アイズ・ヴァレンシュタインはかつての光景が忘れられない。
夢に見た黒い靄。割れた地面より這いよる漆黒の霧に包まれた光なき黒暗の世界。呆然とする自分に背を向けて歩き出す父の背中。残されたおびただしい数の武器、武器、武器。遠ざかる父の背中には追いつけず、いつの間にか目の前には母の背中があった。
闇が開いた咢に飲み込まれ、その姿を消す。
後に残るのは叫喚をまき散らす幼い自分と、前に突き刺さる一振りの剣。
朽ち果てたその剣を手に、前へ前へ走り出す。
今の自分の姿になっても、その果てへはたどり着けない。何もかもが呑み込まれて、闇以外の残るのは墓標のような武器たちと、朽ち果てた剣を抱く自分だけ。
怖い、暗い、寂しい。
全てが闇に飲まれていくその中で――――その全てを払う光があった。
どんな困難にぶち当たろうと、一度決めた以上引くことは無い。
一度交わした約束を守るためだけにその命を懸けて越えられるはずもない壁を、想いだけで乗り越えた。その姿は誰より気高く、誰よりも力強く、だからこそアイズはその光景に誰よりも憧れを抱いた。
遠征には出かけない、訓練も行わない、やる気に覇気など全く見られない普段とは想像もできない程かけ離れたその姿は、自分を含めた極僅かの人間しか知っていない。
それが誤解を生もうと彼は気にもしないしぶれることもない。彼が胸に抱くのはたった一つの願いであって、それを叶えるためだけにここにいる。きっと彼ならば誰かに縋ることもなく、その願いを叶えるためならばどこまでも突き進めるのだろう。
アイズはその隣に立つための、彼の願いを知る段階にすら至ってはいない。
「…………もう、置いていかれたくない」
だからアイズは剣を振るう。
自らの悲願を達成するために、彼の隣に立つために。
先ず最初に始めるべきは、彼の名前を知ることだ。
明らかに偽名なその男の名は――――マダオと言った。
「おー、やっぱりここにいたか」
どこか気の抜けたようなその声に振り向けば、立っていたのは当人であった。
柔らかな金色の髪を持つその男は片手に何かの紙袋を持ち訓練所の端に立っている。
「マダオ…………?」
「おう、マダオだな。ティオナの言ったとおり、今日も自分を鍛えてたんだな」
「うん。ステイタスの伸びが悪いから」
成程とマダオは頷くと、ガサガサと紙袋を揺らす。
その行動に何の意味があるのかと首を傾げると、その揺れた紙袋からはお腹を刺激するようないい匂いが漂ってきた。ジ、と視線をマダオに向ければマダオは正解とばかりに笑って紙袋の中からアイズの好物であるじゃが丸くんを取り出した。
剣を仕舞い、ステイタスを駆使して水道へと移動し手を洗いまた戻る。
するとマダオはおかしそうにおなかを抱えながら、よくできましたと紙袋そのままをアイズへと渡した。
「……マダオは、食べないの」
「ん、俺はもうティオナと一緒に街中で食べてきたからな。それはアイズの分……あ、ティオネとレフィーヤの分忘れてた」
その中にベート・ローガは入っていない。
「ティオナ、と?」
「おう、遠征の買い出しの手伝いでなー。日用品の買い足しまで付き合わされた」
何故、自分だけ置いていかれたのか。
そんな思いが胸に浮かぶが、訓練していたのは自分だと結論付ける。
と、ここでじゃが丸くんの入った紙袋があったかいことに気づいた。
「出来立て、ホヤホヤ?」
しかし、じゃが丸くんを買ってきたのは街中であったはず。幾ら近くに出店が出ていたとしても、できたてホヤホヤのこの温度を保つことは不可能である。それは何度も、出来立てをそのままホームに持って帰ろうと挑んだアイズが良く知っている。
「出来立てって、温度でわかんの?」
「じゃが丸くんの事なら、マダオには負けない」
グ、人知れず胸の前で拳を握る。
マダオの顔が若干引きつっているようだったがいつものことかと呟くと笑って流した。
そんなことよりも、どうやったらこの出来立ての温度を維持したままこのホームまで戻ってこれるのかを知りたかったアイズは目に光を灯してマダオへと詰め寄る。
そんなことよりも、どうやったらこの出来立ての温度を維持したままこのホームまで戻ってこられるのかを知りたかったアイズは目に光を灯してマダオへと詰め寄る。
「なら、保温方法に関してだけなら俺の勝ちだな」
「……認めざるを得ない。だから」
そういってじゃが丸くんを抱きしめるアイズを見て、その次の言葉を察したマダオは手を平を宙に向けて差し出す。次にマダオが小声で『
「……魔法?」
「魔法……うーん、まぁ魔法かな。取りあえず、コレで紙袋の中だけ温度を上げて保存してきた」
ス、とアイズがその手の上に自分の手を重ねれば、心地よい熱が感じられる。
突然のアイズの行動にキョトンと首を傾げたマダオは慌ててキョロキョロと辺りを見回す。その光景にアイズが首を傾げていると、マダオは「セーフ、か?」と呟いて手を放す。
「――――あ」
その名残惜しさに声をもらせば、マダオはどこか照れくさそうに頬をかく。
小悪魔ですねぇアイズさん、そう呟いたマダオは目を逸らしながらもう一度手を差し出した。いつもと違うその様子に、どこか距離感が近づいたような気がしながらアイズはもう一度その心地よい熱へと手を預けた。
名前を聞くことを、すっかり忘れて。
すべての工程を終え、一人で塔の上へと昇っていく。
そこには我らが主神、ロキの部屋となっている。つまるところ、俺はロキに声をかけられてこの螺旋階段を上っているのである。道中、同じ眷属たちとすれ違うことは無かったので恐らくステイタスの更新も後回しにして俺を呼んでいる。
……嫌な予感しかしない。
しかしそれはきっと大事な話で、俺に、仲間たちに関連する重要なことなのだろう。
勝手に予想しておいて、外れてくれれば万々歳。
そんなことを考えていると、ロキの神室が現れる。
コンコンとノックをすれば、中からは入ってええよーと明朗な声が聞こえる。
「こんばんは、ロキ。呼ばれたから来たけど……酒は持ってないぞ!」
「第一声がそれかいな! ウチのこと馬鹿にしすぎや! ……まぁええ、今回はその為に呼んだわけちゃうし。ま、そこに座り」
ロキに言われるがまま、材質の良いソファへと身を沈めればコトリと前にグラスが置かれた。
ほんの少し匂いを嗅げばやはりアルコールの匂い……お酒であった。
「ソーマんとこの失敗作や。ま、手間賃ってとこやな」
「……手間賃であの高い酒かー、最初からレートが高すぎないか?」
つまるところ、この後の話はそれ相応の物であるということ。
俺は一つ溜息をつきながらグイとグラスを傾ける。芳醇な香りが口に広がり、知らずの内に口角が吊り上がる。それでも俺が思い返すのは、かつてとある城で飲んだ黄金の酒。これが本当の酒かと驚愕した至高の酒である。その後色々あり殺し合いに発展し、その中で勝利品として獲得した黄金の壺。
それは今でも俺が所持し、中にはその酒が波打っている。
それと比べてしまえば……此方が劣る。
「それでも美味いんだけどさ」
「あの酒と比べたらあかん。神酒といい勝負かもしれへん品物や、アレは」
「……べた褒めされてもやらん。中身は限られてる――――はずだから」
あの酒の壺、中が見通せないのである。
口から覗き込んでも先に広がっているのは真っ暗な暗闇。
しかしひっくり返せばそこからともなく酒が落ちてくる。
しかしひっくり返せばどこからともなく酒が落ちてくる。
「ちぇー、ケチ! ま、ええ。それよりも話があるんや」
「あのロキが酒を放り出して話、ねぇ……お腹痛くなってきたから帰ってもいい?」
「ええ訳ないやろ。ちなみに廊下には既にリヴェリアが待機しとる。逃げ出そうものならオカンにしばかれるで」
「ああ、我らが母上どのか……直に言ったら怒られるから内緒な。防音効いてるよな、この部屋」
バッチし、と笑うロキに安堵の溜息。
それにしても、逃走経路が塞がれていたか。すれ違わずとも、俺の後に登ってきたわけな。
まったくやってくれるね、悪戯神ロキ様は。
「さて、聞く姿勢も整ったみたいやし話を始めよか。その為にも先ず、マダオとウチとの契約を振り替えろか」
そう言ってロキは指を三つ立てる。
そして一つを折りながら、
「一つ、マダオをロキ・ファミリアに迎え入れ動きやすい立場へ。対してマダオはウチの主命があれば最優先事項が発生していない限り拒否権なく指示に従う。まぁここは他の眷属たちとも大体一緒やから気にせんでええ」
ロキは次に、もう一つ折る。
「二つ、マダオには遠征の拒否権を。対してマダオはそれに見合った対価を」
そして最後の一つ。
「三つめや。ウチが
「契約の確認をしてきたってことは、このどれかに引っかかるものがあったと」
「ちょっと違う。ウチの勘」
そう言ってロキは細まった目を開く。
普段とは違うその真剣な朱色の瞳は俺をまっすぐ捉えて離さない。確実に今回のロキは本気で何かを感じており、眷属たちの身の安全を心配しているのがよくわかる。おまけに俺が優先すべき最優先事案が発生していないのも理解している。
「主命や、マダオ。次の遠征に参加して、ウチの勘が働く何かに状況を見て対処せえ」
普段のおどけた、飄々とした姿は隠れ神としての存在感が部屋を満たす。
当然のことだが『
「おおせのままに、主神ロキ」
かつて何度とったか分からない騎士の礼で主命へと返す。
ロキの勘が働いたというのなら、きっと俺が知りたいことと関係してくるのだろう。
俺の目的の為にも、ロキの願いを叶えるためにも、仲間たちが一人でもかけることなく帰ってこれるように、全力を尽くそう。
「とはいえ、俺は一切道具の補給を行ってないし、遠征用に荷物も纏めてないんだが……」
「それだったら今ウチのアイズたん達がマダオの部屋に入って纏めてくれとるで」
「不法侵入! それ不法侵入だから! っていうか鍵かけてたのにどうやって!?」
「ウチが合いカギをもってないとでも……?」
「畜生俺のプライバシー! って、アイズだけじゃないの、入ったの」
「一緒にティオナがおったで」
「ノオオオオオォォォォォォ! 俺の部屋が! 秘蔵のお宝がッ!」
かつてティオナたちが侵入してきた時のことが思い返される。
楽しそうに笑いながら俺の部屋を漁りつくし、俺が取っておいた取って置きのお宝たちを粉砕していくその姿。時に刻まれ、時に文字通り粉々にされ、最終的にそれら全てがゴミ袋の中へと姿を消した。食べ物は後からやってきたロキたちの腹の中。
美味しかったと皆が笑う中、俺は一人気を落とすのだ。
美味しかったと皆が笑う中、俺は一人気を落とすのだ。
後でこっそり、ロキと酒を飲みながら食べようかと思っていたが、
「……ロキ、酒のつまみが減ったぞ」
「……嘘やろ?」
「絶品……だったのに」
「ウチまだ食べてないんやけど! ちょ、まち、リヴェリア、あの子たち止めてきて!」
バタンと扉を開けたロキが、神室の前に置いてあるイスに座っているリヴェリアへと声を投げかけた。
するとリヴェリア、何かをほっそりとした指でつまんで口に含んだところだったのかピタリと固まっている。普段見られないそんな光景につい見とれながら、少しづつ顔が赤くなっていくリヴェリアを堪能する。
「ウチのオカンは可愛いなぁ。ねぇロキ」
「美人は何をしても絵になるな」
「誰がお母さんだ! 不躾にそうジロジロと此方を見るな」
紅茶を一飲みしたリヴェリアはまったくと言って、何か思い出したかのように俺を見る。
はてと何かと視線を返すとリヴェリアは、
「マダオ、ドライフルーツは美味だった。今度何か礼をしよう」
「……ティオナが持ってきた?」
「ああ。マダオからの差し入れだと言ってな」
「りょーかい、リヴェリアの口にあったのなら幸いだ。今度また作るよ」
リヴェリアは何も知らないのだから悪くない。
何か言いたそうなロキを連れて部屋へと戻る。
パタンとドアが閉まるとロキが項垂れる。
「手遅れやったか……!」
「原因はロキだから」
この調子だと壁棚の二重底はばれていないか。
いやまて、ドライフルーツを隠していたのがその一つ上の段だったのだから、棚を徹底的に漁っている可能性もある。下手をすると引き出しの底の高さに違和感を覚えた誰かが、その二重底の存在に気づいてしまってもおかしくはない。
あの中には俺秘蔵、最高のお宝がッ。
「不味い、ロリ巨乳神ヘスティア様のフィギュアが!」
「おいマダオその話詳しく話せやー!」