カツカツと階段を降りた先は知識の海原。
私を埋めつくさんばかりの本が所狭しと並ぶ素晴らしい場所。
真っ赤一色の館の中で実に彩り豊かな場所でございます。
真っ赤な嘘とは言わずとも、結果的に嘘を吐いてしまった私めは、そんな海に沈んでいくことになるのでした。
季節は言わずもがな夏の頃。夕闇の如き薄暗い地下からお送り致します。
私、韮塚 袖引 相談しております。
薄暗い階段を下っていくごとに、コツコツという音が響き、蝋燭の明かりは私たちが通り抜けるごとにゆらゆらと揺れ、私たちの影を揺らします。
そして、私の心もグラグラと、天地がひっくり返ったかの様に動揺しておりました。どうしよう、どうしようという文言が心の中に木霊し、ドンドン焦りを増加させております。
すでに私の気持ちはギリギリまで湯を張った桶の様な物。ちょっと揺らしただけで色々と漏れてきてしまいそうな状態であり、引くも出来ず、進むも出来ず、足踏み状態。
ついにドン詰まりの中、階段は終わりを告げ、またしても大きな扉の目の前へとたどり着いてしまいました。
よどみの無い動作で十六夜様が、大きな扉をギギギと開きますと、中から古びた本の香りがフワッと漂ってまいりました。
本居様が経営していらっしゃる鈴奈庵の墨の香り入り混じる香りともまた違っており、たまに商人さんが使っていらっしゃる、万年筆に良く似ていらっしゃるインクの香りと、カビとホコリと古い紙の香りが入り混じる古びた知識の香りが漂っておりました。
その雰囲気は静謐そのもの。本から空気に至るまで全てが息を潜めている。そんな静寂が支配しておりました。
そんな知識の海に圧倒されておりますと、すすすと、お嬢様な方が邪魔するわよー、と入っていきました。静寂をぶち壊さん勢いで入っていくその姿に呆然としておりますと、十六夜様がどうぞの仕草。お次はどうやら私の番の様子。私は、十六夜様に促されるままにそっと部屋へ足を踏み入れました。
恐る恐る足を踏み入れますと、ふかふかの地面が私の草履を包んでいき、更に場違い感と言いますか、私めの様な弱小妖怪では不釣り合いだぞ、と警告されている様でありました。
助けを求める様に後ろをぐるりと振り向くと、十六夜様がギィと極力音を立てない様に扉を閉じつつ入ってきておりまして、それの扉がまた、牢獄の檻の様に感じてしまい、心の中では閉めないでーと声を大にしておりました。
ついにはバタンと閉まりきり、退路が断たれ、進むしかない状態。
しかし、先に行ったお嬢様さんはずんずんと先へ行ってしまい、薄暗い棚の中何処へ進むべきかも分かりません。半ば涙目の様相で十六夜様の方に振り向きますと、お先へと促すばかり。不安を抱えつつ、本の海で二の足を踏んでおりますと、棚の奥から声が響いてきました。
「誰かしら?」
少し眠たげな声が棚の奥から響き、ひょこっと、ゆったりとした服をお召しになさった御方が長い紫髪を揺らし、顔を出しました。
全体的に色素が薄いというか、病的なまでに肌が白く、薄暗い中、その病的な白肌はぼぅと浮き上がる様でした。
と、まぁ、そこまでしっかりと描写出来る程の余裕なんぞ当然ございません。いきなり、響いた声に私の身体は飛び上がらんばかりでした。
バクバクと高鳴る心臓を抑えつけつつ、振り向きますと不審げな表情で此方を見つめる方が一人。返答に困っておりますと、十六夜様が駆けつけて下さり、事情を説明してくださいました。……当然記憶喪失であるという事を交えながら。
今度こそ訂正の機会を失ったとばかりに打ちひしがれておりますと、こちらはパチュリー・ノーレッジ様と紹介してくださる十六夜様。魔女であるという説明を受け、魔理沙さんの事を思い出しておりますと、ズンズンと先に進んでいらした少女さんが不満げな表情をぶら下げつつ戻って参りました。
そんな不満げな表情のまま、少女さんは仰いました。
「ちょっとパチェ! いるなら返事位しなさいよ」
「いいじゃない別に、いちいち声を出すのも面倒」
そんな不満の声を聞いて、面倒くさいとばかりに表情を変化させ、雑に返答してまして仲が悪いのかと思えばそうでもなく、そのまま会話を続けていらっしゃいました。
私は手持ち無沙汰のままその会話を聞きつつ、本棚をぐるりと見渡しておりますと、本棚の奥にいらっしゃった赤い髪の方のばったりと目が合わさってしまいました。
暗いからいまいち表情等が分かりかねますが、どうやらちょいちょいと手招きをしていらっしゃるご様子。然程強い力も感じられず、このお二方のお近くに侍るよりはマシかと考え、そちらの方まで近寄って行きました。
まぁ、今思えばなんて迂闊であったかと罵倒してしまいたい程ではありますが、当時としてはもう、脳内が二転三転、気も動転してしまい、コロコロと変化する状況に全く頭がついていけなかった為、仕方がありませんでした。えぇ、仕方がなかったのです。
何はともあれ、悪魔の館で愚かにも手招きに乗ってしまった私はそれ相応の報いを受けることと相成りました。
手招きに乗せられ近寄っていきますと、クイクイとお二人の死角に連れ込まれました。そして話の出来る距離まで近寄りますと、きちっとした服を着こんだ赤髪のお方の姿がはっきりとして参りました。
腰位までの赤髪に、闇に溶け込みそうな暗い色をしたお洋服。巷ではスーツなんて呼ばれていらっしゃる物をかっちりと着込み、美しいと言っても過言では無いそのお顔に、何やら怪しげな笑顔を貼り付けておいででした。
その方は極めて優しい口調で此方に話し掛けてくださいました。
「こんにちは、私は小悪魔と申します! 貴女のお名前は?」
妖しげな笑みは何処へやら、先程の妖しげな笑顔は見間違いかと勘違いをしてしまう速さで人当たりの良い笑顔を浮かべ、此方に挨拶して下さいました。
この挨拶を見て、私はコロリとやられてしまったのです。初恋の乙女ですらもう少し疑うでしょうと言った所。
しかし、すでに私の脳内は、ようやくまともな人に会えた! の一点張り。疑う余地など私の小さい身体には存在致しませんでした。
まともな人、相手をそう思い込んだら最後。私は頭や背中にございます、蝙蝠に似た羽など目に入らずに、ただひたすら歓喜しておりました。
そんな嬉しくなってしまった気分のまま、私は名前をポロリと教えてしまいます。
「はい、私は韮塚 袖引と申します」
そう名前を答えますと、ニヤリと三日月を彷彿とさせる様な笑みが相手方のお口に浮かびました。そんな笑みを張り付けたまま、呟くようにこちらに言葉を投げかけました。
「いい子ですねー。──本当にいい子」
その言葉と共に、頭に手を伸ばしてきます。身長差がある私は、頭上から伸ばされた手を……受け入れました。
サラサラと普段最低限の手入れしかしていない髪の上を、白く細い指が流れていきます。まるで、心が溶かされていくように心地よい感覚が流れていきました。
視界がだんだんと揺れ始め、軽い酩酊感を覚え、心は軽く、まるで天にも昇る気持ちで──
小悪魔さんが、更に言葉を続けました。その言葉は耳にこびりつく様に反響し、私を更に揺らしていきました。
「あなた、迷っている事があるでしょう?」
目の前にいる方はもうニタリとした笑みを隠そうともしません。それでも何故か逆らえずに、ただ頭を撫でる手の感覚だけが適度に心地よく脳髄に響いておりました。
とろけるような感覚の中、ただひたすらに目の前の方に告げられた言葉を反芻します。
迷っていること、迷っていたこと。………何か忘れているような。何か失くしたような。そんな感覚に気づき、更に深く探っていきます。
まどろみに近い感覚の中で、私は、何か零れ落ちてしまった様な物を探りあてました。それは手を伸ばせば掴めそうな位置にあり、私はそれに手を──
「その揺れる魂が本当に美味しそうで、美味しそうで! ───ねぇ、味見させて頂けませんか?」
その言葉にはっ、と引き戻されまして、眠気の様な感覚とともに浮かんでいた事も吹き飛んでいきました。気が付くと小悪魔さんは、撫でていた手を引っ込め、ベロリと真っ赤な舌を出し、右手で胸元を緩めつつ、更に一歩。私との距離を縮めました。
そんな淫靡な雰囲気に気圧されて、いつの間にか動ける様になった足をズリ、と一歩後ろへ引こうとすると、とす、と背中に本棚がぶつかってしまいます。ハァハァと艶やかな息を弾ませて、また一歩。すらりと綺麗な足が近寄って参りました。
私は二日酔いの様にガンガンと痛む頭を抑えつつ、どうにか離脱することを考えます。しかし一歩遅かった様で、小悪魔さんの両腕がドン、と私の頭を挟み込む様に壁に押し付けられました。
目前に程よい大きさのお胸と、綺麗なお顔が迫ります。そのお顔は完全に紅潮しており、ある意味ではこの館に相応しい顔色となっておりました。
「逃しませんよぉ、こんなに美味しそうなのは久々です……」
熱い吐息が私へと掛かり、熱を伝導させていきます。
あぁ、此処で襲われてしまうなんて、と少し呑気な事を考えつつも、どうにかして脱出を試みますが、実力行使以外ではどうにも抜け出せない様子。
先ほどまでは無様にも、妖しい術にかかっておりましたが、二度目はありません。……ありませんよ?
まぁ、ともかくとして、どうにかして暴力沙汰以外でこの状況を抜け出したいものです。こんな場所で事を構えた日には、十六夜様を始め、色々な方が私目掛けて報復、という事にもなりかねません。そうなってしまえばまず勝ち目なんぞございません。無残に引き裂かれる事でしょう。
しかも、目の前の小悪魔さんに勝てるとも限りません。本人自体の力は弱いようですが、どこからか力の供給を受けておられる様子。危機察知能力に一家言ある私が見誤ったのも、そこが原因かと思われます。そうに違い無いのです。
何はともあれ、暴力沙汰以外で抜けたいものですが、目の前の方がそうもさせてくれません。ちょっとでも動けばぶつかる距離まで迫った綺麗な顔。そこから伸び出る舌がこちらの頬を舐ります。
「抵抗しないんですかぁ? じゃあイっちゃいますよ?」
さらに息を荒くさせ、せまる顔。もうダメかと言う瞬間。天からの助けが来てくださいました。
「何やってるの!」
そんなお声と共に、小悪魔さんの脳天に天罰もとい、分厚い本が振り下ろされました。
「痛い!?」
小悪魔さんから悲鳴が上がり、目の前から綺麗なお顔がフッと消えました。
少し目線を下に送るとうずくまる小悪魔さんの姿。そして、視線を横にやると本を両手で抱えたパチュリー様の姿がございました。
こちらの姿を見ると一安心した様で、ホッと胸を撫でおろし、話掛けてくださいました。
「大丈夫かしら? 変な事は……されているわね」
「あぁ、いえ、お気になさらず」
「はぁ……そういう訳にも行かないの、貴女はレミィのお客さん。私の部下が手を出したとあっては面倒なのよ」
そう言いながらも、パチュリー様は柔らかい布で頬を拭いてくださいました。そのまま、小悪魔さんを見下ろしました。
ううう、と呻きながらも恨みがましい声で、パチュリー様に非難の声を上げました。
「せっかくチャームを掛けたのに酷いですよぉ」
やはり術を掛けられていたかと思うと同時に、反省した気配を見せないその様子に尊敬すら沸いてきました。
そんな私とは対照的に、パチュリー様は苦い顔。まさしくやれやれといった風体で額に手を当てて、小悪魔さんにお小言を述べました。
「小悪魔、見境無さ過ぎ」
「えー、だってこんな可愛い子を見たら、ちょっかい出したくなるじゃないですかー」
口を尖らせ不平不満を述べる姿を見ていると、むしろこちらが悪いのではと思ってしまう程。しかしその態度はパチュリー様の癪に障ったようで、極めて低い声で言いました。
「小悪魔、反省室ね」
「えぇ!? あそこはもう嫌です!! 不当です!!」
「正当よ!」
そんな声を出しつつ、あっちに行きなさいと命令しました。どうやら魔力が籠っていたようで、小悪魔さんは逆らわずに退場していきました。
去っていく最中、小悪魔さんはこちらへと向き、さようならーとばかりに声を投げ掛けてきました。
「袖引さーん、また遊びましょうねーー」
そんな声を聞き、パチュリー様はため息、私は何とかなったと安堵の息を吐きました。そんな様子を見て楽しむかの様にニヤニヤしていらっしゃる方が一人。
「貸し一つね、パチェ」
いつの間にか、近寄ってきていたお嬢様な方がそんな事をおっしゃいました。それに対し、パチュリー様は面倒だと言わんばかりに私の手を引いていきます。
そして、すれ違い様に呟きました。
「これから帳消しになるんでしょうに」
引っ張ってつれて行かれた先は大きな机と椅子そして、一つだけ安楽椅子が配置されている、読書をするような場所。しかし、その机の上には魔法陣やら薬品やらが所狭しと置かれており、いかにも魔女の工房といった風体。
正直今すぐにでも帰ってしまいたいところではありますが、威圧やら、魅了やらで心身ともに疲れ切っており、促されるままに椅子へと沈み込みました。
魅了の影響なのか頭がガンガンとしており、今すぐにでも眠ってしまいたい。そんな気分の中、いつの間にか、現れた十六夜様が、紅茶を入れてくださいました。
こぽぽぽと耳に心地よく響く紅茶に合わせ、私の頭もこっくりこっくり。甘い匂いに誘われる様に、深い眠りへと落ちていきました。
「でね、そこにいる妖怪のことなんだけど」
「咲夜から事情は聞いたわ。正直面倒なんだけど……貸しだものね」
眠る前にそんな声を聞いたような気も致しますが、もう夢か現実かは、はっきり致しませんでした。
目が覚めると再び、図書館の中。向かい合わせの安楽椅子にはパチュリー様が座られており、紅茶をすすっておいででした。
何か夢を見ていたような気も致しますが、とんと思い出せません。寝起きのボンヤリとした頭を捻っていると、パチュリー様がこちらに気がつきました。
「あら、目が覚めたかしら?」
紅茶の入った容器を傾けつつも声だけ投げ掛けて下さいました。この声でようやく何処であるかを思い出し、慌てふためき返答しました。
「申し訳ございません!! つい、うとうとしてしまい!」
「いいのよ、そっちの方がやりやすかったし」
紅茶を降ろし次は本に視線を落としつつ、返答しておられるパチュリー様。さらにパチュリー様は、それに、と付け加えて話されました。
「いろいろと興味深い事も出来たしね」
そんな恐ろしい言葉に、たらりと汗が流れます。恐る恐る、その色々について聞いてみる事に致しました。
「あの、その色々というのは?」
「……聞きたい?」
こっちに視線を寄越し、パチュリー様は問いかけます。そこには聞いてはいけないような深淵が隠されているようでつい尻込みをしてしまいました。
「い、いえ、大丈夫です」
「そう」
そう仰るとパチュリー様は再び本へと視線を落としてしまわれました。頁をめくる音だけが静寂の図書館に吸い込まれていきました。
そんな態度にへどもどしておりますと、再びパチュリー様から声が掛かります。
「記憶喪失って話だったわよね?」
「え? あ、はい」
「今の所、私に戻せる記憶は見当たらなかったわ」
さらりと言われた事ではありますが、それは当然と言うもの。何故なら、一時的に記憶が飛んだだけの事。そもそも戻せる記憶なんてございません。
同じ調子のまま、パチュリー様は続けました。
「だけど、レミィに突っ込まれるのも面倒だから、治したという事にしておいたわ。それでいいかしら?」
そんな幸運が固まりとなって転がってくるような状況に顔がほころぶのが隠せませんでした。勢い勇んでパチュリー様に返答致します。
「いえ! むしろそれで良いんです! それが良いのです! ありがとうございました!」
「そ、そう……」
気圧されたかのように、少し引き気味になるパチュリー様。そんな引いた状態のまま付け足すように言いました。
「あぁ、そうそう、右腕がスカスカだったから、そっちは直しておいたわよ。これはサービス」
そんな事を言われ、右手を開いたり閉じたりすると、確かに鈍い痛みが消え去っており、快癒したことが伺えました。再びパチュリー様に向き直り、感謝の念を伝えました。
「ありがとうございます」
「大した事では無いわ」
本当に大した事が無い様に、手をひらひらとさせ、応じるパチュリー様。
お優しい方だと内心でも感謝しておりますと、ギギギと扉が開く音が聞こえ、お嬢様さんが十六夜様を伴なって入って参りました。つかつかと足音はこちらまでやってきまして、私を見るや、言葉を発しました。
「ようやくお目覚めかしら? 韮塚とやら」
「あっ、はいお蔭さまで」
そんな高慢な態度を取られましたが、パチュリー様との会話の調子を継続してしまい、非常に穏やかな返答になってしまいました。
当然そんな態度をとられたお相手さまは調子が外れたとばかりにずるっと転げる勢い。
そんな拍子抜けした様な表情のまま、こちらに問いかけます。
「ま、まぁいいわ、私の名前は言えるかしら?」
記憶喪失が直ったかと確認したいようですが、生憎、目の前にいらっしゃるお方については誰からもご紹介されておりません。
返答に困った顔を浮かべていると、十六夜様がハッと気が付いたような顔をします。
そして、うっかり買い物忘れをしたかの様な調子で言葉を発しました。
「あ、お嬢様の紹介を忘れていたわ」
その言葉を聞いて更にがっくりとするお嬢様さん。なんというか少し親近感の様なものが沸いてきてしまいます。
頭を抱えつつ、言葉を発します。
「お前、メイドとしての自覚をだな……いや、その前に自己紹介ね」
十六夜様に向けていた顔を此方に向けて、威厳を発しました。先程の威圧と違い、立っていられないというものでは無く、自然とひざまづきたくなるような強大な妖怪の証。
そんな物を直に喰らった私は、またしてもガチガチに緊張をし、お嬢様の次のお言葉を待ちました。
「私は、レミリア・スカーレット。紅魔館の主にして齢500年を超える吸血鬼よ」
「盛ったわね……」
「パチェうるさい」
自己紹介の後に何か二人で会話しておられましたが、そんなものは耳に入って参りません。
吹き付ける暴風の様な威厳が私の身体を襲います。しかし、自己紹介をされ、此方が返さないとあっては不義理というもの。そんな暴風雨に負けない様に自分も紹介し返します。
「私は……韮塚 袖引です。人里で呉服屋を営んでおりますっ!」
「……やっぱり根性あるわね」
そんな言葉と共に、身体に活力がフッと抜け思わず前のめり。おっとっと、と勢いを殺しながら前に向きますとふふふと笑った、レミリア様の顔。
実に楽しそうにしながら、レミリア様はこちらに話掛けます。
「お前、いや、袖引。あなた気に入ったわ。私の圧力をその力で良く受けきったわね」
そのお言葉と共に、レミリア様は此方へ近寄ってきました。その行動に敵意は感じられず、ただ愉快そうにしているのみ。そしてついには目の前にやってきたレミリア様は、右手を私の頬に当てました。
突然の言動に眼を白黒させておりますと、レミリア様は紅い目を此方に向け、口元に光る牙を此方に魅せつける様に言葉を発しました。
「ねぇ……私の物にならないかしら?」
私の背丈と同じくらいの方が発したとは思えない色気に思わずクラクラしてしまいます。先程の魅了と違い、あくまで、自分から承諾してしまいそうな、その本人の魅力を増幅させているかのような力。
しかし、
レミリア様のものになるという
「いえ、
「そうよ、それでいいの袖引。それでこそ紅魔館専属の商人に相応しい」
からからと笑いながら、嬉しそうにするレミリア様。何故気に入って頂けたかは分かりませんが、どうやら本当に気に入って頂けたご様子。専属の商人認定まで頂けて、嬉しいばかり。
そんなやり取りを見ていらした、十六夜様は少し嬉しそうに微笑み、パチュリー様は本をめくりながらも、ちらちらと視線を投げかけて下さっておりました。
私が周囲を眺めておりますと、まるで引き戻すように、レミリア様からお声が掛かりました。
「何かして欲しい事はあるかしら? 色々と迷惑を掛けたし、今なら何でも叶えてあげるわよ?」
背中の羽をぱたぱたさせつつそんな事を言って下さいました。
突然そんな事を言われ、咄嗟に出たのは、先ほどの小悪魔さんの言葉。迷っていることがある、というその言葉。
ここに来た理由の一つとも言える、人間様との距離について聞いてみたくなりました。
ここには恐らく人間である十六夜様も住んでおり、人間様と妖怪が共存しております。そして何より、レミリア様は吸血鬼。つまり、人間様を食料とする種族である筈。そんな種族の方が人間様と住んでいる。そして500年も生きていらっしゃる。
何か答えを持っていると、考えました。
「相談を受けてくれますか?」
「相談? ……まぁ、いいけど」
オウム返しに聞きかえされた後、もっと大きな事を要求されると思ったのかまたもや拍子抜けした様な表情を浮かべておりました。
そんな表情を見つつ、人里に住んでいるという事。そして人間様との距離を測りかねていること、それが現在の悩みである事を告げました。
こんなこと出会ったばかりの方に相談するべきではないのかもしれませんが、年齢が倍以上もある大先輩に相談できる、またとない機会。私の強気な部分が、行け、と背中を押しました。
そんな事を打ち明けると、レミリア様は、パチュリー様や十六夜様と顔を見合わせて、本当に何でもなさそうな表情で答えてくださりました。
「そんなの好きにしなさいよ、いちいち人間に伺い立てていたらやってられないわ」
ぱりん、と何かが砕ける。そんな感覚がありました。
いままでの私は人間様と共存するばかり考えておりました。いえ、人間様は大好きでございますので、共存はしたいのは間違いではありません。
ですが、いつの間にか、私がしたいから共存しているのでは無く、共存したいが為に私が変わろうとする。と言う事態になっていた事に気づかされました。
目が覚める、なんて表現は良く言ったものだななんて思いつつ、こんな小さな事に気がつかなかった私は驚き、水を掛けられたかのよう。
私の考えが劇的に変化する事こそありませんが、もっと自由に生きるべきだという言葉は、私の心に新しい風を吹き込んでくれました。
更に、レミリア様は労いの言葉を掛けて下さいました。
「まぁ、人里で生きるなんて私に出来ない芸当をやってのけているのよ、自信を持ちなさいな」
これでいいかしら? とばかりに肩を竦めるレミリア様。その言葉には確かな力が籠っており、私に自信をつけさせて頂くには十分でありました。
そしてレミリア様はクツクツと笑いだし、言葉を続けました。
「私に、しかもほぼ初対面で相談を持ち掛けるなんて、きっとあなただけよ。やっぱり面白いわ」
と、愉快そうに私の悩みごと笑い飛ばしてくださいました。紅き霧を出した黒幕様はどうやら霧の晴らし方もお上手な様子。
紅き霧も、私の悩みも晴れ、晴れて異変解決と相成りました。
さて、そんな事がございまして、レミリア様に気に入られる事となり、またいらっしゃいな、との言葉と共に、紅魔館から送り出されました。
時は、暮れかけた夕闇の時期。確かな闇が包み込むこの時間が少しだけ明るい様に見えました。
十六夜様と紅様が見送って下さり、夕闇へと飛び立ちました。此方に来た時のグルグルとした曇り空は消え去っており、遠くまで見通せる夕空に身を躍らせました。
さてさて、馴染みの自宅へ戻り、荷物を降ろし。といった瞬間、あっ、と思わず声が出てしまいました。
何故荷物を持っていたのか、本来何をしに紅魔館まで訪れたのか、という事をすっかりと忘れ、歓迎されるだけ帰ってくる、という商人にあるまじき行為をやらかしてしまいました。
心残りは消えましたが、仕事はしっかりと残し、まさしく本末転倒。
良い気分で帰ってきただけに、この落差は大きく、やってしまった、と布団の中で叫ぶこととなってしまいました。
後日、というよりその翌日。
十六夜様がうっかりしていたわ、との言葉とともに此方へ訪問してくださいました。
そして、レミリア様に大笑いされながら採寸を遂行する羽目になってしまいましたとさ。
なんて、昔語り風に落ちをつけても、恥ずかしいものは、恥ずかしいもの。
忘れられぬ言葉と忘れられぬ体験と共に、恥ずかしい記憶がしっかりと刻まれました。
しかし、頂いた物は大切な物。大事に仕舞って忘れるより、忘れたくても忘れられぬ方が良いのでしょう。
長い長い異変の一つは終わりました。なんて、綺麗に終われば良かったのですが、実はもう少しだけ続きます。
ではでは、次回も