聞き慣れた、声がした。
「――ずいぶんと、好き勝手やってくれたみたいっスね」
「喜助、さん……?」
「あ、浦原さんが来たのね……? はぁ……良かった……」
私が呟いたことで、真咲さんが立ち止まる。
浦原喜助。
私の保護者の一人で、浦原商店の店長。そして
いつも飄々としていて、余裕のある態度を崩さない人だ。
けれど、今日はどこか雰囲気が違った。
「何だ、新しい獲物か?ひひひっ……今日は大漁――」
「意識は、ありますか?」
何やら嬉しそうに話すグランドフィッシャーを、喜助さんはキレイに無視した。
そして私達の近くに降り立って、真咲さんに抱かれた私の顔を覗き込んでくる。ぼやけた視界の中に現れた顔は、いつも通り緩い笑みを浮かべていた。
でもやっぱり、何かが違う。
「まぁ、あるよ……ちょっと目が、よく見えないけど……」
「…………そっスか」
変な間があった。
何だよもう、怖いんだけど。
「え、何? その間……?」
「……いえ。すぐに片づけてきますんで、それまで何とか耐えてください。黒崎サン、桜花を頼みます」
言葉と共に、何か布のようなものを掛けられた。いつもの緑色の羽織だった。
傷口に雨が当たらなくなって、ほっと息をつく。これで少しは出血を抑えられるといいな、なんて思う。
「ほぅ……その小娘といいお前といい、命が要らぬと言うのだな? 良かろう、わしが喰らい尽くしてくれるわ!」
喜助さんに無視されたということが、グランドフィッシャーにとってはかなり屈辱的なことだったらしい。しかし、そんなグランドフィッシャーの言葉すらも、喜助さんにとってはどうでも良いことのようだった。
グランドフィッシャーとの間に入るようにして私達に背を向けた喜助さんの声は、先程の緩い笑顔とはかけ離れた冷たい色を宿していた。
「時間がないんで、出し惜しみとかはナシでいきましょう――"起きろ、
甲高い音を立てながら、喜助さんの仕込み杖の形が変わっていく。完成したのは柄の末が少し曲がった、
これが"紅姫"の始解。
喜助さんの始解を見るのは、これが初めてだ。
「"縛り紅姫"」
再びキィンと音が鳴って、網目状の赤い光が飛んでいく。そして、それがグランドフィッシャーを覆う前に、目の前にいた喜助さんの姿が掻き消えた。
「どこ見てんスか、こっちっスよ」
「なっ?! 一体……ぐあぁ!!」
グランドフィッシャーが悲鳴を上げる。
「――"剃刀紅姫"」
そして、次の瞬間には。
グランドフィッシャーの身体が、仮面もろとも真っ二つになっていた。
グランドフィッシャーの断末魔が耳に届く。
"紅姫"の
――何をしたのか、全く目で追えなかった。
"剃刀紅姫"と唱えていたから、恐らく三日月状の光を剣先から飛ばして、グランドフィッシャーを両断したんだろう。
でもそれは知識があるから分かることであって、きちんと何が起きたのかを見ていた訳ではない。
距離があるから、私の目がきちんと機能していないから。もしくは、ただ単に私の動体視力が追いついていないから。
多分、三つ目が正解だ。
「うわぁ……流石だな……」
「浦原さん……倒したの?」
「……みたい」
ポツリと感嘆の声を漏らすと、真咲さんが静かに問いかけてきた。私もそれに静かに返す。
グランドフィッシャーが、消えていく。
あぁ、私は原作を変えてしまった。
そんな実感が押し寄せてきて、私はそれから逃げるように目を閉じた。
途端に、ずっと全身を襲っていた傷の痛みが遠のいていく。
あ、これ気絶するな。
そう直感したものの、もうそれに抗う必要はない。喜助さんが来てくれた。敵もいなくなった。怪我だって多分、すぐ手当してもらえる。
「――花? お……か……!」
誰かが私の名前を呼んでいる。
でも……私にはもう、それに反応するだけの力は残っていなかった。
◇ ◇ ◇
全身が痛い。
どうしてこんな……と考えて、全てを思い出した。
そういえば私、グランドフィッシャーと戦ったんだっけ。
戦って、怪我して、でも喜助さんが来てくれたから助かって、グランドフィッシャーは――
グランドフィッシャーは、消えてしまった。
そうだ、私……原作を変えてしまったんだった。
「……目を覚まされましたか」
「鉄裁さん……?」
枕元に座っていたのは鉄裁さんだった。いつものエプロンをつけたまま、ただ静かに座っていた。
「……一護達は、どうなったの?」
「ご心配なく、お二人共ご無事です」
「そっか……」
良かった。
いや、本当に良かったのか?
「いてて……よいしょ、っと」
「桜花殿、まだ寝ていた方が……」
「大丈夫だよ」
鈍く痛む上にやたらと重たい身体を起こして、傷を負ったわき腹や肩にそっと触れる。服をめくると、そこには包帯がきれいに巻かれていた。痛みがそれほど酷くないことからして、治療はしたもののまだ完治したわけではないといったところか。
「鉄裁さんが治してくれたの?」
「はい。応急処置は店長ですが」
「……ありがとう」
「いえ」
鉄裁さんの表情は分かりにくい。喜助さんの分かりにくさとはまた別で、ただ単に無表情だから分かりにくい。
それでも今の鉄裁さんが、あまり穏やかな気持ちではないことぐらいは分かった。分かってしまった。
「鉄裁さん……もしかして、怒ってる?」
「まさか、怒ってなど」
「じゃあ何で――」
「心配は、しましたが」
「……」
心配してくれたんだ。
嬉しいような、むず痒いような気持ちになって、鉄裁さんを見上げる。
「今回桜花殿に非はありません。今現在生きている、それだけで十分です」
「……本当に、ありがとうございます」
謝罪は不要。
言外にそう言われて、口から出たのは感謝の言葉だった。そっと頭を下げる。
それを聞いた鉄裁さんは私をじっと見て、それから頷いた。
「店長と、夜一殿を呼んできます」
そう言って、鉄裁さんは部屋から出ていった。
私はそれを見送ってから、再び布団の上に横たわった。
ふと気になって、包帯をぐるぐると巻かれた右腕を電気の明かりにかざす。
不思議だ、右手を怪我した覚えはないんだけどな。いつ怪我したんだろう。
「雨の日に生身で雷系の破道なんて使うからっスよ」
「全く、無茶しおってからに」
「あ。喜助さん、夜一さん」
鉄裁さんが出て行ってから開けっ放しだった襖から、ひょいと二つの顔が覗いた。といっても一つは人の顔ではなく猫の顔だったけれど。
「これって雷系の破道使ったからなの? え、もしかして感電した?」
「いやあ、普通はしないんスけどね。雨の日だったことと、生身だったこと……理由はそんな感じでしょう」
なるほど。そういうこともあるのか。やっぱり生身で戦うってのは危ないんだなぁ。
私があの時使ったのは、"破道の四十一・
"雷紋衝"はその名の通り雷を放つ破道で、込める霊圧が大きくなればなるほど電圧が高くなる、つまり使い手によってはっきりと威力に差が出てしまうという特徴がある。そして詠唱の前半部分からも分かる通り、"破道の六十三・雷吼炮"の下位破道に相当する。
詠唱の最後の一節を唱え終わって利き手の拳を引くと、目の前に直径50センチほどの白く光る波紋が現れる。その紋様を思い切り殴りつけることによって雷を落とす――どことなく脳筋御用達な雰囲気が漂うが、これでも四十番台の破道。漫画でよく使われていた"赤火砲"や"蒼火墜"よりも複雑な霊圧操作を必要とする、中級程度の破道なんだ。
もちろん、雨の中で"雷紋衝"を撃つ危険性は理解していたつもりだった。だからわざわざ瞬歩を暴発させて、真上から撃ち込んだのに。
「おぬしも災難じゃったなぁ……儂がおったら喜助よりも早く駆けつけてやれたんじゃが」
ちょっと野暮用があってのう、と申し訳なさそうに言う夜一さんに笑いかける。
「大丈夫だよ、私生きてるし」
「そういう問題か?」
「そういう問題だよ」
「……そうは言いますけど怪我、まぁまぁヤバかったんスよ?」
「そうなの?」
「ハイ」
先程の鉄裁さんのように枕元に腰掛けた喜助さんが頷く。夜一さんは当然のように、喜助さんの膝の上に収まっていた。
「出血多量で意識不明の重体……どうです? 深刻度増しました?」
「あー……そうやって他人事みたいに聞くと、ヤバそうに感じるような感じないような」
「そこは素直に感じておけ」
はぁい、と間延びした返事をする。夜一さんはそれを聞いて、やれやれといった様子で首を振った。
「――それとですね。もう知ってると思いますが、黒崎サン達は無事です。真咲サンは足を少し擦りむいた程度、息子サンの方は全くの無傷です」
「……そっか」
小さく呟く。
喜助さんの雰囲気が、知らぬ間に変わっていた。
そうだ、私は喜助さんに言わなければならないことがあるんだ。
良かったとか良くなかったとか、そういうのを考えるのはまた後でってことで良いや。
それよりも今は。
「……ねぇ、喜助さん」
「ハイ、何でしょう」
喜助さんは、布団の上にゆっくり起き上がる私を穏やかに見つめていた。その目を、しっかりと見つめ返す。
「助けに来てくれて、ありがとうございました」
座ったままながら、そっと頭を下げる。
「いえ……こちらこそ、助けが遅くなってしまってすみませんでした」
数秒後に喜助さんの謝罪が聞こえて、私は顔を上げてニヤリと笑った。
「流石に、今回のはワザとじゃないよね?」
「そりゃあもう、勿論っス。……
「……相っ変わらずひねくれとるのう、おぬしらは」
ニヤニヤと笑い合う私達を見て、夜一さんがボソッと呟いた。それはもう、ものすごく呆れたような声色で。
「アハハ、そっスか?」
「……」
喜助さんはそれを聞いて笑っているが……訂正したい。喜助さんがひねくれているのは周知の事実だけれど、私は違う。
「……あれ? そういえば、
「昼寝中じゃな。昨日の夜も遅くまでおぬしにつきっきりじゃったからの」
「昨日の夜
「あの日が火曜で今日は金曜、まぁざっと三日ってところでしょうね」
「み、三日……」
どうりで身体が重いはずだ。いくら重傷でも、治療してもらって三日は寝すぎだろう。
「月曜には学校、行けるよね」
「えぇ、行けますよ」
「……月曜日さ。帰り、遅くなると思う」
「了解っス」
何故遅くなるのか、そんなこと喜助さんや夜一さんにはお見通しのようだった。
二人は特に理由を問いただすこともなく、分かったと頷いてくれた。
◆ ◆ ◆
やはりまだ疲労が残っていたのだろう。再び眠りに落ちた桜花の枕元を離れた浦原喜助と四楓院夜一は、客一人いない商店の畳の上に座って言葉を交わしていた。
「訊かなかったな、あの母親のこと」
「ボクに訊いたって答えてもらえないの、分かってるんスよ。あの子は」
「本当に……敏い子じゃな」
「敏すぎるくらいっスよ」
しみじみと、浦原は呟いた。
あの賢さではこの度の騒動然り、これからも苦労するに違いない。
「時に、喜助」
「ハイ」
「あの場に桜花がおったこと……偶然じゃろうか?」
「それは何とも……偶然として片づけるにも、必然だったと断じるにも、証拠が足りないもので」
「証拠やら断じるやら、そういうことを言っておるのではない。おぬしはどう思うのじゃ、と聞いておるのだ」
いつになく真剣な夜一の顔をじっと見つめた後、浦原は一つ息を吐いた。
「……少なくとも、偶然ではない。ボク個人としては、そう考えてます」
「やはりな……」
偶然と結論づけるには、あまりにできすぎている。しかし、必然だったと言いきることもできない。何せ本人である桜花が、その話題に触れようとしなかったのだから。
「どちらにせよ、あの子自身に言う気がないなら、ボクらも無理強いする訳にはいかない」
「ほう、おぬしにしては穏やかな思考じゃな」
「失礼な。ボクはいつも穏やかっスよ」
「どの口が言うんじゃ」
「酷いなぁ、夜一サンってば」
「……」
そう言ってからしばらくして、ヘラヘラと笑っていた浦原の表情が徐々に変わり始める。
「――それに……今回の件は、ボクのミスでもありますから」
「……」
「グランドフィッシャーという質の悪い虚がこの近辺をうろついていることは、先々週辺りから把握していました」
夜一はポツリと話し始めた浦原の顔を見上げて、その変化に気づいて――すぐに目を逸らした。
「ですが、あの桜花があんなものに騙されるとは思えない上、勝手に浦原商店から離れることのない
「喜助、おぬし……」
自嘲するような、そんな声色だった。
「挙句の果てには、グランドフィッシャーに
「そこまでじゃ、喜助」
つらつらと話し続ける浦原を止めたのは、目を閉じた夜一だった。そして、言葉を続ける。
「桜花はおぬしが助けた。怪我もほぼ治った。この度は、それで良いではないか」
「良くないんスよ、夜一サン。こんな初歩的なミスを犯すようでは――痛いっ!?」
いつの間にか人の姿に戻っていた夜一が、浦原の頭に拳を振り下ろした。そして、畳の上で頭を抱えてうずくまる浦原の目の前で仁王立ちする。
「はっ! 分からん奴じゃのう。そんなもの、次はもっと備えれば良いだけのことだと言ったんじゃ。この程度でへこたれるな、おぬしらしくもない」
呆気にとられて夜一を見上げる浦原に、夜一は堂々と言い放つ。
「おぬしは天才じゃ。じゃが、万能な者などおらぬ」
「夜一サン……」
「良いか? 間違ってもあんな
店内に、沈黙が満ちる。
どれくらい経っただろうか。先程と比べて明らかに和らいだ浦原の表情を見た夜一は、全く手の掛かる奴じゃのうと言わんばかりにため息をついた。
そして「礼はいらぬぞ」と告げようとして――気がついた。気がついてしまった。
浦原の口角が、楽しげに上がっていることに。
「――夜一サンって、ボクのこと天才だと思ってたんスね!」
「なっ……」
「いやあ、自覚はしてましたが改めて言われると照れ――痛いっ!?」
自業自得である。
昔馴染みから二発目の強烈な拳をもらって、浦原は店の土間に転がり落ちる羽目になった。
もうこの二人、くっつけばいいのに。
何人もの死神を喰らってきたグランドフィッシャーなら「自身の霊圧だけではなく周りに存在する霊圧ごと遮断して隠蔽することができる能力」くらいあってもおかしくないでしょ、という訳で勝手に設定を加えました。浦原さんの到着が遅くなったのはそのせいです。