フルフルが怯んだ少年を飲み込もうと首を伸ばした時だった。
少女の叫び声が反響し、フルフルの首が静止する。しかし、少女の声に反応して静止したわけではない。新手の気配を嗅ぎつけたのだ。
荒い息で顔の周りを白く染め、肩を激しく上下するカルラ。すぐに少年の危機的状況を理解し、義憤の双眸を光らせた。
フルフルはのっそりと首を動かして少年から離れていく。取り敢えず、二人は安全なようである。しかし、それを確認する余裕もないほどにカルラは感情が高ぶっていた。
「二人はエリック兄の援護に回って」
「は、はい」
「わかりました」
少年は慌てて走り出し、フルフルの背後から逃げてゆく。これをフルフルは気にも留めなかった。
対峙するカルラとフルフル。一見、力の差は歴然で誰もが彼女の負けを予見するだろう。しかし、カルラの視線は一寸も揺るがず、その怒りの矛先は真っ直ぐにフルフルを貫いていた。
幼馴染を殺された恨みと大切なものを奪われた悲しみが心の中でかき混ぜられる。
「絶対、許さないんだから」
その言葉を境に場の空気は一瞬にして張り詰め、カルラの槍が冷気へと晒された。
フルフルが跳ぶ。正確な跳躍だが、避けやすい。着地点を予測したカルラが軽いステップで移動、着地の直後に槍を突き出した。
奇妙な感触にカルラは顔を歪ませながら、飛び退く。フルフルはこちらを振り向くまでが遅い。これならば、十分な余裕が持てる。
フルフルの動きを先読みしながら、適切な刺突で先端を皮膚へと食い込ませた。やはり、手応えがおかしい。カルラは先ほどと同じように飛び退く。
「な――っ!?」
岩床に吸い付かせたフルフルの吸盤から首へと青白い光が上っていく。フルフルは長い首を振り下ろし、口から電気球が吐き出された。予想だにしなかったこの電気球をカルラは紙一重で避けた。
白い光が退いたのを感じながら、安堵の息をつく。肝を冷やす暇もなく、ランスと盾をしっかりと把持して構えた。
フルフルの挙動を注視し、カルラは攻撃の機会を窺う。
どこからどうやって攻め込むか、敵への攻撃ばかりを考えていたカルラは次の瞬間、口角を吊り上げた。フルフルが再び吸盤を岩床へと吸い付ける、ブレスだ。
先ほどの光景は頭の中にしっかりと思い描ける。
首が光り、やがて、口元が眩しく光る。まるで、気味の悪い街灯のように。
「……!」
途端、カルラは異変に気が付いたが、身体は既に動いており、言うことを聞かなかった。
電気球が吐き出された。放たれた電気球は五つの方向に分裂し、カルラ目掛けて襲ってきた。走り出したタイミングが遅すぎた。電気球が及ぶ範囲は広く、逃げ切れそうにない。
咄嗟の判断で身を投げ出し、間一髪のところで電気球が真横を過ぎる。
まずい。次の動作が遅れる。フルフルは――
「――う、ぐっ」
跳躍してきた白い体躯と激しい衝突。束の間でランスを手放してしまった、と理解する。
悪寒を走らせながら、危険を察知して盾を構えた。飛び退く瞬間、真っ白い尾が盾に叩き付けられた。
強烈な衝撃が盾から腕を伝って、背中から勢いよく駆け抜けた。水晶に体を強く打ち付け、そのままぐったりと倒れ込む。
激痛が脳の命令をことごとく遮り、体が動かない。
白い悪魔がゆっくりと近づく。暗転しかける視界でカルラはぼんやりと口だけの顔を見た。
憎いけど辛くて寒い。体が意に反して震える。怖いのかどうかも分からなかった。
「――カルラッ!」
遠ざかってゆく意識が突如としてその声によって繋がれていく。
その時、爆発音がして、フルフルの背中から爆炎が噴き上がり、熱が冷気を退けた。
発砲音。そして、再び爆発音がする。それにフルフルの悲鳴が重なった。
必死に駆け込んできたアルがカルラの腕を自分の首の後ろから回して抱え込み、ゆっくりとだが、フルフルから離れるように歩み出した。
「大丈夫?」
「……何なのよ、アルのくせに。……生意気」
「はは……」
苦笑いする暇はない。獲物を逃がすまいとフルフルが奇声を発する。
フルフルの接近を悟ったカルラが警告し、アルが慌てて視線を飛ばす。
「っ、来るよ」
間に合うか、否。カルラを庇いながらの抗戦は不可能。
「ごめん……っ!」
最大限に気を配って優しくカルラを突き飛ばし、軽銃――ではなく、片手剣を引き抜いた。
体を翻し、フルフルと自分との間に盾を捻じ込んで突き放す。
「くっ」
アルは体勢を落ち度なく保てず、無様に転がる。カルラを庇ったために一手遅れた。見捨てれば、こんなことは無かっただろうが、アルに限って見捨てるという選択肢は有り得ない。
寝転んだ状態からそのまま転がって距離を取ってから立ち上がる。その瞬間にはもう既に軽銃を構えていた。
迷わず連射。狙い過たず数々の貫通弾がフルフルを襲う。再装填し、相対するフルフルの真横を駆け抜け、しなる尾を掻い潜った。
振り向きざまに引き金を絞る。これもまた狙い過たず、正確に体躯を傷つけた。
弾倉が尽きる。別の弾丸を装填し、構える。照準を覗こうとして、止める。
フルフルが首を持ち上げた。口元が白く光っている。首を振り下ろすと共に強烈な電荷が発射された。
放たれた電気球を難なく避け、フルフルへと視線を戻す。あれは跳躍の体勢、アルは彼我の距離を目測で見極め、横に跳んで転がる。
フルフルは体躯を前方へと躍らせながら自在な首を器用に伸ばした。避けた直後のアルは無防備だと見当をつけたのだ。
無音の着地とほぼ同時、伸びていた首を猶も伸ばし、アルを喰らおう驚異的な大きさにまで口を開けた――しかし、振り返ったアルが向けるのは銃口で、それが、光る。
直後、口内から橙色の閃光が炸裂し、フルフルは耐え兼ねて弾かれたように首を振り上げた。徹甲榴弾。口の中で爆発したのだ。
まるで、思い描いていたような理想の動きであったが、気は緩めず、アルはフルフルを睨みつけた。
頭が冴えている。敵の動きが手に取るように分かる。自分の進むべき道が光となって顕現される。
勝利の兆しが、見えてきた。
◆ ◆ ◆
狩り場の雰囲気が変わると同時に雪原を二人の狩人が駆け出した。
ハザンを先頭にしてそのすぐ後ろにエリックが付いて走る。
跳躍しようとするブランゴを確認し、ハザンは走る速度を落とす。跳んだと同時に体を反らして躱して更に蹴り飛ばす。その反動を利用して別のブランゴを薙ぎ払った。
絶命したかどうかは気にも留めず、反転して、もう一頭のブランゴを叩き切る。
ドドブランゴへの一本道が開かれた。その道をエリックが疾走していく。
相変わらずの声量で吼えるドドブランゴが接近する。機会を見計らっていたのか、思い出したようにドドブランゴが腕を振り上げた。途端に振り下ろし、大量の雪が舞い上がり、その合間から太刀が伸びて。
「っぁああッ!」
途端、悲鳴が木霊する。
右目を躊躇なく貫いた太刀は強引に引き抜かれ、大量の血を垂らしながらエリックは逃げ去る。闇雲に振り抜かれた剛腕は風を起こすばかりで敵を捉えることはなかった。
「ハザン君!」
「っつああぁ」
狙いは牙。無様に口を開けて悲鳴を上げている今なら狙うのは容易い。
博識の彼女が、書士隊のミラが言っていた。雪獅子にとって牙とは王の証であり、誇り。これを折られた雪獅子は国を持たぬ国王と同義である、と。ハザンはこの知識を念頭に置いておいた。
猛烈な速度で太刀が閃いた。腕が酷く痺れる感触。剣は折れず、牙は折れた。
牙が宙を舞い、雪に刺さる。折れた時の痛覚とその現実が体の奥底からせり上がってきて、ドドブランゴは絶叫した。
周囲の雪を薙ぎ払い、吹き飛ばし、冷気を振り払って喚き立てる。
既に距離を取ったハザンは腕の痺れと格闘しながら暴れ回るドドブランゴを暫しの間、見続けた。
喧しい獣の声が止んだ。何かを悟ったかのようにぴたり、とその動きは止み、暗く沈んだように顔を俯けた。
その異様な空気に何事か、と二人の気が緩みかけたその時――
――怪物の左眼が覗いた。
雪獅子――この生物に宿るのは生きるが為の狂暴性。
「っ!?」
「……!」
背筋が凍り付くのも束の間、脳が命の危険を察知して逃げろ、と警告する。
刹那、雪山を震い上げる咆哮が二人を襲った。
雪のように白い剛毛に包まれた満身には無数の切創や刺傷、銃傷が刻まれている。真っ白だった体も血で赤く染まっていた。右眼を失くし、牙を失くし、王の立場を失くした雪獅子は唯一、残された生ける資格を握り込む。
決して離さぬと、生へ執着すると誓った左眼は生存を欲求する。
「来るよッ」
直後、巨体が跳躍する。エリックが左にハザンが右に分かれて、回避する。
ドドブランゴはまだ視力のある左、つまりはエリックへの攻撃を優先し、一寸の暇も与えんとばかりに高速で腕を振るった。エリックは反射的に伏せて躱し、走り逃れた。
踵を返したハザンがドドブランゴの背後から肉薄する。が、横目で視た腕に背中が冷たくなるのを感じて、すぐに伏せた。先程までハザンがいた空間を剛腕が恐ろしい勢いで通過する。
脳がここにいてはいけないと叫び、ハザンは即刻に離脱する。次の瞬間には目の前に腕が落ちてきた。
「ッ、コイツ」
まだ体勢が整っていないハザンに向けてドドブランゴが大量に吸い込んだ空気を一気に放出する。
大量の風と雪が吹き出され、ハザンを軽々と吹っ飛ばした。数メートルも雪を転がりながら、悲鳴も上げずに倒れ込む。
その姿を見たエリックが慌てて駆け寄ろうとするが、ドドブランゴはすぐにこちらを向く。雪の中に手を突っ込み、大きな雪の塊を放り投げた。
エリックは身を投げ出すようにして回避。右眼を失っても尚、この正確性。エリックは驚きを隠せず、化け物染みたドドブランゴの様子を窺う。
大量の血を垂れ流し、荒い息を零し、しかし、その左眼にはまだ恐るべき生気が宿っている。その光景にエリックは無尽蔵の生命力を疑わざるを得なかった。
長期戦は厄介だ。敵の残っている力は僅かなはずなのだが、生への執着心は恐ろしい。限界はとうに越えているだろうに雪獅子が放つ威圧感は初見と変わらないどころか、倍以上になっている。
短期戦で止めにかかるには一人では無謀。ハザンの協力が不可欠で、視線を送ると。
「よかったっ……!」
ハザンは二本の足でしっかりと雪を踏み、太刀を型通りに構えていた。
「エリックさん。次で決めます!」
「何か考えがあるのかい?」
「はい。いつでも行けるように備えてください」
エリックの考え通り、ハザンも短期戦を望んでいた。
殺したと思われた憎き敵の声を聞き、ドドブランゴが怒号をあげる。
ハザンは回復薬が入っていた瓶を投げつけた。小賢しいといわんばかりに腕を振るって瓶を粉砕する。粉々になったガラスが宙を舞って、その奥からハザンが駆け出した。
獰猛な雪獅子を挑発し、あろうことか真っ直ぐに突貫する。
しかし、その奇妙な動きにエリックはすぐにハザンの意図を察した。
ハザンは秒ごとに緩急をつけて、片目のドドブランゴのタイミングを狂わせ、第一撃目を容易に避けた。振るわれた腕を斬り付け、もう一方の腕を瀬戸際で躱す。そのまま身を翻して腕を掻い潜り、斬り付けながら離脱した。
「うまい……!」
同じ太刀を握る者としてエリックは思わず感心の声をあげた。
再びハザンが疾駆する。今度はしっかりとタイミングを見計らい、ドドブランゴがハザンを喰らおうと折れた牙を晒した。
ハザンは急停止をかけ、太刀を雪へと突き刺した。角度をつけ、柄を両手で握って全身で支える。
次の瞬間、ミシリと音がしてハザンの足が雪に沈む。目の前で大きな口を開けたドドブランゴの顔貌が血反吐を散らしながらまるで、銃の反動を受けた腕のように跳ね上がった。
ハザンは剣を雪に突き刺したまま放棄。腰のホルダーから球形の道具を掴み取って歯でピンを抜き投擲。それがドドブランゴの憤激の顔貌辺りで一瞬制止。
眼球に映る球。その背景で憎たらしい若僧が口の端を引き上げたようで――
「目をつぶってッ!」
エリックへの警告。無論、ドドブランゴはこれを理解できない。
――これは? ――しまった。
球が電光を爆裂させ、闇を瞬く間に蹴散らした。
突き刺さった剣を引き抜き、眩暈の最中のドドブランゴを切り裂いた。それから先をハザンは覚えていない。腕が引き千切れるような痛みと骨が軋む痛みとに耐えながら、忘我の最中を彷徨った。
一体、幾度目になるのだろうか。暴虐の腕を掻い潜り、太刀を急所へ数々と閃かせ、時折に猛撃を顔に掠め血を滴らせながら。血と、雪と、刀の軌跡が目まぐるしく交差する中で不意に終止符が打たれ、速すぎる二人の剣閃が止んだ。
雪獅子の動きが、生への執着心が、鼓動が、止まった。
「……た、のか。終わ……った?」
「まだ……まだ終わりじゃないよ」
「そうでした、ね」
疲弊し切った二人は血だらけの雪原で言葉を落とした。
まだ狩りは終わっていない。むしろ、ここからが本番だと言っていい。長旅の本来の目的はフルフルを狩猟することなのだ。
ハザンは死んだドドブランゴを一瞥して、アル達の向かった方を見やる。剥ぎ取りせずに行く訳にはいかない。かと言って、救援を急がねば。
すると洞窟の向こうから人影が二つ、こちらに向かって走って来ているのが見えた。片手剣使いの少年と弓使いの少女だ。
ハザンとエリックは視線を合わして頷き、雪獅子の剥ぎ取りを少年と少女に任せることにして、アル達のいる洞窟へと急いだ。
まるまるです。
今回はエレナの名前についてお話を。
エレナ・ヴァーミリオン。
ヴァーミリオンはVermillionという英単語でして朱色という意味があります。朱色にした理由は単純に明るい色なので明るい性格と合わせました。エレナは特に意味はなかった、と思います。