「そういえば」
と、なんでもない事のようにダ・ヴィンチちゃんは問いかける。とても、これから第六の特異点に向かう者とは思えない。どこまでも普段通りに均された声音だ。
「何でしょうか?」
カレの隣を歩くマーキダは、事もなげに訊ね返した。こちらも、いつも通り。何が起きているのかすら不明の特異点に飛び込むというのに、恐れの色は微塵もない。あるのはただ、想い人と離れる事の寂しさ程度だろうか。
「君に一つ問うておきたいことがあってね。素面で言うには恥ずかしいが、どうか笑わずにきいてくれるかい?」
「もちろん構いませんよ」
「じゃあ、聞いてみよう」
カルデアの静謐な廊下に、静かな波がさざめいた。それからカレはゆっくり息を吸って、吐いた。この動作に意味があるかと言えば、きっと無い。
「君は私のこと、どう思っているのかい?」
「どう、とは?」
「そのままさ。人間性、趣味嗜好について、あるいはもっと魔術的な観点でも良いし、いっそ
「なるほど、これは確かに気恥ずかしい質問ですね」
納得したように頷き、しばしの間口を噤んだ。足音だけが廊下に響く。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……一言では言い表せませんね。カルデアを支える優秀なサーヴァントとして、共に戦う仲間として、非常に頼りにしています。あるいは筆頭の変人として、ちょっと警戒している節もあるでしょうか」
「くくくっ、これは手厳しいね。だがまあ機嫌を損ねはしないよ、だって真実だからね。私のような人種は得てしてそういうものさ、こればかりはどうしようもない」
笑い含みにダ・ヴィンチちゃんは告げて、目線で続きを促す。まだ奥に隠している感情もあるだろう、と。
あたかも全てを見通しているかのような態度に、今度はマーキダが苦笑した。
「流石は万能の天才、山育ちの成り上がりでは到底かないませんね」
「そう卑下することも無いさシバの女王。それで、本当は何を想っているんだい?」
「……嫉妬、ですよ」
囁くような声だった。それと同時に、常の彼女からは信じられないような暗い負の情動が微かに籠っていた。そんな自身を自嘲する笑みを浮かべて、更に続ける。
「私は貴女が羨ましい。生前、私と彼はたったの数か月程度の付き合いだった。なのに貴方は、五年もの時間をドクターロマンと過ごしている。きっとその間に私の知らない彼の面を知る機会はいくらでもあったでしょう。私はそれが妬ましい。だけど貴方がいなければ、今のような適度に緩い人になっていたかも怪しいでしょう。その意味では、感謝していると述べても過言ではありません」
紡がれる言葉はあたかも暗い闇のように嫉妬の念を醸しながら、一方で想い人を慮ってこそ相手を素直に讃えられる光もある。その情念は複雑怪奇で、聞いているダ・ヴィンチちゃんと言えども簡単に理解できることではない。
ある意味ではこれこそが、彼女の持つ女としての業なのかもしれなかった。
「そう、結論として私は貴方がとても羨ましい。本当は、彼に心を教える役割は誰にも譲る気は無かったから。だけど生前では結局成し得ず、この時代に至っては貴方の方が彼の救いとなっていた。そのことがたまらなく惜しいのに、貴方が相手だと仕方ないかという気持ちにもなってしまうんですよ」
故に、悔しいけれど。彼を助けてくれてありがとう──最後にそう締めくくって、マーキダは口を閉じた。その表情に、先のような暗い感情はもはや一切見られない。ただ晴れやかに爽快な面持ちだけが残るのみだ。
その言葉を受けて、ダ・ヴィンチちゃんは静かに息を吐いた。
「……君は、面白い人だよ。ある意味では寝取ったと考えてもおかしくない相手に、そんな言葉を贈るなんて」
「もし本気でそう考えているなら、間違いなく殺しに行っていますよ。だけど、結局そうではないと信じられるのは……きっと、友情を感じているからなのかもしれませんね」
言ってから、今度はマーキダが照れたように「笑わないでくださいね」と念を押した。もちろん、ダ・ヴィンチちゃんに笑う気は一切ない。
互いに共通の男を見続け、そしてその果てに得た理解者同士なのだから。
「それにほら、私に直接好きだって言ってくれた訳ですし! その言葉さえ胸にあれば、多少悔しい思いをしようと我慢も出来ますよ!」
「なるほどね。まさしく、恋する乙女は無敵ってわけだ。うんうん、そんな君にこそ、私の後釜も任せられるってもんさ」
「……はぁ。せっかく思い出していい気分だったのに、それは聞き捨てなりませんね。まるで近いうちに消えるかのような物言いですが」
何気なく呟いたダ・ヴィンチの言葉に、マーキダが鋭く反応した。互いの視線が交錯する。どちらも視線の圧力は相当なもので、だけど最後にはダ・ヴィンチの方が視線を逸らした。
「まあ、そうだね。最悪の事態を考えればそうかもしれない。次の特異点、十三世紀のエルサレムは不確定要素ばかりだ。故にこそ私もついて行こうっていう訳だが……ぶっちゃけリソースの関係上そこまで強くないからね、今の私は。何かあれば呆気なく犠牲になる可能性も十分にある」
そしてその場合、カルデアの召喚システムを介していないカレは、座に直行で帰還してしまう。そうなればもうこのカルデアは、万能の天才の力を借りることは出来なくなってしまうのだ。
「やっぱり、今回は一緒に来る気なのですね」
「当然さ、未知の脅威には現地で対応するのが一番だからね。どうにかロマンは説き伏せたし、後はドッキリ形式で立香君にも伝えれば万事良しさ!」
「私としても今回のエルサレムは万全の態勢で臨みたいので、貴方の参入は歓迎しますけどね。よりにもよってあのエルサレムが騒動の舞台になっているなんて、とても許せる事ではありませんし」
鮮やかに蘇る思い出は山のように積もり、黄金よりもなお貴く輝く。豪奢な宮殿、謎掛け、夜明けの誓い、苦心した日々、密着する鼓動、最後の別れ──”シバの女王”を形成するありとあらゆる思い出の詰まった地なのだ。それを土足で踏みにじる事など許さないとばかりに、此度のマーキダは
「その意気や良し! 人理修復の中で存分に奮ってくれたまえ。ただ、気を付け給えよ? なにせ君、第五の特異点でアンデルセンに人間関係を看破されたって話じゃないか」
「うぐっ……確かにあれは私の油断でしたけども……どうせ遅かれ早かれ彼にはばれていたでしょうし、むしろ状況を察して黙ってくれただけありがたいと思いましょう」
「違いない。それじゃ、お互いにケチなミスをしないように精一杯努力するとしよう!」
そう言って笑うダ・ヴィンチちゃんの声が、廊下に響き渡るのであった。
◇
光すら届かない、暗い闇の底を目指して歩む。
石造りの壁は左右から迫るかのような圧迫感で、灯りに照らされ微かに揺らぐようにも見えた。
何気なしに背後を振り返れば、いつの間にか道は幾本にも増えて帰還者を惑わそうと牙を剥く。
これこそがアトラス院。巨人の穴倉とも呼ばれる広大な地下工房である。この地はあらゆる者を歓迎するが、その一方で研究成果を持ち出すあらゆる者を逃さない。そんな鉄の不文律が形を成した迷路の中を、カルデアの一行は進んでいるのであった。
「本当に……気が滅入る場所ですね」
「同感、空気が澱んでて嫌になるわ。タラスクを出してあげることもできないし、やってられないっての」
そしてマーキダと隣を歩くマルタは、陰鬱そうに溜息を一つ吐いた。それでまた少し気が重くなる。とんだ悪循環である。
アトラス院の廊下はそれだけ重苦しかった。何かに例えるなら、竜のねぐらにも似たような──語ることすらない古い古い記憶を引っ張り出して、マーキダはさらに憂鬱な気分となる。
しかし無論、それだけで気持ちが沈むという訳でもない。
「カルデアの最強戦力が抜けた現状、どこまでも状況は苦しいまま……いい加減に打開策の一つや二つ欲しいものですが」
この特殊が過ぎる特異点の原因となっているのは、歪みに歪んだ円卓の騎士たちの行動が所以である。それが例え止むを得ない事情があろうとも、異なる王が玉座に座していようとも、騎士としてあるまじき行為を行っているのは明白。行き場を失くした無辜の民の虐殺などその最たるものだろう。
故にこそ、かの黒き騎士王がそれら蛮行を見逃すはずも無かった。
今や円卓の騎士たちの聖都と化したエルサレム、その地より避難民たちを連れて撤退する際に、彼女は頑として殿を譲らなかった。それはきっと、円卓の騎士たちを率いた王としての矜持なのだろう。果たして誰が、怒りも悲しみもあらゆる感情を削ぎ落した騎士王を止めることが出来たのか。きっとそれは、銀腕の騎士であろうと止められなかったに違いない。
結果として、聖罰執行者として追い縋るランスロット相手に戦いを挑み行方不明となった。カルデアの方で霊器の存在こそ確認しているが、現在地などは不明のまま。最悪の場合は捕えられていると考えられる以上、この損失は非常に手痛い打撃であったといえよう。
状況は最悪、過去最強と呼んでも過言でない相手に刃落ちの状態で挑むことになるのだ。だがそれでも、それでも前に進まなければならない。明日の為に、生きるために。それこそが、カルデアの戦う本質であり全てであるのだから。
「ま、その代わりに私が居るから良いじゃないか! どんな苦境だろうと、このダ・ヴィンチちゃんにお任せあれ、だからね!」
「ふふっ、頼りにしていますよ」
幸いなのは、騎士王以外の抜けは今のところ存在しないという点か。誰も彼も、ここまでの苦境の中を五体満足で生き抜けている。それは基本的には戦わないレオナルド・ダ・ヴィンチや、アンデルセンですら例外ではない。
「そうそう、ここまで結構な受難を乗り越えたんだ、今の僕らならいいとこ行けると思うよ?」
そして茶化すことなく言い切ってみせたのは、さりげなく話題に入って来たダビデ王その人だ。先ほどまでは先頭を行く立香とマシュにアンデルセン、それにホームズ達に混じっていたはずなのに、随分と自然な参入である。
「……ダビデ王、今回は何か悪いものでも食べたのかってくらい真面目よね。どうしていつもこうしてくれないのかしら? 私の憧れ返してちょうだいよ」
「だってほら、今回は舞台が舞台だからね。余所の地でどれだけ人的物的被害が出ようと、最悪対岸の火事と割り切っていい。だけどエルサレムが戦場となれば話は別だよ。正直心労とか諸々で碌な思い出がなかったとは言え王様だったんだ、それなりに思う所はあるのさ」
などと、飄々と嘯いた。彼もまた世界に名だたる偉大なる王として、今回の事態に感じる部分はあるらしい。普段はどれだけふざけていても、やはりこういった点では間違いなく尊敬に値する。それはこの場の誰もが共通して抱く思いであった。
マーキダしかり、ダビデしかり、さらには聖女マルタまで、エルサレムに関係するサーヴァントは意外なほどに多いのだ。
「仮にあの人があの光景を見れば、どう思うでしょうかね……」
だからだろうか。マーキダがぼそりと呟いてしまうのは、半ば自明の理と言えた。
やや微妙な顔をするダ・ヴィンチちゃんとダビデ。詳しい事情は知らないとはいえ、旧約聖書にも通じるマルタも似たような表情で黙り込んだ。しかし先にマーキダの問いに答えたのは、そのどちらでもない第三者の言葉であった。
「ふむ、それは比較的易しい質問だね。君の言うあの人とは、つまり今回の事件の首謀者の事だというのは容易に推測可能だ。そしてその男は、とても特別な感情を抱くとは思えないと予測できるがどうかな?」
「ホームズ、ですか。言いたいことがあるならはっきり言ったらどうですか?」
先ほどのダビデと同じように、いつの間にか自然に口を挟んでいる男が居た。男はパイプをくゆらせ、いつの間にか振り向いて足を止めている。その笑みはまるでこちらの心すら覗き込んでしまいそうなもの。
この男こそ、アトラス院で出会った名探偵シャーロック・ホームズであった。
咄嗟に呟いたマーキダの声音は硬い。彼女にしては珍しく、敬称もついていない。それはすなわち、相手の事を微かに警戒しているからだろうか。
「それにしても……随分と勝手な事を言いますね」
「だが事実ではないのかね? 現に立香君たちから訊いた限り彼の王──いや、この場でならはっきり言おう。ソロモン王は人としての在り方を超えている。例え君たちの見たそれが鏡に映されたような性質であろうとも、本質として人間を低く見ているのは変わらないだろう」
「だから、どれだけの人間が虐殺されようと何一つ気には留めないと、そう言いたいわけですか」
無言でホームズが頷いた。きっとこの名探偵の頭脳は、他にも様々な計算や論理を総合した結果として今の結論が導き出されているのだろう。だからこの言葉には、他の誰が告げるよりも克明な重みがあった。
それに対してマーキダは、
「ふんっ、くだらないですね」
むべもなく一刀両断してしまう。
その取りつく島もない態度に、ほんの微かにダビデとダ・ヴィンチちゃんが息を吐いた。それこそ君らしいと、まるで安堵したかのように。
「今のソロモン王がどうあれ、
「愚直なまでの信頼だね。恋は狂気とも言うけど、君はその境地に立っているように思えるよ。あるいはそれが、女としての強い情念ということなのか」
「どう捉えてもらっても結構ですよ。愛する者に正気なし──そんな言葉、非人間であったあの人に惚れてしまった時点でとっくに承知していますから」
「うんうん、ぶっちゃけ僕としても君の男を見る目は最悪だと思うよ。いやほんと、引く手
「よーし、君はちょーっとばかし黙っておこうか」
「拳を一発入れられなきゃ分からないのかしらね」
余計な一言を笑顔で述べてしまった為にダ・ヴィンチちゃんとマルタに引っ張られるダビデの姿に、さしもの一同も呆れとも笑いともつかない難しい顔色だ。けれどそうして幸か不幸か少しばかり緊張が取れたところで、ホームズが咳ばらいをする。どうやら話を続けたいらしい。
「さてと、少しばかり話は脱線してしまったが、そろそろ本題といこう。ああいや、今までの話も無論の事本題だよ、それは保証する。だけど次の話は少しばかり事情が異なるんだ。何せこれからする話は、絶対にカルデア側の人間に漏らしてはいけないのだからね」
本来ならダ・ヴィンチにも聴かれたくはなかったが、そうホームズはそう付け足した。
どうにも穏やかではないその内容に、震える声でマシュが訊き返す。だって、これではまるでカルデアに元凶が居るかのようではないか。
「それは……いったいどのようなものなのですか? ミスター・ホームズ」
「簡単な事だよ、ミス・キリエライト。端的に告げてしまえば──私は、ロマニ・アーキマンを信用していない」
「な──!」
さしもの立香も絶句し、マシュも驚きに目を丸くした。これまでいろんな面で支えてくれたロマンが、信用できないとはどういうことか。両者の思考はその事でいっぱいになってしまう。
一方でこれまで珍しくも黙って話を聞いていたアンデルセンは少しばかりマズそうな顔をして、頭を抱えるような仕草を取った。
「無論の事、理由は幾つかある。ここで一つずつ挙げてもいいが、ひとまずは結論から認識してもらいたい。そう、彼は得たいが知れないのだ。この私がいくら調べようと一切の情報が出てこないというのは──」
「ちょっと待て、架空の探偵よ。一つ物書きの端くれとして良い事を教えてやろう。お前の発言はおそらく、時限爆弾のスイッチを押したに等しい行為だぞ。気を付けろよ、女の情念が
ホームズの説明を半ばから遮ったのは、どこか笑い含みのアンデルセンであった。あたかも次に起きるであろう状況を楽しんでいるような笑みはしかし、何故だか少しばかり引き攣ったようにも見えた。
「ほう、それは一体どういった意味なのかな?」
「こういう意味ですよ、ホームズ」
ゾッとするほどに抑揚のない声であった。それと同時に、肩にそっと手が添えられる。
名探偵が軋む首をゆっくりと捻れば、そこには微笑を湛えて彼を射殺さんばかりに見つめる二人の女の姿がある。どちらも当然のように、目は笑っていなかった。
「どうやら貴方はどれだけ彼が身を粉にして努力しているかを知らない様に思えますね。仮にも名探偵が、相手の
「そうだとも、これは少しばかり公平さに欠けるのは自明だ。もう少し色々と推理に要素を足しても良いんじゃないかなと私の天才的頭脳は述べている訳だがどうだろう、うん?」
かくして友情と想いの前に一瞬で団結したシバの女王と万能の天才を相手にして、さしものホームズも天を仰いだ。
「あ、あー……なるほどそう来たか。これは墓穴を掘ったかもしれないなぁ……」
仰いだ空は、これからの行く末を示すかのように黒くて堅い石造りだった。
◇
後の別れ際、ホームズはそっと立香にこう囁いたらしい。頭の回る頑固者との論戦ほど、面倒なことは無いと。それはもう、疲れ切った顔であった。
そして結局、特異点から帰還したマーキダにこっそりとホームズの登場とその顛末を訊いてしまったドクターロマン。彼の方はと言えば、逆にホームズに対し申し訳なくなってしまったと語っていたようだ。
だけどそこはかとなく嬉しそうな表情をたたえていたのは、マーキダだけの秘密である。
投稿が遅くなってしまいすみませんでした。
次回以降はこれほど遅くはならないと思いますので、良ければもう少しだけこの作品に付き合っていただければ幸いです。