目が見えない。
音が聞こえない。
匂いが分からない。
霊圧さえも、感じられない。
なにも、わからない。
「……最悪だ」
ポツリと呟いた……が、そんな自分の声すらも耳に届かない。果たして私は本当に呟いたのか。それすらも知りようがない状況下で、私は妙に冷静な頭に思考を巡らせていた。
「っ……!」
恐らく、背中を袈裟斬りにされた。
今までの怪我とは桁の違う激痛に、触覚は消えてても痛覚は消えないんだな、と今更なことに気づく。
私の五感が『こう』なる前から、傷はいくつも負っていた。だから、その分の疲労や痛みが重なって、とうとう足の力が抜けてしまった。直後、膝と胴体に響くような痛みを感じたから、恐らく私は地面に倒れ込んでしまったんだろう。
私、死ぬのかな?
この度の騒動はどう終結するんだろう?
尸魂界で私に与えられた仕事は全部終わらせたから、きっと騒動はきちんと収まるはずだ。そうなることを願うしかない。
ふと、左胸にチクリとした痛みを感じた。
刃先を突き立てられたのか。
そう気づいたものの、抵抗できるほどの体力も気力も残ってはいなかった。抵抗したってやられるのは時間の問題だ。こんな、相手の独壇場じゃ、もうどうしようもない。もう、諦めるしかない。
「ねぇ、本当にそれで良いの?」
不意に、声が聞こえた。
何だ、"
どうやら斬魄刀の声は、消されてしまった五感には含まれないらしい。
「諦めるの?」
完全に止まってしまった体感時間の中、真っ暗な世界で声だけが響く。
「諦めるも何も、死神だって死ぬ時は死ぬんだよ」
「死んでも、良いの?」
だって仕方ないじゃん。だって、だって。
言い訳じみた「だって」が空回る。
一体私は何から逃げようとしているのだろうか。
「いなくなっても、良いの?」
私がいなくたって、世界は正常に廻り続ける。
「きみは、生きたくないの?」
だから、大丈夫だ。私がいなくても、大丈夫。
「言い方を変えようか」
「…………」
「きみは、死にたいのかい?」
「しに、たい……?」
大丈夫大丈夫と馬鹿の一つ覚えのように繰り返して、停滞していた思考がその時動き始めた。
死にたい。私が?
「私、は……」
死にたいのか。
そう問われると、答えに困る。
別にあえて死にたい訳ではない。死を望んで、自らの命を浪費したい訳でもない。
となると、私は多分。
「そっか、私……」
ぼんやりと考えて、考えて。
そして、ふと思い浮かんだ言葉は一つ。
「私、死にたくないんだね」
そこに至って初めて、私は自分が『死にたくない』と思っていたことに気がついた。
そして、思う。
どうして、この期に及んで死にたくないなどというのだろうか。どうして、生きていたいと思ってしまうのだろうか。
痛いのが怖いから? まさか。そんなものが怖いなら、そもそも剣を持とうとは思わない。
親しい者達と、会えなくなるのが辛いから? いや、それも違う。死んでしまえば意識も感情も全て消えてしまうのに、辛いのが嫌なんて思いがそもそも無意味だ。
私がいなくなることで、私が救えるはずだった命が失われてしまうかもしれないから? それもおかしな話だ。そんな仮定に仮定を重ねたような心配なんて、するだけ無駄だ。それに私がいたせいで死んでしまった人もいるのに、私が救えるはずだっただなんて、何て希望的観測なんだ。
私が見捨ててしまった命の償いを、まだしていないから? 確かにそれは間違いではないが、それは私の願望というより使命感に近い。そうではなくて、私が感情でもって行きたいと思える理由は他にあるような気がする。
じゃあ、どうして?
考えても考えても答えは出ない。
時が止まったような空間でも、無限に時間がある訳ではない。
「……ほんっとにきみは、駄目な奴だね」
「うるさいなぁ」
しびれを切らした"雲透"が、心の底から、本気で呆れ返ったような声色で私を罵倒した。
「もう、あまり時間は残っていない。それが分からないなら、きみはこのまま死ぬしかないんだよ」
「えっ……分かれば生きられるの?」
「そうだよ。こんなタイミングでぼくに話し掛けられてるのに、それ以外に何があるっていうの」
馬鹿だなぁと繰り返して、それから"雲透"は呟いた。今までの余裕のある声から一変して、静かな、静かな言葉だった。
「ぼくはね」
「……うん」
「きみのことが、好きなんだよ」
「へ?」
「これを変な意味に捉えたなら、それはきみがとてつもない馬鹿だってことになるけど」
「…………」
突然の告白に絶句する私に、何食わぬ様子で"雲透"はトドメを刺した。酷い。
「真面目に聞いてよ」
「……分かってる」
言っている内容はふざけているようでも、その声のトーンは低いままだった。
本気なのだな、と言わずとも察せられて、気を取り直した私は少年の言葉に耳を傾ける。
「ともかく、ぼくはきみを死なせたくない。きみのことが好きだから。大切で大切で、仕方ないから。どうしても、生きていてほしいから」
「……うん」
いつもは馬鹿にしてばかりなのに、この殊勝な態度は何なのだろう。
私のことをそこまで大切に思っていただなんて知らなかった。今までそう言われたこともなかったのに、急にどうしたというのだろうか。最後になるかもしれないから言っておこうとでも? そんな性格だっただろうか。
「だから、気づいてほしかった。自分で、自分の力で答えに辿り着いてほしかった。じゃないと、意味がないから。それなのにっ……!」
その瞬間だった。
「えっ……?」
真っ暗闇だった空間を切り裂くように現れた、金色の秤。"雲透"の本体。
その上に立つのは私と、一人の少年だった。
「それなのにきみはっ……!」
うつむいた少年が、絞り出すように訴える。怒りや悲しみだけではない、複雑そのものの感情を露に拳を握りしめている。
「きみは何一つ分かってくれない! 今までだって何度も何度もきみを助けたのに、何も伝わらなかった! ぼくのせいじゃない! きみが鈍いせいだ!!」
涙の混じった、悲鳴のような叫びだった。
何一つ分かってくれない。何も伝わらなかった。
一体何の話をしているのか。そう思ってしまっている時点で、私はきっと彼の言うことを微塵も理解できていないのだろう。
「きみが自殺なんて馬鹿な選択をした、あの時だって! ぼくがどんな思いで、きみに語り掛けたと思ってっ……!!」
そして、前にも”雲透”に言われたことのある『鈍い』という言葉。
その言葉の真意も、未だ分からないままだ。
「それでもまだ、分からないの……?!」
「…………」
肯定の言葉も謝罪の言葉も、どうしても告げる気にはならなかった。それでも相手は私の斬魄刀だ、私の意思を答えを正確に汲み取ったようだった。
「このままじゃ、死んじゃうんだよ……?」
先程の勢いは消え失せ、言葉尻をしぼませた”雲透”がふと、顔を上げた。
「”雲透”……?」
涙でぐしゃぐしゃな顔。子が母にすがるような、頼りない眼差し。
それを見て、私は思いも掛けないことに気づき、そして確信した。
心から、悲しんでいる。
この子どもは、私が死ぬことを本気で恐れている。
そうか、そうだったのか。それで、この子は。
「嫌だ、死なないでよ……お願いだから……」
そんな顔をしないでほしい。
そんなに悲しまないでほしい。
幼い子どもの姿をとった、斬魄刀の頬に手のひらを添える。
「泣かないで」
そんなふうにあなたを泣かせるくらいなら、私は。
「生きるよ」
無意識に飛び出した言葉に、何より私自身が驚き、そして困惑した。"雲透"も同じように感じているらしく、驚愕の眼差しで私を見つめている。
泣かせたくないから、悲しませたくないから生きる。
あれ、ちょっと待って。私が悲しませたくないのは、"雲透"だけなの?
いや、他にもたくさんいるはずだ。
血の繋がった家族、そして血の繋がらない家族。現世の友人達。
私は、彼らを悲しませたくない。それはつまり、私が死ぬと彼らは悲しむということになる。
あれ、それってもしかして。
彼らは私に生きていてほしい、そういうことなのか?
目の前で泣きじゃくっていた"雲透"は、私が好きだから、大切だから、死を悲しむのだと言っていた。ということはつまり。
私が脳裏に浮かんだ人々を大切だと思っているのと同じように、彼らは私のことを好きだと、大切だと、思っている……?
「え……ちょっと待って……そんな、だって……」
呆気に取られる"雲透"を置き去りに、私は頭を抱えてかがみ込んだ。
「嘘でしょ、こんなの……私……」
ただの恥ずかしい勘違いじゃないか、という思考は一瞬でかき消える。これはきっと、勘違いなんかじゃない。
グランドフィッシャーと戦った時、喜助さんの様子がおかしかったのは、私を本気で心配していたからだったのか。私が漫画の知識に押し潰されそうになった時、手を差し伸べてくれたのは、私の持つ知識を利用するためだけではなかったということなのか。
夜一さんや鉄裁さんがよく私の面倒を見てくれたのは、親のいない私を気の毒に思って、育ててやらなければと使命感のようなものに駆られたからではなかったのか。
学校の友人達もそうだ。
一護が、織姫が、竜貴が、そして由衣が。私の友人でいてくれたのは。私のことを、一人の人間として大切に思ってくれていたから。
尸魂界にいたかつての同期である恋次が、私の付き人だった芦谷が、私の生還を喜んでくれたのも。
「わ……わ……そ、そんな……」
そして、血の繋がった家族に至っては。そもそも私のことをどう思っているかだなんて、考えるまでもない話だ。それくらい、父様やルキアの態度は分かりやすかった。
私が生きていたと分かった。ただそれだけのことを、彼らは本気で喜んでいた。ルキアなんて泣き出してしまったくらいだった。それほどまでに、私のことを大切に思っていた、と。私のことを愛していたのだ、と。
「か、勘違いだと……思いたい……」
「勘違いじゃないよ」
「うんそうだよね知ってる……」
これは恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
何だよもう、皆。私のこと好きすぎでしょ。
あ、駄目だ。自分で言ってて恥ずかしすぎて死にそう。
「生きるって言った側から死にそうなんだけど、私……」
「……馬鹿じゃん」
「言い返す言葉が見つからない……」
私、こんな優しい環境にいたの?
産まれてからずっと? こんな真綿で包んだような柔らかい感情に囲まれて生きてたの?
それなのにその事実に全く気づかず、勝手に一人で寂しがっていたなんて。
記憶がないから、とか。人間でも死神でもない中途半端な立ち位置だから、とか。そんな理由をつけて、人との繋がりを必死にかき集めながら生きてたのか、私は。
「片想いの恋が実は両想いでした、っていう奇跡みたいな成就が……とんでもない回数、連発してる気分なんだけど……」
「まぁ、間違いではないよね」
「ああぁ……無理、死ぬ……」
「死ぬのは駄目だよ」
「あぁ……やめて、今は優しい言葉は掛けないで……死んじゃうから……」
「馬鹿じゃん」
「そう、そのくらいでいい……それで十分だから……」
「…………」
とうとう地面にうずくまって、ぶつぶつと呻くように呟き始めた私を、"雲透"はさぞ呆れた顔で見下ろしているに違いない。だって、声色もそんな感じなんだから。
「繊細なのに、鈍いから頼れない」
「……え?」
「前に、そう言ったことがあったでしょ?」
確かに、あった。
そういえば、その時は何が何だか分からなくて、そのままになってしまっていたような。
「その意味が、ようやく分かったんじゃない?」
「意味……」
地面から"雲透"を見上げながら考える。
落ち込みやすくて、何事も気にしすぎる質だからだろうか。時折寂しくて寂しくて仕方なくなる。誰かに助けてもらいたくなる。
それなのに、人から向けられる好意に気づけないから、頼ることができない。そして好意に気づけないから、余計に寂しさは加速する。それでも、頼り方は分からない。
「何て、悪循環だ……」
「ね。ぼくがやきもきするの、分かるでしょ」
「分かる」
最初からこれに気づいていれば、もっと早くに解決できたこともあっただろうに。
"雲透"は、昔から知っていたんだ。けれど、私が自分で気づかなければ意味がないからと、黙っていた。それはもう、もどかしかったに違いない。
「何だかぼくの言葉のせいで、気づいちゃったみたいだけど。まぁ、あれは……気づかせようとして、言った訳じゃないから……ギリギリセーフ、といったところかな」
「本心だもんね」
「そっ、そういうこと……ではある、けど……」
急に照れ始めた少年を見ているうちに、私は冷静さを取り戻していった。
私も大概恥ずかしいが、この子もなかなかに恥ずかしいはずだ。必死だったとはいえ、目の前にいる人に向かって真剣に、好きだの大切だの告白じみたことをしていたのだから。そんなことを今更自覚するあたり、やっぱりこの子は私の一部なんだと改めて思う。
「ありがとう」
「えっ……」
「私も好きだよ、あなたのこと」
純粋な火力は全くないと言っても過言ではない、使いにくい能力だ。けれど、それを嫌だと思ったことは一度もなかった。
そう告げると、涙目のまま真っ赤になった少年は、その顔を隠すためにくるりと背中を向けた。
「じ、時間がないって言ったの、忘れたの? そんなこと言ってる場合じゃないんだよ」
「そうだね」
「ともかく! きみは気づくべきことに気づいたんだ。おめでとう、合格だ」
"雲透"は厳格な雰囲気を出したかったんだろうけど、照れ隠しに背中を向けていたり、やけに早口だったり、いろいろと台無しだった。
それでも言葉を続ける少年の後ろ姿を見つめながら、私はゆっくりと立ち上がった。
「"雲透"の本質は天秤。はかりたいものが何なのか理解できていない者に、秤はうまく扱えない。けれど、きみは理解してみせた。これできみは
「私、自身を……」
「さあ、唱えるんだ。僕の本当の名は――」
振り返った"雲透"は今までになく、穏やかな顔をしていた。その口が動いて、一つの言葉を形作っていく。
「卍解――"
八重の
やっとここまで来れた……
卍解の詳細は、また後ほど。