「兵器まで? こんなオプツィオンがあるとは聞いていないわ。説明不足よ」
急に勢いよく喋りだしたフォルシュトリヒの声が近くに聞こえ、ラヴゾンはそちらに顔を向けようとした。
地に這いつくばって聞いていた女の声は、さっきまでとは逆に足のほうから聞こえる。
ひしゃげたカマーツの幌、夜空、バラライカが前方に見えた。
大気汚染で星は見えない空に、狂気をもよおす玉虫色の紅炎を放つ月が輝いている。
カマーツの電球に照らされ、バラライカの外板が煙るように夜の闇へにじむ。肩に描かれた三文字のエムブレムが虹色に揺らめく。魂までをも変色させる地獄の熱が、陽炎をまとう機械仕掛けの怪物から噴き出していた。
あの世へ亡者を下水道のごとく流しこむという神話の河に落ち、罪過で汚れた水面のむこうへ遠ざかってしまった生者の世界を見ているかのような光景だった。
バラライカが夜空に動き、その手にからまっていた幌布を破った。
カマーツを揺らされ、ラヴゾンは濡れた荷台の床に、あおむけに転がっている自身を認識した。
融け崩れながらも生きている臓器塊が入っていた水槽から、バシャバシャと生臭い水がこぼれている。
ラヴゾンは周囲を見まわそうとしたが、回復しつつある視覚に反して、体に力を入れることはまったくできない。心臓だけが狂った速さで脈打っていた。
「ほぉーら、この音! 改善機! いい音じゃないか、余裕の音だ! 馬力が違いますよ!」
拷問台から革命的に救出された囚人のような狂喜ぶりでまだ喋るフォルシュトリヒの声は、水槽より近い。導管や添木でつながれていた籠が水槽から外れ、荷台の床に落ちたのだろう。
おそらくバラライカが着陸噴射で自分を吹き飛ばし、ヴァーゲンの幌に腕でも接触させて、繋留具の限度を超えた力をかけたのだ。
一キロメートル離れていても鳴りわたるTSFの飛行音が聞こえなかったような気がするが、はっきりと思いだせない。異様に鮮明な過去の記憶がわきあがり、つい今しがたの出来事を意識の遠くへ押しやってしまっていた。
楽しげにわめくフォルシュトリヒが「プギェーッ」と悲鳴をあげ、ラヴゾンの眼前を、女に投げつけたクリンゲが腐汁を散らしてクルクルと飛んだ。
「バラライカ、応答されたし。こちらは非常事態全権指導部、特務一三」
拡声器がカマーツのダハから、ひずんだ低品質な音を発した。
短い沈黙を挟んでバラライカが、より高性能なドイツ製の機械を用いて「フッハア、フッハア」と、けだものじみた嘲笑を返した。
「非常事態全権指導部、特務一三よりバラライカ。所属をあきらかにせよ」
「はああ……? 所属? 非常事態、全権指導部の、特務一三?」
けだものの笑いが女の声に変わった。嘲りのひびきを残す声は、憤怒が押しこめられてうなるようだった。
「おまい、なに言ってるうう?」
バラライカが腕とリュックヴァッフェンベヘルターを動かして、前腕砲架に携帯突撃砲を接続させた。TSF兵装部を何年も担当していたラヴゾンには、音だけで挙動がわかる。
最大装填時で八トンになる突撃砲を支えての肩下方回旋まで五秒。
バラライカでこれをやってのける操縦者は、かなりの凄腕だ。六六六中隊の戦闘要員として長生きしていた連中でも、できるかどうかの早業だった。
「とりあえず説明してね。シュタージの犬チクショーメ(註 ドイツ語)が、どうしてこんなところを無用心にうろついてる? 武装警察軍はどうしたの?」
「武装警察軍は解体された」
至近距離で突撃砲を向けられたであろう黒衣の女が、平然と答えた。
「解体? カカシみたいな役立たずどもが死にすぎて、改編されちゃった?」
「違う。国家保安省そのものが解体されたからよ。反乱軍が勝利した」
「勝った? バカな――シュタージが解体?」
「内戦は、反乱軍が勝利した。西側諸国は彼らを支持した……知らなかった? 今は彼らが、新しい政府を独裁している。非常事態全権指導部としてね」
「アメリカが、反乱軍を」
バラライカの操縦者が驚きをあらわにして、言葉を切った。
旧政権が崩壊したことは、八ヶ月前に世界中へ発信されている。無線機があればどこでも聞ける情報をいまだに知らないとは奇妙だった。
まるでTSFではなくツァイトマシーネに乗って、八ヶ月前の世界からやってきたかのような反応だ。
「えーっと、わりに大事なことだよね、それって。一言も説明されてないんですけど……その、全権指導部はアメリカの足をなめてるの?」
「ベルリン派よりは望ましいと評価されているようね。彼らはアフリカ侵攻へ、国策の舵を切った。アフリカでレコンキスタをおこなう代償として、オイローパに残るFRS(連邦準備制度。アメリカ経済を支配する金融機関)財閥を根絶やしにする約束もアメリカにしたらしい」
「ほお、反乱軍は、つくづく知恵遅ればっかりだね……まあいい、アメリカは同志みたいなもんだし六六六中隊は家族も同然だし? わたしが領導してあげるよ。全権指導部は、今どこ?」
「エアフルト」
「なるほど、居場所はあってるのか。収容所でもできてるのかと思ったお。今度はわたしが強襲しちゃうぞ♡ みたいな?」
「ここからエアフルトを攻撃するつもりだったの?」
「そうだけど、シュタージはつぶされちゃったんでしょお? あーもう、いきなり予定が狂っちゃうな~。顕現するところに事情を知ってるやつが誰かいるはずだからって、もうね。説明不足にもほどがあるだろと」
困惑した口調で、バラライカの操縦者が愚痴った。気勢を削がれた声は意外に若い。
ベーバーゼーで会ったTSF操縦士の姿と声が、ラヴゾンの脳裡に次々と再現された。
補充される戦闘要員の平均余命が驚きの短さだったことでも悪名高かった六六六中隊には、存在した数年間だけで一〇〇人以上のTSF操縦士が在籍していた。人間を使い捨てにする旧体制の打倒まで生き残れたのは、わずかに四人。
バラライカのラオトシュプレヒャーが発する声と、若い腕利きの金髪の巨乳の六六六中隊員の姿があわさった。名前は思いだせない。異教の神々に加護された六六六中隊には、若い腕利きの金髪の巨乳の操縦士が何人もいたせいだ。
ラヴゾンは彼女の「六六六中隊は家族も同然」という言葉を信じて助けを求めようとしたが、痺れた冷たい体は指一本も動かせなかった。
「新政権――エアフルトの全権指導部は攻撃対象ではないということ?」
黒衣の女が尋ねた。
「フォン・ユンツトから、なんの仕事を請け負っている。六六六の生き残りを消しにきたんじゃないの?」
「なんでそんな推定になってる」
「彼らは知りすぎた。そして〈超心理学会〉を敵にまわしている」
「超心理? ああ……、ゾビエトの。じゃあフォン・ユンツトってのは〈夢見るアンディ〉の飼い主かな?」
「ええ、そうよ。〈夢見るアンディ〉を通じて旧政権を飼育していたツォーネの牧場主が、ヴィルヘルミーネ・フォン・ユンツト。確認できた限りでは、この名でアーネンエルベ時代から活動していた痕跡がある。ベルリンに巣喰い、政府を狂気と腐敗の塊にした諸悪の根源というわけ」
「諸悪の……フッフッフ、新しい飼い主に、冷えた餌を喰わされてる負け犬だからって、責任転嫁は良くないよお~少佐~~。あんたもその狂気に、大喜びで尻尾を振ったくってた一人じゃなかった?」
「わたしはもう、やつらの支配を受けていない」
「だから心置きなく、今の飼い主に尻尾を振ってると。結構な処世術だねえ、尊敬しちゃうよ。それで、シュタージをブチのめした反乱軍は〈夢見るアンディ〉をどうしたの?」
「大部分は破壊された、と聞いている。臓器まで生体組織がゲシュタルト崩壊していた部分は焼却され、人間としての個体性を残していたわずかな部分が、切り分けられて保存されたらしい」
「保存されてる場所は?」
「それは知らない」
「はァィ? ふざくんなよ、あんた六六六の飼い犬さんでしょお」
「六六六は〈夢見るアンディ〉を手に入れてはいない。〈アンディ〉の破壊は、暫定政権との決戦と同時におこなわれた。中隊は人間との闘いに手一杯で、そちらに力を割く余裕はなかった。あとで彼らがベルリンを調べて見つけたのは、焼かれた玉座だけだった」
「じゃあ、バラして保存したのは誰? シュミット?」
「シュミットはあのとき行動不能にしてやったし、違うでしょう。内乱状態のベルリンで、あれだけのことができるとなると六六六の背後にいた〈成聖騎士団〉か、アメリカとつるんでいる〈宇宙旅行協会〉……他は、せいぜいハバロフスクの〝新人類〟か」
「インチキ聖人どもが持ち逃げ……? ベルンハルトはなんと言ってるの?」
「ベルンハルトは死んだ」
「死んだ?」
操縦士が笑った。
「今度はどんなむなしい希望を語ってるかと思えば。夢をかなえてくれる救い主が消えたツォーネなんか用済みってわけか。冷たいもんだね」
「そちらこそ〈アンディ〉に御執心みたいだけど、あれが狂気と悪意の増幅器だとわかっているの? 下手にあつかえば、制御できない怪物となって新たなツォーネを作ることになる」
「ふん、なにを今さら、善人を気どってる。その狂気と悪意に、わたしたちは真の信仰を見いだしたんでしょうが」
こみあげる憎悪によってか、操縦士の声がふたたび濁った。
「諸人こぞりて〈アンディ〉の夢に祈りを捧げるとき、脆弱な人類に進化の道が啓かれ、宇宙の深淵を流れる暗黒の力を操る技が示される。――黙示録にもそう書かれてる」
「魔女の予言は実現しない」
黒衣の女が低く陰鬱な声で、不吉な詩に応じた。
「人間は、……凡人には、人間をやめてまでBETAと戦う意志などありはしない。〈夢見るアンディ〉の中で物質的に脳を連結しても、超人的考察力は得られなかった。狂った集合知能を形成するだけだとベルリンでもハバロフスクでも確認されている。難民の学者をどれだけ〈アンディ〉に捧げようと、科学文明の救世主を生み出すことなどできない」