「この状況におよんで、おまえに選択可能な最も容易かつ賢明な行動は」ベアトリクスを抱いて隣に坐ったアイリスディーナは、誘惑する声でささやいた。「チェックポイントチャーリーへ逃げることだ」
何年も前から心の奥にひそんでいる考えを、ぼんやりとベアトリクスは聞いた。
「ヴェストベルリンへ亡命しろと? なにを……今さら」
「今だからこそだ」
「どうやって? 市内は戦闘状態になっている」
「広場の装甲車に乗っていけばよい。壁の警備は機能していないも同然だ。西側まで押し通れ。そこでグローサーベアの仲間だと言えば、確実に保護される」
グローサーベア。聞き憶えのある語だった。
西ベルリンを囲う壁の近くで、ドイツ連邦軍の特使を拉致したとかいうヴィダーシュタントだ。
「亡命は、賢明な選択とは思えない。EUは難民処理を武装警察軍に押しつけてきた。反乱軍がシュヴェリーンあたりに政権を成立させれば、わたしたちがヴェストで拘束される立場になる」
「その場合は確かに、武装警察軍は国際指名手配されるだろう」
「それなら、ここで……」
アイリスディーナの胸にもたれて見るフェルンゼーアーには、業火に呑まれるシュテティーンらしき街並みが映っていた。
あの廃都でも軍需物資が作られ、死体が作られていたのだろう。死体を焼くか腐らせるかしていた
一ヵ月あたり四〇〇時間の労働をこなし人類の勝利に貢献するには、できるだけ多くの食料が必要だったのだ。
難民統制居留区の目的はドイツ人のためにウンターメンシュを駆除することではない。人類のために、無力化された難民を更生することを罪深くも崇高な目的としていたのだ。
「それならここで、EUで待っているのが強制収容所か傭兵部隊なら、祖国で戦うほうがましでしょう」
「フハハ……ポーレンを地獄の収容所に変えたおまえたちが、強制収容とはおもしろい。我が戦友、同志クシャシンスカも泣いて喜ぶ」
狂的な怒りがこみあげ、ベアトリクスは身を起そうともがいた。
愚かな愛玩動物をあやすように、アイリスディーナの両腕がベアトリクスに絡みついた。
「そう怒るな、冗談だよ……。ならば、わたしを連れて行け。レーザーヤークトの女神たる、このアイリスディーナを。アメリカは高く買うぞ。六六六中隊を、家族親戚ごと亡命させてやると言ってくるのだからな」
「そんな話は聞いていない」
「そうだったか? ――ホーエンシュタインが言ったのだ。あの娘は西側へ逃げたがっていた。おまえの気を引ける情報は、なんでも喜んで報告する」
「アメリカまで逃げるなど。裏切りだわ」
「なぜかな?」
「BETAとの戦いから逃げ、ドイチュラントを捨てることは、堕弱な敗北主義に他ならない」
「敗北が現実である。間もなく、このツォーネは滅びるのだ」
「ドイチュラント全域に侵攻されているわけではない。祖国は滅びない」
「この国が滅ぶのは確定的に明らか……前にも、そう言ったではないか」
「違う」
「統一党が覆圧され、ベルリン派が粛清され、次はおまえたちが撃滅される。これらは、つまるところ資本主義陣営の手先となるための、ブルジョワの奴隷としていくらかなりともましな立場を占めるための、自滅的な戦いにすぎない。勝ち残った反乱軍に、なにほどのことができると思うのか?」
アイリスディーナは呪詛めいてくりかえした。
「おまえが愛し、憎み、みじめなイヌのごとく呪縛されてきたこのツォーネは、間もなく滅びるのだ。すなわち今ならば、おまえは獄鎖を脱し自由を得られるということだ」
「アイリスディーナ。あなたは祖国の滅亡を望んでいるの?」
「そうだよ。今はな」
「祖国と人類への愛で心を満たし、個我の限界性から脱却した、聖人たるあなたが?」
「そんなものは空虚な英雄の仮面に決まっているだろう、同志オーグルヴィー。この汚らわしい下劣なクソ溜めに愛を感じる、いかなる理由がわたしにあるというのだ」
「本当のアイリスディーナと、わたしの弱い心が見せている幻とは違う」
「夢で会っているこのわたしが、本当のわたしだ。欺瞞で満たされたおまえの心が本当に望んでいるアイリスディーナだ」
「……本当に望んだ……」
「そうではないか?」
そうかもしれない。
「わたしの、夢……」
もはや、未来は夢と同じだ。
今から死ぬ者にとって、未来は夢と同じなのだ。
「ツォーネを支配する現実を蝕む力より」
そうベアトリクスは思い、自らもアイリスディーナの体に腕をまわした。
「貧弱一般人どもを殺戮に駆り立ててきた、覚めることなき悪夢より逃れる、これが最後の機会だ」
過去という悪夢をベアトリクスに見せつづけている死者の怨念は、アイリスディーナの守護を受け入れると暗黒へ、フェルンゼーアーの灯し火の外へ退いたように感じられた。
「わたしも任務に失敗しつつある。二人でアメリカへ逃げて、つましく暮らそう」
「任務? 誰から……、どんな指令を」
「資本主義陣営の支配者から、白いのを監視するという仕事を請け負っていた」
「ペンタゴン――六六六もハイムも、やはり、つながっていたのね? 西側と」
「ペンタゴンか。まあ、そうだな。わかりやすく言えばそいつらだ」
「……アメリカで、山奥にでも隠れて住めと?」
「今となっては、それもよかろう。すばらしい新世界の夢を、白いのは台無しにしてくれた。我々も敗北したのだ」
「どうして? あなたの勝ちでしょう。シュミットの政権が打倒されて、反乱軍が新しい奴隷監督になれるのなら」
「ふむ……、また忘れてしまったのか?」
アイリスディーナは苦笑が混ざる息を漏らした。
「ああ、ちゃんと憶えておけと言いたいわけではない。ベルリンに暮らす者は、意識や記憶を〈ドイチュ民族の真なる指導者〉に侵蝕される。ESPに対する防御なくして、ここで貧弱一般人が正常な自我と信じたがるものは保てないのだ」
「なにを言って」
冷たい手が左右からベアトリクスの頭を押さえた。
「もう一度、説明しよう。一〇年前、アーネンエルベは最後の計画を実行するため、資本主義陣営の支配者に与することにした。計画の主任者はエーリヒ・シュミット。〈ドイチュ民族の真なる指導者〉の飼い主だ。アクスマンの良き同志たる今日のおまえには、〈夢見るアンディ〉と言ったほうが通じるかな? BNDはそう呼んでいる。つまり、わたしもシュミットもヴァルトハイムも、アーネンエルベの一員だということだ」
アイリスディーナの手に幻覚とは思えない力がこもった。その爪は、操縦士用の皮膜手袋をつける妨げとなる長さと鋭さに伸びていた。
「さまざまの実験は順調だった。難民統制居留区から良質の材料を得て〈夢見るアンディ〉は、良好に成長していた。ゾビエトの〝新人類〟など足元にも及ばない、それはまさに一級廃人。圧倒的ESPすら副次能力の一つにすぎぬ! 我々が夢見た次なるユーバーメンシュへの道を、〈アンディ〉は開くはずだった! ……半年前まではな」
幼い姿のアイリスディーナが喋っていたことを、画然とベアトリクスは思い出していた。
幼女に戻ったアイリスディーナに手を引かれ、ベルリンの秘密基地を探検したときに、ベアトリクスは夢で見た。
「あれが〈ドイチュ民族の真なる指導者〉だよ」
そこは暗く広い、大聖堂めいた場所だった。
苦悶する恐ろしい標本が並ぶ通路の先に、あれはいた。
「統制居留区のウンターメンシュを材料にした、シュミットの楽しい前衛作品だ」
融けた何千もの人体と、それらを一塊りにしている玉虫色に輝く粘体。
病的に膨らんだ半透明の表層、色褪せて崩れた老廃組織、うねり脈打つ臓器、虚ろな顔の群は、悪夢そのものだった。
「テーゼは『人類の団結と進化』。おまえも大好きだろう」
「ブンカーの下……基地の、もっと奥に」
「BETAが築いた宇宙への門を覗くことに成功した〈アンディ〉は、しかし残念なことに、発狂してしまった」
現実のアイリスディーナが耳元でつづけた。
「あるいは、覚醒したというべきか」
ベアトリクスは、本当の現実であるはずのアイリスディーナが語っていることを、これまでに何度も聞いていた。
エーリヒ・シュミットは
二つに分断されたドイツを真に支配してきた存在は、アメリカでもソビエトでもない。第三帝国の残党アーネンエルベである。
そしてBETAとの戦争に一世紀前からそなえてきた、今やドイツのみならず全人類社会を支配している魔術師と超能力者の集団が、人々を冒涜的な生贄として、冥界より救世主を生み出そうとしているのである。
「ベルリンのアーネンエルベは壊滅し、〈アンディ〉は制御を受けつけない暴走状態のままだ。多次元宇宙の淵へいたらんとした我々は、かくして危機に陥っているわけだが、ヴァルトハイムがヴェストベルリンへ運び入れた制御ズュステムの使用を、傲慢にもシュミットは拒んだ」
「あの怪物が、発狂して暴走している? ……制御ズュステムとは?」
「TAS――〈宇宙旅行協会〉の、全能機械とでも言おうか。ツールアシステッドスーパーマギクス・システムと称している」
「シュミットは、そのマギクス・ズュステムを使った〈協会〉による〈アンディ〉の支配を拒否したということ? なぜ破壊して逃げない」
「まだ意思の疎通はできるからだ。それに、三次元世界を逃げまわる必要もない。シュミットは解決策として、〈アンディ〉とのなんらかの合意に基づき、現実改変を試みるつもりだと思われる。過去へ戻って、無知な愚民どもを支配しなおそうというのだ。自分以外の誰も信用しない、奴らしい対処ではないか?」