喫茶店ポアロの営業時間は7時から20時まで。定休日は水曜。
暁は一応バイトという扱いらしく、働ける時に働いてくれれば大丈夫と梓から言われている。
梓はバイトだからと渋っていたが、住み込みさせてもらっている手前、信用を得るためにもひとまず最初の定休日まではフルタイムで働くことにした。
「モナちゃ~ん! こっちおいで~!」
今対応しているのは買い物帰りであろう子連れのお客達。その子供がモルガナと遊ぼうと手招きしている。モルガナは双葉を相手にしている時のように嫌そうな顔をしつつも、猫のフリをして構われに行った。
モルガナについては梓も猫が好きということもあって、一緒に住むことを許してもらえた。もちろん、マスターからも電話で許可をもらっている。
最初は店内には出さず、基本地下室で大人しくさせていたが、隠れて暁の様子を見に来たところをお客の子供に見つかってしまったのだ。
大人と違って、子供は目線が低い。その上、ルブランでは子供がお客として来ることはほとんど無かった。そこから生まれた油断が、見つかってしまった要因なのだろう。
ただ、モルガナは普通の人間からは非常に賢く見える猫である。
傍目からはまるで人の言葉を理解しているかのように振舞うので、お客の一人がSNSにその様子を撮影した動画を投稿したらしい。そのせいか巷で少し話題となっており、その日から彼はポアロのマスコット的な存在となりつつあった。
「でも、良かった。猫アレルギーのお客さんがいたらどうしようかと思ってたけど、モナちゃんだったら不思議と症状が出ないらしいし」
隣で洗い物をしながら、そう話しかけてくる梓。
暁もそのことは心配しており、実際前々からポアロを贔屓にしていたお客の中に猫アレルギーの人がいた。
だが、猫の姿をしているが実質猫ではないモルガナに対してはアレルギーの症状が出ない。そのことが人気に拍車をかけているのだろう。
おかげで、カウンター内で作業をしている暁のことに注目する人間は少ない。
事件当時、ニュースで暁が容疑者として逮捕されたことが流れた途端に、暁の顔写真などの個人情報がSNSに拡散されたらしい。もちろん、未成年なのだから実名は報道されなかったが、同級生などの学校関係者が情報をばら撒いたのだ。
眼鏡を掛けているため少し見ただけでは分からないだろうが、じっくり見られればそうもいかない。初対面の時の梓がそうだ。
モルガナが目線を集めているのはいいが、猫に興味のないお客相手は例外だ。
今も、カウンター席の若い男性客がちらちらと暁の顔を盗み見ようとしている。働き始めて四日間。あの客は頻繁にポアロに通い詰めている。店の前の歩道に派手にカスタムしたバイクを止めて。
注意したいところだが、正体がバレてしまう可能性があることを考えるとそれも難しい。
……梓には申し訳ないが、少し休憩をさせてもらおう。
子連れのお客達はそろそろ退店するだろうし、そうなればお客はあの男性客と隅の席に座っている帽子とサングラスを着けた女性客だけとなる。
「あ、うん。分かった。大丈夫、モナちゃんは私が見ておくから」
ぺこりと頭を下げる暁に梓はそう答えたが、少し困ったような顔で例の男性客にちらりと目線をやっている。
それに首を傾げながらも、暁は奥の扉からスタッフルームへと移動した。
スタッフルームのテーブルに着き、一息つく暁。
こんな調子で大丈夫なのだろうか。そう一人ごちた後スマホを起動して、SNSを確認してみる。
今のところは特に情報は流れていないが、喫茶店ポアロが殺人の疑いをかけられた者を雇っているという噂が広がるのも時間の問題かもしれない。
裁判で無罪になったとはいえ、例の事件は未だ犯人が見つかっていないらしい。
なぜ暁が逮捕されたのかというと、現場から逃げるように走り去るところを近所の人間に目撃されたのだという。もちろん暁はそんなことしていないが、他に怪しい人間が目撃されていないのであれば、疑いの目を向けられて当然だろう。
今現在の事件についての話題といえば、やはり暁が犯人だったのだという話や、証拠固めを怠って事を急いだ検察を責める話ばかりである。
歪みについて調査したいところだが、この状況もどうにかしなければ。
ポアロに悪い評判が立ったなんてことになれば、お世話になっている梓やマスターに申し訳が立たない。
モルガナをスケープゴートにするのにも限界があるし、ルブランカレーをメニューに入れるのはどうだろうか? 惣治郎直伝のあのカレーならば、人気が出ること間違いなしだ。
ちなみにだが、ポアロのメニューにもカレーはある。
仕込みは梓が担当しており、マスターが作るものよりも自信があるらしい。休憩の時の賄いで食べさせてもらったが、さすがというべきか美味しかった。
だが、ルブランのカレーを食べ慣れており、かつ回る寿司よりも回らない寿司ばかり食べて舌が肥えている暁としては、正直に言って少し物足りなさを感じた。もちろん、口には出さなかったが。
……あれこれ考えている内に、気が付くと30分ほど時間が経ってしまっていた。少しばかり休憩しすぎてしまったようだ。
慌てて席を立ち、暁はスタッフルームを出て店内へと戻る。
店内に戻ると、すでにお客は全員退店していた。例の男性客や、女性客も含めて。
カウンターにいる梓の手には何やらメモ用紙のようなものが握られている。そのメモ用紙を、暁がスタッフルームに引っ込む時以上に困った表情で眺めていた。
さすがに気になった暁は、戻ってくるのが遅れたのを謝りつつ、どうかしたのかと聞いてみる。
「え!? あ、ううん、何でもないから! 私もちょっと休憩してくるね。お客さんが来たら呼んで!」
しかし、暁が声を掛けると梓はすぐにそのメモ用紙を背中に隠し、そそくさと奥の扉に引っ込んでいった。
梓の様子に訝しんだ暁は、毛繕いをしているモルガナに暁がいない間のことを聞いてみる。
「ん? ああ、あの若い男の客がいただろ? アイツ、オマエや子連れの客がいなくなったのを見計らって、アズサ殿を口説き始めやがったんだ。話を聞いた感じだと、あれが初めてじゃないみたいだな。以前からあの男にしつこく迫られてたみたいだ」
そんなことがあったのか。
暁をちらちらと見ていたのは、事件のこととは関係なかったのだ。邪魔になりそうな暁が、トイレにでも行かないか期待していたのだろう。
それでは、あのメモ用紙は何なのだろうか?
「う~ん、男はワガハイが威嚇して無理やり追い払ったんだけどな。あのメモ用紙は、いつの間にかアズサ殿のエプロンのポケットに入ってたんだ。男が店を出るのをアズサ殿が見送って、戻ってきた時には既にな。書かれていたのは、多分あの男の住所だな」
その男が、店を出る際に梓のエプロンのポケットに忍ばせたということだろうか?
「だろうな」
なるほど。今後、あの男性客にはこれまで以上に注意しておこう。
しかし、そんなことがあったのに暢気に休憩していた自分に、暁は情けなさを感じた。色々なことがあってまだ落ち着けていないということもあるが、これではいけない。
ひとまず、疲れているであろう梓のためにコーヒーを淹れてあげよう。そう思い立った暁は、すぐに準備に取り掛かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そして、火曜。
地下室での生活も少しばかり慣れてきた暁。
起床して喫茶店の準備を始めるが、いつもは暁が起きてくるよりも早く来てカレーの仕込みなどをしている梓の姿が見えなかった。
どうしたのだろうかと、スマホで連絡がないか確認してみる。
『ごめん! 今日は少し遅れるから、カレーの仕込みお願いできるかな?』
という旨のチャットが届いていた。
カレーの仕込みについては問題ないが、普段ポアロではどのような仕込みをしているかなど、暁は知らない。
仕方がないので、ルブランカレーと同じ要領で作ることにした。
カレーの仕込みをしていると、モルガナがリモコンを器用に使って店のテレビの電源を付けた。
「また事件か。でも、今度のはあのモウリとかいう探偵が解決したみたいだな」
見ると、毛利小五郎という探偵が事件を解決したというニュースが流れている。口髭を生やした中年の男性が下品な高笑いを公共の電波に晒しているのは、何とも滑稽である。
以前梓に聞いたが、彼はこのビルのオーナーで、二階にある事務所で探偵業を営んでいるようだ。今までは全くの無名だったが、最近事件をトントン拍子に解決し続けて名が売れ出し始めたらしい。
それはそれとして、先日も事故や事件だとかニュースが流れていた気がする。どうにも騒がしい世界だ、と暁は眉を顰めた。
開店時間となって店を開けると、数分もしない内に朝の常連のお客が来店してくる。
いつもいる梓がいないことに不思議そうな顔をしているお客に、暁はモルガナを壁にしつつ対応する。
「暁君、ごめんね遅れちゃって~! 仕込み大丈夫だった?」
しばらくしない内に、少し息を切らした様子の梓が出勤してきた。
彼女は申し訳なさそうにしながら遅れたことを謝ると、暁が仕込んだカレーの鍋を覗き見る。
「わ、すごい! ちゃんと出来てる! やっぱりね~」
しっかりとカレーの準備が出来ているの確認すると、梓は何やら含みのある顔で暁に視線を送った。
やはり、ルブラン流の仕込みはまずかっただろうか?
「すみません。おかわりいいですか?」
「あ、はーい」
暁の淹れたコーヒーを飲んでいたお客におかわりを頼まれ、梓が対応するためにテーブルに向かおうとする。
――その時、凄まじい衝撃音が辺りに響いた。
驚いて店の外に飛び出す暁。
ポアロから見て左、その先で事故が起きたのか、煙が立ち上っているのが見える。
道路際に寄せて停車している大型トラックと横転したバイク。
停車していたトラックに後方からバイクが衝突したといったところだろうか。
この通りは商店街になっているためか、早朝の時間帯でも結構な人数の野次馬が集まり始めている。その中に、ビルの階段を駆け下りてきた眼鏡の少年を追う形で、ポアロの真上に事務所を構えている毛利探偵が加わるのが目に入る。
「す、すごい音がしたけど……何かあったの?」
心配そうな顔をした梓も、おっかなびっくりとした様子で店の中から外に出てきた。
どうやら、今日は喫茶店の業務をするだけでは済みそうになさそうだ。
ほどなくして、救急車と交通課の警察が事故現場に駆けつけてきた。
救急隊員が車から担架を運び出し、警察官達が現場を立ち入り禁止のテープで囲み始める。
「ああッ! あ、あの人……!」
バイクの運転手が担架に乗せられるのを見ていた梓が、突然声を上げる。
見ると、バイクの運転手は事故の衝撃でヘルメットが脱げており、顔を拝むことが出来る状態になっていた。
その顔は、ポアロで梓にしつこく言い寄っていたという、あの男性客であった。
すぐにシートで隠されたが、救急隊員の様子からして恐らく即死だったのだろう……
「うう……そんな、嘘よぉぉ……!」
担架で運ばれる最中、女性がテープを越えて飛び込んでいった。
男性の知り合いなのか、担架に乗せられている彼に縋り付くようにして嗚咽交じりに泣いている。
「…………」
そんな女性とシートで隠されている男性を、梓は沈痛な面持ちで見ている。
迷惑していたとはいえ、仮にも店の常連だった人が亡くなったのだ。暁もなんだかんだで事故現場に遭遇するのは初めてだが、それでも梓の方がショックが大きいに違いない。
そんな梓を気にしていると、横転したバイクの方から妙にわざとらしい子供の声が聞こえてきた。見ると、毛利探偵が追っていた眼鏡の少年が、男性のバイクをじろじろと眺めている。
「あれれ~? このバイクおかしいな~」
「このガキ! 現場をウロチョロするんじゃない!」
「お父さん、乱暴は駄目よ!」
それを聞きつけた毛利探偵が声を上げた少年を殴って叱ろうとしているが、制服を着た女の子がそれを宥めている。
「あの子、毛利さんの娘の蘭さん。あの眼鏡の子は私もよく知らないけど……親戚の子かな?」
梓の耳打ちに頷きつつ、少年の言葉に耳を傾ける。
「だって、ここ変だよ! なんだかテカテカしてるもん」
少年は、バイクのブレーキパッドの部分が変だと言っている。暁もテープ外から少し近づいて見てみると、ブレーキパッドに潤滑油のようなものが塗りたくられていたのが分かった。
「こいつは……! おい、誰か一課の目暮警部に連絡してくれ!」
「え、ど、どういうこと?」
交通課の長髪の女性警官がいきなりの毛利探偵の言葉に戸惑っている。
「これは事故なんかじゃない……殺しだ!」
ポアロの営業時間については調べても情報が無かったので、ある程度適当です。
死ぬほど美味いラーメンの話で夜中にポアロで夕食を済ませようとする描写がある辺り、それくらいの時間までは営業してそうなので、それを考慮した形にはなっています。
ちなみに、梓さんはアニメでは出る度に見た目が変化していますが、この作品では原作基準の外見で通しています。