ベルベットはラヴェンツァのコードネームです。
ここだけの話、作者自身しょっちゅう忘れたり、書いててベルベット? 誰だっけと思うことが多々あります。
目を覚ましたキッドをまず襲ったのは、頭に響く鈍痛であった。その痛みに思わず呻き声を上げつつ、何が起こったのかを思い出す。
確か、自分は屋敷に侵入するために煙突へ入って……いや、自分から入ったわけではないが。ともかく、誰もいないと思って油断したところを、何者かに頭を殴打されて気絶してしまったのである。魔女相手だからと変な物が仕掛けられてないかばかりを気にして、物理的な襲撃をしてくることを考えなかった。
キッドは痛みに耐えつつ、辺りを見回す。どうやら、屋敷内のどこかの部屋に閉じ込められてしまったようだ。空気と音の響き方からして、地下室といったところだろう。
「いっつつ……もう少し手加減してほしいぜ」
手で痛みのある後頭部を抑えようとしたところで、気づく。何かに阻まれるようにして腕を動かすことができない。ジャラジャラという金属音がすぐ耳元で響く。見ると、壁にぶら下がっている手錠で両手首を拘束されていた。
「なっ、何だこれ!?」
キッドは慌てて自慢の解錠スキルを行使して手錠を外そうと試みたが、さすがに道具もない上両手が使えない状態ではそれも難しい。加えて、子供の身体ではろくに力も出ない。それでも何とかできないかと試行錯誤していると、部屋の扉が開いた。
「ふふ、お目覚めかしら」
顔を正面に向けたキッドの目の前に立っていたのは、目的の魔女――小泉紅子であった。どこか古代エジプトを思わせる装飾が施された衣装を着ている。
(紅子……!)
驚きの声を上げるキッド。自分を拘束したのが紅子であったから驚いているのではない。ここの家主は彼女なのだから、そんなことは当然予想していた。キッドを驚かせたのは、彼女の両眼が黄金色に鈍く輝いているからだ。
「まさか、天下の怪盗キッド様がこんな子供に身をやつしてしまうなんてね」
そんなキッドを見下ろしながら、そう嘲笑う紅子。さすが魔女というべきか、幼児化してしまっていてもキッドが本人であることを見抜いているようだ。妙に加虐的な笑みを浮かべたその顔は普段の紅子を思わせるものではない。
「……それより、この手錠は何なのですか? 貴方のような麗しいお嬢さんには似合わない趣味ですよ」
「あら、侵入した白鼠を捕らえるのは屋敷の主として当然でしょう? ……後、そんな成りで紳士ぶっても滑稽なだけよ」
「……ウッ。いや、その……悪い」
キッドはまあそうなるなと思いつつ、侵入したことを謝った。口調も、本来の彼の口調に戻っている。彼女はキッド=快斗であることを見抜いているが、キッド自身からそれを明言していなかったので、あくまで自分は快斗ではないと紳士的な口調でこれまで通してきたのだ。だが、幼児化の件について相談するなら、自分がキッドであると認めるしかない。
「今回はその……オメーに頼みがあって来たんだよ」
「ふーん? 頼み、ね。聞いてあげてもよろしくてよ。その代わり、条件があるわ」
唇の端を曲げ、紅子はキッドを指差した。
「私の物になりなさい。キッド――いえ、黒羽快斗」
その言葉を聞いたキッドは溜息を吐く。以前紅子が襲ってきたのは、キッドを自分の下僕にするためであった。その一悶着が終わった後も紅子はそれを諦めていない様子だったため、彼にとっては予想通りの答えだったのである。
「前にも言ったけど、断る。それ以外で何とか頼めないか? オメーに頼みがあるのは、オレだけじゃねえんだよ」
「……ああ。貴方と一緒にやってきた黒鼠ね。まさか、気になっていたジョーカーが自分からやってくるなんて、占いをするまで思いもしなかったわ」
まるでジョーカーのことを知っているかのような口振りに、キッドは眉を潜める。そのことを聞こうとしたが、それは遮られた。紅子がキッドの前に目線を合わせるようにして腰を下ろしたのだ。キッドの顎を、紅子の細くすらりと伸びた指が撫でる。
「貴方が若返ったのは好都合だわ。私の物にならないのなら……いっそ記憶を失くして、私好みに育ててあげる」
思わぬ言葉に「いいっ!?」と素っ頓狂な声を上げるキッド。
そんなキッドを他所に、紅子は魔術を行使するつもりなのかキッドの顎を撫でていた指を上に…‥額へと運び始める。
「ちょ、ちょっと待て! 紅――」
その時、地上の方で破壊音が響いた。
ジョーカー達か? とキッドは目線を天井へと向ける。チッと舌打ちをし、キッドの額から指を離して立ち上がる紅子。
「邪魔が入ったようね。いいわ、先ずはあちらを先に落としてやりましょうか。私、好物は最後までとっておく派ですもの……貴方はここでキッドを見張ってなさい」
「畏まりました。紅子様」
いつの間に傍らにいたのか、執事と思われる老人にキッドの見張りを任せ、紅子は部屋を立ち去っていく。
(くそっ……情けねぇ。これじゃ完全に足手まといじゃねえか……!)
キッドは苛立ちをぶつけるかのように手錠の掛けられた手首を我武者羅に動かすが、それは虚しく鎖の金属音を響かせるだけであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
どこに捕まっているかも分からないキッドを当てもなく探すよりも、パレスの主からオタカラを盗む方が早いだろうと結論付けたジョーカー達は、モナの鼻の反応を辿っていかにもというような扉を見つけた。
門番と思われるシャドウを倒し、勢いのままにその扉の中へと転がり込む。
扉の先の部屋、その床には巨大な魔法陣が描かれていた。中央には石製の煙突と繋がった大釜が鎮座しており、それはまるで悪魔合体の儀式でもするかのような様相であった。加えて、天井や壁一面に男の肖像画が無数に飾られている。それを見たジョーカーは眉を潜めた。
「ようこそ、黒鼠さん」
頭上から声を掛けられる。見上げると、宙に浮いた玉座に女性が膝を組んで座り、ジョーカー達を見下ろしていた。彼女がキッドの言っていた魔女……小泉紅子だろうか? その瞳は金色に輝いている。
「彼女がパレスの主であることは間違いないな」
モナの言葉に、こくりと頷くジョーカー。
絹糸のような艶やかな長い黒髪に、透き通るような白い肌。魔女は男性であれば思わず目で追ってしまうような魔性の美貌を有していた。その切れ長の目が、ジョーカーに誘うような視線を送る。
「無駄なことを。そんな魅了紛いのまじないはマイトリックスターには通じません」
ベルベットが鼻を鳴らして前に出た。キッドと同じく、ジョーカーの心はただの魅了でうつつを抜かすほど腑抜けたものではない。いや、女性経験が豊富だからというのもあるかもしれないが……とにかく、ジョーカーには通じなかった。
「……ふん、そんなことは分かってるわ。私に心を奪われない男は、貴方で二人目よ」
紅子がそう憎々しげに口にする。一人目は、恐らくキッドのことだろう。
音もなく玉座を床に下ろし、ジョーカー達と相対する紅子。
キッドはどこだ、とジョーカーが問う。
「彼はこの先の地下室で大人しくしてもらってるわ……ホホホ、怪盗キッドはもう私の物。後は貴方をこの世から葬り去れば、世界中の男達は皆私の虜ということが証明できる」
なんとも無理矢理な証明の仕方だ。なぜそこまで男を魅了することに固執する? 続けて問うジョーカー。
紅子は何を馬鹿なことをとでも言いたそうな目でジョーカーを睨んだ。
「虜にならない男が存在するということは、私の美貌が絶対ではない……偽りであるということじゃないの!」
そんなことは、断じて許されない。
紅子の黄金色の瞳の輝きが、燃え上がる炎の如く揺らめき始める。
「そう……この世界に、貴方のような余計な存在は不要なのよ!」
紅子はその言葉を皮切りに、彼女とジョーカー達との間で二つの赤黒い水柱が勢い良く立つ。その水柱から、二体のシャドウが現れた。白銀の鎧を纏った黒い長髪の端正な顔立ちをした男達だ。二体共、その手に槍を携えている。
シャドウ達は得物を構え、一斉にジョーカー達へと飛びかかった。
「あの二体は私達が相手をします。ジョジーヌ!」
「魔女の方は頼んだぞ、ジョーカー! ゾロ!」
ベルベットとモナは、飛びかかってきたシャドウ達を迎え撃ちにそれぞれ散らばっていった。
残されたジョーカーと紅子が、真正面に対峙する。
「……ほほほ、鼠風情が。私の赤魔術に恐れ慄くがいい!」
紅子はニヤリと笑みを浮かべると、グツグツと泡を立てている大釜に何やら怪しいブツを幾つか落とした。そして、呪文を紡ぐ。それに反応するかのようにして、足元の魔法陣が輝き始めた。
――ヤーヤグ ヤルガ アユル マルガ アユル ガマム……
「いでよ! この世で最も邪悪な神、ルシュファーよ!!」
呪文を唱え終わると同時に、魔法陣の輝く光が一層強まる。あまりの眩しさにジョーカーは片腕で目を庇う。
光が収まって再び紅子を視界に入れると、彼女の背後にはガス状の何かがその姿を現していた。それは身体中に無数の髑髏が浮かんでいるようにも見え、頭部と思われる箇所からは山羊の角のような物が見て取れる。見ようによってはペルソナのようにも見えるが、恐らく違うだろう。魔術によって召喚された正真正銘の悪魔かもしれない。
「行きなさい! ルシュファー!」
紅子が命令すると、ルシュファーと呼ばれた悪魔はその煙状の身体を変化させ巨大な腕を作り出した。その腕が、ジョーカーを鷲掴みにせんと襲いかかる。ジョーカーはそれを前方へ飛び転がるようにして回避すると、そのまま紅子の方へ突っ込む形で走り出した。
ア ル ダ ー !
そしてペルソナを召喚し、悪魔目掛けて不可視の剛拳を叩きつける。それは悪魔の身体をぶち抜き、大きな穴を開けた。
しかし、その煙状の身体は分断されても全く意にも介さない。それどころか、見る間に元の形へと戻っていく。どうやら、物理攻撃が効かないようだ。この分では銃による攻撃も効果はないだろう。シャドウの中には攻撃を反射してくる者もいる。それに比べればマシだが、厄介なことには変わりない。
ひとまず距離を取ろうとしたところで、ジョーカーの腕を紅子の華奢な手が掴んだ。悪魔による補助が加わっているのか、予想外の力で引っ張られるジョーカー。前のめりになったその腰に、紅子にもう片方の腕が絡みつく。
「貴方も何か降魔術に似た力を持っているようだけれど、所詮無駄なこと。ルシュファーには傷一つ付けられないわ……そうね。潔く諦めて私の下僕になるというのなら、命だけは助けてあげてもよくってよ」
紅子の囁きが、ジョーカーの耳元を擽る。
囚人扱いは慣れているが、下僕は御免だ。ジョーカーはかかる吐息を振り払い、紅子を突き放した。お前がメイドになるなら歓迎してやらないこともない。挑発的な視線を送りつつ、そう付け加える。もちろん冗談だが。メイドは川上だけで十分だ。
紅子は一瞬何を言われたのか分からなかったのか、ポカンとしている。が、すぐに我に返ってその顔を赤くさせた。メイド? この私を?
「私を逆に下僕にするだなんて……そんなふざけたことを言った愚か者は、お前が初めてよ!」
紅子は怒りを露わにし、ルシュファーにジョーカーを攻撃させる。その大きな口が裂けるようにして開かれ、灼熱の炎が吐き出された。
地獄の業火とも思えるその炎を、ジョーカーは飛び退いて避ける。だが、炎はまるで意思を持った蛇のようにジョーカーの後を追ってきた。このままではすぐに追いつかれて身を焼かれてしまう。
ア ル セ ー ヌ !
ジョーカーはペルソナをアルセーヌに切り替えた。アルセーヌは速さに特化したペルソナだ。その補助を受け、隼の如き速度で部屋中を縦横無尽に駆けて迫りくる炎を避け続ける。
その最中、ルシュファーに向けて強力な呪怨魔法を放つジョーカー。光を吸い込むかのような禍々しい闇の波動がルシュファーを貫く。しかし、それはルシュファーの身体に触れた瞬間に四散してしまった。どうやら、呪怨にも耐性があるようだ。
何か弱点はないのかと、ジョーカーは炎を避け続けながらルシュファーの全体を観察する。その視線が、煙状の身体の根本となる部分に移る。それは、大釜の中へと繋がっていた。
「ちっ……すばしっこい。これでは埒が明きませんわ……ルシュファー!」
対して、ジョーカーの予想以上の素早さに苛立ちを隠し切れない様子の紅子。何を思ったのか、ルシュファーに何やら命令すると、しつこくジョーカーを追っていた炎を掻き消してしまった。
諦めたのか? ジョーカーは警戒しながらも距離を取って紅子の様子を伺う。
「これからとっておきの魔術をお見せしますわ。それにかかれば、貴方はこれ以上私に攻撃するどころか逆らうこともできなくなる」
そして、
開いた先から出てきたのは、化物のような顔立ちをした彼女の執事と思われる老人。
そして、その老人によって手錠で繋がれているキッドであった。
「ジョーカー! ……って、一体どういう状況なんだよ!?」
キッドは紅子のルシュファーとジョーカーのアルセーヌを見て、その常識外れの光景に目を見開いている。
紅子が目で促すと、老人は懐からナイフを取り出し、あろうことかそれをキッドの首に押し当てた。
「……なっ!?」
脂汗を垂らしつつ、歯を食いしばってそのナイフに目を向けるキッド。
随分と低俗な魔術だな。そう言って紅子を睨むジョーカーの目には、明確な怒りが含まれていた。
「おほほ……その低俗な魔術によって貴方は死ぬことになる。分かってるとは思うけど、少しでも抵抗しようとすればこの部屋をキッドの血で染めることになるわよ」
「ハッタリだ、ジョーカー! コイツはオレの心を手に入れようとしている! 殺すような真似はしねえはずだ!」
「おだまり! ジョーカーが倒せないのなら、幼児化した貴方を私好みに育てても意味がない。ジョーカーがいる限り、世の男は全て私の物とならないのだから! ……それなら、それなら二人共殺してやるわ。それが魔女というものよ!」
どこか悲壮さを感じさせる叫びを、ジョーカーとキッドにぶつける紅子。
ジョーカーはただ紅子を強く睨みつけると、背後に控えているアルセーヌを消した。
「素直な子は好きよ……ルシュファー!」
それを見た紅子は満足げに目元を緩ませると、ルシュファーの豪腕を正面からジョーカー目掛けて叩きつける。まともに攻撃を受けたジョーカーは後方に大きく吹き飛ばされてしまう。
「ジョーカー!」
キッドの声も良く聞こえない。うつ伏せに倒れたジョーカーは腕を支えに何とか立ち上がろうとするが、追撃の拳を背中から受けて再び地面に這いつくばらされてしまう。その衝撃を物語るように床に亀裂が走る。
「――がぁっ!」
「っ……!」
そんなジョーカーの元へ、モナとベルベットがお互い背中を打ち付けるようにして吹き飛ばされてくる。紅子のルシュファー、そして二人が戦っていた鎧を纏ったシャドウ達がジョーカー達を囲うようにして並んだ。
「くっ、すまないジョーカー。あのシャドウ、ワガハイとベルベットのペルソナでは相性が悪すぎる……!」
ジョーカーの背中の上で倒れているモルガナがそう苦しげに伝えた。
「くそっ……! ジョーカー! オレのことはいいから戦え!」
キッドが悲痛な面持ちで叫ぶ。だが、片膝を立てて起き上がったジョーカーはただ紅子を強く睨みつけているだけで、それ以上何もしようとしない。
「無駄よ。弱者を助ける心の怪盗が、それを見捨てるなんてことをするわけがないわ」
正義の怪盗様はつらいですわねぇと、せせら笑う紅子。
紅子の言葉に、キッドは意識を取られてしまう。その顔が己への失望に歪み、沈んだ。
自分が弱者? 夜闇を飾る大泥棒である怪盗キッドが?
そんなこと、あってはならない。認められない。怪盗キッドが足手まといの弱者だなんて……本来のキッドである黒羽盗一に顔向けできない!
――どうした。君はこんなところで終わる男なのかい?
教わったはずだろう。いつ何時たりともポーカーフェイスを忘れるなと。
ハッとして頭を上げるキッド。激しい頭痛がキッドを襲う。
「っが!? ぐ、ああああ……!」
その激痛の中、父の言葉を言い聞かせるこの声は一体誰なのだろうか。父の声のようにも聞こえるが……いや、この声は――
――そんな腑抜けた顔ではせっかくの純白の衣装も影がかかるというもの。
怪盗は常に夜闇を飾る光でなくてはならない。
そうだ。自分はここで終わる男ではない。なぜならば……
――今こそ契約の時だ。我は汝、汝は我……
「 そう。オレは……月下の奇術師、怪盗キッドだ! 」
その叫びを切っ掛けに、キッドを中心にして青白い炎が巻き起こった。衝撃で、手錠の鎖が砕かれる。傍にいた老人は腰を抜かしてその場に尻もちを突き、紅子は何事かと目を見張る。
そこに立っていたのは、幼児化したキッドではない。本来の姿のキッドであった。
その背後には、機械的な白い翼を羽ばたかせる長身の男の姿が見える。翼と同じ白一色のスーツが眩く、その顔はホログラムがかけられているかのように判別がつかない。そう。ペルソナを、覚醒させたのだ。
「い、一体何をしたの!?」
「なあに、新しいマジックといったところですよ。種も仕掛けもないつまらないものですが……ね」
続けて、キッドは冷静さを取り戻した顔でジョーカーの方を見やる。片膝を突いているジョーカーはそれに応えるように頷き、大釜の方に目を向けてみせた。
「なるほど……ラウール!」
ジョーカーの意図を理解したキッドは、己のペルソナの手元に長身型のトランプ銃を出現させる。その銃で、大釜を狙い打った。普段とは比べ物にならない勢いで風を切るトランプはそのまま大釜を粉々に粉砕し、その中身を盛大に周りへバラ撒かせる。
大釜の中身をまともに浴びた鎧のシャドウ達は悲鳴を上げてのたうち回る。それは、まるで硫酸を浴びたかのように鎧を溶かしていった。
「っ! ゾロ!」
「……ジョジーヌ!」
間髪入れず、モナとベルベットがペルソナを召喚して追撃を喰らわす。鎧を失って耐性が弱まったシャドウ達は、攻撃に耐えられず消滅していった。
「しまった……!」
悲鳴を上げる紅子。だが、悲鳴を上げたのは彼女だけではなかった。大釜がバラバラになってしまった影響か、ルシュファーも野太い苦痛の声を上げ始めたのだ。ルシュファーの煙状の身体も乱れ始める。
「今だ! ジョーカー!」
キッドが叫んだ。立ち上がったジョーカーは、弱っているルシュファー目掛けて駆ける。今なら、物理攻撃が効くかもしれない。
フ ツ ヌ シ !
キッドとの縁を結ぶことで扱うことが可能となったペルソナを召喚するジョーカー。背後に、鈍い鉄色の肌をした長髪の屈強な男が胡座をかいた姿勢で現れる。その男は霊剣フツノミタマを身体中に纏っていた。
その全ての剣が一斉に動き出し、眼前のルシュファーを空間が歪むほどの速度で滅多切りにしていく。
一撃、
二撃、
三撃――舞の如き鋭い剣撃が続く!
千、いや、万に及ぶ剣撃で身体を細切れに刻まれたルシュファー。
最後の一閃で、首だけを残して宙を舞う。それは地獄から鳴り響くような低い呻き声を漏らしながら、溶けるようにして消えていった。
「そんな、まさか、私の赤魔術で呼び寄せた邪神が敗れるなんて……!」
ルシュファーが敗れてしまったショックで気力を失くしたのか、その場に崩れるようにして床に膝を突く紅子。そんな彼女の元へ、老人が駆け寄る。キッドとジョーカー、それにモナ達も彼女らを囲うようにして集まった。
「お待ちください。こんなことを言える立場ではないことは重々承知しておりますが……どうか、どうか紅子様のことをお許しになってあげてください」
紅子を庇うように前へ出た老人は手を突いて頭を下げ、語り始めた。
紅子は生まれた時から歴代最高とも思われる強力な魔力を持ち合わせていた。だが、幼い時分は制御の仕方も拙く、不可思議な現象を頻発させた影響で周囲から孤立していた。父親は紅子が産まれる以前に儀式の失敗で死に、身体の弱かった母親は紅子を産んで亡くなった。一族の中で残ったのは紅子だけという中で、彼女が魔力の制御ができるようになるまで時間がかかってしまったのは想像に難くない。
一緒の女子小学校に通っていた仲の良かった友達も、紅子が普通とは違うと分かるや否や疎遠になってしまう。そういうことが何度も繰り返されたのである。顔も見たことがない赤の他人が悲鳴を上げて逃げていったこともあれば、両親がいないのは魔女である紅子が魔術の生贄にしたからだというような根も葉もない噂まで広がる始末であった。
中学に上がる頃にようやく制御を完璧に出来るようになった紅子は、元いた女子小学校から知り合いの誰もいない共学の中学校へ進学した。そこで自分の美貌に魅了され気を引こうと何でも言うことを聞く男子達を見て、彼女は徐々にそれに固執していった。魔術を使わずとも簡単に落ちていく男共の様が愉快だったのだ。
幼少期の孤独が、それを増幅させた。
もちろん、周りの女子達はいい顔をしなかった。だが、そんなことは関係ない。むしろ注がれる嫉妬の視線が紅子の気を良くさせた。いつも自分のことを影で悪い魔女だ悪魔の子だと蔑んでいた女共が、女性としての高みにいる自分を下から恨めしげに見上げているのだから。
そう、いくら強力な魔力を持つ魔女であっても、彼女は女性……ただの一人の人間に変わりなかったのだ。
「もう、止めて……」
紅子の消え入りそうな呟きを受けて、老人は口を閉じた。自分の生い立ち話など、聞いていて気分の良いものではないだろう。
キッドは困ったように頭を掻いている。それも仕方がないだろう。誰とでも分け隔てなく明るく接することができるキッドは、今まで孤独というものを経験したことがないのである。母親が彼を残して度々旅行に出かけたりはするが、そういう時は決まって隣の家に住んでいる中森家の世話になっていた。
紅子はキッドがそんな黒羽快斗であることを見抜いている。つまり、彼がどんな慰めの
「……さあ、私の歪んだ心を盗んで、改心なさい。それが心の怪盗である貴方の仕事でしょう?」
紅子はその場にへたり込んで顔を俯かせたまま、そう口にした。諦めのような、乾いた笑いも混じっている。
パレス化はしているが、これまでと同じようにオタカラは独立しておらず彼女自身が所有しているようだ。モナとベルベットに促されて、ジョーカーは紅子の前に歩み寄った。
「お、おい――」
キッドがそれを止めようとしたが、ジョーカーの目を見て思いとどまる。
もう誰かを殺そうなんて真似はしないか? ジョーカーが紅子に問うた。
「……さあ、どうでしょう……でも、そうね。どうせ負けることが分かっているなら、そんな馬鹿な真似はしないわ」
少しばかりの間、沈黙が流れる。
――それなら、改心は行わない。
「「えっ!?」」
ジョーカーの思わぬ言葉に、紅子のみならず周りの者達も驚きの声を上げた。対して、キッドだけは笑みを浮かべている。
「よいのですか? ジョーカー」
ベルベットの問いに、頷いて答えるジョーカー。
彼女は自力で改心できるだろう。怪盗団の仲間である真の姉、新島冴のように。
「……そうだな。幸い、被害者らしい被害者もキッドだけだしな」
「幸いってなんだよドラネコ」
「ワガハイは猫じゃない!」
……しかし、このままでは紅子は孤独であり続ける。例え、星の数ほどの男を従えても、彼らが見ているのは紅子の外面だけなのだから。
言い合いをしているモナとキッドを背に、ジョーカーはへたり込んでいる紅子へ続けて語りかける。
――過去を恐れず、周りに心を開け。そして他人を頼れ。
世の中どうしようもない人間ばかりだが、きっと応えてくれる人がいる。
なんなら、キッドでもいい。コイツは頼りになる。
ついでとばかりにそう提案するジョーカーに、キッドが「おい」とツッコミを入れるが、それを無視してジョーカーはその場に跪く。呆けている紅子の顎に、ジョーカーは赤い手袋をした手を添えた。
――お前がもっと魅力的な女性になったその時、また心を頂戴しに来よう。
常日頃キザな台詞を口にするキッドも閉口してしまうほどの口説き文句を吐くジョーカー。紅子は一気に顔を真っ赤にさせた。
「……おい、ドラネコ。もしかして、アイツあれで結構プレイボーイなのか? つーか、性格変わってね?」
「アイツは怪盗姿になるといつもあんな感じだぞ。後、猫じゃねーって言ってんだろ」
耳打ちしてきたキッドに呆れ顔で答えるモナ。そして、その横で静かに青筋を立てているベルベット。
「……というかお前、元の身体に戻ってないか?」
「へ? ……うおっ! 戻ってる!?」
キッドは自分の身体を見て、素っ頓狂な声を上げた。どうやら、今の今まで気づいていなかったらしい。何だか分からないが元に戻れたと大喜びするキッド。
そこで、ビシッとガラスが割れるような音が彼らの耳を打った。歪みが解消され、パレスがその形を保てなくなったのだ。屋敷内の歪みの影響を受けた箇所が現実に沿った物へと戻っていく。
ジョーカーはそれを確認すると、疑似認知空間を解除した。普段着に戻り、紅子の顎に添えられた素の手を外す。が、当の紅子は顔をほんのりと赤くさせてぼ~っとしたまま、心ここにあらずといった様子だ。その目尻に、少しばかりの涙が輝いているのが見える。
ゴホンッと、怪盗のマスクを外したラヴェンツァの咳払いが響く。
「……ハッ!?」
それを聞いて、紅子はようやく正気を取り戻した。慌てて暁から離れる様は、魔女ではなくただの少女にしか見えない。
「あ、紅子様! 大丈夫ですか!?」
「お、おだまり! 大丈夫に決まってるでしょ! この私があんな言葉で動揺するとでも思ってるの!?」
案じて声をかけた執事の老人に荒々しく返す紅子。だが、老人が心配しているのはそこではない。
「違います!
老人は焦った様子で紅子の目尻で光る涙を指した。
「 ……ひゃあああぁぁぁーーー!!!?? 」
突然甲高い悲鳴を上げ、パニックを起こす紅子。乱暴にその涙を拭っている。
「ま、まだ零れてないからセーフよね? そうよね!?」
「あああ、紅子様! お、お、落ち着いて――」
必死に確認する紅子だが、老人は激しく肩を揺さぶられて答えることができない。
「おいおい、どうしたんだよ? 血相変えて」
何があったのかと声をかけるキッド。紅子は恨めしげに暁の方を振り向き、普段の美貌はどこへやら般若の顔でズンズンと迫る。
「貴方のせいで、私の魔力が失くなってしまったかもしれないのよ!」
何のことだが分からず、迫る般若に冷や汗をかきながら後ずさるしかない暁。とりあえず落ち着いてくれと言うが、紅子は「どう責任取ってくれるの!」と文句を止めない。そこへ、「近すぎです。マイトリックスターから離れなさい」とラヴェンツァも加わる。
「おーい……」
蚊帳の外のモルガナとキッド。ふいに、モルガナがキッドの方を見た。
「……お前、また縮んでないか?」
「えっ!?」
PCが故障して投稿が遅れていましたが、何とか復活しました。
マザーボード交換→CPU交換→マザーボード交換でようやくです。
それはともかく、ペルソナ5も一周年ですね。早いものです。
アニメも楽しみですが……ジョーカーの名前がどうなるのか気になるところですね。コミカライズ版の来栖暁のままなのか、そうでないのか。多分4と同じでアニメ版の名前が主流になるのでしょうね。
さて、今回の話ですが、快斗をペルソナ使いとして覚醒させました。アルカナは魔術師です。
本当はキッドという名前の特殊なペルソナを覚醒させ、それと一体化することによって一時的に元の姿に戻るというよく分からない設定にしようかと思っていたのですが、ラウールという良さそうなペルソナを思いついたのでそれに変えました。
ラウールはご存知の方もいらっしゃると思いますが、アルセーヌ・ルパンの幼名です。黒に染まる前、純白の若きルパンというのはキッドにピッタリなのではないでしょうか。
……まあ、今後そんなに出番はないと思いますけど。
ちなみに、紅子がルシュファーを召喚する際に唱えていた呪文は赤魔術でデーモンを呼ぶ際に唱える呪文を適当に改変させたものです。
赤魔術って調べるとエジプト発祥の物しか見つからなかったんですよね。思えば、紅子の魔女衣装が古代エジプトっぽいのもそこから来ているのかもしれません。
ちょっと長くなってしまったのでこの辺で。
次の話ですが、色々練らないといけなさそうなので時間がかかると思います。