降り注ぐ石に頭を打たれ、致命的な隙と成り得ただろう。
そこでエレナは理解する。ナルガクルガは全てを理解し企んでいた。あの攻撃の後に隙が出来ることも、それを既知の自分たちが接近することも、その自分たちに石の雨が降り注ぐことも。
「……す、凄い」
目を疑うような光景にエレナの思考が止まる。
「ああ。思った以上に賢いぞ、コイツ……っ!」
ナルガクルガが緩慢にこちらを振り向く。余裕を見せつけているのか。その表情が不気味な笑みにすら見えてハザンとエレナは顔を引きつった。
勝てるのか。この化け物に。不安な戦慄に似た息苦しさにヘルムの下で表情が曇る。膨れ上がる死の妄想で背筋が凍りつく。
圧倒的なほどの絶望的状況下でありながら非情なナルガクルガは再び異彩を放ってきた。跳躍し、壁へと接近。身構えたハザンとエレナが一寸先を見極めようと頭を渦潮の如く回す。
途端、ハザンが叫ぶも、声はけたたましい轟音に覆い被さられた。
「エレナ、伏せ――ッ!」
「え――!?」
ナルガクルガは崩壊しかけの壁を殴り付けた。壁が爆発を受けたように飛散する。
文字通り、横殴りの石の雨が恐ろしい速度でエレナとハザンに襲いかかる。先程まで壁だった無数の破片が二人を打ち付ける。
不運にも大きな石がエレナの頭を強く打ち、衝撃で視界が歪む。やがてヘルムの中から血が滴り落ちる。
エレナがナルガクルガにとって必中の間合いであることは瞭然。刃翼を構え、跳躍する光景を黙認する筈がなくハザンが地を蹴って手を伸ばす。
「クソ、間に合えッ!」
一瞬が永遠に囚われた。間に合わないのは一目瞭然。手が届くその先でエレナの身が血で真っ赤に染まる映像が思い描かれる。
瞬く間、ハザンの体が押され真横を影が追い抜いてエレナを突き飛ばした。
恐ろしい膂力に押された体は進みたい方向とは打って変わって遠退く。伸ばした手の先で見た影の正体は一瞬の時であれども見間違う筈がない。
幾戦の怪物と対峙し死線を越えてきた老年の狩人、ジルバ。老いを迎えてなお、無双の如き勇姿は今までもずっと目に焼き付けてきた。故に見間違わない。
強靭な刃翼を戦鎚の柄で防ぎ、踵で腐葉土を抉りながら慣性に抗う。
「スマン。遅くなったの」
「いえ、最高のタイミングです」
もう死の妄想は浮かばない。それどころか、栄光を勝ち取る光景すら目に浮かぶ。
そうだ。無双を想起させる彼なら、神算を備えし最恐の迅竜もその戦鎚で打ち砕けるだろう。
恐れるものは――ない。
「エレナ、大事ないか?」
「はい」
「まだ嫌いか? 助けられる自分が」
「いいえ。大好きです!」
「フッ。大好きは余計じゃな」
狩り場に不釣り合いな子どものように弾む声からは彼女の笑顔さえも目に浮かんでくる。
迅竜は唸り声を鳴らし、同時に尻尾を上下に振って地面を叩く。その赤い眼が好敵手の登場を慶祝し歓迎する。
「エレナは閃光玉の準備を。ハザン、ゆくぞ」
「「はい!」」
駆けて離れゆくジルバの背中。その慣れ親しんだ光景に安堵し、エレナは閃光玉を掴み取った。
鳴り渡るは軽銃の叫び声。疾駆するのは若者と老者。迎え撃つのは夜を選り好む漆黒の竜。
満ち満ちた月影の下で命を賭した総力戦へ。
長きに渡った生存権の奪還戦争はついに最終局面を迎える。