アルトリアから撤退を果たし、立香は伍丸に抱えられて閑散としたした江戸の街を突き進んでいた。
「よ、吉原!?あの、僕には年齢的に早いというか…」
「勘違いするな。君の思っているほどに楽しい場所ではない。これ以上ないほどに安全で、1つ踏み外せば死が待っている。正しく、天国と地獄を体現した場所だ」
年頃の少年が想像する吉原と言えば、漏れなくモザイクが引っかかってしまうアダルティなもの。想像して鼻血を出す立香に、伍丸は表情を変えずに間違いを指摘した。
「じゃあ、江戸最後の安全地帯っていうのはどういうことですか!?ここ、そもそも人が住んでる気配がないんですけど!皆んな夢を見に行くんじゃないんですか!?」
「先ず、いかがわしい想像から離れなさい」
さり気なくハンカチで鼻血を拭き取る伍丸。
「人どころか、地上には動物の1匹だってマトモに住める環境ではなくなった。少し前まで流行っていた”白詛”よりもタチの悪いものが現れたからだ」
「あの、それって……」
心当たりがあった。
まだ敵味方が判明していない堀田 正鬼。
あれ以上にタチの悪いものがあるとは思えない。
そのことを言葉にしようとして、空から落ちてきた飛来物が前方で砂埃を撒き散らしていた。
「なんだ!?」
「……噂はするものではないな」
苦汁を飲むように歯軋りをしながら睨む先。
「見ろ、白詛を上回る存在、”魔王”堀田 正鬼だ」
その存在を目視する前から、大気が引き締まる雰囲気を肌で感じて無意識のうちに生唾を呑んだ。
いまの心境に匹敵するものは過去に1度だけ体験している。ロンドンの地下、魔術王ソロモンと会敵したときの絶望感。身体中の神経が脱力し、平伏せんと思考回路を切り替えていく重圧。
逃げるには全てが遅く、挑むには準備が足りない。
実力差は解っていたのに、こんなにも序盤で会ってしまっては準備もクソもない。
それは当然とも言える。何故なら、レイシフトした直後が戦力としては一番弱いのだ。オルレアンのように序盤から特異点の首魁が来れば、こちらの作戦を練る余裕を与えずに済む。
「ま、魔王……」
砂埃を手で払い退けて、ソレの全容が姿を現す。
「地球の記録には載らない、異郷の子よ」
大人しい声に倣うように、
「幸を授ける。癒えないほどの幸を贈ろう」
1km先を見渡せる深海で会話をするような、全身の重圧が解けない距離感。
立香と変わらない身長の魔王がゆっくりと顔を上げて、2人と視線を交わそうとしたとき。
「我が娘たち‼︎」
伍丸の振り上げた右腕を合図にして。
地から、宙から、そして空より数々の手は現れる。
「お任せください‼︎」
雪崩れの如く、四方八方からカラクリメイドがモップを持って魔王に襲いかかる。
「メ、メイドが沢山!?」
「ヤツの行動1つで一帶が吹き飛ぶ。メイドたちはソレを防ぐための防波堤だ」
空気を圧縮するような勢いに目を見張る。
息を飲んだ直後、メイドたちは塵と成り果てた。
「あ、え……?」
見えた光景は、魔王が辺りを見回した動作のみ。
まさか、その動作だけで雪崩れの如き数のメイドを灰塵にしたというのか。
もし、目を合わせたらどうなるのか。
想像したくもない己の姿に身を震わせたとき。
「うわっ!?」
伍丸はメイドたちの惨状を分かっていたと、既に離脱する。
入れ替わり、どこで待機していたのか止めどなくメイドが魔王へ攻撃を仕掛ける。きっと召喚の類いだろうソレは、メイドの粉砕量を計算してその場から魔王を動かさないつもりだ。
「目的地は目と鼻の先。
入り口は複数ある、あと5秒の時間を稼げれば───」
メイドの供給と伍丸の動きに無駄は無かった。
だから、5秒で目的地に着くなら大丈夫。
そう安堵したことを、直ぐに後悔した。
「己で選んだ路を行く。それも、幸せな刻だ」
声が届いた時、世界から音が消え去った。
耳鳴りが残る空間で次に起こったこと。それは竜巻の最中にいるような、暴風とカマイタチが混同する荒んだ一振り。
ビルの反対側に跳んだ伍丸、立香を狙う暴挙。
ビルを切り裂き、その余波で後方の雲が散っていく。
「ヂィィッ!」
両腕を増幅させ、立香を衝撃から守るだけで伍丸のほぼ全ての身体が消し飛んだ。
「伍丸さんッ!」
「問題ない……」
地面に叩きつけられるも、立香はほぼ無傷。
伍丸も、腕だけの状態からすぐに全身が復活する。
「ビル、だけじゃない……」
ふと見上げた空。
正確には、見晴らしの良くなった街。
ビルだけが破壊されたと思ったが、ビルの周辺に並ぶ建物が残骸を残して崩壊していた。
宝具のような威力だ。しかし、この惨状がちょっとした一撃で起こしたものだという確信がある。宝具のような独特の雰囲気を感じない。経験則で、これが魔王の通常攻撃なのだと知ってしまう。
序盤に
「地球もまた、己で子供たちを守る。
癒えぬ傷が無いように、少しでも犠牲を抑える」
魔術王と戦っていたときの頼もしさは無く。
悠然と空を見上げながら歩いてくる存在に、抗うしか選択肢は残されていない。
「くそッ……。せめて目的は果たすぞ」
出来ることは限られている。
ガンドが効く望みは薄い。
空に打ち上げても、魔王の攻撃以上に印にはなりにくい。
なら。
「伍丸さん、僕と契約を!」
「その手がッ───!」
仮契約、サーヴァントの本来の力を引き出せる方法の1つ。令呪による魔力装填も行えるこの手で、一か八か乗り越えるしか手段がない。
しかし、魔王を前にして行えるほど甘くない。
視界の奥で魔王が行動する。
ゆっくり握られた右拳。
街を握り込めるように歪む大気。
(やばい、あれはシャレにならない!)
思い出す記憶。
空から降り注ぐ、ロンゴミニアド級の一線を打ち消した拳。あんなものを地上に向けてしてみろ、余波に触れただけで死ぬぞ。
それこそ契約なんて悪手。
選択を誤っ──────。
「おいおいおいおい!待て待て待て待てィィ!」
豪、そんな擬音が似合う風が鼓膜を揺らした。
駆け抜ける声が場に立つ全員の視線を一心に受け止める。赤く黒く白い、大地のように不滅の男も例に漏れず。翡翠の瞳はいま、荒んだ路面を歩く″少年の周辺″へと観察を開始した。
「天才さまよ、アレに立ち向かうのはいつなのか、見極めるだけの人生経験は生前積んだろう?
いや、その答えに気づいたからこそ英霊だろが!少なくとも、ど素人の目に見ても今じゃない」
灰色で整えられた、身丈に似合わない小袖。手には自身の身長ほどある大刀、腰には黒い鞘の小刀。一見して侍ごっこ遊びかとも思える風貌。声に続いて場違い極まりのない存在のはずが。
「こ、子供……。いや、まさかっ!?」
「おいおい、侍を見た目で判断しちゃなんねぇ。これまでもお前さんの旅はそうだったはずさ。見た目よりも中身。器と芯の
そうさ、俺はサーヴァント。齢9歳だ!」
刀を肩に担ぎ、時折トントン叩きながら魔王を睨む。
「おいオメエ、さっきから地形変えるほど暴れやがって。なにごねてんだ?まあ理由はともかく、先ず物にあたるんじゃねえよ」
相手を叱る口調に、伍丸が呆れながら言葉を吐く。
「言葉で鎮まる相手ではないぞ。そいつの一振りでご覧の有り様だ、油断せずとも死に果ててしまうが?」
「先ず言葉投げかけて、そっからだろ。俺は止めはしたぜ。んで会話、それでダメなら俺の信念ぶつけて更生よ」
高まる緊張のなか、伍丸が声をかける。
不用意に背後を見て視線を交わすと、左足を魔王へと踏み出す。
「侍はよ、どれだけ生身が壊れようと、魂に収めた剣だけは変わらない。真っすぐな剣は絶対に折れはしない。
例え、
お前さんにゃ心当たりはないか?」
視線を外し、背中越しに問う。
伍丸には少年の言葉が理解できたのか、これ以上の会話をする気は無くしていた。
「見えるものじゃ語れない、魂の在り方こそ侍の本質だ。言葉が通じねえってんなら、先ずは本当か嘘か俺が試してやらあ。この刀で頭に上った血を抜いてやりゃ、気が変わるかもしんねえ」
少年の言い分は魔王を虐げるものではなく。
寧ろ、立香にとっては望むものだ。
正鬼が変貌したことには必ず理由がある。
遅かれ早かれ暴いてみせるなら、いまでも…。
『初見での接触で抗戦は出来るだけ回避』
…そうだ、ダ・ヴィンチちゃんの言葉を思い出した。
戦闘面においては最強級のスカサハ、天才肌の沖田に鍵を刺したもの。選択肢を迷わせないための曖昧な指示だが、勝ち目はないことをダ・ヴィンチちゃん含めて良く解っていた。
勢いに呑まれちゃいけない。
「分かった、僕も正鬼を放ってはおけない。
必ず助けるから。けど、いまは───」
撤退を優先しよう。
自分でも無茶だと解っているが、誰かを囮にするなんて、それこそ人理を救う意義が問われる。
自分の想うことを口にするよりも早く。
魔王は右拳を振り抜いた。
同時に、少年は魔王の懐に飛び込み、肘を横から突き刺して拳の軌道を僅かに逸らしてみせる。
災害の中心に飛び込んでいく勇気には驚くほかない。
「あの一撃を、逸らした!?」
「はっ、若いのに格好良いじゃねーか!」
逸れた先、ドリルでコンクリートの壁に穴を開けたかの如く、建っていた建築物の中階層より上が削がれていた。
ヒュウと可笑しく口元を上げる少年。
続けて打ち上げる左拳に、背後へ回り込んだ少年が襟を掴んだ。そして、「よっ!」の一言とともに、魔王を後頭部から地面へと叩きつけたではないか。
「アンタらが退避するまでは時間稼いでやっから、さあ行け。なあに、これでも護ることには自信がある。任せろ」
魔王を相手にやってのけた仕業に、伍丸は撤退を選ぶ。
立香が止めることはできない。なら、せめてと。
「あの、キミは誰なんだ!?」
「おおぅ、恩は着せておこう!
俺は″志村 剣″。天堂無心流開祖にして無名の剣士。此度は江戸の危機にセイバーとして召喚仕った」
己の無力さを伍丸に拭われ、江戸のために命を賭す志村 剣の想いの末端しか見ることができないままその場を離れる。
「
伍丸の腕の中で宙に上がる直前、侍の澄んだ刃が不滅の男へと姿を見せていた。