「過去へ、シュミットが戻る……今度は過去の自分と二人がかりで、アーネンエルベやドイチェの支配をやりなおすと?」
「いやな想像だな、見てくれ的に」
フェルンゼーアーに、古めかしい機械に乗るエーリヒが映った。なぜか高笑いしながらエーリヒが操作するそれは、一九世紀に空想されたウェルズ・マシーネのようだった。
まだ宇宙戦争が遠い月でおこなわれている物語だった学生時代、堕落したブルジョワ階級の衰退を描いた映画で、同じものを見た憶えがある。
「過去へ戻るとはそういうことじゃないの?」
「そうではない。過去へ戻るのは、シュミットの精神だ。魔術による時間遡行は、ツァイトマシーネに乗って時空を旅することとは違う」
ウェルズ・マシーネがアナロク式に一九七八年を表示すると、時間流が減速し、機外が見えた。そこには国家保安省長官になったばかりのエーリヒが立っていて、なぜか彼も高笑いをあげた。
あの巨大水槽に〈夢見るアンディ〉とは異なる、なにか名状しがたいものが踊る地下聖堂で、二人のエーリヒは笑いながら抱擁を交わし、融け崩れて一体化した。
いやな映像だった。
「シュミットの主観で述べると、時間遡行により奴は高次元的に直進できる過去の、ある時点へと戻る。その時点の客観では、あいつの輝かしい頭に未来の情報がそそぎこまれることになる。そして現在にいる我々にとっては、現実が改変される。シュミットが過去へ戻って事象を再処理する結果として、そうなるのだ」
「未来の知識を得て、過去をやりなおす。――五年前のシュミットが?」
「戻るならばそのあたりだろうか。あいつの直進範囲はもう少し広いと思うが、時間遡行は術者に多大な負荷をかける大魔術だ。不必要に遠くまでは遡るまい。現実改変には……つまり現在へ術者がふたたびいたるには、主観的な手間もかかる」
一九七八年にソビエトがミンスクから敗退すると、武装警察軍は、さらに悪化するであろう難民問題に対処するべくポーランドとチェコスロバキアの国境地帯を占領した。
武装警察軍を創設し占領作戦を実行したエーリヒの功績を、政府は勲章で讃えた。難民を西側へ通過させるなと要求していたEUも、遠まわしにではあるが彼を高く評価した。
パレオロゴス作戦は失敗すると決めてかかるエーリヒの独断専行を強く批判していた統一党の親ソビエト派さえ、蛮族の大軍がシベリアへ逃げ去ると、浅ましく態度を変え武装警察軍指導部を競って出世させた。
エーリヒを危険人物視する人々は、この時期に粛清されたのだ。
「今を防御する方法は?」
「現実改変そのものは現在において瞬間的に作用するため、阻止はできない」
「阻止できない?」
「常人どもには現実の変化を認識することすらできない。古い現実は、夢となる」
「シュミットの機先を制することはできるでしょう。あなたが、あるいはわたしたちが先に過去へ戻ればいい」
正気の人間には受け入れがたいであろう魔術論を、疑う余地なき宇宙の隠された真実と確信してベアトリクスは提案した。
愚かにも正気の人間が正常な現実と信じたがるものには、価値がなかった。
「我々が時間遡行か。実行は難しい」
「〈アンディ〉の力を必要とするから?」
「それもあるが、困難は遡行する者のほうにあるのだ。時を遡る旅は、相応の負荷が精神にかかる。なんの修業も積んでいない素人がおこなえば、過去の自分に混濁した記憶をそそぎこみ人格を損傷させる危険性が高い。狂気に陥る、ともいえる」
アイリスディーナは窓から空を眺め、フェルンゼーアーに目を戻した。
映像が見慣れぬTSFに変わった。
「あれが〈協会〉のTAS搭載機だ。今、テーゲル基地を発進した」
「〈協会〉の全能機械、――TSFに」
「手足がついていると便利だろう? わたしたちを苦しめてきたツォーネの屑どもは、あれが始末してくれる。おまえが何事かをする必要はない」
「……」
反乱軍は一〇時間以内に、まだ可能ならば再攻撃をしかけてくる。
オーデル戦線を破ったBETAは半日後にはベルリンへ到達する。
反乱軍には勝てるかもしれないし、BETAはNATO軍がなんとかしてくれる。
しかし自分には、もうなにをする時間も残されていないし、命をかけて守るべきなにかも残されてはいなかった。……この現実には。
五年前ならば東西ドイツ国境を越えることは容易にできる。
麻薬と放射性粉塵にやられた帰還兵が西方総軍として再配置され、共和国内は騒然としていた。
あらゆる紙幣の価値がヨーロッパで暴落し、枯渇が進む酒・タバコに加えて、日本産の麻薬が通貨になりつつある頃だった。
五年前の自分が家族とベルンハルト家を説得し国境を越えることは、未来知識を用いれば可能だ。
そして、まったくの徒労に終わると証明されつつある努力を共和国でするよりましなことを、連邦やEUでなせるに違いない。
「〈協会〉が総てを解決できるとは限らない。〈アンディ〉はブンカーの奥にいる。シュミットにも過去へ逃げられるかもしれない」
「TASは物質的障害物を無視して〈最高指令室〉を消滅させられるし、ツァイトマシーネにもなる。機動兵器に組みこめば、科学と魔術が両方そなわり最強無敵となる。阻止も迎撃もシュミットには、不可能だ。貧弱一般軍のつまらぬ科学兵器にも。あれは、〈協会〉の超兵器なのだよ」
「……ズーパーマギクス・ズュステムは本当に全能なの?」
「乗り手しだいの要素はあるが、全能である」
「操縦はヴァルトハイムが?」
「いや、彼女はまだ未熟だ。当初の計画では同志ヴァルトハイムがベーバーゼーに運び、わたしが乗って大活躍する予定だった」
エーリヒが強引にアイリスディーナを捕らえさせた理由を、ベアトリクスは理解した。
エーリヒにとっての〈宇宙旅行協会〉は、統一党にとってのアメリカのようなものであり、アイリスディーナはベルリン派のようなものだったのだ。
「ツァイトマシーネにもなる全能機械に乗って、大活躍を」
「そうだ。シュミットが苦心惨憺してやっているより、ずっとましな制御ができる」
「全能の共和国総帥が、シュミットも〈アンディ〉も軍も従えて、挙国一致の体制を実現できたと」
「そうだよ、ベアト。あれを我が手にすることが〈協会〉に仕える最大の報酬だったのだが、今となっては無駄な努力であった……考えてみると、ツォーネから諸悪を一掃せんとしたわたしの正義なる怒りを感じて、シュミットは反逆を決意したのかもな」
不実な言葉を吐くアイリスディーナへの苛立ちをこらえて、ベアトリクスは尋ねた。
「今は、誰が?」
「インナードメインから来たトラブルシューターが動かしている」
「〈協会〉の本部から。名前は?」
「そこまでは知らない。わたしは捕らわれの身だ」
アイリスディーナは、このまま収容所でツォーネの崩壊を見物するつもりなのだろうか。ベアトリクスは訝しんだ。
ハインツ・アクスマンに復讐もせず?
五年前のことなど、どうでもよくなっているのだろうか。あるいは最初からどうでもよかったのか。
なにか行動をおこすつもりならば、このESP能力を用いてもっと状況を調べるはずだった。
なにも知らなかった五年前の自分が考えていたことを、もうベアトリクスは思い出せない。ソビエトの手先だった冷戦期の無能どもを屈服させたエーリヒに希望を感じて、自分も武装警察軍で権力を得たい、といったようなことが頭にあった気はする。祖国を正し、秘密警察の下劣な屑どもに復讐するためだ。
世界の真実を知ってから思えば、あまりにも愚かな考えだった。
愚かすぎて、自分で考えついたことだとは感じられないほどだった。
「わたしたちがシュミットを殺す」
「ほう?」
ベアトリクスはアイリスディーナに跨り、その冷たい目を覗きこんだ。
「それからブンカーを制圧し、現実を改変する。あなたも〈アンディ〉と話せるでしょう? アイリスディーナ」
「意思疎通は〈最高指令室〉が荒らされなければできると思うが……」
「〈アンディ〉を過去から消し去る」
共産主義の理想である自由と平等と友愛をベアトリクスに否定させ、それを武装警察軍の愚者どもに拍手喝采させた〈ドイツ民族の真なる指導者〉こそは、材料にされた人々が望んでそうなったのではないにせよ、真に邪悪な存在だった。
脳の連結体に変えられた改造人間たちに、どのような感情があるのかはわからない。人間的な悲憤や怨念など残っていないのかもしれない。
しかし疑いもなく、精神をも監視する悪魔のごとき万全さで、彼らは武装警察軍に生贄を求め、人間性の滅却を求めている。
「ベアト、より重大な前提として〈宇宙旅行協会〉は、時間遡行による現実改変を禁じている。逆らう者は粛清してきた。四〇年前のアーネンエルベと同じように、シュミットも、このまま好きにさせておきはしない」
「あなたは〈協会〉に忠実というわけ」
「むろんだ」
「彼らとシュミットには、力量の差しかない」
「忌々しいことながら、それは違う。〈協会〉は世界の救済を目的とする、善と正義の結社だ……。これも言っておくべきであろうが、現在のこの現実を、わたしは受け入れることにした。〈アンディ〉の狂気に触れてまで時間遡行を試みるつもりはない」
銃弾に頭を割られて脳をこぼし、血溜まりに伏せる男が映った。
それはベアトリクスも多く作ってきた生贄だった。
「正気や現実が大事なら、なぜ、あのとき、なにもしなかったの?」
「あのとき?」
アイリスディーナは物憂く唇を歪め、微笑を深めた。
「我が兄のことを言っているのか」
「なぜ?」
「わたしもあのときは無知で無力な小娘にすぎなかったからだ」
「自分はアーネンエルベのユーバーメンシュであると、あなたは言った」
「ああ、第二世代のな。第二次大戦後に生まれた我々の大半は、一般人として育てられた。わたしが世界の真実を知ったのは、五年前だ」
公的に、私的に、男も女も、ドイツ人もウンターメンシュも、この五年のあいだベアトリクスは多くを生贄に捧げてきた。〈ドイツ民族の真なる指導者〉は贖罪の生贄を求めているがゆえに。
「兄を撃った夜、わたしは人間性の殻を破りユーバーメンシュとなった。フォン・ユンツトとの契約を、愚かしく泣きながら受け入れてな。おまえが〈グローサー・ブルーダー〉を受け入れ〈アンディ〉の触手を孕んだあの夜、わたしもそうしたのだ」
おぞましい空虚を感じて、ベアトリクスはユルゲンの虚ろになった頭から目を背けた。自分の心が虫喰い穴だらけの、腐爛した肉片にすぎなくなっていたと気づくことは、恐怖だった。
脳裡に映された殉教者は目を背けても消すことはできず、死の崇拝を命じている。
なぜならば、それは虫喰い穴にうごめく〈ドイツ民族の真なる指導者〉の一部であり、同時にベアトリクスの一部でもあるからだ。
「ここから逃げるべきだと、わかってくれたか?」
フェルンゼーアーが白く光り、マグヌス・ルクスの可視光レーザーが飛行するTSFを照らした。
BETAの『白い可視光レーザー』は単色ではなく、多色の複合レーザーだ。研究者の説明によると、色すなわち波長が異なるレーザーの位相を一〇億分の数秒とされる精度で合わせ、強力なエネルギー攻撃となしている。
高密度の物体に当たった可視光レーザーは通常、目をくらます強烈な散乱光と、熱に変わる。人類の科学技術では、兵器の表面などに塗った媒質が蒸発するまでのわずかな時間しか、これを受け流せない。
しかしフェルンゼーアーに映るTSFは、非物質なプリスマの盾に守られているかのごとくレーザーをよじれた虹に変え、媒質蒸気による飛行推進器の不調もおこさず飛びつづけた。
「やはりオーデルを優先するのか」
なめるようにマグヌス・ルクスがレーザーの角度を変えても、二本目のレーザーが別の側面を撃っても、TAS搭載機の力場的防御を貫くことはまったくできなかった。
さらに増えるレーザーに集中照射されながら、TAS搭載機は虹色に輝く光芒となってアイリスディーナの知覚圏を離脱した。
「遊びの時間は終わりだ、シュトライバー。かたづけてやろうぜ、きれいにな」
「シュ……ス、ストライカーズ?」
「誰だ、いきなり」
「シュトライバー オブ ザ ダークネス! 見参!」
「また、ふしだらな穴兄弟か」
「レオンはアメリカ人だからストライバーって言うんじゃないの?」
「おれはレオンでもアメリカ人でもない!」
「這いより隊めいた」
「行くぜ!! シュトライバァァァァ!!」