それなりに難易度が高いと思っていた芦谷救出は、予想に反して簡単かつスムーズに完了してしまった。
結果的に檻は壊すことになったし、手枷の鍵も見つからなかった。けれど藍染にバレることも、父様に見つかることも、誰かと戦いに発展することも、全くなかったのだ。もちろん、悪い方に転がってほしかった訳ではないけれど、こうなると少し拍子抜けだ。
芦谷は、目的地に着くまでは喋らないでほしいという私のお願いを忠実に守り、ずっと黙ったまま私についてきてくれた。
その分、秘密の遊び場に着いてからの反動はすごかった。
「ご無事で何よりです、桜花様」
到着してすぐ手枷もそのままに、芦谷は私に
「芦谷も無事で良かった。助けるの、遅くなっちゃってごめん」
「そっ……そんな、とんでもない! 私が無事なのは全て、桜花様のお陰でございます。ありがとうございました。またもやお手を煩わせてしまい、大変申し訳ありませんでした」
視界の隅で、一護があんぐりと口を開けてこちらを凝視している。あの喜助さんでさえも、この光景には少し驚いているようだった。
分かるよその気持ち。びっくりするよね、こんなの。
「いや、いいんだよ。元はと言えば、私が行方不明になったからこうなったんだし」
「いいえ。こうすると決めたのは、私自身でございます。決して桜花様のせいなどではございません」
「いやだから、そもそも私が……やめよう、水掛け論になっちゃう」
こういう時の芦谷は絶対に譲らないから、話が進まないし終わらない。記憶上の芦谷との付き合いはさほど長くないが、それでも芦谷の妙な頑固さはよく把握している。というより、三日前に五番隊隊舎で話した時に把握してしまったというか。
「ところで……牢から逃げた阿散井副隊長が、何故ここに?」
「芦谷さんも牢から逃げてんだろ」
恋次がぼそりと呟く。私と芦谷のやり取りを見ても驚いていないから、恐らく昔も似たようなやり取りをしていたんだろう。
「それに……」
恋次の呟きには一切反応しなかった芦谷の目が、今度は一護たちの方を向いた。
「あの怪しげな奴らは旅禍でしょう? 何故貴女が旅禍と一緒にいるのですか?」
「その桜花も旅禍なんだけどな」
またもや芦谷は恋次の言葉を無視した。そして、私の顔をじっと見つめる。この男、どうやら私が返事をするまで待つつもりらしい。
ここまでくるともう、忠誠心とか律儀とか真面目とか、そういう言葉では片づけられそうにない。ちょっと極端なんだよなぁと、ため息をつきそうになったのを押し留めた。
「……恋次がここにいるのは、卍解の修行をする場所を探しててここに辿り着いたから。それ以外の人たちは私の知り合いで、ルキアを助けるために一緒に動いてるの」
現世での友人である一護、それから現世での私の保護者である喜助さんと夜一さん。ちょうどいい機会だからと、芦谷に三人を紹介しておく。
夜一さんは猫の姿だったから、保護者と紹介されて不思議に思ったはずだ。もちろん驚きもしただろう。喋るはずのない黒猫が、当然のように言葉を発したのだから。
けれど芦谷は、私の仲間たちについて、詳細までは訊ねてこなかった。私にそれ以上説明する気がないと、判っていたのだろう。
「大丈夫、怪しい人たちじゃないよ。見た目は怪しいけど」
「おい」
不機嫌そうに一護が唸る。
いや怪しいでしょうよ。常時開放型の巨大な斬魄刀を持った見慣れぬ死神と、変な緑色の甚平姿の男と、喋る猫だよ? どう足掻いても怪しいでしょ。
「なかなか愉快な従者じゃのう」
こちらを興味深そうに眺めていた夜一さんが、ふと口を開いた。一瞬、何の話をしているのか分からなかったけれど、すぐに思いついて「あぁ」と声を漏らす。
「芦谷のこと?」
「互いに貴族であるが故に、というやつじゃな。素質はあるが、こういうのは苦労するぞ」
「何の話……?」
「分からんなら気にするな。いずれ分かる」
何それ怖い。私が芦谷に苦労するの? それとも芦谷が私に苦労するの? どっちも嫌なんだけど。
元四楓院家当主だった夜一さんに貴族がどうとか従者がどうとか言われると、ちょっと怖くなってしまう。
しかし当の芦谷は、猫の夜一さんがあの四楓院夜一だと気づいていないらしい。いつの間にか喜助さんに手枷を外してもらったようで、素知らぬ顔で懐から取り出した白い布を、一護たちのすぐ近くの地面に敷いていた。
白い布? 何のための布?
「桜花様。お話をされるなら、こちらにどうぞ」
「えぇ……?」
芦谷が、そっと立ち上がって白い布を指し示す。土の上に敷くには惜しい、滑らかで真っ白な布だった。
嘘でしょ、ここに座れと? そのために敷いてくれたの?
紳士……なのだろうか、これは。いくらなんでもやりすぎではなかろうか。箱入りじゃあるまいし。
「いいよ、こんなのしなくて」
「座ってやれ、桜花」
「えー……本気で言ってる?」
芦谷の言う通りにしてやれと言ったのは、またもや夜一さんだった。夜一さんがそう言うなら、と私はおずおずと布の端の方に座り込んだ。何とも居心地が悪い。
「何つーか……本当にお嬢様みたいだな……」
一護がしみじみと呟く。
その呟きに、そこそこ失礼な言葉を返したのは喜助さんだ。
「違和感しかないっスよねぇ」
「まぁ、アンタがここにいんのも違和感ありまくりだがな」
「アハハ、酷いなぁ」
「笑い事じゃねーよ。現世に残るって言ってた癖に、しれっと居やがって」
どうせ桜花は知ってたんだろうけど、と一護がぼやく。
「いや、知らなかったよ」
「本当は?」
「もちろん知ってた」
「ホレみろ」
じろり、と一護が私を睨めつける。
そうは言っても、主人公たる一護に何もかも嘘偽りなく告げられるはずがない。気持ちは分かるが、こればかりはどうにもならない。
「ホント、お前って大事なこと隠すよな」
「そうかな」
「そうだよ。昨日のことだって、俺がこの場にいなきゃ黙っとくつもりだったろ」
「まぁ……大したことなかったし」
「大したことあるよ。心臓刺されて死にかけてた癖によく言うぜ」
「はぁ?!」
一護の何気ない発言に、聞いていた死神二人が反応した。芦谷と恋次だ。
「しっ、心臓……!? 何があったのですか?! お、お、お怪我は……?」
「東仙って人と戦っただけ。傷はもうほとんど治ってるから大丈夫だよ」
心配しすぎて既に涙目な芦谷をなだめていると、恋次が呆れたように言った。
「東仙隊長ってマジかよ……始解でもされたか?」
「いや、卍解。流石に死ぬかと思った」
「卍解!? お前、よく生きてたな……朽木隊長そろそろ泣くぞ……」
おっと、卍解されたことまでは言うべきじゃなかったか。恋次はともかく、芦谷なんてもう失神しそうだし。ちょっと申し訳ないなぁ。
「だから、誰にも心配させたくなかったから言わなかったの」
「あのなぁ……」
心配されるのって、恥ずかしいからね。
私のことを心から心配してくれるような人は、私にとって大切な人であることが多い。そんな人たちに「大丈夫?」なんて気遣われたら、何というか……照れてしまう。
"雲透"に指摘されたことを、ふと思い出す。あぁ、駄目だ。また恥ずかしくなってきた。止めだ、止め。こんな照れはさっさと隠してしまおう。その照れ隠しに、少し意地悪な笑みを浮かべてみせる。
「ま、あんたらに関しては、心配される謂れもないんだけどね」
座る時に布の上に置いた"
「私、卍解できるし」
「はぁ!?」
今度は恋次と一護が叫んだ。
芦谷? 芦谷は「流石でございます」なんて言いながら、うっとりとした目で私を見つめている。いやさっきまで失神しそうだったでしょ、情緒どうなってるんだ。忙しいな。
「お前っ、卍解できたのか……?!」
「うん、
「桜花お前、いつの間にそんな……」
「現世で修行はしてたから、斬魄刀は扱えるんだ」
詳細はまた、落ち着いたらね。少しだけ笑ってつけ加える。恋次は不本意そうながらも、黙って頷いてくれた。
「これが、私の斬魄刀」
鞘から刃をゆっくり抜き放ちながら、白煙をごく少量に抑えて始解をする。解号は言わない。こうして無言で始解するのは、これが初めてだった。
「"雲透"っていうの」
鞘に収まっていた時は存在した鍔が、抜き終わった時には消えてなくなっていた。雲文様の透かし彫りが、柄に編み込まれた銀糸が、光を反射させる。
やっぱり綺麗だなぁ、と我ながら思った。
「卍解を使ってやっと、生き残れたんだよ。やっぱり隊長ってのは強いんだね」
そう言って、その薄い刀を鞘に収め始める。最後にキンと澄んだ音を立てて、完全に刀身が隠れてしまったと同時に、私は始解を解除した。
途端に元の形に戻った鍔と、元の色に戻った柄を、一護が物珍しげに見つめていた。そうか、一護の斬魄刀は常時開放型だから、こういう変化は見慣れていないのか。
一方で恋次と芦谷は、私が解号なしで始解した意味をきちんと理解していたようだった。
恋次はしばらく黙っていて、そして不意に立ち上がって修行に戻っていった。芦谷も何か思うところがあったのか、私に一言断ってから
そしてそれは、一護も。
「はーい焚きつけ終了っと」
「悪女っスねぇ」
修行にむかった男三人を見送って、そして私は誰にともなく呟いた。それに反応したのは、嫌な笑みの喜助さんだった。誰が悪女だ、誰が。照れ隠しと焚きつけの二つが成功したんだ、一石二鳥と言ってほしいね。
「責任、感じてるんスよ」
「一護が?」
「えぇ。自分が朽木サンの力を奪わなければ。面倒事に巻き込まれなければ。今こうして朽木サンを、アナタやクラスメイトを、危険な戦地に引き摺り込まずに済んだ……と」
「それは、でも……」
「分かってます。黒崎サンのせいではない」
しかし喜助さんは、一護のモチベーションを上げるために、敢えてそれを否定しなかった。きっと、そういうことなのだろう。
「どっちが悪いんだか」
呆れ返ってぼやいた私に対して、喜助さんはへらりと笑った。しかし、何も言おうとはしなかった。
◆ ◆ ◆
朽木ルキアはその橋の上を歩いていた。数日前と同じように多くの護衛に囲まれ拘束された、罪人然とした出で立ちだった。
しかし、この状況に不釣り合いなほど、ルキアは落ち着き払っていた。これから双極の丘で極刑に処されるにも関わらず、である。
もしかしたら誰も来てくれないかもしれない。そして自分は死ぬのだ。そう疑うことを、ルキアは自分自身に許さなかった。
義兄が、姪が、仲間が、上司が、「必ず助ける」という意思を行動に表している。それだけたくさんの大切な人が、自分を助けようとしているのに、「助からないかもしれない」などと考えてしまうのはあまりにおこがましい。
牢で独りで考えて辿り着いたのは、そんな結論だ。
ならば、刑が執行される直前まで胸を張って堂々としていよう。死ぬ覚悟なんて、今のルキアには微塵もないのだから。
その時、ふと。
ギシ、と吊り橋が軋む音がした。
「おはよ」
吊り橋の向こうから、悠々とこちらに歩いてくる死神がいた。
ぞわり、と背筋が凍りつく。冷たい汗が、こめかみを伝う。
「ご機嫌いかが、ルキアちゃん」
「市丸、ギン……」
市丸ギン。三番隊隊長。
喉元に食らいつかれそうな、まるで全身にまとわりついた蛇のような、そんな危機感を感じる男。
だからルキアは、この男が嫌いだった。
このような状況になる、ずっと以前より。
「あかんなぁ」
隊長を呼び捨てにするなんて。
そう、まるで冗談でも言うかのように、市丸はルキアの発言を咎めた。そして謝罪したルキアに対して、気にするなと笑ってみせた。
その言動全てが、ルキアの脳裏に警鐘を鳴らす。
「何故、このような処においでなのですか……?」
そも、この男がここにいることがおかしいのだ。ルキアとの関わりはなく、さしたる共通点もない。それなのにわざわざ懺罪宮まで足を運んで、わざわざルキアに声を掛けるだなんて。
「なんや大した用事やないんやけど。散歩がてら、ちょっと意地悪しに」
そう言って、市丸ギンは笑んだ。
この上なく妖しい、厭らしい笑みだった。
「実はな」
端の釣り上がった唇が、動く。
「キミの姪っ子、死なはったみたいやで」
「なっ……?!」
姪っ子が……桜花が、死んだ?
「なんや旅禍と一緒におったから、朽木家の子やって判らんやったみたいでな」
「う、嘘だ……!」
「東仙隊長が卍解まで使うて、心臓をこう……一突きや」
ひょい、と剣を突き出す素振りに、こちらまで息が詰まったような気がした。
まさか、まさか、そんなはずはない。
桜花が死んだなんて。そんなこと、あっていいはずがない。
「ほら、東仙隊長て真面目やろ?」
「黙れ……」
「旅禍とはいえ殺す訳ないて思とったから、意外やなぁって――」
「黙れっ!!」
ついには怒鳴ったルキアに、市丸は相変わらずの笑顔を向け続ける。
一方でルキアは、怒鳴ったことで少し冷静になっていた。大丈夫だ。この男の言うことが正しいとは限らない。口からでまかせを言って、自分を揺さぶって愉しもうとしているだけだ。
「あぁ、そういえば。姪っ子ちゃんの斬魄刀な、結局何の能力か判らんやったって東仙隊長言わはってたなぁ」
聞くな。
こんな奴の言うことなど、信じるに足りない。
「確か名前は……」
聞くな。
自分の信じるべきはこの男ではなく、自分の仲間たちだ。だから、聞く必要なんてない。
聞きたく、ない。
「くもすき、やったかなぁ」
「あ……」
今まで辛うじて押し留めていた絶望が、堤防が決壊したかのようにルキアの中に流れ込んでくる。
「可哀想になぁ。キミが死にたない言うから、皆無茶して死んでいくんや」
分かっている。この男の言うことを、そのまま信じてはいけないのだということは。それでも、この男は桜花の斬魄刀の名前を知っていたのだ。
能力までは知らなかったものの、ルキアもその名前くらいは本人から聞いていた。けれど護廷十三隊に属する者がその名を知っているということは、仮に東仙でなくとも死神側の誰かが、桜花と交戦したということに他ならないのだ。
「あかんよ、助かりたいなんて思うたら」
分かっていた。旅禍として
市丸ギンは、ルキアのそんな思考を読んでいた。
「悪いことしたんは自分やのに、罰は受けとうない言うんは……」
ゆらり、と揺れた市丸の右手が、ゆっくりと持ち上がる。
しかしルキアは、その場に縫い付けられたように動けない。その頭に、市丸の大きな手のひらが置かれた。もう、逃げられない。
「キミの、
市丸ギンは、ルキアが必死になって隠していた恐怖を引きずり出した。
その、細く伸びた舌で絡め取るかのように。
もし芦谷が捕まったままだった場合。二度目の脱獄の後で、芦谷は藍染が生きているという事実を知ることになっていました。その時に「朽木桜花は東仙の手によって殺された」「目は見えずとも、心臓を突いた感触くらいは分かる」とか言われて絶望し激昂するところでした。不憫。