心を吸い込んでしまいそうな月。ほんの少し欠けた月は十日もしない内に満ちるだろう。
雲はなく、月明かりで数多の星が薄く見える。夜は静かだ。川の音も、木々の騒めきも、虫の鳴る声も聞こえる。そこに入り交ざった物はなく、純粋な自然のみを感じられる。
今なら最高の眠りにつけそうだ。そんな場違いなことを思いながら俺は開けたままの扉を閉めた。
ジルバさんが提案した食事会を終え、遊び疲れた俺の体は寝つくのを嫌った。いや、違う。最悪の敵であるナルガクルガのことが頭から離れなくて眠れない。正確には眠れた。しかし、悪夢が再び目を覚まさせてくる。
群がる仲間達を等しく死肉に変える主、ナルガクルガ。死体の山で赤い目を光らせ、こちらを睨む。恐怖で体は動かず、間もなくして真っ黒な闇が襲ってきて食い殺される。そんな悪夢。今も汗で体が濡れていて変にだるい。
正直なところ、俺はあの日誓った復讐を忘れかけていた。でも、あの光景は昨日の事の様に思い出せる。その度に腹の奥底から煮えくり返るような怒りが沸々と湧きあがっていた。
この心境で安らかに眠れる筈もなく静かに外に出てきた訳だが、随分と明るく心地良い夜だ。ここなら寝れそうだ、そう思った。
しかしすぐにその眠気は収まった。
「……ミラ? こんな時間にどこ行っていたんだ?」
相変わらず表情を無色で塗りつぶし――しかし、青い月光に照らされる端整な顔は月の女神のようで。
――笑顔だったら可愛いのに。
(阿呆か……俺は)
「忘れ物を取りに……貴方こそ」
「忘れ物……何も持ってねぇようだけど? 話したくないなら良いけどさ」
「……ん」
「俺はその……寝つけなくてな。話し相手が欲しいんだ。どうだ?」
俺は傍の地面を叩いてミラの相席を誘う。
「私で良ければ」
そう言ってミラは喜びともつかず嫌々ともつかずの様子で隣にちょこんと座った。
俺はこうして誘ったものの会話の内容を事前に考えていた訳ではなかった。これといった話題が見つからず、黙々と月を見上げていた。
大地を満遍なく照らす幻想的な月だ。少し欠けているのもまた綺麗なものだな。
「……ナルガクルガがこの辺をうろついているらしい」
俺は前触れもなく言葉を落とした。果たしてミラに届いたのか否か。月に向けた視線をそのままに俺は返事を待った。
「と、すると近々狩りに行く?」
「……ああ、よく分かったな」
「もうすぐ月が満ちるから夜は明るい。ナルガクルガを狩るなら明るい夜」
「なるほど。やっぱり、アンタは頭が良い」
弾まない会話。また訪れた沈黙を、月を見ることでやり過ごす。こうしていれば月の観賞をしているようで会話せずとも気まずくならない。
この沈黙の間を使って俺は再び話題を模索――する必要はなかった。感慨深くなって頭の中に言葉が溢れ返ってくる。きっと夜だからなのだろう。
そういえば、あの日の夜は暗かった。
「アンタ、笑ったことはないのか?」
「そもそも、笑うことに意味があるのかどうか。私は分からない」
俺は思わず目を見開いた。思った以上に険しい質問だったから。
「それは……楽しい時とか面白い時とか、辛い時とかも笑えば嬉しくなるっていうか……あー、笑うことに意味なんてないのかもな」
「辛い時に……笑う? それは初耳」
「ちょっと笑ってみてくれよ」
「ん」
ミラは口角を吊り上げ、目を細める。しかし、狂人が悪巧みを終えた末に無様な人間を笑う顔に似ていて、怖い。
でも彼女が本気で笑おうとしていてそれがこの結果であるのなら話は別だ。俺は必死に笑いを堪えていたが、ついに吹き出してしまった。
「っ……それで、笑っているのか。アンタ、面白いな」
「? 可笑しい?」
「ああ、可笑しい」
久しぶりに腹の底から笑った気がする。深夜にも関わらず。寝ている人を起こさないよう注意しないと。
「でも、貴方は笑った」
「ああ。久しぶりに笑ったよ。……有難うな」
本当に久しぶりだ。あの日から。本当に。
辛い時に笑うのは本当に効果があるのかもしれない。先程まで俺の心に巣食っていた悪夢が解けてしまった。
やっぱり笑うことは良い事だ。意味の有無を考えずとも分かる。
だから、俺は笑うことの良さを純粋に教えてやりたい。あの悪夢を解かしてくれた恩もある。両親が死んで訳も分からず猟団に入った頃、二人目の
そして、ミラが笑うところをこの眼で俺は見たい。
確か、父さんは――エーランドはこう言ったっけ。
父さんの笑顔が頭の中に浮かんでくる。
『いつか、目一杯に笑わせてやるよ――』
「――アンタのことを」
「そう。楽しみ、かな?」
『――約束だ』
「約束だ」
◆ ◆ ◆
ジャンボ村の一端、草木が生い茂っている。その場からは村を一望でき、賑やかで長閑な光景が窺える。
ここはエレナのお気に入りの場所でもあった。辺りは花々に囲まれ、眺められるジャンボ村の光景もその奥に広がる大海原も全部含めて好きだった。
今日、ミラを連れてきたのは彼女と仲良くなりたいというエレナの思惑があったからである。ジャンボ村には幼い子供が元気に走り回っているが、青春期であるエレナと同年齢の少女は酒場の看板娘、パティくらいだ。彼女は昼夜問わず忙しくエレナと遊ぶだけの余裕がなく、エレナも仕事の邪魔をしてはいけないと気遣っている。
ハンターという武骨な職業につきながらエレナもまた一人の少女。同年齢同性の話し相手が欲しいと思うのは当然のことである。エレナの性格上、結局は幼い子供たちとも十二分に仲が良いのだが。
「ここが私のお気に入りの場所だよっ」
エレナは演技をするように鷹揚に腕を広げて花が咲き乱れる丘と長閑なジャンボ村の画を紹介する。
果たしてミラの表情は変わらず目ぼしい反応もない。しかしエレナはそんなことを気にも留めず、笑顔を絶やさずにミラを手招きで誘った。
無感情の少女と感情豊かな少女。客観的に思えば相容れない二人だが、エレナの緩々な人柄と無極な前向きの趣意が相容れない二人の間に橋を架けた。
「さぁ、座って座って」
様々な色で咲き乱れる花の中心にエレナが腰を下ろして地面をとんとんと叩く。まるで、周りの花々に混じって向日葵が咲いたような柔らかく温かい笑顔で。
対して無感情のミラを花で表すならば清々しい美麗な桔梗。無感情と紙一重に凛とした静寂の雰囲気に包まれてエレナの隣にすっと座った。
風が吹き抜けた。途端に草木がさわさわと音を奏で、鮮やかな金髪と艶やかな黒髪がなびく。快適で風雅なムードを助長する。
「わっ……良い風だねー」
「海風」
日中に吹く海から陸へと吹き込む風。相変わらず知性的な所感である。しかしエレナはこれをゆるりと聞く。
「ホントだ。潮の香りがするねぇ」
鼻から目一杯に潮の香りを吸い込んで無意識に体全体で海風を受け取るように両腕を翼のように広げる。
エレナは視界で踊る金髪を何度も耳にかけながら、今度は黙り込んで目当ての花を探し始めた。ミラは風に煽られる黒髪を気に留めず地面に散らばる花を意味もなく見回す。
ミラは視界の端に映ったエレナの真剣な顔を見るなりはて、と感じる。花を探すのにここまで真剣になるだろうか。研究資料や調査においてならばまだしも彼女にその動機の可能性は皆無。何が理由でこんなに真剣になるのか、ミラには理解し難かった。
何事にも真っ直ぐに取り組むだけの純粋なエレナはそもそもの理由をあまり定かにしていないことが皮肉な話だ。あるとするならばミラと話したい。ただそれだけである。言うまでもないが、結局のところミラが答えに辿り着くのは無理な話である。
少時を経てエレナが再び向日葵のような笑顔を見せる。
その小さな手に丁寧に摘んだのは一輪の花――オキナグサ。
「ちょっと耳を貸してね……よしっ」
そう言ってエレナはミラの黒髪を優しく手に取って耳にかけ、そこにオキナグサを添えた。耳とこめかみの間から紫の満開の花が覗く。
疑問符を浮かべるミラを他所にエレナは少し離れたところからミラの顔をまじまじと見た。ミラの表情の無色を可憐な花が鮮やかに色づけているようだ。
ひとしきり観賞したところで満足そうに微笑んで頷く。
「うん。やっぱりミラちゃんにピッタリだね。我ながら才能あると思うんだー」
「ピッタリ?」
「あ、気に入らなかった?」
「そうじゃない」
「なら良いんだけど……うーん」
と、唸ってエレナはまた少し視点を変えて人差し指と親指をくっつけて出来た四角の枠の中にミラの顔を入れる。暫くその四角の中を覗いた後、またうん、と頷いて納得した。
「私のお母さんがよく言ってたよ。可愛い女の子は笑顔が大事だって。ミラちゃんは華みたいに可愛いんだから、笑顔じゃないと」
そう結論付けたエレナはミラの頬を弄んでは笑顔をつくろうとする。ミラは無抵抗にエレナの手を受け付け、まるで定められていた台詞を読むように質問を零した。
「エレナ……ちゃんのお母さんはどんな人?」
「お母さんはねー、お花屋さんでね。よく私に花の話をしてくれたんだよ。うーん、じゃあねーミラちゃんの好きな花はどれ?」
「……あれ」
ミラが無造作に指差した方向の先をエレナは一瞥して、彼女が想像する博士の仕草を真似てみる。もう答えるべき言葉は見つかっているのだが。
「アレはね、ハナズオウって言うんだよ」
自慢げに胸を張ってエレナが頼まれもせぬのに説明した。ミラはここで花の知識がある、と主張したかったのかと理解した。遠回しにエレナが自慢したかったということも。
「ミラちゃんの親は? どんな人なの?」
「分からない。居たんだけど覚えてない。死んだことは、分かる」
「そっか……ごめんね。嫌なこと訊いちゃった」
「別に……」
海風が奏でる草花のさわさわ、樹木のざわざわ。少し聞こえるのは村人たちの喧騒。
天真爛漫だからこそエレナも黙り込んでしまった。かけようと思っていた言葉が急に見えなくなる。静寂が気まずいエレナにとって海風は別種の意味で頼もしかった。
勢いに身を任せて喋々するエレナは考えて言葉を選ぶのが苦手で脳が熱を放出してしまいそうだった。しかし奇しくもエレナに助太刀の手を差し伸べたのはミラだった。
「そういえばハザン……にも言われた」
まだ名前を完璧に覚えきれていないのか、若干に確認しながらミラが言う。ミラが作り出した沈黙の抜け口、エレナは慌てて食い付く。
「言われたって何を?」
「笑わせてくれる、と約束した」
「……へぇ、ハザンがー……」
相当驚いたのかエレナは目を丸くした後にきょとんとしてしまった。するとちょっとの間の後にエレナは心の裏で手を打った。
髪に花を挿したミラを一瞥して次には宙を眺めてからエレナは唐突に口を開いた。
「良いこと思いついちゃった……」
「?」
「ミラちゃん、ハザンのところに行こうっ」
言い出したら止まらない、エレナはそういうところがある。そして強引で行き成りである。
ミラの返事を聞くより早くエレナはミラの華奢の腕を引っ張って丘を駆け下りた。海風を正面から受けながら駆けていく先にはジルバの邸。
何時ものごとく元気よく扉を叩き、ジルバを大声で呼ぶ。
「ジールーバーさん!」
「どうしたんじゃ?」
間もなくして老眼鏡をかけたジルバが扉から顔を覗かせた。
「ハザンはいますか?」
ジルバはエレナと、ミラの存在を確かめて顎を擦った。なんとなく彼女らがしていたことには予想がついた。
「ハザンなら酒場に行くと聞いたぞ」
「そうでしたか。失礼しましたー!」
「全く……元気じゃのう」
またミラを引っ張って駆けていくエレナの背中。ジルバは皺の多い目を緩ませてそう呟いた。
「さて、仕事じゃ仕事」
大きく伸びをして凝り固まった身体を解してジルバがまた自宅に戻っていく。少し仕事が行き詰まって憂鬱だったが、彼女の元気な笑顔に心がほんわかとした。
そんな癒しをあっちこっちに振り散らしていることに気づかずエレナは村の人たちに愛嬌を振り撒いて駆けていく。まるで、飛び回る青い鳥が幸福の手紙をばら撒いているようだ。
数々の、老爺、妊婦、子供たちに癒しを等しく分け与えながらエレナは酒場に辿り着いた。無論、ここでも食卓を囲む村人たちに癒しを分け与える。
しかし見回してもハザンの姿はない。思い当たる節がないのでエレナは受付嬢に手を振った。
「受付嬢さん。ハザンが来ませんでしたか?」
「ハザン君なら資料室にこもっているわよ?」
「ありがとっ。お仕事頑張ってねー!」
「ふふっ、今日もエレナは元気ね」
受付嬢に向かって手を振りながらエレナがどたどたと駆けて資料室に飛び込む。受付嬢は妹を甘やかすような目で小さく手を振った。
扉の横につけられたプレートの資料室という字を一瞥しエレナが勢いよく扉を開ける。室内はしんとしていて流石のエレナも改まって足音を小さく歩き始めた。
羅列した棚には事務的な書類が無数に敷き詰められ整然と管理されている。
「ほえー……初めて来たけど凄いね」
身の置き場がないような資料室に圧倒されてエレナは間抜けた声を漏らす。ミラはその並べられた書類を見回して感服する。
エレナは遊園地に連れて来られた子どものように忙しなく視線を巡らせて歩き出す。ミラは理知的な視線を巡らせてエレナについて歩く。
さて、開いた口が塞がらないエレナは本題を忘れかけた頃、ハザンの姿が目に止まる。頭だけが固定されて体は前に進み、慌ててエレナは体をぴたっと止めた。
「ハザン!」
「ん……エレナ? どうしたんだ?」
ハザンは手に持っていた書物をサッと畳んで隙間に押し込む。ハザンはエレナ達に向き直って奥から覗く顔にハッとする。
「何読んでたの?」
「あ、ああ。ちょっと気になることがあってな。……そんなことよりどうしたんだ?」
「あっ、そうだった。どう? ミラちゃん可愛いでしょー」
「かわ……は? 何言ってんだ?」
「何ってほら……ってアレ? アレ!? ミラちゃんお花は!?」
「あなたが走り回るから落ちた」
「えぇぇ。そんなぁ……」
「おい、ちゃんと説明しろよ」
「いい作戦だと思ったのにー!」
「おい、だから説明しろって」
「むぅ、ハザンには秘密だよ」
「はぁ? 本当に何をしに来たんだ」
この後、ジルバの邸のすぐ前に落ちた花をハザンが見つけるのはまた別の話。
まるまるです。
今回出てきた花ですが、現実にある花の名でしてモンハンの世界に生息しているかどうかは分かりません。因みにモンハンの世界に花言葉という文化は存在しないものと考えて今から紹介する花言葉を確認していただければ幸いです。
ハナズオウ 疑惑、不信、豊かな生涯、裏切り
オキナグサ 何も求めない、清純な心、裏切りの恋
です。