平凡な夕暮れは、道場を紅く包み込んでいた。
ごく平和な空間。坐禅が似合う時間。毎日訪れるこの間を、心地良く思っている。
「だってのにさ…」
そんな場の色とは程遠く、気温は肌寒い。その中で、士郎の頬を伝う汗が何を意味しているのかは、想像するに難しい。
素足で道場に立っているなら普通、寒い寒いと呟きながら両手を擦り合わせるくらいはする。しかし、摩擦熱さえ必要としない程に、彼は闘志に似た熱を、神経に張り巡らせていた。
「なあ藤ねえ」
少しだけ違う雰囲気の中に向かい合う二人。士郎は緊張混じりに呟いた。声を掛けたその人は。
「ん、ど〜したの士郎」
藤ねえと呼ばれた女性、藤村 大河の呑気な返事に思わず自嘲的な空笑いが込み上げてくる。
目の前に迫る虎から、視線を背けられない。既に俺は、彼女に倒すべき敵として、今夜の食卓に並ぶ酒の肴として見られてしまっている。
それも、出来レースもいい所。俺に勝ち目がないからこその、
あらゆる感情を全て置き去って、今はただ後悔するしかなかった。
「剣道で勝ったら。そう言ったよね」
「うん、そうだよ〜?……あ〜、誰がとは言ってないけどねー!あはははは〜」
「あはは、じゃないんですけどぉぉお!?」
なんてわざとらしい…テヘッじゃないんだけど。
やられた!やってしまった!
俺は、藤村 大河という人物の性格をここぞという時に忘れていた…
「そう騒ぐなって。だぁいじょぉぶ、ホレ竹刀だ士郎。そりゃ、一本勝負かもしれねが、気合いで負けたら勝てるもんもダメになるぜ?」
「う、ぅ……」
竹刀を持って来てくれたセイバーに背中を叩かれながら、応援してくれている事を実感する。しかし、それでも藤ねえに勝てるかと聞かれたら勿論……NO!
つい二、三週間前に腹ごしらえにと久しぶりに、居間で相変わらずゴロゴロしている藤ねえに手合わせを申し出た。いいよ〜という軽い返事を受けて、今の眠れる虎にならいい勝負が出来ると一瞬でも思ったあの瞬間が懐かしい……。
内容は寸止め一本勝負。理由は、あの時のウチには防具が無いからだ。お隣の藤村組に貸していた。下手に当たって怪我でもしたら大変だし。……まぁ当然、結果は惨敗。「いつでもどうぞ〜」と先手を貰ったのだ。何もせずに終わらないぜ!なんて意気込んで踏み込んだ瞬間、藤ねえに向けていた筈の竹刀は道場の床へと下っていた。俺が踏み込んだ時既に、彼女の竹刀が俺の竹刀に触れ、どういう理屈かは知らないが引っ張ったのだ。そんなのありかよ、なんて思いながらしたり顔で此方を見る藤ねえの顔に、軽く恐怖を覚え………無念にも床に転がってしまいゲームオーバーである。
「セイバー、あの虎がどんだけ凄いと思ってるんだよ……」
藤ねえは剣道五段の所有者。剣道は一段上がるだけでも気の遠くなるような修行が必要で、彼女の若さ(?)で五段とは、正真正銘の化け物。あの時、改めて藤村 大河の異名「冬木の虎」は伊達ではないと痛感した。
ちなみに現在、剣道の最高段級位は八段で、十段と九段は相当昔に廃止となっている。どう考えていたのか、昔の俺は十段まであるものと思っていたんだ。
「アンタの分の竹刀だ。実力は、その手と足をみりゃ何となく分かる。まぁ、相手のチョイスに悪意があるけどよぉ」
俺の真っ青な表情もどこ知れず、セイバーは藤ねえに道場の端に置いてあった竹刀のもう一つを手渡す。差し出された竹刀をすぐ受け取ろうとせず、どうしてか藤ねえはセイバーの手や足、顔をジーッと観察している。それも、警戒心剥き出しで。一体どうしたのかと声を掛けようとして、ようやく竹刀を受け取った。
「ありがとうセイバーさん。けど、そんな気遣いをしてくれたって無駄よ!士郎を相手でも、手加減はなし。
何も知らない、切嗣さんの名前を出してきただけの貴方をこの家に泊める事は私が許しません。偶に出てくる士郎のお願いは出来るだけ聞いてあげたいけど、私の直感が貴方はダメだと言っているんです」
「………そりゃ、すげぇモン持ってんだな」
彼女は一体、何を感じたのか。
普段とガラリと違うってゆーか。野生の勘がすこぶる働いている様子。
「うーん…」
道場に入る前。
廊下を歩く俺に後ろか、セイバーが耳打ちをしたのを思い出す。
「士郎、多分お前のねーちゃんは、俺に勝てないって分かってるぜ?実力を見誤らない程度に、すこぶる強いぞ」
すごい。藤ねえを見ただけで、セイバーはそこまで分かるというのか。
けど、そんな事言われてもどうしようもないんですけどね。
「それに、俺には見えちまう。あのねーちゃん、幸運値的なモノがパラメーター振り切れてるわ。ここぞという勝負所で、天運に恵まれてやがる。下手すりゃ俺も負ける可能性あるんだけど」
「ちょ、なんだよそれ!これに負けたらセイバー、この家から追い出されちゃうんだぞ!?」
「んー?勝ちゃあいいんだよ」
この時の顔を忘れない。
何故って、物凄く悪い顔だったからだ。
緊張走る中、いよいよ始まる。審判を申し出たセイバーが、その前に一言。
「士郎、それに士郎の姉ちゃんは防具いらねーのか?」
「そうね、士郎は着けときなさい。今日は少しだけハッスルしちゃうから、防具無しだとタンコブ出来て明日、学校で皆んなに笑われちゃうよ〜?」
「余計なお世話だ。藤ねえが着けないなら俺もいい。こっちだって、タンコブ出来るくらいの勢いじゃないといけないしな」
その必要はないと、竹刀を構えて返答する。
頭を掻きながら、セイバーは。
「そんじゃ、はじめ」
などという腰の抜けそうな合図と共に、幕は上がった。
「せぇぇぇぇいっ!!」
攻撃を仕掛けたのは藤ねえ。
身構えていても怯んでしまうような、虎の如き声と共にこちらの差を縮めに来る。
その動きは速い。付け加えると、この動きこそが本当に無駄がないんだなと感心してしまっていた。野生のようなスタイルかと勘違いしそうになっていたが、剣道のセンスは並外れている。
「…ッ!」
だけど、見惚れてもいられない。
早々に面を打ちにくる竹刀を、危うい動作で捌きにはいる。
バシッという短い音と共に、俺の竹刀はなんとか藤ねえの攻めを捌く事に成功した。
捌いたのと同時に、次の動作を足に集中して攻めの形にもっていく。
剣道の攻めで最も重要なのは、足運び。兎に角、連続技を繰り出す為には踏み込みがしっかりと出来なければならない。竹刀だけが先行して、足が追いつかないなんて事が良くあるのだ。
「ハァッ!!!」
「むむー!」
選んだのは、胴。
面を捌いた勢いを、円弧を描くように打って出る。
最短距離で、動作も短く。当てに行く。きっとこれでも、俺の中では過去最高に上手く出来たという会心の返し。
「やるわね、けど甘いっ!」
胴が決まる時、それは相手の手元が面等の打ちに来た瞬間に上がった場合だ。今の彼女が正にそれ。攻めに来て、面の態勢に入ったのをこの目で確認した瞬間、捌いてから胴を打つまでを見据えていた。
「ぐ…」
なのに、藤ねえの手元が上がっていない…!
完全に捌いた、間違いない。目元は上がったままだった、その筈だ。
理屈どうこうを考える余裕はない。結果として、俺の胴は見事に守られてしまった。
「士郎、アンタいつの間にあんな動きが出来るようになったの?ちょっとだけお姉ちゃん驚いちゃったゾ」
「よく言うよ……目で追えなかったけど、どうしてか今は何となく見えるんだ。俺でもわかんねえ、よっ!」
確かに、藤ねえの動きが何となくわかっている。その理由は知らないけど、軽口を叩く暇はない。
拮抗した状態から離れ、蝕刃の間へと落ち着く。
竹刀と竹刀が僅かに触れ合う間合い。俺はあまり理解出来ていないが、達人はこの時既に、幾重もの攻防を繰り広げているらしい。
……集中だ。分からなくても、出遅れてもいい。相手の動きを見てから行動するのは、先手を取られるので気持ちよくはない。だけど、今の俺には、セイバーみたいな技術も何もない。ただのマスターなんだ。
周囲の音が沈む。注力されるのは、目の前の藤ねえの全て。後手に回ってからの、切り返しを狙う。目標へ向けた第一歩か。こんなものでは足りないという、焦りを振り払う。
十秒の沈黙。彼女の表情が曇る。どうしてなのかは考えない。いつ動くのか、どう対処すれば最短で倒せるのか。今までは思いつかない手が、頭の中をぐるぐると回っている。
五秒の触れ合い。一瞬、俺の竹刀を誘うように、藤ねえの竹刀がシュッと下がる。
「せぇぇっっ!!!!」
直感で、これはフェイクだと理解する。小手に見せかけた、本命の面。
(来る…!)
いつもなら、簡単に釣られる筈のソレを見送ると、彼女は驚いた表情を見せる。だが、それでも関係ないと打ち出してきたのは、やはり!
跳ね上がる竹刀。それは本来なら追いつくはずも無い、ただ虎の如き圧に押されるばかりの技。ただの面なのに、心の底から感心を思い、いつか反応してやると対抗心を燃やしていた。藤村 大河の打ち込みに、俺は更に一段と集中して捌いて…………
「めぇぇっ………」
コトン
「ぇぇ………えん?」
捌いて、そして早く切り返す姿をイメージしていたものが、気の抜けた声と共に掻き消された。
藤ねえの足元に落ちた竹刀。手を離したのではなく、つばの部分から上が綺麗に折れてしまった!なんでだよ、なんて考えているけど。
「げ、やばい」
このままじゃ、俺の竹刀が藤ねえの右頬を直撃してしまう!止めようにも、勢いが死んでくれない。
どうにか軌道だけでも逸らそうとするけど、やっぱりダメだこれ。当たる……!
「おっと、そこまで」
パシン、しなる音に吹き飛ばされる俺の竹刀。
二人の間に立っていたのは、木刀を抜いたセイバー。
「た、助かったよセイバー」
安心して床に崩れる。
藤ねえも同様。……あれ、様子がおかしいぞ。
「おい士郎の姉ちゃん大丈夫か?」
「セ、セイバーさんっ!」
おい待て。どうして薄っすらと頬が赤いんだ藤ねえ。どうしてときめいて…
あ、そうか。今が夕暮れだからか。
「気に病むんじゃねえぞ、ねえちゃん。こりゃ稀にある事故だわ。竹刀が傷んでやがるせいで、ぶつかり合った瞬間に折れちまったんだな。
けど、運を引き寄せた士郎が今回だけは上手だった。それだけの話だ、うん。それで、俺の件は一件落着?」
顎に右手を当てながら、何か無理矢理に話をまとめようとセイバーは早口にそう言った。その理論、通るのか…?
パチパチと瞬きをして、ようやく状況を飲み込んだらしい。
「う、うぅ〜〜〜〜〜。納得がいかないからもう一度、って言いたいけど。わ、わかったわよ。約束は約束……。今回はたまったま、たまっっったま、私の負けよ。
どうぞ空いてる部屋を好きに使ってください、セイバーさん」
「い、いいのか藤ねえ!?」
はぁ、と溜息を吐きながらだけど、セイバーに泊まる事を許してくれて本当に良かった。負けてセイバーが追い出されたら、一緒に食卓を囲えない。マスターとして、それは避けたかったし、負けてしまう可能性が大きかったから土下座する予定もあったけど。とにかく一件落着。
落着……のはずだ。
「藤ねえ、大丈夫だよ。何か変な事がある訳でもない。普段通りの毎日を送るだけだから」
「まぁそうだけどー!あーもー、お腹減った士郎〜。ご飯ご飯!」
「はぁ、これだもんなぁ。あとは火を通せば終わりだから、もう少しステイステイ」
ぶーぶーと一向にうるさくなる藤ねえに引っ張られて、道場を後にした。セイバーは、少し残るとの事だから、ご飯が出来たら呼びにこよう。
▼
見事に折れた竹刀を片手に、銀時は不思議そうに首を傾げていた。
「本当は士郎が打ち込んだくらいのタイミングで、姉ちゃんの竹刀が折れる予定だったんだけどなー。おっかしーな、結構入念に造ったのによぉ。
なに、リアルラックってやつ?恐ろしいぜ全く」
彼は打ち合いの終始を、ハラハラしながら見守っていた。
彼が呟いたように、藤村 大河に渡した銀時特性(ゲス)竹刀がポックリと逝かなかったからだ。
あれ、どうして折れないの?
社会の理不尽に揉まれる新社会人みたいに折れやすくしたのに、どうゆう補正かかってんだぁあ!?
結果として、ここ一番で折れた。
しかし、折れてほしくない場面でもあった。
「士郎のやつ…」
あの瞬間、士郎が藤村の竹刀をどう捌くのかを見てみたかった。
二人の会話から、士郎はほんの数週間前まで藤村の太刀筋がまともに見えていないとか。
先程はどうだ。あれは、完全に見ていた。そういう立ち回り、足さばきだ。
もし何らかの変化があるとしたら、それは。
「…どうしてかねぇ」
日の沈む外を見ながら呟く。
折れた竹刀を魔力に変えて霧散させながら、暫く一人、道場であぐらをかいていた。
▼
「あぁ、そうそう。桜ちゃんね、暫くは家に帰ってこれないんだって〜。なんでも、お爺ちゃんの体調が悪くなったらしくてさ〜」
夕飯の支度中、居間に寝転がる藤ねえが割と重要な事を言う。
そうなのか。桜のお爺さんには失礼だけど、ナイスタイミングだと拍手を送りたい。
「それは残念だ。今日は気合い入れたのに。よし、これで終了だから、セイバー呼んでくる。抜け駆けはダメだぞ〜」
「はいは〜〜い!」
箸を並べ終えて、居間を出る。あの返事は多分、守る気はないという感じの返事だ。セイバーと一緒に居間に来れば、タレに纏わる焼肉を口いっぱいに頬張っている姿が目に浮かぶ。
小走りで道場に向かう。
外は暗いから、道場から漏れる明かりが目立つ。今、少しだけ心臓が暴れている。藤ねえが帰ってから言うより、早く口にしたい事がどうしてもある。
道場のドアを開けると、俺の気配を察したのか既に立ち上がったセイバーがこちらを向いていた。
「お、飯出来たか!んじゃ行こうぜ」
欠伸をしながら歩いてくるセイバー。
せっかくご飯が出来ているんだけど、このタイミングで言うのがベストだと思った。突然言っても困るだろうし、何かと準備もあると思ったからだ。
「藤ねえの前では言えなくてさ。今のうちに、言っておきたい事があるんだ」
「ん?真面目な顔でどうしたよ」
それは。
「セイバー、俺に実践的な稽古をしてほしい」
俺の目標は、セイバーの隣。
どうすればそこに行けるのかは、走り出してから考える。
「…」
セイバーの坂田 銀時と藤村 大河が剣道勝負したら、物凄い強運に恵まれて0.1%の確率で大河が勝ってしまう。そんな裏設定があったりなかったり……