傲慢の秤   作:初(はじめ)

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二十三、諸悪の根源

 

 

 

 真っ暗な空間にポツンと浮かんだ巨大な天秤――その皿の上に、私はぼんやりと突っ立っていた。

 

 前回ここを訪れた時、この空間は真っ白だった。その時とはずいぶん様子が異なっているものの、ここが私の精神世界なのは間違いない。こんなに大きな天秤が、私の精神世界以外の場所にあるはずがないからだ。

 

「やあ」

 

 聞き慣れた声がして、振り返る。

 天秤のもう片方の皿の縁。そこに着流し姿の一人の少年が腰掛けて、宙に投げ出した足をぶらつかせていた。長い黒髪を後ろで結わえた、十にも満たない幼い少年だった。

 

「あなた……」

「そう、ぼくは मेघव्यक्त 。きみの斬魄刀さ」

 

 少年は、親しげな笑みを浮かべていた。

 

 名前はまだ聞こえない。日本語であるということは分かっているのに、その意味が全く理解できない……そういう不思議な感覚だった。

 

「……そっか」

 

 けれど、今はそんなことはどうでもよかった。今の私には斬魄刀の名前がどうとか、そんなことに構っていられる余裕がない。

 

 そんな思いを私の呟きから拾ったんだろう、少年が笑みを深めた。

 

「それどころじゃない……って感じだね」

「…………」

「ぼくはきみの一部だからね、きみが何を考えているかぐらいは分かるのさ」

 

 それどころじゃない――全くもってその通りだ。

 分かっているなら、どうして私を呼び出したんだろうか。今は一人にしてほしいのに、どうしてその通りにしてくれないんだろうか。

 

「ま、どちらにせよ……きみみたいな馬鹿で意志薄弱で腰抜けな奴に教える名前なんて、どこにも存在しないんだけどね」

「……え?」

 

 驚いた。一瞬だけ、今の状況を忘れかけるくらいには。

 

「自分自身のことを理解していないから馬鹿、自分の願望も何もはっきりしないから意志薄弱、自分で決断する勇気がないから腰抜け。――どう? 自覚症状ある?」

 

 どう? などと急に訊かれても分かる訳がない。

 何も言わずに静止する私をみて、少年は心底呆れた様子でため息をついた。

 

「ほら、何も分かってない。だからきみはいつまで経っても始解すらできないんだよ。……まぁ、こんな役立たずでもぼくの主だからね。一つ自己理解を深めさせてあげるよ」

「役立たずって……」

「はい、ここで質問」

 

 私の言葉をきれいにスルーした少年は、ともすればかわいらしくも見える無邪気な笑みを浮かべて首を傾げた。

 

「きみは親友を亡くした。それなのに、どうしてそんなに冷静なんだい?」

「…………」

 

 確かに、今の私は冷静だ。

 

 状況を鑑みれば、それが異常なことであるとすぐに分かる。あんなに仲の良かった親友を自らの手で殺しておいて、どうして私は取り乱さないのか。どうして、自らのせいで親友を死なせてしまったと泣きわめかないのか。

 

 少年は私の答えを待ってくれるつもりでいるようだ。静かに私を見つめている。

 

「…………」

 

 私は数分の間考え込んで――そして、一つの結論を出した。

 

「多分……私が、この世界の人達との間に一線を引いてるからだと思う」

 

 こちらの世界で目を覚まして以来、私は浦原商店の人達と家族のように接し、主人公達と関わろうとし、仮面の軍勢と親しくしようとしてきた。

 もし仮にこれらが、自らが違う世界の人であることを補うために、私が無意識下で行ったことだとしたら? 世界規模の仲間外れの寂しさを紛らわせるための行為だとしたら?

 

 もしそうなら、これほど滑稽な話はない。

 心のどこかでは私が彼らの輪の中に入るなんて不可能だと分かっていて、彼らと自分との間に明確な線を引いておきながら、そんな努力をしていたなんて。これでは、全くの無駄骨じゃないか。

 

「馬鹿だよ、私……違う世界の人だって分かってたのに『私もこの世界の一員だ』って信じたくて、無理矢理そう思い込もうとした。挙句、そのうちの一人――いや、二人を死なせてしまった」

 

 井上織姫の兄のことを、忘れてはならない。

 彼は由衣と違って、もともと死が決まっていた人間だった。けれど未来を知る私にとっては、助けようと思えば助けられる――つまり生きていられる人間だったんだ。

 でも、私は彼を見捨てた。

 

 だから、井上織姫の兄を殺したのは私だ。

 

「人殺しなんだよ、私は」

 

 どうして私は、記憶を持ったまま生まれてきてしまったんだろう? 記憶がなければ、こんなに迷うこともなかったのに。

 

 

 ――あぁ、そうか。

 

 

 私は、この世界にいてはいけない存在だったんだ。

 

 私がいなければ由衣は死ななかった。

 私の存在が消えてしまえば、もうこんなに迷う必要もなくなる。

 

「――それが、きみの結論か」

 

 少年が呟いた。

 

「きみは一つ、勘違いをしているよ」

「……勘違い?」

 

 私は、顔を上げた。

 いつの間にか、彼の余裕のある笑みは消え失せていた。代わりに浮かんでいたのは――『悲しみ』。

 

 どうして、この子がこんな顔を……?

 

「きみは未だに、この世界を物語だと思っている。きみの思考は矛盾しているんだよ、根本的にね」

「はぁ……?」

 

 いきなり、何を言い出すのか。物語に決まっている。

 主人公から始まりその他登場人物達が勢揃いしていて、彼らは当然のように元のストーリーに沿った行動を起こしていく。これを物語の中の世界と言わずして、何が物語だ。

 

 それに――

 

「矛盾って、一体何が――うわっ!?」

 

 その時、天秤が大きく揺れた。皿から振り落とされそうになって、慌てて縁にしがみつく。

 

「……今回はここまでかな」

 

 少年は天秤の揺れなんてものともせずに軽々と立ち上がると、反対側の皿の上でうずくまる私に言葉を投げかけた。

 

「絶望するにはまだ早い。きみの存在がどういうものなのか、じっくり考えてみるといいよ」

「え……? ちょっと、待ってよ……」

「じゃあね、暫しの別れだ――」

 

 みるみるうちに暗くなっていく視界の中で、悲しげな少年の瞳から何故か目が離せない。

 

 やがて眼前は真っ黒に染まった。まぶたの裏に少年の瞳の残像を残して、私の意識はだんだんと遠のいていった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 目を開いてまず見えたのは、薄暗い自室の天井だった。私はベッドの上でゆっくりと身を起こした。外は既に日も暮れて、部屋の中には明かりがない。窓から流れ込む淡い月の光が、かろうじて私の視界を保っていた。

 

 ――いつの間に、ここに帰ってきていたんだろう?

 

「気がつきましたか」

「……喜助さん」

 

 開かれた扉のすぐ隣。その壁にもたれて立っていたのは、喜助さんだった。

 

「あのままではいけないと思い、アナタを気絶させて連れ帰りました。……気絶する前のこと、覚えてますか?」

「気絶する、前……」

 

 ……そうか。()()()の私は、放心状態だった。だから、喜助さんは私を気絶させてここまで連れて帰ってくれたんだ。精神世界で斬魄刀と話していたのは、この間のことだったのか。

 

「……覚えてるよ」

「そっスか」

 

 喜助さんは縞模様の帽子の陰から、気遣うように私の様子を伺っている。

 

「あの子は――」

「死んだんでしょ? 分かってる」

「……ずいぶんと、冷静なんスね」

「まあね……泣きわめくとでも思ってた?」

「…………」

 

 痛ましげな視線が刺さる。私が無理をしているように見えるんだろう。けれど、私は無理なんてしていない。我ながら薄情なものだ。

 

「……あぁ、そうだ。由衣を、魂葬してあげないと」

「それについて、なんですが……」

 

 喜助さんは少しだけ言葉を濁して、おずおずと口を開いた。彼にしては珍しい、遠慮がちな態度だった。

 

「理由ははっきりとしませんが……彼女の魂魄は、虚に堕ちる寸前でした。なので――」

「あぁ……魂葬済み、なんだね」

 

 由衣の魂魄は虚によって押し出された。その時に虚の力を浴びたと考えると、何もおかしなことじゃない。

 

 そっか。

 

 ――私は……あの子を見送ることさえ、できなかったんだね。

 

「喜助さんが、送ってくれたの?」

「……ハイ」

「そっか……そんな役目を負わせてしまって、ごめんなさい」

「……いいんスよ。それは」

 

 ――彼女と、最期にどんな話をしたの?

 

 そう訊こうとして、やめた。

 

「喜助さん。ちょっと、一人にしてくれないかな?」

 

 その代わり私は、静かにそう訊ねた。

 

 ――きみは未だに、この世界を()()だと思っている。きみの存在がどういうものなのか、じっくり考えてみるといいよ。

 

 斬魄刀は、そう言っていた。

 

 私の存在がどういうものか? そんなこと、分かりきっている。どんなに気をつけていても、私が存在しているだけで少しずつ物語は崩れていく。今回は、それが転じて由衣を殺すに至ってしまった。

 

 だから。

 

「まだ整理がついてなくて……その辺、散歩してきてもいい?」

 

 次は誰を殺すことになるのか、私には分からない。そしてそれは、目の前にいる喜助さんかもしれない。

 

 だから。

 

「えぇ。草履はそこに置いてあるんで」

「うん」

 

 だから。

 

「じゃあね、喜助さん。夜一さんと鉄裁さんによろしく」

「……はい。いってらっしゃい」

 

 

 ――だから私は、諸悪の根源を絶つ。

 

 

 窓枠に足を掛けて、一気に外に飛び出した。誰が着替えさせてくれたのか分からない、死覇装の裾が風ではためく。

 私の死覇装は返り血で汚れてしまっていたはずだった。でも今の着物は、未使用のものと見紛うほどに綺麗だ。喜助さんか夜一さんかが着替えせてくれたんだろう。

 

 ――あぁそうだ。私はあれだけ世話になった彼らに、恩返しどころかお礼すら言えなかった。夜一さんと鉄裁さんに至っては、別れの言葉を告げることさえできていないというのに。

 

 それに、尸魂界(ソウル・ソサエティ)にいるであろう両親のことも気掛かりだった。

 

「どうあれ……そんなこと、今更考えても意味はない、か……」

 

 私はそんな言葉と共に方向転換すると、霊圧を隠して瞬歩を発動した。

 喜助さん達が追ってくる気配や霊圧は感じられない。それに、虚避けの結界が必要なほどに霊圧操作が苦手な私がこんなことをしても意味はないかもしれないが……ともかく念には念を、だ。

 喜助さんに見つかるというリスクを考えると、対策はするに越したことはない。

 

「この辺でいいかな……?」

 

 人気のない雑木林の中に降り立った私は、腰に差した浅打(あさうち)を抜き放った。そしてそれを、月に向けてかざす。刀身が鈍く光った。

 

 ――こんなことに使ってごめんね。

 

 心の中で、着流し姿の少年に語りかける。

 彼の言葉は返ってこなかった。

 

 左の肋骨の隙間に刃をあてがった。浅打は私の右腕よりも長い。だから右斜め前からになるけれど、このまま刀を押し込めば上手く心臓に到達させられるはずだ。

 

「はぁ……」

 

 深呼吸を一つ。

 

 よし、覚悟は決まった。

 目を閉じる。

 

 

 そして、刃先を胸に沈めようとして――

 

 

「――何を……してるんスか?」

 

 

 腕が、動かない。

 

 どうして……と開いた私の両目が、私の右腕を掴んでいる人物の姿を捉えた。

 

 最悪だ。

 

「何で、来ちゃうかなぁ……」

 

 霊圧を遮断する真っ黒な外套を身にまとったその人物――浦原喜助が、私の言葉を聞いて少しだけ苦い顔をした。

 しかし、そんな表情は瞬く間に消え失せ、後に残ったのはいつもの緩い笑みだった。

 

「いやぁ……危うく見失うトコでしたよ、危ない危ない」

 

 ヘラリと気の抜けた笑顔を浮かべながらも、私の腕を掴む力は緩まない。

 

 どうしたら、この人は諦めてくれるだろうか。失望させれば、あるいは嫌われるようなことを言えば、この場から立ち去ってくれるだろうか。

 

「――放っておいてよ」

「ボクからすりゃあ娘みたいなもんっス……そんな子が死ぬのを、黙って見ていろと?」

「…………」

 

 駄目だ。どんな嘘を言おうともきっと喜助さんは見破ってしまう。何があっても、私を見捨てようとはしない。

 

 やっぱり、もっと早くにいなくなるべきだったんだ。浦原商店とも仮面の軍勢(ヴァイザード)とも主人公達とも……そして由衣とも、距離を縮めるべきじゃなかった。本当に彼らのためを思うのなら、私に対して情が湧く前に消えなければならなかったのに。

 

「難しいことなのは分かってる。でも……それでも私は、ここにいてはいけないんだ」

「……いてはいけない、ですか」

 

 どうしよう。喜助さんは絶対に引き下がらない。

 

「まぁ、とりあえず帰りましょ? 話はそれから――」

「駄目だよ、そんなことしたら……」

 

 ズルズルと先延ばしにしてしまう。それではいけないんだ。一刻も早く……

 

「お願い、喜助さん……お願いだから」

 

 目は見ることはできなかった。だから、俯いて懇願する。

 

「あれ……」

 

 その時、地面をぼんやりと見つめていた両目が、何か光るものを拾った。

 

 私の浅打だった。

 

 私は、無意識のうちに刀を取り落としてしまっていたようだった。

 

「どう、して……」

 

 どうして、いつの間に、私は刀を手放したんだろう? これ以上ないほどしっかりと握りしめていたのに。もしかしてこの期に及んで『死にたくない』なんて、甘えたことを考えているんだろうか?

 

 いや、そんなはずはない。私はちゃんと覚悟して、刀を握った。だって、それ以外にいいやり方が思いつかない。だから私は、私自身を――

 

「桜花」

 

 柔らかな声が聞こえて、思考の波から抜け出した。恐る恐る、顔を上げる。

 

 伸びてきた手のひらが、私の頭の上に乗った。

 

「……そんなに怯えなくて、いいんスよ」

「っ……!」

 

 いつもと何ら変わりない穏やかな表情に、目頭が熱くなった。

 

「私は、怯えてなんか……」

「いいえ、怯えてますよ」

「そんな……違う……」

 

 その声から、そして頭に乗せられた手のひらから逃れようと、その場にしゃがみ込んで顔を膝に埋める。

 

「…………」

「いいですか? 数百年の時を生きる死神にだって、万能な人はいないんです。ボクだって、万能には程遠い」

 

 ポン、と再び頭を撫でられた。

 

「独りでは自らの生さえ抱えきれない。だから、ボクらは群れて生きるんスよ」

「…………」

 

 両目を押しつけた膝が、じんわりと熱を帯びていく。

 

「そうやって独りで抱え込んでいたって、苦しいだけなんス。だから、全てとは言わない……ほんの少しでいい、ボクに分けてみちゃくれませんか」

「…………」

「ね?」

 

 柔らかな声が、頭に乗せられた温もりが、私の気を緩めていく。

 

 そのせいだろうか、ふと思ってしまった。

 

 私の全てをさらけ出したら、この胸の奥で凝り固まった()()を溶かせるだろうか。私の呼吸を阻害するような、心臓をキツく締め上げるような()()を解せるだろうか。

 

 その()()から開放されたら、一体どれだけ楽になれるだろうか。

 

 

「――もう、嫌なんだ」

 

 

 気づけば、弱音を吐いていた。

 

 言ってはならない。分かっているのに、止められない。堰を切ったように言葉が溢れ出す。

 

「私のせいで人が死ぬ。私の無意識の行動が、私の身勝手な選択が、人を殺す。もう、たくさんだっ……」

 

 死覇装の袴では受け止めきれなくなった涙が頬を伝う。私はそれを袖で乱暴に拭って、さらに縮こまった。

 

 私は……私だけは、物語の登場人物じゃない。だから彼らとは一線を引いていた。だから冷静だった。

 

 

 だから、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 それなのに――

 

「由衣が死んだのは私のせいだ……あの子は、死ぬはずじゃなかったのに……!」

 

 哀しかった。

 自分の軽はずみな言動のせいで、大切な親友を失ってしまったことが。

 

「相談できる人なんていない……だって物語のイレギュラーは、私だけなんだからっ……」

 

 淋しかった。

 私と同じ境遇の人がいなかったことが。

 

 しゃくり上げながら、消え入りそうな言葉を絞り出す。

 

「こんなこと、言える訳ないよ……言ったらまた()()()()()()から……。死なせてっ、しまうからっ……」

 

 恐ろしかった。

 また誰かを失ってしまうかもしれないということが。

 

 次は浦原商店の誰かだろうか。

 友人のうちの誰かだろうか。

 黒崎家の誰かだろうか。

 仮面の軍勢(ヴァイザード)の誰かだろうか。

 

 彼らの、一人一人の顔が浮かんでは消える度に、涙が溢れて止まらない。身体中の水分が全部、両目から流れ落ちてしまいそうだった。

 

 もしそのうちの誰かの命が潰えてしまったら――なんて考えるだけでも恐ろしい。それなのに、それが100%私のせいだなんて……とても、耐えられそうになかった。

 

「でも私はっ、哀しんじゃいけないんだ……それを利用して一人、殺してるから……由衣の死だけを哀しむなんて身勝手、私が許さない……」

 

 だから、押さえ込んだ。「所詮は物語の中の出来事だから大したことはない」と思い込むことによって、無意識に感情に蓋をしたんだ。

 そうしないと、壊れてしまいそうだったから。

 

 その蓋が、喜助さんによって引き剥がされてしまったんだ。

 

 

「――ただの自意識過剰……では片づけられない問題のようっスね」

 

 

 いつの間にか、頭の上の手のひらは去ってしまっていた。少しだけ顔を上げて喜助さんの様子を伺う。

 喜助さんは、私の目の前に胡座をかいて座っていた。顎に手を当てて、何やら考え込んでいる。

 

「死ぬはずではなかった……物語のイレギュラー……言ったら()()()()()()……」

「っ……!!」

 

 あぁ、駄目だ。

 

 先程までの激情が嘘だったかのように、突然感情の波が静まり返った。それはまるで、頭から冷水でも浴びせられたかのようでもあった。

 

「物語……それを利用して、一人殺している。……あぁ、なるほど」

 

 どうして私は、そんな手掛かりになるようなことを打ち明けてしまったんだろう。

 

 喜助さんは鋭い。そして、賢い。天才と言っても全く差し支えないほどに。

 

 それを分かっていながら、何故。

 

 

「――未来、知ってるんスね」

「…………」

 

 

 喜助さんが、静かにそう告げた。

 

 私は育ての親からそっと目を逸らして……そして、何も返さなかった。いや、何も返せなかった。ただ、否定の言葉が思いつかなかったんだ。

 

「沈黙は、肯定と見なしますよ」

「……言い訳が、思い浮かばなかっただけだよ。それに――」

 

 私は大きくため息をついて、意図的に外していた目線を喜助さんに合わせた。

 

 何故、打ち明けてしまったのか。多分それは、さほど難しい話ではない。

 誰かに頼りたくて仕方なくて、でもそうする訳にもいかなかった。そうやって張りつめていた糸を切られてしまったんだ。分かりやすい、何とも単純な理由だ。

 もしかしたらあの優しげな態度そのものも、私から話を聞き出すための作戦だったのかもしれない。喜助さんならそのくらいやりかねない。

 

「もう……今更何を言ったって、誤魔化されてはくれないだろうから」

 

 季節は夏の一歩手前。とはいえ、宵の闇には未だひんやりとした風が残っている。

 温度の低い風が、濡れた頬をサラリと撫でた。その冷たさが、私の気を引き締めてくれた。

 

「実は、ね……」

 

 

 

 


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