「しくじったか………」
崩れ出す石橋。石橋を叩いて渡るという諺があるが、それを欠いた結果の現状にハサンは激しく憤り、自身の警戒の甘さを痛感させられる。周囲同様の劣化具合と考えれば事態が起こる前に対応出来ていたと自傷する。
「主君!」
身を乗り出し助けようとするアカツキの手を払い、重力に身を任せる。彼女と自分では体格差がありすぎ、もしも引っ張れば彼女もろとも落ちてしまうと考えた結果である。
「主君、主君ーー!!」
なおも名を呼んでくれる小さな連れ人の気遣いに感謝しながら落下し続ける自身の体に意識を戻す。既に落下開始から3秒が経ち、地球の重力加速度と同じなら既に88m落下している。そして4秒、5秒と経過して6秒目に達するといったタイミングで水中に叩き込まれた。
(くそっ……)
今はこの無駄に頑丈な肉体が恨めしくなる。下が水だとは思わず即死と侮っていた分、空気を蓄え切れず息苦しさが残る。鎧の所為で体は浮き上がらない。案外浅い様で背中が底に着き、床の硬さを感じる。
(こんな……所で……)
生存の確率が微かに残った状況、人は諦めがつかなくなる。それはハサンも同様だ。仕方がない、彼はそんな妥協を拒む。何とかしなければならない、そう考え何とか方法はないかと脳を必死に動かす。しかし次第に酸素を求める体が口を開け体内に蓄えていた空気を吐き出し新たな空気を欲する。同時に急速に意識が体を離れて行く感覚に襲われる。
(死んで、たまるか………)
意識が断ち消える間際、彼は手を伸ばす。そして___________。
◇
現実において要の両親は彼が幼い時に他界している。別に殺害された訳でも心中した訳でもない。母は体力がなく、無理に子を成した負担で要を産んでから直ぐに死去、父親は母が死んだ後の不摂生な生活が祟って病で床に伏せ息を引き取った。
彼にとって死とは身近な物だ。恐怖する事でも忌み嫌う事もない。自身もやがて死ぬ、それを元気に生きている今気にしてどうするのだと、まだ年端もいかない年齢で理解していた。
彼を引き取った男はゲーム好きの叔父で、それが彼にオンラインゲームのエルダーテイルを触れさせるキッカケを作った。そして、叔父の親族が運営している剣道場での出会いが彼の運命を大きく変えた。
その男の存在が、要の手を引いた。傷つく事を恐れない、決して曲がらない、目に見える善悪で物事を語ろうとはしない、今の要を作り出した。そして彼の中に眠る才能の扉を蹴破り、剣の達人へと変えていった。言う事やる事は無茶苦茶だったが、結果的に要は今の人格を形成したのだから結果オーライと言えなくもない状況にある。
彼は感謝している。この世全て、不謹慎ながらも自身の両親の死すらも運命だったのだと諦め、感謝している。恐らく両親といたならまた異なる自身が生まれていた事だろう。今以上に何もかも足りなかっただろう。そう思うと万物に感謝の念が湧いてくる。自身を作る全てが彼にとって感謝の対象である。
◇
「主君!主君!」
アカツキが肩を揺さぶりながら必死にハサンを目覚めさそうとする。しかし、彼は一向に目を覚まさない。体力の減少は水面に叩きつけられた際の少量のダメージ程度でそれ以外に異常はない。しかし、一向に目を開けないハサンにアカツキの表情はドンドンと焦りで滲んでいく。
「大丈夫だよ、アカツキさん」
「きっと気を失ってるだけさ。それに呼吸の乱れもないみたいだしな」
「しかしっ!」
ひどく落ち着いたシロエと直継に声を荒げるアカツキ。最も彼らとて内心は振る舞いほど穏やかな物ではないが、ハサンという存在に対する信頼という物の厚みがアカツキとは大きく違う。それに彼らはアカツキを気遣っているのだ。
「っ!」
しかしそんな事、言われずして理解する事は難しい。何も出来ない自分が不甲斐なくて仕方ない、唇を噛み締めるアカツキの顔は悲痛で歪む。
「うっ……グッ………」
「っ!主君!」
その時、漸くハサンは目を覚ます。アカツキの顔が嬉しさから明るくなり、シロエと直継もほっと息をつく。
「大丈夫か?」
「ああ、水面に叩きつけられて少し気分が悪いけど……」
いや、それだけではない。彼の中に違和感が渦巻いていた。先程まで見ていた夢、それの中で感じた新たな輝き。そしてそれは、今の彼を足りなかった物を授けている。
「心配掛けて御免。先を急ごう」
何ともなさげに、ハサンは立ち上がりシロエ達の方へと歩いていく。アカツキは休む様に言おうとして、口を閉ざした。何を言っても、絶対にハサンは自身の意思を押し通してしまう。そう、理解したからだ。
「主君………」ギュッ
「アカツキ………」
アカツキはハサンの鎧の布部分を掴む。それだけで、ハサンは何となくではあるが彼女の気持ちを感じ取る。
「安心してくれ」
ハサンは穏やかな表情で彼女の肩に手を置き、宥める。
「無茶はするけど、無理はしないさ」
嘘だ、ハサンは無茶も無理も平然でする。それも、他人の事となると尚更だ。
「さあ、行こう」
彼は歩き出す。その背中を見たアカツキは目を丸くする。ただでさえ逞しく思えた背中が、更に大きくなっている。そして、何処かで見た様な既視感が、彼女の中にシコリを残すのであった。