黒く染められた空を、星に代わって白い雪が疎らに飾る。
今夜はホワイト・バレンタインデー。基本的にはホワイトデーのことを言うのかもしれないが、雪の降るバレンタインデーにもこの表現は当てはまるだろう。
そんな光景を米花シティビルの窓から見上げながら、暁は深い溜息を吐いた。普段ならそれが顔を隠すための眼鏡を少し曇らせるが、今は違う。なぜなら、眼鏡が必要ない状態だからだ。むしろ、余計だと言ってもいいだろう。
なぜならば、今――来栖暁は黒羽快斗に成りすましているからだ。
いつものパーマのかかった髪型は見る影もなく、クセのあるショートヘアーに。顔の方も快斗本人によるメイクで彼本人とそっくりな形に仕上がっている。これは今から行うミッションのために施されたものだ。
一体快斗はどこでこんな技術を覚えたのだろうか。器用さには自信があるが、彼には敵わないかもしれない。暁は通りがかりのショーウィンドウのガラスに映る自分の物ではない顔を見ながら、同盟者の技術力に舌を巻く。
ただ、その口にはマスクが着けられていた。声だけは変声機のような物を用意しなければどうしようもない。快斗には自前の変声術があったため、変声機の類は無用の長物であった。用意する時間もなかったので、今回のミッションでは服の襟に忍ばせたスピーカーフォンからマイク越しに快斗が声を出すことになっている。快斗が声を出している間、暁はそれらしい仕草をしていればいい。
なぜそんなことをしなければならないのか。その理由は、ミッションの内容が関わっている。
そのミッションとは……
快斗の代わりに、彼の幼馴染である中森青子と映画を見てくる、というものだ。
本人は幼児化しているため当然会うことはできないし、これが最善だとのことである。少なくとも、青子を映画館に一人放置するということはしなくて済む。
だが、本当にそれでいいのか? 変装を施された暁は例のビリヤード場から出発する際にそう快斗に聞いた。快斗は他に良い案がないと答えた。確かにその通りだ。だが、そう答える快斗の顔は無理をしているような、いつものハツラツとした様子が少し薄れているような気がした。彼とて本意ではないのだろう。
暁は自分の背後――物陰に隠れている快斗の方に目を向ける。視線が合った快斗は、申し訳なさそうに片手を挙げた。スピーカーから『今度飯奢るから』という小さな声が聞こえてくる。
本人はちゃんと来ているし、マイク越しとはいえ会話をするのは彼だ。そう考えると問題はないようにも思えてくる。いや、実際は大有りなのだろうが。
溜息を吐く暁。煮え切らない気持ちを胸に抱えながらも目的地である米花シネマ1を目指して歩を進め始めた。
米花シネマ1はこのビルの五階に入っている映画館だ。モールの中の一角に同じ系列の映画館がずらりと並ぶ、所謂シネマ・コンプレックスの形を取っている。
通路の壁には現在上映中の映画の看板が飾られており、快斗が青子と見る予定だと言っていた"赤い糸の伝説"という映画の看板もあった。最も、見るのは快斗ではなく暁なのだが。
しかし、なんとも典型的なラブロマンス映画だ。そんな内容の物を一切縁のない少女と見なければならないのか。イマイチ乗り気でない暁は一層及び腰になった。
そういえば、と暁は思い出す。元の世界でもよく映画を見に行っていた。一人と一匹の時もあれば、仲間に誘われて見に行ったこともあったか。バック・トゥ・ザ・ニンジャとか、ZAWとか。変わった映画が多かったような気もするが、今では良い思い出である。機会があれば、自分磨きがてらラヴェンツァや梓を誘ってみるのもいいかもしれない。
「あ、快斗!」
そんなことを考えていた暁の耳に、少女の声が届く。声のした方を振り返ると、そこには癖のある長髪をした少女が立っていた。彼女が今回のミッションのターゲット、中森青子だ。
快斗から写真を見せてもらった時からどこかで見た覚えがあるような気がしていた暁だが、面と向かって会ったことでようやく思い出すことができた。彼女は、例の東都国立博物館での事件――キッドと初めて相対したあの日にラヴェンツァとモルガナを預けた少女だ。
確か、父親が警察の人間だと言っていたはず。そんな子と幼馴染の関係にあるとは、快斗も探偵事務所の真下に居を構えている暁のことを言えないだろう。
快斗の姿をした暁を認めた青子は、嬉しそうに駆け寄ってくる。その左手には二枚のチケットが握られていた。その内の一枚は快斗の分に間違いない。そして、右手には手提げ袋。中身は恐らく、
一方で、青子は暁の着けているマスクを見て訝しげな顔をした。
「……? どうしたの? そのマスク」
『あ~っと、ゴホッ、ちょっと風邪気味でさ』
マイク越しに話す快斗に合わせて咳をする振りをする暁。
「ええ! だ、大丈夫なの快斗?」
『平気だって! それより、そろそろ入場開始の時間だろ? 行こうぜ』
そう催促し、入場口へ向かう。彼女には申し訳ないが、事情が事情なだけに早く終わらせて帰りたいのだ。
青子はそれでも気遣わしげな様子を見せるが、頷いて後に続こうとする。
「――ちょっと!」
その時、横から二人に声が掛かった。
この声は聞き覚えがある。まさか、と暁は声のした方を振り向いた。
そこには、お二階さん――つまり毛利小五郎の娘である毛利蘭が立っていた。
どうしてここに? 彼女も映画を見に来たのだろうか?
いや、それ以前になぜ声を掛けてきた? 今の暁は黒羽快斗を模した変装姿。例え相手が元の世界の怪盗団メンバーであったとしても、見ただけで来栖暁であるということを看破するのは難しいだろう。
では、蘭が快斗と知り合いだった? そう思いマイク越しに尋ねてみると、快斗はキッドならともかく快斗としては知らないはずだと答えた。
ということはつまり、蘭は知らない相手に声を掛けたということになる。混乱している暁に対して、蘭は眉を潜めて聞く。
「……その子、誰?」
青子に目線を向けつつ、そう問いかけてくる蘭。
しかし、答えようにも暁は今声を出せない状況にある。快斗もしどろもどろといった状態で、どう答えたものか迷っているようだ。青子も青子で蘭のことはもちろん知っているはずもないので、状況を全く把握できていない。えっ? えっ? 蘭と暁のことを交互に見比べている。
答えない暁に業を煮やしたのか、蘭が再び口を開いた。
「 答えなさいよ! 新一! 」
周りのことなど頭に入っていないのか、蘭の大声がホールに響く。
新一といえば、蘭の幼馴染だという高校生探偵のことだろう。しかし、なぜ快斗の姿をしている暁のことをそう呼ぶのか?
『そうか、しまった!』
あちゃーと言う快斗の声が耳に届いた。なんと、二人は元々顔立ちがよく似ているらしい。それこそ、わざわざ変装マスクなどを用意せずとも、髪型を似せるだけで完全に工藤新一に化けることができるほどだと。
つまりだ。蘭は快斗の姿をしている暁のことを、新一と勘違いしているのだ。
彼女も今夜新一と映画を見る約束をしていたのだろう。そういえば、コナンがそんなことを言っていた気がする。なんという偶然か。とばっちりも甚だしい。
「あの、人違いだと思うんだけど――」
「貴方は黙ってて!」
青子が遠慮がちに人違いを教えようとするが、蘭は聞く耳を持たない。
掴みかからんばかりの勢いで迫る蘭に暁はホールにある柱まで追い詰められた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
一方その頃、まばらな雪が降り注ぐ中、米花シティビルの近くにあるオフィスビル。
米花シティビルよりも低いビルだが、丁度いい距離に建てられているのもあって一望するには十分な高さだ。
夜十時前とあってか、そのビルの窓からは照明の明かりが一、二点ほどしか漏れておらず、入居しているテナントのほとんどは終業しているようである。
そのビルの屋上に、壮年の男が一人佇んでいた。
右手をポケットに入れ、パイプ煙草を左手に煙を燻らせながら、正面に聳える摩天楼――米花シティビルを眺めている。暗闇で人相は伺えないが、纏う空気は憎き相手を前にしているような不穏さを感じさせた。
「こんな時間にこんな場所で、一体何をしているのですか?」
そんな男へ後ろから声をかける者が現れた。その者は物陰に隠れているのか、その姿は見えない。
男がゆっくりと振り返る。それと同時に、月明かりが差し込んで男の顔を照らし正体を晒した。
「――森谷教授」
教授はニヤリと笑って、口を開く。
「こうして直接言葉を交わすのは初めてだね……しかし、本来こうなるつもりはなかった。当初の予定では、君は誰とも分からない者に敗北の味を舐めさせられ、その名声を地に落ちさせることになるはずだったのだから」
声をかけた物が隠れているであろう物陰を見据えて、教授は続ける。
「全く大したものだよ。さすがは平成のシャーロック・ホームズ……工藤新一君」
物陰で森谷教授の言葉を聞きながら、工藤新一――いや、江戸川コナンは寒空に晒されて乾燥したその唇を舌で一舐めした。
今のようにコナンの姿になる前は目立ちたがりな性格も相まってメディアへの露出は拒まず、インタビューなどにもよく応じていた。故に、教授は声だけでその主を工藤新一だと断定できたのだろう。当然、これはコナンも想定していたことだ。だからこそ、こうしてわざわざ変声機を使って声をかけている。
「ところで、どうして私がこのビルにいると分かったのかね?」
「人間観察が得意なのは何も芸術家だけじゃない。考えてみたんですよ。貴方という人があのビルの爆破を見物するなら、一体どんな場所を選ぶか。この周辺で見晴らしが良く米花シティビル以外に障害物がない、なおかつ良好な角度でビルの崩壊を見届けることができる場所……それがここだったというわけです」
なるほど、と森谷教授が頷く。コナンは一拍置いて続けた。
「コナン少年から話を聞きました。貴方は阿玉教授を焚きつけて連続放火事件や例の爆弾事件を引き起こさせ、自らの忌々しい失敗作の破壊を目論んだ」
その言葉を聞いた森谷教授はクツクツと笑う。
「コナン君にも言ったが、それで私は何の罪に問われるというのかね? それ以前に、私が阿玉を焚きつけたという証拠は一体どこにある?」
「確かに、そのことに関して貴方を罪に問うことは難しい。例え阿玉教授本人が貴方に焚きつけられたと言ったとしても、それは変わらない」
まさに完全犯罪。さすがは建築家である以前に芸術家。
芸術とは評価する者がいて初めて成り立つものだ。あの巨匠ゴッホでさえ生前は全く絵が売れず、芸術としてさえ見てもらえなかった。だからこそ、傍目からは建築しか頭にないかのように見える森谷教授も芸術を評価する人間観察に長けていたのである。どういう建築が人間の目に魅力的に映るか、どういった構造に精神の平穏を得るか。それを突き詰めて得た答えが、あの
コナンの目には、彼の姿がある人物に重なって見えた。シャーロック・ホームズが"犯罪界のナポレオン"と呼んだ、あのジェームズ・モリアーティに。
「――だが、貴方は犯罪界のナポレオンになり損ねた」
森谷教授が目を細める。
「現実は物語のように上手くはいかない。貴方は今まで椅子に腰かけて事の成り行きを見ていたのでしょうが、当の阿玉教授は予想外にも早く逮捕されてしまった。だから、貴方はその重い腰を上げてここにやってきたんだ」
あの摩天楼を、自らの手で葬るために。
完全な
実は森谷教授のギャラリーから消えていた写真の中に、米花シティビルの写真も含まれていたのだ。当初は写真を見ただけでは完全な
「その右手に、起爆スイッチを握っているのでしょう?」
ポケットに入れたままの森谷教授の右手がピクリと動く。
その顔はさきほどとは違って、作り物のように無表情となっている。
「今夜貴方が外出してから、屋敷の方を調べさせてもらいました。色々と見つかりましたよ。今回の米花シティビルの爆破に使うつもりであろうリモコン式爆弾の設計図に、大量の爆薬。大方、阿玉教授が東洋火薬の火薬庫から手に入れていた爆薬の残りを彼が逮捕された後すぐに回収しておいたのでしょう?」
これはまだメディアは公表していない話だが、今までの事件で使われた爆薬の量と盗まれた爆薬の量は合っていなかったのだ。警察は残された爆薬はどこにあるのかとしつこく阿玉教授を問い詰めた。しかし、彼が答えた隠し場所を探しても見つからなかった。当たり前である。既に場所を把握していた森谷教授がとうの昔に掠め取っていたのだから。
「先ほど警察にも事情を説明して、今まさにこちらへ向かってきている途中です。もう貴方に逃げ場はありませんよ。その起爆スイッチを捨てて大人しく投降してください」
コナンのその言葉を皮切りに、しばらくの沈黙が訪れる。
森谷教授は表情を変えず身動き一つしない。しんしんと降り注ぐ雪が、音もなく屋上のコンクリートを濡らしていく。
息をするのも忘れかけたその時、月明かりが雲に隠れて二人の立つビルの屋上を薄暗く染めた。物陰から覗くコナンから見て、森谷教授の身体がシルエットのように黒く塗り潰される。
月の瞬きか、数瞬後に雲が過ぎて再び明かりがビルを差す。
その瞬間、コナンの目に映ったのは――ポケットから起爆装置を取り出した森谷教授の姿。
――やっぱりこうなるのかよ!
舌打ちをするコナン。この展開は彼も当然予測していた。できれば前もって今も米花シティビルで自分を待っているであろう蘭を避難させたかったが、生憎と彼女は携帯電話を持っていない。
目暮警部にはビルにいる人々を避難させてくれと頼んでいるが……いや、ここで自分が森谷教授を止めさえすればいい話だ。
間髪入れず、コナンは物陰から飛び出した。
そして、腕時計型麻酔銃を今まさにスイッチを押そうとしている森谷教授目掛けて撃ち放つ!
――腕時計から放たれた麻酔針は、確かに森谷教授の首に命中した。
だが……
「なんで、どうして……確かに当たったはずなのに……!」
コナンは愕然とした顔で言葉を漏らした。その声は驚愕に震えている。
森谷教授は、象でさえ眠らせる麻酔針が命中したにも関わらず、何事もなかったかのようにその場に立っていたのだ。
ニヤリと口端を歪めた森谷教授は、起爆装置のスイッチを――――押した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
自分を囲む二人の少女にどう対応すべきか苦慮していた暁。
その内の一人であり、怒りを含んだ鋭い目で睨みつけている蘭。とにかく一旦落ち着かせようと口を開きかけた。
その時であった。
一瞬だけであったが、立ち眩みのような違和感を覚えたのは。
まるで世界が塗り替えられたようなその覚えのある感触に、暁はハッと息を飲んで辺りを見回す。
「どうしたの?」
「まさか、逃げようとしてるんじゃ……」
そんな暁を見て青子が怪訝そうに首を傾げ、蘭はどこか逃げ場所を探そうとしているのかと勘違いしたのか暁の腕を掴もうとする。
次の瞬間、鼓膜を破かんばかりの爆音が響いた。
立っていられないほどの激しい揺れがビル全体を襲い、停電と共に大きな亀裂が走ったロビーの天井が崩れ落ち始める。
悲鳴を上げて人々が逃げようとするが、辺りが暗い中舞い上がった煙にさらに視界を奪われて身動きが取れない。
暁も蘭と青子の二人を連れて逃げようとした時、大きな瓦礫が暁達と蘭の間を遮るように落ちてきた。
続けざまに瓦礫が襲ってくる中、暁は咄嗟に傍らにいる青子の手を取り、彼女を庇うように覆い被さった――
◆◇◆◇◆◇◆◇
コナンの目と鼻の先で、米花シティビルが激しい火の手と煙に包まれていく。
「どうかな? 探偵君。出来損ないがあるべき姿へと戻る光景は実に素晴らしいだろう。こんな特等席で見れることに感謝したまえ」
教授はまるで長年心に燻っていた鉛をようやく取り出せるといったような、晴れ晴れとした表情をしている。
「……それにしても、驚いた。まさか工藤新一がこんな子供に成り果てていたとは」
その言葉で我に返るコナン。怒りでわなわなと震える身体を必死に抑えながら教授を睨む。それを涼しい顔で流す教授。
「安心したまえ。まだロビーの出入り口と非常口を塞いだだけだ。君のガールフレンドもまだ生きているだろう……いや、もしかしたら運悪く瓦礫に押し潰されてしまったかもしれないがね?」
コナンは思わず教授に掴みかかりそうになったが、すんでの所で堪える。それでも、怒りを込めた目で教授を睨みつけた。
「冗談だ。探偵が頭に血を昇らせるものではないよ。お楽しみはこれからさ」
教授は懐から何かが書かれた紙を取り出した。
「君とガールフレンドのために一番でかい
取り出した紙をコナンに差し出す教授。それは爆弾の設計図であった。先の言葉にあった時限式の物だろう。
コナンは何のつもりだと眉を潜める。そもそもどうしてこの男には麻酔針が効かなったのか? コナンの頭の中に次々と疑念が湧いてくる。
「……クソッ!」
しかし、すぐに時間がないということを理解すると、差し出された設計図を奪うようにして掴み取り、急いでビルを降りて行った。
教授は含みのある目線でそれを見送り、再び煙を上げる米花シティビルを眺め始める。
救急車や消防車のサイレンの音に紛れて、人々の悲鳴が微かに耳に届く。
「さながら、地獄のオーケストラといったところか。君の最後を飾るには実に相応しい。残り少ない時間をガールフレンドとじっくり味わいたまえ、工藤新一……」
スケジュールの変更である程度私生活に余裕ができたので、ちまちま書いていたのを一気に書き上げました。
ただ、今回で時計じかけの摩天楼を終わらせるつもりがやっぱり長くなってしまいました。イマイチ良い感じに区切れる所も見つからなかったので小出しに投稿していきます。
さて、ペルソナ5はアニメが放送開始し、コナンも今映画が公開中ですね。
ゼロの執行人……梓さんが最高に可愛かったとだけ言っておきます。