今回はルビィちゃんとのお話になります。
バシャバシャバシャ。
不規則に水を叩く音が、セミの鳴き声とともに空に溶けていく。
音の発信源では、女の子が必死にバタ足で前へ進もうとしている。
しかしながら、その音源が動くことはなし。
虚しくその場で足を動かすだけという状態になっているのだった。
「…これは、なかなか先が長そうだね」
その光景を見て、俺はそんな言葉を呟くのだった。
※
「泳ぎを教えて欲しい…かい」
「は、はい。明後日その、水泳のテストがあって」
とある土曜日のお昼頃。
俺は珍しく一人でうちに来ているルビィちゃんとお話をしていた。
「明後日…厳しいね」
「どんな泳ぎ方でも25m泳げればいいんです!犬かきでも素潜りでも!」
「水泳の授業でそれはどうなんだろうね」
「だ、だからその…」
「…ああ、うん。協力するよ。だから、その捨てられた子犬みたいな目で見ないでくれないかな」
「うぅ…ハルさんのお仕事が終わってからでいいので、なんとかお願いします」
目に涙を浮かべてこちらを見上げるルビィちゃん。
どうやら結構焦っているらしく、表情から不安の色が見られる。
ただでさえ小動物チックな彼女だ。
こういう頼み方をされてしまうと、俺でなくとも断るのは難しいだろう。
いや、別に断るつもりなんて毛頭ないんだけどさ。
「ちなみに聞くけど、俺以外の人に頼むという選択肢はなかったのかい?」
「もちろんなくはないんですけど…その、練習で疲れているみんなに、泳ぎの練習まで付き合わせてしまうのは…」
「ああ、なるほどね」
「ハルさんだってお仕事があるのに、頼んでしまうのは申し訳ないんですけど…」
「いや、それは気にしなくていいよ。さすがに君たちの練習ほど体力は使っていないから」
「ごめんなさい…」
「謝る必要もないから、泳げるようになったらお礼の言葉でも添えておくれ」
「は、はい。お願いします」
「うむ。といっても、俺もそんなに泳げるわけではないんだけどね」
「か、形だけでもなんとかっ」
「まあ最善を尽くすよ」
そんな会話の後、ルビィちゃんが浦の星女学院へ向かっていった。
お昼休憩の中でうちへ来たらしく、まだ午後の練習が残っているそうだ。
Aqoursの練習は、俺の知っている限り結構ハードだったはず。
その後で水泳までやろうというのだから、大したものである。
泳ぎの練習を手伝ってあげられるのは、今日の夕方と明日の夕方。
二日間で泳げるようになるというのは、正直相当厳しいだろう。
でも、ここまで頑張ろうとしているのだ。
可能な限り力になりたいね。
※
「なーんて、思ってたんだけどねえ…」
学校のプールを借りて泳ぎの練習をするルビィちゃんと、それを眺める俺。
律儀にスク水を着て水泳帽子を着用する彼女を眺めつつ、どうしたものかと考える。
現状、25m泳げるようになるのは難しそうだ。
泳ぎ方が指定されていないので、フォームのことは考えなくていい。
そうなると、ポイントとなることは3つ。
浮けること。
息継ぎができること。
進めること。
この3つができれば、どれだけ滅茶苦茶な形でもとりあえず25m進むことができる。
もちろんこれらを最も効率よくできるのが、クロールなどのような既存の泳ぎ方なわけだが。
さて。
ルビィちゃんだが。
「す、進まないです…」
「そうだねえ」
浮くこと自体はできなくはない。
が、進まない。
かろうじて進めるレベルのバタ足をしようとすると、力が入りすぎて今度は沈んでしまう。
息継ぎについては、まずこの二つができるようになってからだろう。
「ひとまず、一度壁に手をついてバタ足の練習をしようか」
「はい。そうします」
両手を壁につき、体を浮かすルビィちゃん。
やがて、バタ足を行う。
「うーん…力を入れすぎかな」
「力…ですか?」
「そうそう。そんなに大きく足を動かす必要はないんじゃないかな」
「な、なるほど。やってみますっ」
それから30分ほど経っただろうか。
先ほどに比べて、いささか改善されているバタ足。
まだまだ形としては荒いが、最低限前に進むことくらいはできそうだ。
「よしよし。まあこんなもんじゃないかな」
「よ、よくなりましたか?」
「うん。大分ね。次は実際に泳いでみようか」
「は、はい!」
壁を蹴りルビィちゃんがスタートする。
両手を重ねて前方に伸ばし、先ほどまで練習していたバタ足で少しずつ前へ進んでいく。
お。
先ほどよりは大分よくなっているじゃないか。
これなら、なんとか明日中に…
などと思っていた矢先。
ルビィちゃんの体が、徐々に沈んでいく。
やがて、体が完全に沈みきったところで、ルビィちゃんが顔を出した。
「ぷはあ!」
「大丈夫かーい?」
「あ、はい。えっと…」
「10mくらい進んだね。大進歩だよ」
「あと15m…」
「まあ、あせらず行こうじゃないか」
「は、はいっ」
再び壁を蹴り、泳ぎだすルビィちゃん。
先ほどと同じくして、10mほど進んだところで沈むのだった。
バタ足に集中しすぎて今度は上半身に無駄な力が入っているんだろう。
このまま見ていても埒が明かない。
ビート板でもあればいいのだけど。
と思ったけど、よくよく考えれば俺が手を引けばいいだけか。
「うゅ…」
「お疲れ様ルビィちゃん」
「あ、あれ?ハルさん?ハルさんもプールに浸かって…どうしたんですか?」
「練習、手伝おうと思ってね」
「手伝う…ですか?」
「うん。手、持つからそのままバタ足しておくれ」
「手…ええ!?」
「そんなに驚くことかい?あ、もしかして嫌だった…」
「そうじゃないです!…その、手…」
「手?」
「うぅ…な、なんでもないです…」
「?」
よくわからないけど、手をつなぐことに抵抗があるらしい。
嫌というわけではないみたいだが…
その後、ルビィちゃんの手を持って前へ泳ぐ練習を継続。
さすがに泳げるようにはならなかったが、最低限浮いた状態で前進することはできるようになった。
明日中に息継ぎをできるようにしたら、ひとまずは25m泳ぐことはできるだろう。
※
ルビィちゃんとの水泳練習2日目。
今日も今日とて練習に励んだルビィちゃん。
俺の予想を上回る気合で、彼女はなんとか25m泳ぎきって見せた。
といっても、やれば必ず泳ぎきれるというわけではない。
3回くらいトライして1回泳ぎきれるかどうかといったところ。
調子次第で泳ぎきれるかが変わる状態だ。
正直厳しいと思っていただけに、これでも大健闘だと思う。
テスト直前の2日でここまで持ってきたのだ。
一度決めたら、なんとかできるまで努力し続ける。
その努力の仕方は、お世辞にも器用なやり方とは言えない。
でも、ひたむきに頑張り続ける。
その点は、彼女の素晴らしい長所であり昔から変わらないところだ。
人事を尽くしてなんとやら。
あとは運を天に任せるしかないだろう。
練習を終えて、今俺はルビィちゃんが着替え終わるのを待っている。
更衣室の出口あたりで、スポーツドリンクを飲みつつ待機中だ。
待っている間、特に意識もせずあたりを見回す。
生徒会へ荷物を届けに来ること自体はそこそこあるが、プールの方へ来るというのはあまり多くない。
今更ながら、女子校のプールを使わせてもらったというのはなかなかに貴重な経験をしたのかもしれない。
なんて口にしたら、ダイヤちゃんあたりに出禁をくらいそうだが。
「ハルさん、お待たせしましたっ」
「ああ、おかえりルビィちゃん」
「ま、待たせちゃってごめんなさい」
「いやいや。大して待ってもいないからね。気にしないでくれ」
「練習に付き合ってくれたのも、ありがとうございます」
「それについても、俺がやりたくてやってるからね。気にしないでくれ」
まだ乾ききっていない髪を、タオルで拭くルビィちゃんとともに校舎を歩く。
普段のツインテールと違い、髪を流している彼女。
チラリとのぞくうなじを見つつ、普段とは違った魅力を感じるのだった。
「色っぽさも存分に漂っているね」
「ハルさん、何か言いましたか?」
「いや、何も言ってないよ。それより、今日は晩御飯を一緒に食べないかい?」
「え?いいんですか?」
「いいも何も、こっちが頼んでいるんだけどね」
「あ、でも、おうちでもう晩御飯作っちゃってるかも…」
「それについては、さっきダイヤちゃんに電話しておいたから大丈夫だよ」
「あ、そうなんですか。じゃあお言葉に甘えて…ってあれ?」
「ん?」
「お姉ちゃんに連絡って…もし私が家で食べるって言ったらハルさんどうするつもりだったんですか?」
「その時はその時でなんとかするつもりだったよ」
「なんとかって…ふふ。ハルさん、悪い人ですね」
「君のお姉ちゃんにはよく言われるよ」
『今日は、ルビィちゃんにうちで晩御飯を食べてもらおうと思ってるんだ』
『はあ。それは構いませんが。なぜハルさんから連絡を?』
『まだルビィちゃんは着替えてるみたいでね』
『…ルビィはハルさんと晩御飯を食べることを知ってますの?』
『いや、これから誘うつもりだったよ』
『…普通は誘ってから連絡するものではなくて?』
『早めに連絡した方がいいかなと思って』
『たかが10分程度でしょうに…はあ…まあいいですわ。承知しました。あまり遅くならないようにと伝えておいてください』
『ほいよ』
そんな電話をしたのが少し前。
ルビィちゃんが着替えている時に交わしたやり取りである。
※
家に帰り、あらかじめ用意しておいた晩御飯を盛り付ける。
メニューは冷やし中華。
「のせるものは一通り準備しておいたから、好きなものをとっておくれ」
「美味しそうですねー。あ、いただきます」
「どうぞどうぞ」
ちゅるちゅると小さい動作で冷やし中華をすするルビィちゃん。
なんというか、こういうとこまで小動物チックなんだなあと感じるのだった。
食事が終わり、付けていたテレビを二人で眺める。
もう少しお腹が落ち着いたら、ルビィちゃんを家に送るとしよう。
そんなことを思いつつぼーっとテレビを見ていたら、ルビィちゃんに話しかけられた。
「こういう風にハルさんと二人きりでご飯を食べるの、久しぶりな気がします」
「そうだねえ。昔はちょいちょいあったもんね」
「はい。あの時間、結構私好きだったんですよ」
「そうだったのかい。こっちが一方的に話しかけてただけで、君は退屈してるもんだと思ってたよ」
「そ、そんなことないですよっ」
俺が中学生の頃、ばあさんの仕事について回ることがそこそこあった。
当時すでに外で遊ぶことが多かったダイヤちゃんに対し、ルビィちゃんは家にいることが多く、黒澤家に来ていた俺と顔を合わせることも珍しくなかったのだ。
お昼時に伺った時なんかは、子供たちでお昼ご飯を食べておくようにと言われることもあった。
その際、ルビィちゃんと二人きりでご飯を食べていたのだ。
「初対面の時は、随分警戒されてたっけなあ」
「うゅ…その、ごめんなさいです」
「いやまあ、歳が5つ離れている男子なんて怖いと思っても仕方ないと思うよ」
一緒にご飯を食べるといっても、ルビィちゃんがこちらをとても警戒しているのははっきり伝わってきており最初はどうしたものかと考えたりもした。
いきなり声をかけたら、ますます警戒させてしまうと思って、しばらくは黙っていようとも思ったのだが…。
「ハルさんが声をかけてくれたから、私、あの時話せたんですよ」
「声をかける…ねえ。とてつもなくしょうもないことを話したね」
「ハルさん、憶えてるんですか?」
「そりゃね」
『ソーメンってさ』
『ぴぎいっ』
『…変わった悲鳴だね。じゃなくて。ソーメンってわかるかな?』
『は、はい…』
『あれってさ、なんで夏に食べるのが通例になってるんだろうね』
『…は、はい?』
『簡単に作れるんだからさ、他の時期じゃだめだったのかなーって』
『そ、その…夏バテしやすい時期だから、しょ、消化にいい…とか』
『ああ、なるほどね。確かにありそうだ』
ちなみにこれを言ったとき、食べていたのは親子丼。
しかも季節は冬。
「あまりに唐突すぎて、私思わず笑っちゃいましたもん」
「我ながら、本当にどうしてあの話題を思いついたのか疑問で仕方ないよ」
「でも、あれのおかげで私、ハルさんと話せるようになりました」
「俺の頭の悪さが役に立った瞬間かな」
最も、あの頃から頭がよくなった訳ではないのだが。
「今は、俺のことを怖いとは思わないかい?」
「ふふ。はい。全然」
「それはよかったよ」
「…怖いどころかむしろ…」
小さく呟くように口にするルビィちゃん。
その声は、俺が聞き取るには少し小さすぎた。
「んー…ごめんよ。もう一度言ってくれるかい?」
「ふふふ…今はまだ、言えないです」
「それは、言いにくいってことなのかな?」
「えっと…な、内緒です」
「そうかい」
顔を赤くして、微笑みながら言うルビィちゃん。
恥ずかしいのか、照れているのか。
いずれにしても、無理に今聞き出すようなことではなさそうだ。
「いずれ、気が向いたら話しておくれよ」
「は、はいっ」
「いつか…ぜったいに…」
また、小さな声で何か呟くルビィちゃん。
相変わらずその言葉は聞き取れなかった。
けど。
気が向いたら話してくれるらしいし、それまでは待っていようじゃないか。
これからも、こうしてご飯を食べる機会はいくらでもあるだろうから。
ご視聴ありがとうございました。
弱々しく見えても、実は芯がとても強いルビィちゃん。
アイドルに対する思い入れも強かったりと、もうちょっとスポットが当たると嬉しいキャラです。
それでは何かありましたらお願いします。