「そう言えばドクター」
「ん、なんだい?」
何気ないマーキダの問いかけに、これまた気負うことなくロマンが答える。テーブルを挟んで座っている二人の前には仄かに湯気を立てる湯呑と、どこから持ち出したのか煎餅の乗っかった器があった。
場所はいつも通りロマンの自室、時刻は既に深夜を過ぎたか。今日も今日とてカルデアの仕事は盛りだくさんであった。特に現状は第五の特異点へのレイシフトをする算段が整っていないのだから、余計に職員達の仕事も多岐に渡る。だから今はその小休止、明日もまた努力を続ける為に一時の休息を得る時間であった。
「バレンタインというイベントが現代にあると聞いたのですが?」
「うげっ……」
言うだけ言ってから素知らぬ顔でお茶を啜るマーキダに、ロマンがしまったという表情を見せた。慌てて近くのカレンダーに目をやれば、日付は既に二月の上旬だ。あと十ヶ月もないうちに人理焼却を防がなくてはならないという焦りも生まれるが、それ以上にこの状況をどうするべきかに頭を悩ませる。
バレンタイン、もちろんそれは女性側が好意を持った男性にチョコを渡すという行事だ。当然ながら現代に生きて実に十年目のロマンも、楽しんだかはさておき知識としては知っている。
「なんですか、そのおかしなうめき声は。普段ののんびりした貴方らしくもない」
「い、いやぁだってね……ボクは別段そういう行事に縁があったわけでもないし……」
躊躇いがちにそう告げるロマンだが、決して嘘という訳ではない。幾つかの理由があって、これらの行事には不参加だったのだ。
まず初めに、そんな事にうつつを抜かしている暇が無かったというのが一点。チョコと人類の未来のどちらが大事かといえば、迷わず後者を選ぶ。当たり前だろう。
第二に、そこまで親密になった女性がいないというのがあげられる。今は亡きオルガマリー・アニムスフィアはチョコをくれるような人物では無かったし、他の女性も義理チョコを幾つかもらう程度の関係だった。これまた普段のロマンの行動を見ていれば順当な結果である。
そして最後、第三は――
「もしや”他の人は恋人がいて羨ましいな~”とか、”これだからカップルのいちゃつくバレンタインは嫌なんだ”とか、そんな事を考えていたのでは?」
「ぐうっ! それを言ったらお終いだろう!」
今度こそはっきりとロマンが吠えた。それから今が夜だという事を思い出して慌てて口を押える。そんな彼の姿を見て、マーキダはやれやれと言うかのように首を軽く振った。
「……だってほら、考えてもみてよ。ボクってこんなんだからもてるとかそう言うのに縁が無くてね。この研鑽の十年の間に他者からの愛情を求めていたなんてつもりはこれっぽっちも無いけど、少しくらい羨ましいと思うのも仕方ないと思わないかい!?」
割と切実な、悲しいくらいの本音の吐露であった。この世界に生きている時点でロマンとしては間違いなく充実した
一応今の言葉の中にも世界を救うための重たい覚悟が見え隠れしているはずなのに、まるでそのように感じられないのはある意味ロマンの人徳なのか。少なくともマーキダは心外そうな目で彼を見つめている。
「……今の貴方は、私という恋人を手に入れた俗にいう”リア充”というやつなのでは?」
「……はっ! そう言えば確かに!」
ハッとした顔でロマンが顔を上げた。
「それに考えてもみてくださいよ。もし三千年前にバレンタインというイベントがあったらどうなったと思います? ……まあ、業腹ながら貴方はモテモテだったでしょうとも。ですが――」
微かに拗ねたような口調でマーキダが言葉を切り、机の上の煎餅に手を伸ばした。そしてつられてロマンも湯呑を傾けながら、彼女の言葉の先を連想してしまう。
まず思い浮かぶのは、愛多きソロモン王というフレーズだ。その名の通りに彼はおよそ千人という莫大な人数の女性を侍らせたハーレムを築いていたというのは史実に語られる通りであり、これに関してはロマンも否定する気はない。
けれど、そうなればもしかして大変なことが起きるのでは? 思い至ったロマンが冷汗を流し始めたところで、とどめを刺すかのようにマーキダがゆっくりと囁く。どこか楽し気で、蠱惑的な声色である。
「きっと、誰も彼もがチョコを作ろうとして暴動が起きますね。王国のカカオ豆の値段は高騰、店は暴徒と化した婦女子方により恐ろしい目にあって続々と閉鎖していく中で、後宮の中はカカオと砂糖の苦くて甘い香りで埋め尽くされる」
考えるだけで胃がキリキリしてくる光景である。だがマーキダによるイスラエル王国バレンタインは止まらない。
「そのおぞましくて暴力的なまでのチョコチョコした空間にいよいよ貴方が耐えられなくなった頃に、とどめを刺すかのように千を超えるチョコの山が――」
「うわぁぁぁぁぁぁぁッ! ま、待って、やめてくれ! 想像したらお腹痛くなってきた!」
そこまでが限度だった。思わず悲鳴を上げて耳を塞いでしまったロマンを責めることはできないだろう。誰が好き好んで千個規模のチョコレートがやってくるところを想像したがるのか。しかもそれらには悪意が一切ないのだから性質が悪い。三千年前にバレンタインというイベントが存在しなくて本当に良かったと感謝するほかない。
どうしようもなく恐ろしいチョコ地獄にロマンが呻いている隣では、なにやらマーキダが顎に手をやって思索している。最初は真面目な顔つきだったのが段々と蕩けていくような不可思議な変化に、さしものロマンも我に返った。
「ど、どうしたんだい……?」
恐る恐る訊ねたロマンに、マーキダは満面の笑みで答えた。
「いえ、考えてみればカカオの主な産出地は今でいうアフリカの方だという話じゃないですか。そして私のシバの国はアフリカの地とイスラエル王国を結ぶ懸け橋になる訳でして……やっぱり私達ってどう転んでも結ばれる仲だったのではないかと思いまして」
これが世にいう赤い糸というものでしょうか、などと真顔で聞かれてしまい、さしものロマンも言葉につまる。確かに一人の女性からこれだけ想われて、嬉しくないと言えば嘘になるだろう。とはいえまさか聡明な彼女が、此処まで恋愛脳に堕ちるとは予想もしていなかった。これはいっそ戒めるべきなのだろうか? 一応は責任ある立場の者として考えてしまうのだが、それよりもマーキダが立ち上がる方が早かった。
「バレンタイン……まさしく女の腕と真心が試されるイベント……本気で臨むしかないですね、これは……!」
「あ、あはは……ほどほどにね?」
力強くチョコ作りに闘志を燃やし始めたマーキダを前にしては、ロマンとしてももはや乾いた笑いしか出ないのだった。
◇
早速チョコを作ろうと画策を始めたマーキダではあるが、かといってチョコを作ったことがあるかといえば当然ない。もちろんカルデアのパソコンは現在ネットに繋がらず、そちらを使って調べることも不可能だ。なので誰かに作り方を尋ねるのがもっとも近道である。
だから、この結論に辿りつくのは当然の帰結といえた。
「それで、私のところに来たってわけかい。うんうん、素直なのは良い事だ」
カルデアの厨房にて、ニコニコしながら頷いているのはカルデアの誇る万能サーヴァントであるダ・ヴィンチちゃんである。マーキダの頼みで呼ばれた彼女の手には一冊の料理本があり、また何故だか顔には眼鏡がかかっている。
「……それは?」
「うん? この眼鏡の事かい? ほら、人に何かを教える時は眼鏡をかける方が雰囲気出るって言うだろう?」
「そうなのですか? いえ、似合っているとは思いますけども」
「現代人にとってはそうらしいよ~? ま、そんなことよりだ。ようこそ、ダ・ヴィンチちゃんのチョコレート工場へ!」
「は、はぁ……よろしくお願い致します」
結局その眼鏡は何なのかや、そもそも工場という規模でもなければ貴女のものでもないでしょうというツッコミを呑み込んで、マーキダは真面目な顔つきで目の前に揃えられた材料たちに目を向けた。元は紀元前の女であるマーキダからすれば、ここに在る材料がどうすればチョコになるのかイマイチ分かりづらいというのが本音である。
それでも、いざ作り始めてしまえばこれが中々早かった。それはダ・ヴィンチちゃんの指導の手際が良いというのもあるだろうし、これまで何だかんだとカルデアで料理を続けて来たマーキダの腕前もあるだろう。とにかく互いにテキパキとやるべきことをこなし、特に大事もなくチョコ作りは進んでいた。
「それにしても、結構な量を作るみたいだけど、こんなに作ってどうするんだい?」
ダ・ヴィンチちゃんがそう訊ねて来たのは、既に湯煎したチョコを型に流し込む段階であった。ゆっくりと零さないように型にチョコを流し終えたマーキダは、唾を飛ばさないように静かに答える。
「それはもちろん、カルデアの職員の皆さんにも配ろうかと思いまして。ほら、職場の同僚には義理チョコというのを配る風習もあるそうじゃないですか。私もそれに倣おうかと」
「へぇ~、てっきり私はロマニにだけ作る気なのかとばかり。これだけの量は本命のための試金石だと思ったよ」
確かに、見ればマーキダが作っているチョコはだいたいが同じ形のちょっとしたものである。一つだけ明らかに造形に凝ったチョコがあるのだが、それ以外は量産品のような印象を感じさせる。
だからこそ敢えて意地悪くダ・ヴィンチちゃんが問いかければ、マーキダは心外そうな顔をしてみせた。
「ま、まあそれも否定はしませんが……他の人への贈り物に手を抜いたつもりはありませんよ。むしろ練習にこそ全力を注ぐべきでしょうから」
「うん、確かにそれも道理だ。疑って悪かったよ」
素直に謝罪したダ・ヴィンチちゃんにマーキダが無言で答え、しばし沈黙が両者の間に横たわる。その間に型にチョコを流し込む作業は終わり、テキパキと冷蔵庫の中に入れて冷やし始める。こうなれば二人にやれることはほとんど無い。
手持無沙汰になり、二人して何気なく厨房のどこかしらに寄りかかる。後片付けをしなければならないのだが、お互いにそれをする気にはなれなかった。理由は分からない。ただ本当に、なんとなくだ。
「そう言えば」
「なんですか?」
「今度立香君がサーヴァントを新たに召喚しようか悩んでいたな。
「そうでしたか……それを知らなかったのはサーヴァントとして迂闊でした」
「そうだね、最近の君はちょーっとばかり色惚けすぎだ。君のこれまでを思えば無理もない気はするが、もう少し分別を持ってくれたまえ」
「……返す言葉もありません」
自覚はあったのか、しゅんと肩を落とすマーキダ。そんな彼女にダ・ヴィンチちゃんは僅かに含みのあるような、けれどいつも通りの屈託のない笑顔を向ける。
「よしよし、自覚してくれればそれでいいさ。私も別に君たちの仲を邪魔するつもりは――」
ほんの一瞬、何かを躊躇うかのような態度を見せてから、
「――これっぽっちもないからね。あの背負い込みたがり屋と、上手い事やってくれたまえ。君ならそれが出来るさ」
それは何の裏もない、ただ本心からの祝福を伝えるだけの言葉であった。純粋にマーキダの行く末を祝ってくれる彼女に対して、マーキダはそれ以上に顔を綻ばせた。
「貴女にそれを言われるのはとても光栄ですね」
「ほう、それはまたどうしてだい?」
興味を惹かれてダ・ヴィンチちゃんが問いかける。
するとマーキダは、さも当たり前のように、そしてどことなく誇らしげに語りだす。
「だって、もし貴女が居なければ、きっとあの人は今のような人にはなっていなかったことでしょう。それを思えば、先駆者として、私に出来なかった事を成し遂げた貴女にはとても感謝しているほどですよ。それこそ――」
もし私が居なければ、きっと彼を幸せに出来るのは貴女だったことでしょう――と。
真っすぐに
故にこそ、ダ・ヴィンチちゃんは困ってしまった。彼女から向けられる友情は嬉しい。だけどこれでは……
「ねぇ、マーキダ。もし私が――」
正直に話すべきか。いやしかし、今更そんな事を言って良いのか? 第一自分は本当にそうなのか? 頭の中はまるでごちゃごちゃで、これでは天才の名折れとなってしまう程だ。そんな中で必死にはじき出した結論は、
「いいや、なんでもない。すまないね、忘れてくれたまえ」
「ん、そうですか」
マーキダの方もそれ以上踏み込むことはなく、会話はそこで静かに途切れた。またしても穏やかな沈黙が場に横たわる中で、今度はマーキダがポツリと呟く。
「……今日は、私の我が儘に付き合っていただいてありがとうございました」
「……なに、どうってことないさ。仲の良い二人の幸福を手助けするのは、当たり前の事だろう?」
さも当然であるかのように、笑みを浮かべて万能の天才は嘯くのだった。
◇
そして来るバレンタイン当日――の深夜。ちょうど二月十四日の零時を過ぎた頃であった。
「ハッピーバレンタインですよ、ドクター!」
部屋に入って開口一番にそう叫んだマーキダに、しばしロマンが衝撃で固まった。彼女の背後ではドアが機械的に閉まり、廊下と室内を遮断する。
突然の来訪者に炬燵でパソコンと向き合っていたロマンはやはり無言であり、けれど何も言わない訳には行かなかったからマーキダへを視線をやる。
「えーと、今のは?」
「……バレンタインってこうやって祝うものだとダ・ヴィンチちゃんから聞いたのですが」
不思議そうに首を傾げるマーキダに、ロマンはがっくりとうなだれた。なんというか、最近の彼女はやっぱり昔に比べて少しばかりうっかりというか抜けている面が出来ている気がしてならない。普段の彼女ならもう少し慎重に事を進めるのではないだろうか。
「なんてこったい、それは間違いなくカレにからかわれてるから今すぐ忘れるんだ。普通そんな風に祝うのは誕生日かクリスマスだけだよ」
「そ、そうなのですか……!」
どうやらカレの虚言を本気で信じ込んでしまっていたらしい。真っ赤になってあたふたしだしたマーキダは数秒ほど慌て続け、次いで深呼吸して落ち着きを取り戻した。
それからロマンの元までやって来ると、炬燵の中に足を潜り込ませた。机の上にはいつのまにやら彼女が持ってきたらしきリボンで包まれた小箱が乗っている。さすがにここまで来れば、ロマンも一度自分の仕事を中断した。
「えーと、その、とんだ失敗をしてしまいましたが、本日はバレンタインなる日の当日なわけでして……なのでこれを受け取ってください!」
必死な形相で差し出してきたのは、やはりというべきかリボンのついた小箱である。可愛らしくラッピングされたそれは少しばかり拙く見えるところもあるが、それが逆に手作りの初々しさを物語っているのだから責める気にはなれない。
恭しく差し出してきたそれを両手で受け取れば、開けてみて欲しいと言われる。なので慎重にリボンをほどいて中を検分してみれば――
「指輪?」
「はい、指輪です。今の貴方には一つしか指輪が無いらしいですから、それを補うための九つの指輪です」
中から出てきたのは、手のひらよりも少し小さい程度の大きさの指輪であった。正確にはチョコで作られた指輪が九つあり、黒茶色をした全長が光を反射し照り輝いている。
手に取ってしげしげと見まわしてみても、シンプルに指輪の形をしたチョコでしかない。いや、よく見れば指輪チョコの外側には何かうっすらと文字が彫り込まれている。おそらくはヘブライ語だろうか、今のロマンでは少しばかり解読には時間がかかりそうである。
「こ、このチョコは魔術礼装とかそう言うのじゃないよね? 具体的には指輪に魅入らせるとかそういうの」
「いや、そんな事をさせてどうするんですか。やるならむしろ私に魅了されるように魔術をかけますからね」
「……やってないよね?」
「やってません!」
少しばかり怒ったように頬を膨らませて、ぷいとマーキダが顔を逸らした。それからやっぱり気になるのかちらりとロマンを見やり、そしてゆっくりと彼を見つめた。
「一つ、食べてみてくれますか? 感想が聞きたいです」
「ふぅ、分かったよ。それじゃいただきます」
指輪チョコを一つ手に取って、口に放り込む。ちょっと溶けたところをゆっくりと咀嚼して味わってから飲みこむ。すると口の中いっぱいに甘みと苦みが広がって、ちょうどよい所で絡み合う。
「うん、これはいいね、とっても美味しいよ。だけど意外だ、君の事だからもっと甘味を増やしてくると思ったのだけど」
「あー……最初はそうするつもりだったんですけど、よくよく考えたらそれも健康に悪いと思って少しばかり控えめに……嫌でしたか?」
不安そう訊ねて来るマーキダ。もちろんロマンの答えは決まっていた。
「まさか。ボクとしてはこれくらいが一番ちょうどよいさ」
「そうですか……! それなら良かったです。ダ・ヴィンチちゃんの意見を取り入れて正解でした」
どうやら、自分の好みはカレに筒抜けであったらしい。そのことにちょっとばかりロマンは複雑な思いを抱きながらも、ホッと胸をなでおろしたマーキダを眺める。それからぺったりと机に乗せられたマーキダの頭をちょっとだけ撫でてあげれば、シバの女王はまるで猫のように甘えた声をあげるのだった。
更新が遅れてしまいすみませんでした。ここしばらくは山場を越えた燃え尽き症候群だったり、FGO熱が冷めたり、忙しかったり、他の事にはまったりなど、諸々の事情の所為でモチベーションが落ちてしまっていました。
とはいえどうにか捻出したバレンタインですが、これから先の五章~七章は本当に書くことが無いんですよね……そもそも各章につき一話か二話程度で済ませる予定なのですが、それでも何を書こうか迷っている始末で。
冠位時間神殿ソロモン以降の内容は既に固まっているので、いっそ次回でクッションを一話挟んでからラストスパートに強引に持って行こうかとも思索しているほどです。ちょうどサーヴァント追加フラグも立てたので、少しばかりそちらも消化しながらという感じで。
なんにせよ、エタるつもりだけは無いのでどうにか最後までお付き合いいただければと思います。