「ああああああああっ!! 誰か助けてぇぇぇぇぇっ!!」
朝の訓練のついでに、家族で食べる獲物を狩りに森に入っていた俺は、昨日と同じく黒い毛皮の巨大な熊、通称一撃熊に追われて走っていた。
昨日と違うのは、まだこいつらが生息している様な深い場所まで入っていないという事か。
獲物を追いかけ森の奥まで出向いた訳でも無いのに、どうしてこんな目に遭っているのだろうか。昨日、猫を食べようとした罰なのだろうか。なら何故俺は虎やライオンでは無く熊に襲われているのだろうか。疑問は尽きない。
「ひっ、やっ、危なっ!?」
熊の太い腕が俺の顔面目掛け、横薙ぎに振るわれた。
すんでのところでそれを回避。物凄い勢いで空気が揺れて、つられて髪が激しく動く。
今のはガチで危なかった。当たってたら言うまでも無く首がへし折れていた。一撃熊の名前は伊達じゃ無い。
「あ、やめっ、ごめんてっ! 俺が悪かった謝るから許して!!」
次々に振るわれる熊の腕をかわす。
魔力で身体能力を強化しているから、動きにはついていけるのだが、なにぶん攻撃手段が無いので反撃には出られない。
人間の俺にしてみればかなり重いはずの『ダーク・ソウルブレイド』の一撃も、熊の頑丈な身体には効果が無い。
……くそっ、この身体があの時と同じ様に鍛え抜かれていれば。こんな熊なぞ素手でも倒せるのに。悔しさに思わず歯噛みする。
「がっ……!? ……やっべっ!?」
熊から逃走を続けている最中、遂に俺は木の根に足を引っ掛けて盛大に転んだ。
ヤバい。これはかなりマズイ。
打ち付け痛む鼻頭を押さえながら振り返る。
俺の目に映ったのは、熊が獲物を押し潰そうと前足を振り上げている姿だった。
「だああああああああっ!?」
今度は本当にギリギリだった。
身体の横を掠めた熊の前足は、羽織っていたローブを無残に引き千切る。
安物なので元よりあまり頑丈では無く、綺麗に破けたのは幸いだった。その場に縫い付けられていたら、間違い無く追撃を食らっていただろう。
回避した勢いで地面をゴロゴロ転がった俺は、近くに立っていた木の幹にぶつかって静止した。
「『カースド・ライトニング』ッッッ!!」
次に俺の耳に聞こえてきたのは、空気を裂く雷の走る音だった。
視界を一瞬横切った黒い雷は、熊の身体を正確に捉え、その身を焼き切る。
肉が焦げる独特の匂いに顔をしかめていると、今度は草を分けて進む足音が聞こえてきた。
「ーー間一髪だったわね。怪我はない?」
未だ地面に座る俺を、覗き込む様に見てきたのは長い黒髪の女だった。
その瞳は紅い。俺と同じく紅魔族だろう。一撃熊を一撃で倒すとは、かなりの腕前らしい。
助けてくれたのは彼女の様だ。俺は身を起こして礼を言う。
「ありがとうございます。お陰で助かりました」
「お礼なんていらないわ。まあ、でもどうしても、というのなら受け取ってあげない事もないけど」
いらない。と言いながらお礼をせしめる気らしい。
助かったのは良いものの、妙なやつに助けられてしまった。新たな危機に遭遇した俺の額に汗が滲む。
「……あの、すいません。金銭的な要求はちょっと……。自分、ひょいざぶろーの所のせがれでして。お金は持ち合わせてないんです」
「あ、あら、そうなの? ……それはお気の毒に。じゃあ、お金はいらないわ。……そうね。なら君、私の弟子になってみない?」
「……はい?」
彼女の言葉に首を傾げる。
お礼に弟子になる? なんだそりゃ。
というか助けられて弟子になるとしても、これって俺から言い出すもんだよな。貴方の強さに惚れました、みたいな感じで。
いまいち彼女の提案の意味が理解できなかったので、今度は俺から彼女に聞く。
「あの、なんで俺が貴方の弟子に? 普通こういうのって逆ですよね? 俺から言い出すもんですよね?」
「私憧れてたのよねー、師匠って響きに。こんな時間に一人で森に入ってるって事は、君も修行に来てたんでしょう? 毎朝一人で修行するのも飽きてきたし、特別に私が色々教えてしんぜよう」
ダメだこの人、話を聞く気がない。
まあ、確かに。紅魔族的に師弟関係に憧れる気持ちはわからなくもないが……。
俺は紅魔族に弟子入りする気はない。俺が目指しているのは最強の剣士だ。魔法使いに弟子入りしても意味は無い。だから断ろう。
「あの、すいません。俺まだ誰かに弟子入りするとか、そういうのはちょっと考えてなくて……」
「まあまあ、そんなこと言わずに。あ、そうだ。おにぎり食べる? 私の弟子になってくれるなら修行の合間に食べようと思ってた朝ごはんを分けてあげるわよ?」
なるほど。説得は不可能と判断して、俺を食べ物で釣る作戦に出た訳か。
随分と甘くみられたもんだ。確かにウチは貧乏で万年食いぶちには困っているが、だからといって見ず知らずの大人から食べ物を貰って首を縦に振る程軽い男では無い。
はっきり言ってやらねば。俺は女に向かって声を出した。
「ご馳走になります。これからよろしくお願いします、師匠」
「はい、よろしくね」
俺に師匠が出来ました。
♦︎
今日もまた、昨日と同じ様に姉さんに弁当を届ける為、隣の女子の教室を目指す。
昼休みの教室は、楽しげな女子達の声で溢れていた。
その輪の中に、姉さんの居場所はあるだろうか? ゆんゆんの事をぼっちぼっち言う癖に、自分も友達がいないからなぁ。
そこら辺の人間関係に関しては、こめっこよりも姉の方が不安である。
「あ、ちょっと! ダメよめぐみん! トイレはそこじゃないわ! ちゃんとこっちでシーしなさい!」
不安は的中した。
目の前の教室からはそんな慌てた声が聞こえてくる。
どうやら姉さんは教室で排泄して、クラスメイトに怒られているらしい。
なんだろう。やっぱりいじめられているのだろうか。にしたって教室で、そんな……。
あまりに酷すぎる。女の子同士のいじめとはこうも陰惨なものなのか。
「そうそう。そこでならシーしても良いからね。よしよし、ちゃんと覚えて偉いわねめぐみんは」
完全にペット扱いされている姉さんに、俺は涙を流しそうになる。
なんだよ、あの優しい声色は。本気で姉さんのトイレを褒めている様子じゃないか。
姉さんはトイレで排泄出来ないと思われるほど、出来ない子に扱いされてたのか。というかうちの学校、教室にトイレは備え付けてないのだが。
まさか俺の知らない間に姉さん専用の教室トイレが……? やっぱりペット(扱い)じゃないか!
魔法の才能に溢れ、同年代ではトップの成績を持つ姉を、陰ながら誇っていたのに、そんな俺が抱いていたイメージは木っ端微塵に砕かれた。
「めぐみんダメよ! そんな所で爪を研いじゃ! 柱に傷がついちゃうじゃない!」
「ああ、そんな潤んだ瞳で見つめないで! いけない事をしてるから怒らなきゃいけないのに、ついつい許しちゃいそうになっちゃう! 可愛いって罪だわ!」
本当に姉さんは何をやっているんだ。
トイレが終わったらなんで急に爪を研ぎ始めたんだ。すっきりしたのを全力で表現してるのか。
それにしたってもっとやり方があっただろう。何故わざわざ器物破損しなければ気が済まないのだ。ウチに弁償するお金が無いことは、姉さんだって良く知っているだろうに。
「ああああああああああああっ!!」
「ああっ!? ニセのめぐみんが急に狂暴に! 遂に理性も知性も無くしてしまったのね!」
俺の知らない間に姉さんの偽物が作られた件について。
確実に間違ってはいると思うが、姉さんは偽物が作られる程にはクラスで人気者だったらしい。
……いや待てよ。今までの行動は全て、姉さんの名前を騙る偽物がやっていた可能性がある。というかそうじゃない方が不自然だ。
確かに姉は食べ物を前にすると、少々野生に帰ってしまう節があるが、トイレに行くのを面倒くさがってそこら辺で用を足したり、辺り構わず爪で引っ掻いて愛想を振りまく様な女ではなかった筈だ。
色気より食い気だったが、最低限の慎みは持っていた筈だ。
十二年も一緒に居た身として、今までの奇行が姉さんの行いだと信じたくはない。
「……くそっ。姉さんの名前を利用して好き勝手やりやがって。いくら姉さん相手でもやって良いことと悪いことがあるだろうが……!」
肉親を侮辱され、腹の底から怒りがふつふつと湧いてくる。
どこのどいつが犯人かは知らないが、相応の痛い目には遭って貰うぞ。
俺は背負っている剣の柄を握り、教室の扉を勢い良く開けた。
「おらぁ! 誰だ! めぐみんの名前で好き勝手やってるやつは! ただでさえこめっこより婚期が遅れそうなのに、これ以上変な噂がたったら嫁の貰い手が無くなっちまうだろうが! そうなったら責任取れんのか!? ああん!!」
「た、大変よ! 今度はめぐみん弟が乗り込んで来たわ!」
「前世とか本気で言ってるあの!? 紅魔族的に見てもちょっと痛いと専ら噂の!? い、急いで逃げなきゃ! 早くしないと前世で結ばれてた許嫁に勝手にされちゃう!」
俺が教室に入ると、女子の一団が蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。
なんだか事実無根な失礼なことを言われた気がするが、追求している暇は無い。
彼女らが取り囲んで居た中心には、荒い呼吸をする姉さんと、昨日こめっこが拾ってきた黒い子猫がいる。他に影早く見当たらない。
「姉さん大丈夫か? 今姉さんの偽物がこの教室にいるって聞いて急いで飛び込んで来たんだけど……」
「私の偽物? …………あー。はいはい。なんで貴方がそんなに息巻いて教室に入って来たのか理解出来ました。ちょっと落ち着いて私の話を聞いて下さい。貴方が言っている偽物というのはこの子の事です」
言いながら姉さんは子猫を抱き上げた。
昨日こめっこが拾って来た子猫だ。
そういや家に置いとくとこめっこが素揚げにしかねない、とか言って学校に連れて来てたんだっけか。
……あー。なるほど。この猫、そういやまだ名前付けてなかったもんなー。
それで一時的に姉さんの名前で呼ばれてたのか。理由まではわからないが。
それなら教室で排泄するのも柱で爪を研ぐのも納得だ。猫の行動としてみればおかしなところは無い。
事の理解が出来た俺は、溜息を吐き出す。
「なんだよ。驚かせやがって。てっきり姉さんがペット扱いされていじめられてんのかと思ったわ」
「誰がこんな奴らにいじめられますか。仮にやられたとしても黙ってやられてはやりませんよ。全員に一生消えない様なトラウマを刻んでやります。絶対に許しません」
「「「ひぇ……」」」
姉さんの凄んだ声に教室の中で悲鳴が上がる。
この分ならいじめられる心配は無さそうだ。寧ろ誰かをいじめてないか不安になって来た。
……いや本当に。加害者になってないでしょうね? 不安になってきた。
「そういえば、よろろん。貴方教室に入って来る時、何やら私に対して失礼なことをーー」
「あ、弁当ここに置いとくね。じゃあ失礼しましたッ!」
俺は教室から逃げ出した。
追求されていじめられたくなかったからだ。