感想、評価を下さった皆様、心が折れそうなときに支えになってます。ありがとうございました。
では最新話です。
今日は珍しく朝から職員室へ顔を出していた。
普段は整備室に行って授業前の最終確認を行うのだが、今日は実技の授業が無かったのでその必要はない。その代りに備品の補充の書類を書かなければならなかった。
ISは精密機械、少しの狂いが事故に繋がる可能性がある。だから、その整備の肝である備品は常に万全な状態にしておきたい。新年度を迎える前にしっかりと処理すべき重要な仕事の一つであった。
だが、そんな大切な作業をしているにも関わらず、俺は目の前の仕事に集中することが出来ないでいる。
何故かと言えば、考え事をしていると、どうしても昨日の出来事が頭をよぎってしまうからだ。
千冬さんが唐突にしてきた頬へのキスは、俺に精神的被害を与えた。被害じゃないだろって? いや、ね。正直嬉しかったよ。千冬さんからキスされたのは。でもおかげさまで、家に帰った後も心臓バックバクで、一睡もできてないんだよ……。心臓がフル回転し続けて、胸が苦しいどころか痛い。
そんな俺の精神状況を知って知らずか、千冬さんはいつも通りに扉を開けて出勤してきた。その姿が近づくにつれて鼓動を打つスピードが更に上がる。
「おはよう准」
「おはようございます、千冬さん」
挨拶を普段通りに返す。表情を取り繕えているか不安だ。
「ん? どうした准。顔色が良くないな」
「そうですか?」
「ああ、少し顔が赤いぞ。熱があるんじゃないか?」
そう言って千冬さんは俺の額に手の平を当てる。急に触られた事に驚いて、ビクッと肩が跳ねた。
「熱はそうでもないか、でも一応保健室に、」
「大丈夫、大丈夫ですよ。じゃあ千冬さん、俺ちょっと備品の確認に行くのでこれで!」
早口で捲し立てると、俺は書類を手に整備室へ向かう。
走ったら怒られるので、早歩きで。
誰ともすれ違うことなく整備室の前に到達する。鍵を開けて中に入り、整備室の作業台の上に顔を伏せた。まだ朝早いからか、俺の他に人はいない。
そうしていると、職員室に居たときよりも鼓動が落ち着いて、まともな自分でいられる気がした。
今日はここで仕事を済ませるつもりだった。備品も直接確認できるし、生徒がここに来ることもない。まさにうってつけの場所と言えた。
さっさと仕事に取り掛かろう。時間は有限だ。考え事はやる事をやってからにしよう。
ワイシャツの胸ポケットからボールペンを取り出して、書類に書いてある備品の状態を確認しに行った。
▼ ▼ ▼
「これで終わったか」
一通り確認を終えて、書類に記入を終える。
時刻は六時。もう外はすっかり暗くなってしまっていた。期限までには余裕があるから書類の提出は明日にして、今日はそのまま帰ってしまおう。整備室の戸締りをして鍵をかけ、外に出る。
夜風が当たって肌寒い。春も近づいていると言うのに、今日はだいぶ冷え込んでいた。
歩いていると服の隙間から風が入り込んで、体温を奪う。
俺は寒さに耐えかねて、自動販売機で温かい飲み物を買う事にした。
バッグから財布を取り出して小銭を投入、コーヒーかココアどちらにするか悩んだ末にココアのボタンを押した。プルタブを起こして、口にする。外気にさらされ続けたベンチに座る。尻が冷たい。長時間何も口にしていなかったから、その甘さが体に染みた。
さて、
時間が経ち、羞恥も薄れて、昨晩より幾分か冷静に考えることが出来る筈だ。
どうして俺がここまで取り乱したのか、それは分かり切っている。俺が千冬さんの事が好きだから、好きな人にキスをされたから、そんな単純な理由だ。
だが、これ以上踏み込んでいいのか、どうか。その疑問が俺を踏みとどまらせていた。
前提として俺は大した人間ではない。学生時代に打ち込んだ野球は中途半端、IS整備士として代表入りはしたが、所詮整備士、ミックスグリルで言う所のグリンピースの様な存在。ちゃんと食べて貰えるかどうかも怪しい。
それに対して千冬さんは完全無欠という言葉が似合う、外見も実力も世界の中でトップクラスの選手だ。比べる方がどうかしている。
でも、そばにいるだけで良い、話しかけてくれるだけで嬉しい、それで十分、そう言って諦めていた事にあと一歩で届くかもしれない。そう思うと心が揺れたのだ。
だがそれと同時に、この一歩で今の関係ですら崩れ去ってしまうかもしれない。そう考えるほどに弱気になってしまう。そんな自分が情けなくて、嫌いだった。
「はぁ……あと少し、自分に自信が持てたらいいのにな」
そう呟いて、ココアを飲む。結構長々と物思いに耽っていたようで、すっかり
それを一気に飲み干して、ゴミ箱を探す。自販機の横に口を大きく開けた金網のゴミ箱を見つけた。距離は目測で約十八メートル。懐かしい距離感だ。
その懐かしさに引かれてベンチから立ち上がり、セットポジションで構えた。
左足を上げてから前に踏み出し、突き出した左手を引き込んで、右腕を上から振り下ろす。だが、その途中で右腕は止まり、空き缶は中途半端な所からリリースされた。空き缶はゴミ箱の遥か手前に着地。カランと気の抜けるような音を立てて、転がって行く。
「やっぱダメか」
「やっぱダメか、じゃない。ゴミぐらいちゃんと捨てろ」
千冬さんは呆れた顔でそう言って空き缶を拾うと、ゴミ箱に入れた。
「……以後気を付けます」
突然現れた千冬さんに驚いて返事をするのが遅れたが、何とか表情を取り繕う事が出来た。
「そうしてくれ」
そう言うと、千冬さんは俺の隣に立った。その動きはとても自然で、千冬さんにとって昨日の出来事は何でもないごく普通の事だったのかもしれない。
「なあ、准」
「何ですか?」
「その、悪かったな」
「はい?」
千冬さんに謝られることに覚えが無かったので、思わずそう聞き返した。
「その、昨日は突然あんなことをして済まない。嫌だった……よな」
「そんな事、ないです」
むしろ嬉しくて一日中悩んでいたまでだ。
「じゃあ、何で今日は私を避けてたんだ。昼も戻って来なかっただろう」
「別に避けた訳じゃないですよ。仕事が忙しかっただけです」
なぜ避けていたか、そりゃあ昨日あれだけの事をされれば意識して顔を合わせづらいに決まってる。ただそれを素直に口にするのは気が引けたので、そうはぐらかした。
「嘘ついてないか?」
「俺はそこまで信用無いですか?」
「そんなことはない、ただ……不安だったんだ」
「不安、ですか?」
「准に嫌われたんじゃないかって。おかげで今日は仕事が手に付かなかった」
きっと千冬さんは千冬さんで昨日の事で悩んでいたのだろう。自分がした事に対して俺がどう思っているのか? もしかして嫌われたんじゃないか? そんな疑問と不安に駆られて、一日中。
俺は昨日、黛記者に言われた事を思い出す。“似たもの同士”、か。あの時はそこまで意識していなかったが、考えていたことも一緒とか、似ているにも程がある。そう思うと何だか笑えてきた。
「なっ! 何も笑う事無いだろう!」
「いや、すみません。気にしないでください」
「私がどれだけ悩んでいたかも知らないで……!」
それはこっちの台詞だ。そう言い返したくなったが飲み込む。
「分からないですよ、心が読める訳じゃ無いんで」
「はぁ……ああ、要らない心労をしたじゃないか」
ため息をついて千冬さんはそっぽを向いた。
「でもまあ、俺の為に悩んでくれたってのは嬉しかったです」
「またお前はそういうこと言って私をからかう気だな! 騙されないぞ!」
俺の言葉はあっさりと否定されてしまった。一応本心なんだけどな……。女性のご機嫌取りにあれこれ言っていたのがここにきて裏目に出てしまったか。訂正するのも面倒なので、そのままにする。
「じゃあ、そういう事にしておいて下さい」
「じゃあって何だ、じゃあって!」
千冬さんは振り返って、シャツの腰辺りを掴むと揺さ振った。それ止めて、伸びちゃうから。
しかし……こうして精神的に余裕が出ると、昨日は自分だけがからかわれた様で気に食わなくなってきた。やられっぱなしは性に合わない。何とかして千冬さんを戸惑わせてやれないだろうか? 色々考えた末に思いついたことを実行することにした。
シャツを掴んでいる千冬さんの手を引き剥がして、指を絡める。
それに驚いて、千冬さんは一歩下がるが、手は決して離さなかった
「手、冷たいですね」
俺が触れた手はすべすべしていて、柔らかかったが、それよりも先に出て来た感想がそれだった。
「……准のせいだぞ、こんな分かりづらい場所にいるから」
弱々しい声でそう呟く。その言葉を聞いて俺は申し訳ないと思うと同時に、嬉しかった。自分がそれだけ千冬さんに想われているという実感が持てたからだ。我ながらめんどくさい奴だと再認識する。
自分の体温が移りやすくなるように手を握る力をほんの少し強くした。
「そろそろ帰りましょう。ここは冷えますから」
「ああ、そうだな」
手を引いて寮を目指す。その間千冬さんはうつむいていて、その足取りはたどたどしい。少し心配になったので声を掛ける。
「千冬、大丈夫ですか?」
「……っ、ああ、大丈夫だ。何かあったか?」
少し間があったが、ちゃんと返事が返って来た。別に特に聞きたい事は無かったが、呼びかけた以上は何かしら話さないと。そうだ、今日の夕飯の話にしよう。どうせ今日も部屋に来るんだろうし。
「今日の夕飯どうします? 良ければ御馳走しますが」
「行く。今日は何にするんだ?」
「トマト缶があったのでトマト鍋にしましょうかと思ってます。シメをリゾット風にすると美味しいんですよ」
「そうか、期待してる」
そう言って微笑んだ千冬さんは、月明かりに照らされていつもよりも綺麗に見える。
戸惑わせるつもりだったのに、俺はその表情にドキッとしてしまって、思わず視線を逸らした。
心臓の音が意識しなくても聞こえる。その音が繋いでいる手から伝わっていないで欲しいと願いながら、俺は歩を進めた。