考古学の観点において、シバ王国が歴史上存在したか否かは大きく議論が分かれている。
シバの女王がソロモン王との謁見の際に持ち込んだ数々の贈り物には、乳香やエメラルド、上質な白檀といった内容がある。しかしこれらはどれも原産地がバラバラで、その所為でシバ王国があったであろう場所が正確に分からないことがまず一つ。
そして二つ目に、あらゆる歴史書、または石碑を紐解いても、シバ王国の記述が一つしか書かれていないことに起因する。そのたった一つ書かれた列王記ですら、ソロモンとシバの女王の知恵比べを載せるのみ。詳しい情報は殆ど無く、唯一南の果てより来た女王とされるだけだ。
極め付けに最も大事な資料、
しかし魔術世界においては少しばかり違う解釈がある。それというのも、シバの女王と王国は確かに存在したと唱えるものだ。かの国は確かに地上にて栄え、そして唐突に歴史から消え去った。いや、正確に言い直そう。シバ王国は、人々の記憶以外からあらゆる面で消滅した。
これらを説明する理由で最も有力なのは、”シバ王国という概念の消失”。特に概念の半分、積み上げた歴史が何処かへと消えてしまい、それ故にあらゆる記録から抹消されているのではという説である。では消え去った概念は何処へ向かったのか、またそもそもの原因は何なのか、これらの理由は魔術世界においても未だ明確な答えはない。
◇
来賓に対して用いられる格調高い部屋、そこにソロモンはやって来ていた。勿論ただ何となくやって来たのではなく、この部屋の現主に招かれたのことだ。
「心を定義する言葉は星の数だけあると言いますが、つまりそれだけ情動というのは複雑怪奇で表すのが難しい題材でもあります。けれどどんな人にも必ず嬉しいや悲しいと思う気持ちは備わっていて、その究極として愛や憎悪が位置します」
「確かにそうらしいね。私もそういった感情が織り成すものを見たりする機会はあった」
言葉を交わす両者。その間の空間に、少しずつ艶やかな香りが漂い始める。マーキダが魔術を用い、小香炉の上に乗せられたある物に点火したからだ。
「しかしそうでなくとも、存外簡単なことで人は幸福感を得たりする事も可能です」
「それが、君が焚いているその乳香とどう関係があるのかな?」
「とても良い香りがするでしょう? これは私が個人的に持参した物ですが、人の心を落ち着けて微弱ながら幸福感をもたらす作用があるのです。これを嗅いでみた感想をお聞かせください」
「……悪くないね。何となく心が暖かくなる気がするよ」
「それは良かったです。……今、私は貴方がそう言ってくださりとても嬉しいと感じました。他人が喜ぶ姿を見て、何か感じたことはありますか?」
「いいや、何にも」
「はぁ、これも駄目ですか……というか即答ですね」
気落ちした様子でマーキダは乳香を机の隅に置いた。芳しい香りが室内に漂い美しく演出するが、神々の食料とも例えられる程の高級品にこの場での価値はもはや無かった。
この光景、すなわちマーキダがソロモンと心についての話し合いをするのは一体何度目になるのか。あの曙光の中での誓いから既に一月あまり、幾度となくあの手この手を駆使してソロモンの心を動かそうとするマーキダだが、未だ明確な成果は挙げられていない。笑わせようとしても、驚かせようとしても、楽しませようとしても、どう足掻いても彼は非人間のままであった。
「一応、これでもどうして貴方がそうなったかについては見当がついているのですが……」
「ほう、それは本当かい? いや、これまで誰も気付かなかった私の真実をただ一人、即座に見抜いた君のことだ。きっとその推論は正しいはずさ」
「そうですね、さすがに一ヶ月も過ごせば自ずとそれらしい答えは出ますとも。まず最初に考えたのは世の中を嫌っている線、ですがこれではエルサレムを能く統治する行動とは合いません。かといって女性嫌いかといえば、少なくとも表面上は妃や妾の方を大事にしていますし、私のことも邪険には扱わないでくれます。となれば、後はもう一つしかないでしょう」
「それは?」
問うたソロモンの瞳が、マーキダの瞳と真正面から交わった。
「貴方の保有する規格外の千里眼。私も魔術に携わる身ですから、それがどれだけ大変なものか知識だけでも知っているつもりです。そんなものを産まれた時から所持し、世界のあらゆる事象を見つめた。そのような事が続けばちっぽけな自身が分からなくなり、無感動となる事も可笑しくはありません」
「中々鋭い考察だと思うよ。故に、半分は正解といったところかな。だけど直接の原因ではない」
「あー……となると、もうこれは貴方の出生に関する話ですか。調べた限り――」
言いながら、マーキダは膝の上に置いていた革張りの本を軽く叩いた。それは彼女がシバの国より持ち込んだ記録帳兼魔術礼装、そして
「ダビデ王の息子ソロモンは、優れた王である彼さえ越えた王になるように定められた者であると。そのため神に捧げられ、他者を超越する王になったとの記載がありました。先の私の推論が半分正解だというならば、残りの半分はこちらでしょう」
「まあ、客観的に見れば私もそう考えるかな。お見事と言っておこう。前に君のことを賢明といったが、どうやら訂正が必要なようだ。そのうえ勉強熱心でもあるらしい」
「当然のことです。そうでなければただの担ぎ上げられた小娘ごときに女王など務まるはずがありませんので」
その言葉には、常にはあまり感じさせない確かな自負と誇りがあった。彼女もまた一国の女王として、才覚に驕らず努力をしてきた人間なのだ。華やかな風貌と経歴に反し、その骨子はどこまでも泥臭い。
「さて、次はそちらの番ですよ。貴方の考えた状況を一つ、私に教えてください。未熟なれど、一例として答えてみせましょう」
これもいつもしていること、マーキダがまずは行動を起こし、その後でソロモンの想定した状況に対しての一例を答える。面白いことにそれだけのことで二人には大きな意見の差異が発生する。
「ではそうだね……もし、これから先で起こる多くの悲劇を予見できたとしよう。そして努力すればその全てを回避できる。このような時、人はどうする?」
「うーむ、まず貴方ならばどう思われますか?」
「何も思わないさ。目の前で起きる悲劇ならば、善き王として解決するのが務めだろう。だが、それから先の出来事については一切の感慨が持てない。悲劇は起こるべくして起こるのだから、行動を起こす必要性は無いだろう」
”例えそれがどれだけの悲劇だとしても”――そうして締めくくられた言葉は、端的にソロモンの内情を示すもの。彼は何があろうと共感しないし出来ない。故にこそ、
だから、マーキダの答えも予測はつく。わざわざ千里眼で覗くまでもない。そう考えたソロモンだけに、笑い声が返って来たことは何より意外だった。
「ふふふ、これは驚きました。まさかソロモン王ともあろう方からこの様な問いが来るとは。ええ、安心してください。
「普通……?」
「そうですとも。だって私たちは人間なのですから。例えどれだけの力があろうと、悲劇を回避したいと願おうと、途方もなく無力です。あらゆる悲劇は私たちの指先から零れ落ちて、取り返すことは叶いません」
それはまるで、ソロモンの在り方を肯定するかのよう。心を教えると言った彼女にはそぐわない答えだ。それに何より、
「その言い方だと、私も人間なのかい? この私が?」
自他共に認める非人間だという自覚はある。ただそれに対して何の手も打つ気が無いだけ。なのにマーキダはソロモンを人間と評した。それが何より不思議だった。
「何を当たり前の事を聞かれるのですか。貴方は紛れも無い人間です。私が保証しますとも。そしてだからこそ、完全ではありません。あらゆる悲劇を防ぐ事は能わず、けれどそれで良いのです。もしそれが出来る存在がいるとすれば、それは貴方がたの信仰する唯一絶対の
まただ、また彼女はあの深淵を覗く瞳をしている。一体目の前の女には何が見えている? 千里眼も読心の術も持たない女性なのに、まるで内面まで丸裸にされているようなこの気持ちは何なのだ?
「――悪魔の如き厚顔無恥な願いではありませんか?」
はっきりと、そう言った。まるで全て見透かしたかのように、しかし彼女には悪魔の説明はしても彼に憑く者達の紹介はしていない。なのにどうしてここまで核心を突けるのだ。
分からない。ソロモンにはそれが分からない。彼は知らないのだ。目の前の女王がどのような想いを込めて彼に向き直っているのかを。
「さて、少しばかりお説教のようになってしまいましたが、私も別に大した人間ではありません。ですから今の意見は一つの言葉として覚えておいてください。それより、もっと悲しい事を悲しいと思えるようにしましょう。そっちの方が私の個人的な言葉よりよほど大切です!」
そうは言っても、ソロモンにはどうしても人間という言葉が脳裏から離れず、故にマーキダに頰を抓られて強制的に泣かされたりするのだった。
◇
夜、客室にて。マーキダは開いていた革張りの本を閉じると、寝台に向かおうと椅子から立ち上がる。部屋に灯されている蝋燭の火を魔術によって吹き消そうとして、外からやって来る気配に気が付いた。
はて、誰だろうか? 彼女が疑問に思いながら扉に近寄ると同時に、戸が叩かれる音が室内に響いた。
「このような夜更けにどうされましたか?」
外に立っているのは美しい女性、そしてその後ろにはローブで姿を隠した人影だ。
「突然の訪問まことに申し訳ございません。しかしどうしても貴女様に会いたいという方がおりまして……」
「はぁ……」
女性が示したのは後ろの誰だか分からない人影。いったい誰が来たのかと考えて、ふと思いついたことがあった。もし本当に彼ならば、あまり大事にならない内に収めてしまうのが良いだろう。
「……ひとまずお入りください。私は気にしませんので」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた女性とその後ろの人影を部屋に招き入れ、ひとまず椅子に座らせる。蝋燭の火によって影が生まれ、二人の人影を怪しく照らす。その様はまるで不審者か暗殺者の如きだが、しかしそうではないだろう。
まず口火を切ったのはマーキダであった。
「まさか貴方がやって来るとは思いませんでした、ダビデ王」
「おや、バレていたかい? これでもしっかり姿を隠していたつもりなのだが」
「この国で敢えて姿を隠して、しかも仕立ての良い服を着た女性を侍らす人など一人しかいないでしょう」
「なるほど、道理だ」
苦笑したような人影の声は年老いている。だがその喋りは非常に若々しく、まるで年を感じさせない。
そうしてローブを脱いだ下に居たのは、このイスラエル王国の前王、ダビデその人であった。その顔には老齢の証たるしわが刻まれ、髪の毛は元の緑に多く白が混じっている。けれど理性を保った鋭い視線は些かも衰えていない。
「まずはこのような時間に訊ねた非礼を詫びよう。だけど僕が動くとどうしてもいろんな手続きが嵩んで面倒でね」
「お察しします。念のために防音措置と人払いの魔術をかけておきましたが、それで良いですか?」
「全く気が利くね。これは不肖の息子にはもったいない女性だ。どうだい、今からでも僕の妃に――」
「お断りします」
「ははは……冗談だよ」
一刀の下に両断されて乾いた笑いを上げたダビデは一つ咳払いをすると、今度は真面目な顔つきに戻った。
「改めて、僕はダビデ、今は王じゃ無いからソロモンの父親と紹介させてもらおうか。それでこっちはアビシャグ、そろそろ僕の身体も弱くなってるから重宝してる女性だよ」
「その割には随分と元気なようにも見えますが」
「それはそれさ。で、今回訪ねて来たのは他でもない、君とソロモンについてだよ」
はっきり言えば、マーキダからすれば何を言われるか気が気でない。そもそもソロモン王は最初から王として生まれた存在であり、あるいは本当の心など不要であるとさえいえるかもしれない。それなのに彼女は突然余所の国からやって来て、彼に心を教えると宣言しているのだ。周囲はそもそもソロモン王の内面について全く知らないというのが実情だが、それでも何かしら察せることもあるだろう。
「私たちが何をしているのかご存知なのですか?」
「だいたいのことはね。これでも僕はアレの父親だからさ。なんて言っても大して親らしいことはしていないけど」
「えっ」
「いやぁ、若い女の子を口説いたりしてたらいつの間にかすごく成長してたからね、アレ。正直手間が省けたというか」
「端的に言って屑じゃないですかそれ」
「まあ、自覚はあるさ」
ダビデが肩を竦め、アビシャグが白い目で彼を見つめる。この時点でマーキダとしては目の前の男がかなり人間としてアレなのだろうと当たりを付け、少しばかり警戒度を上げて丁寧な対応を取り下げることを決意する。
「とはいえだ。さっきも言ったけどこれでも僕はアレの父親だからさ。あれが実は内面で何も感じていない事くらいとっくにお見通しさ。彼はそのことに気が付いていないようだけどね。いやはや、身内の動向は近すぎて千里眼じゃ分からないか」
「……なら、どうして彼をこのままにしているのですか? 貴方が行動すれば彼は変われるかもしれないのに」
「いいや、ダメだね。僕は親としては君の言った通り割と屑だから、何を言っても響かないさ。かといって他の人間に伝えたところで信じてはくれないだろう。アビシャグだってほら、信じられないなんて目をしているだろう?」
確かに、先ほどから黙って話を聞いている彼女はあまり信じられないといった顔をしている。常のソロモンは能く人の話を聞き、公平に務め、そして国を治める賢君なのだ。それが人の心を解さぬ者と言われたところで俄かには信じがたい。それがエルサレムに生きる、ダビデ以外の人物の感想である。
「だから僕としては君にちょっとばかり期待してるんだよね。まさか余所から来た女性が――いや、余所から来たからこそか。瞬時にソロモンの真実を見抜くなんて思ってもみなかったから。いったいどうして気が付いたのやら」
「それはその、私も彼と似たような時期がありましたし、何より彼が私の好みというかすごく――ってこれは恥ずかしいから言いません! それより! 貴方は私の行動に賛成されるのですか?」
そもそも優れた王となるようソロモンを神に捧げたのはダビデ王だ。なのにソロモンの中身を作り変えるような事をするのは本末転倒ではあるまいか。そう疑問に感じたマーキダに、ダビデは至極真っ当な顔でこう答えた。
「そりゃあまあ、アレはろくでなしだけど一応は僕の息子だからね。お節介だし柄じゃないという自覚はあるが、少しくらいは人としての幸せを見させても主の天罰は当たらないだろう」
「それは、」
「意外かい?」
「当たり前じゃないですか。さっきまでただの育児放棄の屑だと思っていたのに、急にそんな真っ当な事を言い出すなんて」
「酷い言い草だなぁ。でも事実だから怒りはしないよ」
結局のところ、彼にも多少なりとも親としての情が残っていたという事だろう。その意識が今夜、マーキダの部屋に彼の足を運ばせた。既に年老いていつ死ぬかも分からぬ身で、それでもそれくらいの事はしてみようと思い立ったのだ。
「そういう事だから、君がアレ相手に努力してくれるのは大賛成だ。好きなだけ
「せっかく見直したのに、そこでさりげなく保身に走らないでくださいよ……」
「こればかりは性分だからね。っと、そうだそうだ。忘れるところだったが、今夜は君と話してみる以外にこれを渡そうと思って来たんだよ」
そう言って彼が取り出したのは、小さな小瓶であった。中には何やら透明の液体が入っていて、炎に照らされ橙色に色づいている。それをマーキダに渡したダビデはアビシャグの手を借りながら立ち上がると、思いのほかしゃんとした姿勢のままローブを着こみなおした。
「もしどうしても滞在期間中に彼を動かすことが叶わなければ、二人きりの時にそれを飲んでみるといい。たぶんだけど彼もそれなりの反応を示すだろう」
「……本当ですか? それにこれはいったい何が――」
「さて、使ってみてのお楽しみさ。ああ、勿論毒じゃない。ただ賢い割に分かりやすい君にとってはむしろ手助けになるはずだ」
華麗に片目を瞑って見せたダビデは、”わ、分かりやすいって何ですか!”という憤慨の声を背に受けそのまま部屋から出て行こうとする。が、途中で立ち止まると小瓶を見つめるマーキダにとっておきの爆弾を投げつけた。
「最後に一つ。君はどうしてあんなのを好きになったんだい? アレは僕から見ても割と本当にどうかと思うというか――」
「そ、それはですね! ええっとその……ああもうバレているようなので白状しますが、私は賢い人が好きなんです! だからあの知恵比べに負けた時点でだいぶ彼の事が気になってました! それにほら、声とか容姿とかも私の好みですし! だから本心から好いてもらいたかったんです! 何か文句ありますか!?」
「いいや、無いとも。というかそこまで聞く気は無かったってくらい大胆な告白だ。それが僕に向けてだったらなお良かったのだけど仕方ない。――まだ、その想いを彼に伝えてはいけないよ。なまじ彼の内心を分かっている君だからこそ、きっと悲惨なことになる」
「分かってますよ、それくらい……」
「なら良いさ。それじゃ、夜分遅くに失礼したね。君の幸福を願っているよ」
そうして、ダビデはアビシャグを伴い去って行った。部屋に残されたのは、真っ赤になりながら小瓶を握りしめ、どうして自棄を起こしてしまったのかと深く反省している若き女王だけであった。
既にお気づきの方もいるかもしれませんが、実は史実においてダビデはソロモンの在位十年目に亡くなっています。なのでこの小説でもどちらかと言えばダビデは亡くなっている方が自然だとは思うのですが、この小説ではもう少し長生きしたという事でお願いします。
だって貴重な原作キャラですし、爽やか系屑が書きたかったんです……これまでの発言とか終章を見るに息子に全くの無関心では無さげでしたし、やはり美味しい役だなぁと。