BALDR SKY / EXTELLA   作:荻音

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>>前回までのバルステラ!<<

記憶を失ったはくのんが廊下をうろついていると機械人形に襲われた!
不思議な指輪で動きを止めたけど、残念!
機械人形からは逃げ切れなかったよ……。どうなるはくのん!




第2話 対人 / 魔術師

 経験しなければ色がつかないもの。キャンバスに絵の具をおとして、モノクロの世界をみずみずしく染め上げていくかのような自然な感情のはたらき。識っているのに知らない……なんて無垢できらきらとした心。

 

 

 

 無限の回廊を貫く一塵の風。何もかもを置き去りにするかのような速度を纏う様子はまさにそれだった。螺旋を描いて空を突くかのような爽快感に私は自然と笑顔になる。驚くことに私は今、機械人形の腕に抱かれていた。風で暴れる髪を押さえつけながら正面を見据えると、少し小さくて丸っこい緑色の機械人形が進路を塞ごうとしているのが目に入った。私は左手を胸に当て傍らの機械人形に告げる。

 

 あれを倒して。

 

 指輪がじんわりと熱を持ち、紅い宝石がにわかに光る。おそらくそれが返答なのだろう。機械人形は速度を落とさぬまま、背中の長刀を右手に持つ。緑色の機械人形……紛らわしいからニラと名付けよう、理由は特にないが……。機械人形はニラを正面に僅かに左右に揺れ、相手が戸惑っているうちに距離を詰めてすれ違いざまに長刀を一閃する。――ニラの輪切りの完成といったところか。残心をとり、長刀を背中に収めると同時に背後でニラがタイミング良く爆発を起こす。

 

 圧倒的だ。私は機械人形の頭部の単眼(モノアイ)を見つめるが、その表情は変わらない。当たり前だけど私は少し残念に思った。この機械人形は私が目覚めてから出会った初めての味方なのだ……たとえ、私が操っているだけだとしても。

私は、つい先ほどのことを振り返る。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 ――目の前に立つ機械人形。

 突然の出来事に身体が硬直する。もはやこれまでだろうか。私は機械人形が手を伸ばしてくる様子を睨みつける事しか出来なかった。だが、意外なことに機械人形は手の甲を床につける状態で止まった。その様子はまるで乗れと言っているかのようで、私は戸惑ってしまう。心変わり? まさか。……よく分からないけれど、これはチャンス。少しためらった後、私は意を決して機械人形の手の平に飛び乗った。

 

 出口に急いで!

 

 物言わぬ機械人形にダメモトで指示を出してみる。機械人形はしばらく動かなかったが、大事そうに私を抱えなおした直後に、ものすごい速度で走りだした……!

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 それから――何機かのニラが遭遇した途端に襲いかかってきたため、やむなく撃墜した。本格的な足止めがいつ始まるか分からない、私たちは多分最短で出口に向かっているはずだ。景色を置き去りにしながら疾走していると前方に回廊の終わりが見えてきた。門番のように突っ立っていたニラを瞬殺し、そこに転がり込んでぐるりとあたりを見渡す。廊下しか存在しなかったこれまでとは明らかに違う。サッカースタジアム二つ程の大きさがありそうな広場。彼方の左右の壁それぞれには回廊があるのが見える。そして私達の反対側の壁には大きな鉄のシャッター扉が鎮座していた。

 罠だろうか。……仮にそうであっても突き進むだけだが。私は機械人形の単眼(モノアイ)を見つめる。指示したとおりに動いてくれるこの鋼を私は勝手に自分の分身のように感じていた。いつまでも()()()()と呼ぶのは他人行儀だ、愛称を付けてあげよう。

 指輪から噴き出した焔に焼かれたのか、元の白い機体の半分近くは黒色に変化していた。時折黒い鋼の中に表れる赤い波紋はなんだろうか。下げてもらった腕からぴょんっと飛び降りて機械人形をじろじろと観察する。すると、腕部の側面にかすれた刻印を見つけた。

 

 ――regnum caelorum et gehenna

 

 私はあごに手を添えながら頷く。なるほど、さっぱり分からない。でも、この子の身元が分かる手掛かりは今のところこれしかない。ならば唯一読める部分を抜き取って名付けるとしよう。よし、今日から君はゲヘナ君だ! ……心なしかゲヘナ君が哀れなものを見るような表情になったような。まさかね。では、あの出口と思われる扉に向かおう。私は足を踏み出――

 

 ――せなかった。ゲヘナ君は既にそちらを見ている。右の壁、回廊の入り口にそれは立っていた。弛緩していた空気が凍りつき一瞬で砕けたのが分かる。ああ、私はなぜ無事に脱出できると思っていたのだろう。ここまで私が一蹴してきたものはまさに命無き機械()()であった。だが、今私の視界に映るあれは、鋼鉄の肉体を持つ強き意志を携えた()()

 相対すれば分かってしまう。人形があんな殺意を放てるはずがない。知らず私は自分の体をぎゅっと抱きしめていた。ただただ怖い。ゲヘナ君との出会いのときも死を感じていたけれど今回はそれ以上だ。殺意の奔流に身を晒すことがこんなにも怖いことだなんて()()()()()。……忘れていた?

 私は、これほどの殺意を経験したことが――ある、のだろうか? 記憶を失う前の私は一体何を……まあ、それは置いておこう。確かなことは、今、私は生きてここにいるということ。それは以前の殺意を乗り越えたという証明。 

 だから、今回もどうにかなる。いや違う、私が岸波白野である以上どうにかしなくてはいけないことだ! 私は深く息を吐く。左手をゆっくりと上げて、勢いよく振り下げ敵機を指差した。

 

 私の敵を倒して、ゲヘナ!

 

 その声が開戦の合図だった。両機の姿が一瞬で掻き消え、同時にその中間地点で長刀と爪が火花を散らす。空気が爆散し、その余波が私の髪を激しく揺らした。そのまま目にも止まらぬ速さで三合切り結び、示し合わせたかのように間合いの二倍の距離を取る。ゲヘナは長刀をくるりと回し両の手で構えた。

 敵機……仮称”α”は青みがかった機体で動きは荒々しくもどこか気品がある。まるで豹のようなしなやかさを鋼の四肢に幻視した。おそらくは速度重視。長刀を爪で受け止めた様子から察するに接近戦では格闘を主とするタイプだろうか。脛の下端から伸びる両脚部を覆うかのように逆立ったブレードも恐ろしい。

 睨みあう両者の均衡はαの手に突如出現したダブルサブマシンガンによって崩れた。絶え間ない破裂音とマズルフラッシュ。ゲヘナは最初の数秒を軽く長刀でいなし、すぐさまαと等距離を保つように弧状にダッシュ。直後、僅かなフェイントを入れ、弾幕が薄くなったところを見逃さずに吶喊する。

 サブマシンガンの威力は比較的小さく、数発当ててもあまり効果がない。同じ部位に当て続ければそれなりのダメージを与えられるが、動き回る対象にそれは難しい。それでもなおその武装を選んだ理由……それは、恐らく牽制と観察のため。戦闘を通じてこちらの得手不得手などの情報を集めるつもりだ。対策を立てられる前に、速攻で倒さなければこちらの不利になる――

 

 吶喊で間合いを詰めたゲヘナは長刀で胴体を薙ごうとするが、αはダブルサブマシンガンを盾にそれを防ぐ。一瞬の拮抗の後にサブマシンガンは吹き飛ばされ、αは無防備な姿をこちらに晒した。――そこだ! 上に薙ぎ払った長刀を一呼吸置く間もなく持ち替え、そのまま振り下ろす!

 その時私は収斂した殺意の閃きを見た。αは脚部の噴射装置(バーニア)を用いて、振り下ろされる長刀を巻き込むように体を捻って回避、そのまま脚部のブレードで長刀を地面に叩きつけた。あまりの衝撃にゲヘナの身体が硬直し、その間にαは着地。間髪いれずにゲヘナの腹部に蹴りを見舞いし、宙に吹き飛ばす。

 それからは為す術がなかった。打ち上げ、多段蹴り、拳舞、手刀、短剣のフルコース。空中で嬲られながらも、ゲヘナは致命傷になりうる攻撃のみ長刀でガードしていた。

 このままでは殺されてしまう……。それを薄々理解しながら、私はただ戦況を見定める事しか出来ない。指輪に触っても一切の反応がなく、焦燥感だけが轟々と募っていく。私には何が出来る? 私には何が出来た? 見ているだけなんて――岸波白野らしく、ないよ。

 

 αが踵落としで一気にゲヘナを叩き落とす。流星のように地面に激突し身体がはねるさまに、声にならない悲鳴をあげそうになる。でも、目を反らすわけにはいかない。ゲヘナも視線をαに向けている。まだ、あの子は諦めてなんかいない。

 αは踵落としの反動と噴射装置(バーニア)を利用しながらそのまま回転を始める。その姿はまるでチャクラム、脚部のブレードで一切を両断する心算なのだろう。見ている間にもどんどん速度が上がっていき、そして何の前触れもなくαの姿が掻き消えた。

 目にも止まらぬ速さ。私がαを再認識したときにはバラバラのゲヘナが転がっているに違いない。戦闘をずっと見ていて、大体の性能は理解できたからこそ分かる。この攻撃は絶対に避けられない。――そう、このままでは。

 

 空気を切り裂く音をどこか遠くに覚えながら、私は心の内に自己を埋没していく。戦いたい、そんな馬鹿な考えが泡となり私を覆うが、それを振り払ってどんどん暗闇に身を預けていく。私に戦う力はない、そんなことは分かり切っている。だが、共に歩みたい、支えたいと強く思った。

 

 終点が近い。……目覚める際に忘れてきたモノ、この状況を打破しうるモノ。それはもとより私の内で目覚めを待つモノ。無意識の淵から伸びていた白い手を私は掴みとる。――露わになる――瞬間、接触点から一筋の無色の線が天を突くかのように現れ、それは何回も枝分かれを続けてやがて虚構の空を覆った。続いて、先端から青い炎が勢いよく疾駆し、視界を蒼く染め上げる。それはきっと私の魂の色。魂に刻まれた回路が今、起動する。

 頭の中で機械音声が響く。

 

 《回路励起(サーキット・ラン)、イヴ認証》

 

 意識を急浮上させて、自覚した回路に火を灯す。最適簡易術式を通過(パス)。――行くよ、ゲヘナ。

 

 コードキャスト――gain_agi(32)(敏捷上昇【中】)

 

 ゲヘナの躯がうっすら蒼く発光する。と同時に周辺の地面が轟音と共に吹き飛び、その衝撃の余波が戦場から少し離れた私にまで及ぶ。言わずもがなαの攻撃だ。接地点を切り刻むだけでは飽き足らず、その衝撃で十数mの範囲を消し飛ばしたようだ。

クレーターの真ん中で攻撃直後のぐらついた体勢を立て直そうとするα。その背後の死角から、土煙を引き裂くかのようにゲヘナが飛び込む。そのスピードは先刻とは雲泥の差、うまくコードキャストがかかっていたようで私は安堵する。回避できたかどうかを確認出来なかったため正直なところハラハラしていたのだ。

 ゲヘナはαに対応する暇を与えずに背部装甲を斬りつける。だが――浅い! αの反応速度は死線を何度も超えて身に付けたものなのだろう。咄嗟に噴射装置(バーニア)で衝撃を僅かに殺したらしい。それでも膝をつかせることは出来た。――機は今しかない、私は叫ぶ。

 

 逃げるよ、来てゲヘナ!

 

 ゲヘナはαの背中を蹴り飛ばして、私に疾走する。迫る鋼鉄の手に飛び乗った私はすぐさまゲヘナの左肩に身を乗り出して背後を確認する。三十六計逃げるに如かずだ、まともにやって勝てる相手ではない。すでに追走を始めているαの姿に私は冷や汗をかく。憤怒のオーラをひしひしと感じる……もしかしてゲヘナの駄目押しの蹴りにお怒りなのだろうか。

 出口の扉まであと数百メートル。だが、αはすぐそばにまで迫っていた。鬼気迫るとはこのことか。敏捷を高めたゲヘナに追いつくことが出来るとは思っていなかった。初見で下した速度重視という見立ては正しかったようだ。

 αはさらに加速。逃げに徹しているため無防備に晒されているゲヘナの背中を蹴り穿とうと噴射装置(バーニア)を最大限に吹かし、宙に身を躍らせる。――そこに決定的な隙が生まれた。

 αの敗因はただひとつ。戦う者がゲヘナだけと勘違いしていたこと。

 私は機を見て援護する魔術師(ウィザード)。僅かながら攻撃する手段も持っている。――術式(コードキャスト)

 

 ――shock(128)(スタン付与)

 

 αの動きが空中で不自然に止まり、そのまま無様に地面に落下する。すぐに復帰するだろうが戦場では一瞬の停止が死を呼び込む。今回のスタンはいい牽制になったはず。タイミングを計るのが難しいから連発は出来ないけど。

 

 出口まであと数秒。だが、扉を突破する方法を全く考えていない私なのであった。肩に腰掛ける私は人差し指を唇にあてながら思案する。――うん、とりあえず蹴ってみてゲヘナ。それには答えず静かに長刀を構えるゲヘナ君。なるほど、やはりメイン武装は長刀……最後の蹴りはさんざん蹴られたことへの意趣返しかな? まるで心があるみたいだ。

 

 突如、地面が揺れ始める。固く閉ざされた鉄のシャッターが今まさに目の前で開こうとしていた。まさかの自動ドア……?! いや、突っ込むのは落ち着いてからにしよう。今はαに追い付かれる前にここを脱出することが最優先。ゲヘナは最大速度で大きな門をくぐる。

 

 そんな私たちを迎えたのは深淵の虚空、底なしの闇だった。……落ちる。噴射装置(バーニア)には連続使用に限度がある。いつのまにかゲヘナの腕に抱かれていた私は、徐々に閉じゆく視界の中、最後に扉に刻まれた英文字を見た。恐らくは社名……私を攻撃した組織……その名は――

 

 ――Ark Industry(アーク・インダストリー)

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 >>アーク・インダストリー 社長室

 

 海の中に沈んでいるかのような錯覚を起こしそうな水晶宮の中で距離をとって向かい合う二人の女性がいた。

 

 「お疲れさま、シゼルさん」

 

 最初に口を開いたのは無表情の年増の女性。病的なまでに白い肌、色素の薄い長髪のこの女性の名前は橘聖良(せいら)、アーク・インダストリーの社長である。その辣腕さからAIの魔女とも呼ばれ、その二つ名に恥じぬ雰囲気がその身から醸し出されていた。

 

 「は!……ですが、逃がしても宜しかったのですか」

 

 言葉に少し棘を感じるが魔女の顔は微塵も変わらない。尋ねたのはシゼル・ステインブレッシェル少佐。褐色の肌に銀の短髪、軍服の上からでも分かる引きしまった肉体はまるで肉食獣、また眼光は鋭く猛禽類のそれを連想させた。アーク社が警護の名目で雇っている傭兵部隊フェンリルのナンバーツーである。

 先程までシゼルは、アーク社構造体内に侵入した賊を排除せよという任務を聖良社長から与えられ、これを遂行していた。忌々しい事に交戦した賊に不意打ちを二回も食らっていたが、彼らが扉に到達するまでに追い付いて撃破することは充分に可能だった。

 だが、聖良社長から下ったのは帰投命令。腑に落ちないが、クライアントの命令は絶対である。しかし、疑念を抱いたままではこれからの任務に支障が出る恐れもある。その結果がこの質問である。

 橘聖良は無言で指を動かし、宙空にとある画像を投影した。それはさっきの賊、戦闘用電子体(シュミクラム)とその肩に乗る生身の電子体の少女である。シゼルは最後のスタン攻撃を思い出し、唇を噛んだ。そんな様子を歯牙にもかけずに橘聖良は問う。

 

 「戦ってみて、どう思いましたか」

 

 シゼルは少し目を閉じて先程の戦闘を反芻して答えた。

 

 「戦闘用電子体(シュミクラム)の賊は中々の長刀の使い手でしたが、どこかちぐはぐな印象を覚えました。恐らくは機体性能と実力に差があるかと」

 

 橘聖良は興味なさげにそう、と呟き、どうでもいいことのように続けた。

 

 「あの機体、無人なのよ」

 

 「は?」

 

 シゼルは思わず目を瞠る。電子体を移行(シフト)することで鋼の巨人、戦闘用電子体(シュミクラム)になるというのに、それが無人だと。馬鹿な。あれはまさかシュミクラムではなくウィルスだとでもいうのか。……それにしてはおかしなほどに人間らしさを感じた、特に、最後の蹴り。シゼルは思わず拳をゴキリと握り締める。

 

 「起動した理由は私にも分からないわ。……それに、あの機体の所有権はあの子に移ったから、もう解析は出来ない」

 

 シゼルは眉をひそめた。なんだ、それは。

 

 「盗まれたということですか」

 

 「広義的にはそうなるわ。他にも低級ウィルス(アイランナー)が数機持ってかれたみたい」

 

 ……ますます分からなくなる。何故、聖良社長はあの少女を見逃したのか。アークの警備を掻い潜り、堅牢なロックが掛けられた代物を短時間で盗み出す手腕。ウィルスを操り、シュミクラムをスタンさせる謎の技術。それを単独で遂行する度胸。間違いなく排除しておくべき存在だ。あの雰囲気は傭兵ではない。だが、戦う者の眼をしていた。

 

 「あの少女はいったい……」

 

 何者なのだろう。困惑した様子のシゼル。橘聖良は虚空を見上げて呟いた。

 

 「そうね。一言でいえばAIの申し子、かしら。何をもたらすか分からない不定の存在。――今は泳がせておくわ」

 

 

 

 ◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 >>無名都市 路地裏

 

 誰も寄り付かない吹き溜まりのような路地裏の中、ふらふらと歩くモヒカンの中年男がいた。男は血の混じった痰を苦しそうに吐き捨てる。その身体には数発の貫通銃創が見られ、今もどくどくと赤い血が流れ出ていた。

 どうみても致命傷で、もう長くはないだろう。男はそれを自覚しながら歩き続けていたがとうとう精魂尽き果てたようで、壁にもたれかかりそのままずるりと崩れ落ちてしまった。――ちくしょう、終わりかよ。 男は派手なアイシェード越しに仮想の空――無名都市特有の黄昏色――を見上げた。男から流れる血が狭い道をゆっくりと赤く染めていく。

 体温と共に脳から記憶が抜け落ちていく、思い出が空に昇華されていく。恐らくこれが走馬燈なのだろう。手を伸ばして取り戻したいが、身体がそれを許してはくれない。だんだんと無に近付いていく、原初の恐怖が目前にまで迫ってくる。――怖ぇ……。男は涙を流して誰にも聞こえないような小さな声を漏らす。

 

 「死にたかねえよ……」

 

 

 ――heal(32)(治癒【中】)

 

 雑多な路地裏に凛と響く澄みきった祝詞。緑色の光が優しく男を包み込んでいく。不思議なことに男の傷は時間を巻き戻すかのように塞がっていく。男の表情から察するに痛みも引いていったようだ。

 

 その時、男は混乱の頂点にいた。……無理もない、こんな魔法のような治療は見たことがないのだ。加えてそれを行ったと思われる傍らに立つ少女の風貌。赤い意匠がところどころに散らされた白いワンピースを身に付けた少女は、こちらをぼーっと見つめている。あまりにも現実離れした――ここは仮想だが――混沌とした無名都市にはそぐわないその姿に男は何故か神性を感じ、そして戦慄した。男は早口でまくしたてる。

 

 「ま、まさか、あんたッ! ドミニオンの巫女か?!」

 

ドミニオンとはここ最近ネットでの活動が活発化している武装した新興宗教である。その巫女には何か不思議な力があるという情報を男は手に入れていた。それが今見た治療の力ではないかと男は考える。――もし、この少女が件の巫女だったら、俺はこの後、頭のイカれたドミニオンの連中に何をされちまうんだ……。

 戦々恐々とする男に少女は安心させるようにゆっくりと答えた。

 

 「私は……ド○えもんの巫女? じゃないよ」

 

 それは前々世紀のカートゥーン映画(ホロ)じゃねぇか! と突っ込みそうになって男はどこか拍子抜けしてしまった。やれやれとため息をついて男は立ち上がる。血に濡れた服が煩わしく感じるが今は些事だ。少女を頭のてっぺんからつま先までじろりと見て、変な服着た普通の少女じゃねぇか、という感想を持つ。だが、それが誤った事実だということを男は身をもって知っている。

 

 「さっきの、あの魔法みたいな治療……あれはなんだ?」

 

 あれは普通じゃねぇ。これまでの電子体の治療とは一線を画す何かがある。少女は少し悩んだあとに口を開いた。

 

 「私は魔術師(ウィザード)だから」

 

 男は唸る。――特級プログラマ(ウィザード)だと! この(くに)に両手で数える程もいないプログラマの頂点の称号をこの少女が持っているのか?! た、確かに先程の治療もそれなら説明がつく。特級プログラマ(ウィザード)の中には人知の及ばぬことをしでかす奴もいるらしい。俺が数時間かかるハッキングを一瞬でやってのけるのが特級プログラマ(ウィザード)だ。常識は通じねぇ……ハッキングで生活している俺のようなB級プログラマからすればまさに雲の上の存在……。

 

 「まさか、嬢ちゃんが特級プログラマ(ウィザード)だとはな……」

 

首を傾げる少女。謙遜しているのだろうか? まぁいい。男は言葉を続ける。

 

 「なんで俺を助けたんだ?」

 

 それが本題だった。大戦の傷跡が深く、紛争も各地で頻発しているこの時代。数年前の灰色のクリスマスによる環境の変化も大きく食糧問題もまた深刻だ。そんなご時世に人助けをするお人好しなんているわけがねぇ。

 

 「恩を売るため、かな」

 

 迷いを覚えるような表情で切り出した少女。やっぱり何かを要求するつもりだったか。金とかならすぐに去ろう。だが、少女の次の言葉に男は度肝を抜かれた。

 

 「――私には記憶がない。ところどころは思い出せるけど、大事なことは分からない。私は何も知らないままに死にたくはない。だから教えてほしいの、この世界のことを」

 

 記憶がない? 死にたくない? まるで……

 

 「誰かに追われているのか?」

 

 「分からない。けどさっき殺されかけて、逃げてきた……あーくいんだすとりー? から」

 

 今度こそ男は卒倒しそうになった。――アーク・インダストリーは仮想世界全般に関わる先端企業だ。そんな大企業に追われる特級プログラマ(ウィザード)だと?! 想像以上に厄介な奴だ! 関わらない方がいいに決まっている。

 だが! 記憶を失っていると少女は言った。もし、失った記憶がアークの不祥事についてだったら? 金になりそうだぜ、まったく……へへへ。上手く綱渡りしなきゃ俺の命が危ねぇだろうが、それはそれ。俺の仕事も手伝ってもらえば、超はかどるだろうよ、特級プログラマ(ウィザード)万歳。

 まずは懐柔するか。他の奴に拾われたら困る。

 

 「大変だったな嬢ちゃん。よくここまで来れたもんだよ」

 

 「ゲヘナのおかげかな。紹介するね、おいでゲヘナ君!」

 

 轟音と共に裏路地沿いの建物が崩壊する。土煙が晴れるとそこには見たこともないシュミクラムが出現していた。あまりのでたらめさに男は腰を抜かし、少女は壊すつもりはなかったと慌てている。そこでふと思い出したかのように少女は男に視線をやった。

 

 「一番は、涙、流してたから」

 

 「は?」

 

 脈絡のない言葉に男は間抜けな声をあげる。

 

 「助けた理由」

 

 少女は少し微笑んで座り込んでいる男に手を伸ばす。男はしばらく呆然としてから大笑いし、何かを決めたかのようにニヤリと笑い少女の手を握って立ち上がる。

 

 「俺はエディ・オルドラ。情報屋だ。気軽にエディと呼びな。色々教えてやんよ」

 

 少女は一つ頷いてから、エディの眼を真っ直ぐにみて名乗った。

 

 「私は岸波白野、これからよろしくね、エディ」

 

 

 仮想の空の下、親子ほどの年の差のある二人が握手をしている。

 

 本来、出現するはずのない異邦人。

 歯車が狂った世界null。

 その果ての新世界(エクステラ)に誰が辿り着けるのだろうか。

 

 




MATERIAL

>>ニラ
低級ウィルス。アイランナー。すごく弱い。

>>regnum caelorum et gehenna
"天国と地獄"の意。

>>α
シゼルの機体。名はフレスベルグ。すごく強い。


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