沈んだ意識を引き上げたのは、全身に突如走った筋肉痛だった。
明確に走る悲鳴に、無自覚だったソレを耐えきれない強張りに堪らず情け無い声が出る。
「いっ………てぇ!?」
あまり、いい寝起きではないのは確かだ。しかし、何もしていない不安からは解放された気がする。身体は正直だ。昨夜、セイバーとの稽古の成果といえるようなモノは、この筋肉痛だといえよう。
低い呻き声を上げながら、のそりと上半身を起こす。
「あそこまで徹底的に負けたのは藤ねえ以来……いや、それ以上の差があった」
薄らと明るい障子を眺めながら、全身の筋肉をほぐすようにぐるぐると両腕を回したり、伸ばしたりして準備運動を行う。
聖杯戦争が始まって迎える朝の六時半。今日で三日目。これをまだ序盤だと見るか、既に焦りを覚えるか。いや、焦ってもどうにかなる訳ではないのは分かっている。
「先ずは、朝飯の支度だ」
それに、まだ分からない事だらけ。一番の問題は、これから徐々に積み上げていくとして。イリヤの事や、遠坂との話も残っている。
立ち上がると、案の定きた。
「ぃっつー!一体、どうやったらセイバーはあんな腕を身に付けられるんだろ」
筋肉痛によって思い出す、昨夜から始まった実践的稽古。
具体的に何をするのかといえば、木刀を持っての本気の打ち合い。
「士郎、取り敢えず今の全力でかかってこい。筋はいいみてぇだから、隙あらば俺も本気でやるぜ」
とは言うが、その内容は俺の防戦一方に終わった。セイバーが片手に持って打ち出した木刀を、俺はとにかく受けた。そして、打ち出された数だけ吹き飛んだ。詰まる所、最初から隙だらけだという事なのだろう。
背中、腕、尻、あらゆる部分から床に落ちては立って、セイバーへと向きなおる。その時に走る痛みは忘れて、夢中でセイバーの太刀筋を観察していた。
守りだけじゃなく、反撃もしてこいと言っていたセイバーだけど、とてもじゃない。身体が追いつかない。いや、受け止めた木刀を守りから攻めに変える事が出来ない。笑っちまうくらい重くて、昨夜の稽古後は手の痺れが中々回復しなかった。
「木刀を受け止めるのと、離さないようにするので手一杯だった。もっと動きを見て、反撃する余裕を持たないとな」
実践稽古とは言ったものの、今やっているのは自分の身を守る為の練習に近い。…いや、稽古とはいえないか。所々、本当に死ぬんじゃないかっていうレベルの打ち込みをセイバーはしてきた。うん、まごう事なき実践だ。
「けど、あれでも……」
セイバーは俺が隙を見せても、軽く木刀でこつくだけで、ミミズ腫れになるような勢いで当ててはこない。
彼の打ち込みは全て、俺が受けられる範囲でのみ。それに限って、俺にやや手に負えない程度で本気を出していた。昨日はゆっくりと考える余裕は無かったけど、今にしてみれば。セイバーの優しさが見える気がする。
「はは。近いうちに絶対、本気出させてやる…!」
布団から出る。心地良く身体を包んでいた暖かみは一気に空気中に霧散して、変わりに冷気に襲われる。布団に戻りたくなる自然の摂理をなんとか堪えて、立ち上がった。
隣の部屋の襖をゆっくりと、慎重に開ける。なぜかというと、セイバーは隣の部屋で寝ているからだ。寝る時は一人の方が楽だと思って、俺の部屋から離れた場所に案内したけど、「他のサーヴァントが攻めてきたら士郎を守れねえだろっ」という、ごもっともな指摘を受けて今の形になった。
「セイバー、もう起きたのか」
妙に人の気配を感じないと思っていたけど、案の定というか。セイバーが寝ていたであろう布団は、やや散らかった状態で寒そうにめくれていた。
「これじゃ、俺が寝坊したみたいだな」
さて、着替えよう。
居間に行くと、お茶を飲んでいるセイバー。
「お、もう起きたか士郎。昨日の様子じゃ、昼まで寝てそうな勢いだっんだけどな〜」
「いや、そこまでゆっくりも出来ないよ。それよりセイバーこそ早いんだな。それとも、意外と朝は早く起きる方だったりする?」
「意外と、は余計だ。なんつーか、朝早く起きるのに慣れちまったんだよ。習慣ってやつ?体調悪くてもこれくらいには起きるんだわ」
「キツかったら遠慮せずに言ってくれ。サーヴァントに薬が効くのかは分からないけど、色々とあるから。それと、夕方まではウチでのんびり過ごしてていいんだぞ?俺、学校あるし」
朝食の準備を始めながら、さらりと言ったソレにセイバーが反応する。
「え、なに。マジで学校行くの?合法的に休めるのに?」
「合法的って何だよ、聖杯戦争は言い訳に出来ないぞ。それに、いつも通りに行かないと藤ねえに怪しまれる。それこそセイバーが色々と言われるだろ?」
「俺は別に気にしねえけど。それに藤村の姉ちゃん、ネチネチ言うタイプじゃねーと思うぜ」
まぁ、そこは間違ってないけど。
「それでもだ〜め。俺、これでも学生なんだ。もちろん、実践の練習を疎かにはしない。帰ってきてからにはなるけど」
「……はぁ、まぁアサシンがあれだし。よっぽどの事がなけりゃ大丈夫か」
俺が譲らないというのは分かってくれたようで。
勿体ねーなーと一人ごちりながらも、彼は朝食を大人しく待っていた。
──────
────
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朝食を終えて、いつも通りの支度を済ませる。
追加で、セイバーには昼飯の分も作っておいた。
「士郎、身に危険を感じたら令呪を使って俺を呼べ。呼んでくれりゃ、直ぐに駆けつけるからよ」
大きな欠伸。
二度寝すればいいじゃんと突っ込みたいのを抑えて、分かったと返事をする。
「それじゃ、行ってくるよセイバー」
「おぅ、きぃつけてな〜」
時刻は七時過ぎ。
なんとも引き締まらない見送りを受けて、家を後にした。
士郎を見送ったセイバーは、玄関を閉めると。呟いた。
「………。小豆缶ねーかな」
きっと来る。
それは味の暴力。
冬木の虎もイチコロだ。
▼
噂をすれば影という。
いや、誰かと遠坂の噂話をした訳ではない。この状況を例えるなら、これがしっくりくるなと思っただけであって。校舎でバッタリと鉢合わせしたのは幸運かもしれない。
「よっ、遠坂」
廊下で周囲の目があるけど、気にしない。相手が遠坂という超有名人なのだけど、その内面を知った側に立ってしまったせいか、変な耐性がついた。
だから普通の挨拶。ごくありふれた、ぎこちなさのカケラもない。と思う俺の声に、彼女は。
「な……!?」
目を見開いて、なんとも面白い表情で挨拶を返してくれた。(無言だけど、きっとこれが彼女なりの挨拶の返事なのだ。きっと)
「………ッ!」
行ってしまった。とても優雅とは思えない足取りで、ガツガツという効果音が似合う動きで廊下の奥へと消えて行く後ろ姿を、俺は追えなかった。
「な、なんだよあいつ」
一瞬、こちらを見たかと覚えば。まるで愉快なものを見たとばかりに目を尖らせていた。なんとも例えられない表情に、気圧されてしまう自分がなんだか情けない。
もしや、あれが本当に挨拶の返事なのか。
いや、やはり。
「怒ってんのか…?」
夕方。誰もいない生徒会室。
ついこの前、柳洞 一成に頼まれていた陸上部のストーブの修理を終わらせた俺は、急いで工具等を片付ける。
この事を一成には話していない。学校が生徒、更には教師にさえも早く帰るようにと換気しているのだ。当然、部活動も中止。あちこちで湧き上がる喜びの歓声に、顧問達は文句の一つも言えなかったとか。
こうして修理しようというのが、穂群原学園を統べる超有名人生徒会長の耳に入れば、何と言われるか分かったものではない。
「多分、しばらくは朝早くに出てこれないからな。セイバーとの稽古で、流石に体力なくなっちまう。悪いな一成、明日の朝のサプライズって事で許してくれ」
さて、帰ろう。
生徒会室を出る。廊下に生徒や先生の姿は一人もない。
最近起こっているガス漏れ事件や、殺人事件の原因、犯人が知れないという事態はやはり怖いのだろう。一人で帰ろうとする人や、学校に残ろうという人は殆どいないようだ。
遠坂曰く、それらの怪奇事件は全て、サーヴァントやそのマスターによる犯行の可能性が高い。
「そりゃ犯人捕まらないよなぁ。サーヴァントだし」
階段を降りようとすると、上の方からコツンコツンと誰かが降りてくる音が聞こえた。俺みたいな物好きがいるんだな、と思った時。タイミングよくその正体が踊り場まで降りてきた。
それは、とても意外な人物。
「遠坂…?」
返事はない。
口を開けない姿は、異常な圧をこちらにかけてくる。彼女の瞳は、敵対する者に向けるそれ。情が挟まる余地はない。そんな警告が、脳の何処かから全身に行き渡る。
それでも、こちらの勘違いだと思いたい。だって、ここは学校だ。もし無関係な人に見られでもしたら……。
「…」
そんなやつは、いない。この時間に残っているのは、多発する怪奇事件の原因を知っている聖杯戦争関係者か、余程の物好きか…。
左右を見渡して誰もいないのを確認して、再度階段を見上げる。
無言で左腕を捲る姿は夕陽に映えて、一挙手がスローに再生される。
細くて静かな腕からスッと現れたのは、夕暮れの朱さの主張にやや劣る、緑色の線。アレが何なのかを聞く間も無く。
俺を指差したかと思えば、低重音が容赦なく響く。
「な、わぁっ!!??」
放たれた黒い何かを、咄嗟に身体を捩りながら避ける。だが不意のことで、反応が遅れた。右腕を擦る程度ではあるが、制服がビリと破れてしまう。
「忠告は、とっくの前に終わってるわ。今朝のアンタには心底ムカついた。つい手が滑りそうになったんだから。
けどもう、周囲の目はないわ、覚悟しろ!」
「まさか、ここで……!正気かお前っ!」
「それはこっちのセリフよ。アンタ、やっぱりマスターとしての自覚が芽生えてないじゃない。あ〜あ、あの日の夜に教えた事が全部、無駄になっちゃうわ!!」
言い終えると同時。まるで銃器の如く打ち出される魔弾。
その行方を見届ける余裕なんてない。次々と迫るソレから逃げるために奥にのびる廊下へと駆け出す。
「じゃあ攻撃をしなければいいだろ!」
「アンタを殺すから後悔してるだけ!それも終わり、さあ覚悟しなさいこのマヌケ!!」
やられるものか。
家でセイバーが待っている。帰ってから稽古をする約束をとっているんだ。ここで遠坂に殺されるなんて、考えたくもない。
ここで負けたら笑い者だ。
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ガンド、遠坂が次々と射出してくる魔力の正体。
その威力は一目瞭然。廊下の窓ガラスは意図も容易く風通しの良い枠となった。奥まで続く廊下は瞬く間に廃校同然の様だ。容赦無く天井を、床を、壁を壊して呪いを物理的なものに変えたようにしか見えない一つ一つ。
一階へと降りたのはいいが、呆気なく追いつかれそうになった俺は咄嗟に近くの教室へと駆け込んだ。鍵を掛けて、遠坂が一瞬でも手間取るようにして窓から外へ出ようとした矢先。何らかの結界を教室に張られて出られなくなってしまう。
次に、遠坂は教室の外から教室の中へと、豪雨の如くガンドを放ってきた。
「トレース・オン」
近くの机に強化の魔術をかける。喜ぶ暇はない。難なく成功した机を盾に、ガンドの雨が止むのをまつしか選択肢がないのが歯痒い。
一方的な暴威に、強化した机は耐えてくれているが、いつまでもつか。頼もしい限りだけど、所々にヒビが入っている。このままではジリ貧。そろそろ覚悟を決める時かもしれない。
教室の中は散々たるものだ。強化した机以外はバラバラに砕け、あるいは壊れている。明日、どうするんだという疑問すら浮かぶ余裕がない。足元に転がる、丁度いい長さの机の脚を片手にもって、強化を施す。
「え…」
そこでピタリと止んだ。
ガンドの雨が、まるで嘘のように止んだ。一体どういう意図なのか分からないまま、立ち上がる。右手に強化した武器を持って、慎重に外の様子を探ろうと歩き始めた瞬間。
パリンという軽快な音と共に、廊下側の窓が割れて、蒼い宝石のようなものが投げ込まれた。
「……!」
身体が廊下へと駆けだしていた。
あれを黙って見ていていい訳がない。
「ぐっ…!」
教室のドアを押し破り、廊下へと転げ出たのと同時に、教室の中から爆発音が発生。アレ、普通に身体が吹き飛ぶぞ。
「めちゃくちゃだな、遠坂」
「ふん、やっと出てきたわね。さっき死んでれば、苦しまずにすんだのに」
薄らと舞う。呪いのつぶて。
一秒後に迫る光景に出遅れまいと、腰を落として備えた時だった。
甲高い女性の叫び声が廊下に響き渡る。
「悲鳴!?」
「これは、あっちだ!」
「あ、ちょっと!?」
彼女に背を向ける形になるが、構わない。
悲鳴が聞こえた場所は、背後からだ。今のがただ事ではないのは誰でも分かる。何かから必死に逃げようとする声。不自然にピタリと止んだ瞬間、嫌な予感は確信へと変わる。
渡り廊下へと続くドアを加減なしで開け放つ。
「!」
地面には、力なく倒れ込む女子生徒が一人。
駆け寄ると、僅かに呼吸をしている。身体に外傷はない。ホッと安心の息を漏らすと、遠坂が遅れてやってきた。
「どうやら気絶してるだけみたいだ、よかった」
倒れる女子生徒を見て、遠坂の混乱していた瞳は険しい目つきへと変わる。
「よかない!中身がないってわからないの!?」
「中身?」
「魔力、要するに生命力がないの。このままだと、死ぬ。けど、これなら私の手持ちで何とかなるわ」
そこまで重体だというのは、気づかなかった。
俺には、彼女が眠っているようにしか見えない。だけどよかった、何かの宝石を取り出して詠唱をすると、仄かに宝石が光った後、女子生徒は咳き込み出した。余程苦しかったのか、目一杯息を吸い込んでいる。
「…?」
安心してふと、何気なく視線を上げる。
どうして、この女子生徒はここに倒れているのか。
叫び声を聞いて駆けつけた時は違和感すら覚えなかったけど。
「まるで…」
そう、まるでこれは。
誰かを誘い出しているように見えないだろうか?
呼吸が止まる。こんな馬鹿な妄想をした所で、何があるというのだ。だけど、笑い飛ばせない。何かがおかしい、ここにいるのはとにかくまずい気がする。
左奥に立ち並ぶ林。真昼でも地味で、暗く人気のない場所。何もないはずのそこに、視線が向いた。何であそこを見ているのか、自分でも分からない。ただ、恐ろしい事が起きそうな気がしてならない。
ここから離れよう、そう遠坂に提案しようとした矢先だ。
微かに、空間が歪んだのを見逃さない。
「ッ!!!」
見えない死が、遠坂に目掛けて突進する。
速すぎる。歪んだ瞬間に動き出したけど、遠坂に逃げろと言うんじゃ間に合わない!
「遠坂ッ!!」
「え…………」
右腕から血が飛び出す。いや、正確には右腕に空いた穴からだ。その原因は見えないが、ジャラリという音から鎖のようなものだったのではという予想はつく。
「ふざけやがって」
今の気分は最悪だ。
「今のは、頭にきた。遠坂、彼女を診ていてくれ。俺は少し、用事が出来た」
「……は!?ちょ、それよりも衛宮君っ……あなた、右手が!!」
「ちょっと痛いけど、大丈夫だ。それよりも、その子を頼んだ」
嘘だ。目の下には少しずつ涙が溜まってきている。
痛覚は容赦なく、意識を剥ぎ落としにくる。けど、立ち止まるという考えは微塵も浮かばない。
既に怒りは沸点に達し、霧散しそうな意識を容赦無く叩き起こす。これなら当分は大丈夫だ。遠坂に不意打ちを仕掛けたやつを、一発殴ってやるまでは冷えそうにもない。
握りもしない、しかし確かな自信を持って、枯れた林の中へと進む。
▼
「アーチャー!」
少女を抱き上げながら、サーヴァントの名前を呼ぶ。
遠坂の側に、腕組みをしたアーチャーが現れた。
「呼んだかね、凛」
「アンタ、どうして衛宮くんが庇うまで黙って見てたの?いや、それを問い詰めるのは後よ。
衛宮くんを追って。絶対に死なせないで!これで死んだら、借りを返せないわ」
「………」
アーチャーは無言で消えた。敵の攻撃に黙って見ていたあいつもムカつくけど、それ以上に彼にはもっと腹が立つ。いや、それを通り越して呆れすら覚える。
さっきまでアンタを殺そうとしていた私を、どうして庇ったりなんかするのか。
「あぁ、もう!とにかく、この女子生徒を何処かに寝かせないと」
急がなければ。アーチャーが行ったから大丈夫だとは思うけど、任せてばかりじゃいられない。女子生徒を校内の廊下に横に置いて、先程の渡り廊下へと出る。
不意に嫌な気配を察知した。何かに従うように、前へと回避行動を取る。すると、鋭く宙を割くナニかが先程いた場所を通り過ぎた。
「こ、こいつら何なの!?」
それは、黒い何かだった。
線、あるいは影。それか魔力。
行先を覆う無数の影が、異形をなして遠坂の周囲を囲まんと迫っていた。
文句を言う暇もない。ありったけのガンドを掃射。次々と影に穴が空いて、無駄かに思われた攻撃は確かに効いていた。
「shuuuuuu」
だが、倒した先から同じ、いやそれ以上の数の術式で召喚される正体不明の影。
「くそ、嫌な性格してるわね」
距離は徐々に縮まっていく。
「フフ、アハハハハハハハハ!!!」
三日目を迎えました。ここまで来るのにまさか四ヶ月もかかってしまうとは予想外です。(既に夕方ですが)