BALDR SKY / EXTELLA   作:荻音

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>>前回までのバルステラ<<

ムーンセルでの事件――こちらの世界との因果。
まだ分からないことが多いが進む事をハクノはやめない。
そんな彼女は愛と快楽のフォーラムへと向かった。





第7話 潜入 / ダブルクロス (前)

 

 

 いくら技術が発展しようとも――身体と心が一対一の時代が終わりつつあるこの時代においても、人々が欲望を手放すことはなかった。

 

 

 仮想の掃き溜め、無名都市。無秩序に生成され、増殖し続ける建築群の一角。世代、性別を問わず、集った人間同士が底なしの性欲を発散し続ける奇異な領域があった。

 CDFすら全容を掴むことのできない、無法地帯(アンダーグラウンド)――愛と快楽の会議(フォーラム)

 この場所に集う人々は、現実の肉体のしがらみや理性、倫理をも捨て去り、心の赴くままお互いの身体(こころ)を欲望で汚し合っていた。

 

 おおよそまともな感覚の持ち主ならば決して近付くことのない会議(フォーラム)――そのとある街路に、今一人の少女がふっと姿を現した。

 栗色の髪をなびかせる少女の名は岸波ハクノ――自称魔術師(ウィザード)である。

 

 >>無名都市 愛と快楽の会議(フォーラム)

 

 

「うわあ……」

 

 目の前に広がる異様な光景に、ハクノは唖然とした。

 覚悟はしていたが、想像以上に卑猥な空間である。至る所から嬌声があがり、路肩では裸の男女がお互いを求め合っている。凄まじいとしか言いようがない。

 ひどいにおいが鼻を衝く。頭のおかしくなりそうな異様な熱気が辺りに満ちていた。

 

 未熟な頭で想像していた愛と快楽のフォーラムより数段階高次な領域だと彼女は慄いた。他人に裸を見せるどころか、お互いに交合を見せつけあうというまったくもって受け入れがたい行為がまかり通るこの空間。

 どうして彼らがそんなことをしているのか……その根幹にある感情を推し量る事が彼女にはどうしても出来なかった。

 

 

 情報屋エディの遺したメールによるとNPC密造業者(ブートレガー)の拠点である構造体の入り口はこの周辺にあるらしい。そのため彼女はこれからこの万国変態博覧会の目抜き通りをじっくり調査しなければならないのだが――彼女の両足は、地面に縫いつけられたかのように微動だにしなかった。

 それは戸惑い、或いは恐怖からだった。

 情欲――それは彼女の経験にない人のサガ。フロア直撃の激しい音楽をいきなり聞かされた赤ん坊のように、彼女はただただ彼らに圧倒されていた。

 そんな呆然と立ちすくむ年若い少女をこのフォーラムの住人が見逃すはずもない。彼女の背後から怪しげな男の魔の手が迫ろうとしていた。

 

「もし――一見さんかなぐぉやっ!」

 

 奇妙な声に振り向くと柔和な笑顔を浮かべるおじさんが残像を残しながら壁へと吹き飛ぶところだった。見事なトリプルアクセルに芸術点は高いだろうなとくだらないことを思った。

 見ると、いつのまにか傍にいたクリスが振り上げた右足を地へと戻そうとしていた。

 

「その子は私の。勝手に……。って、もう聞こえてないか」

 

 クリスが銀の髪を撫でつけながらこちらに視線を向けた。

 ――凄い脚力だ。

 私は倒れ伏すおじさんの様子を見にいこうとするが、途端に彼女に視界を塞がれた。

 ――え、どうして。

 

「全裸コートの変態に興味ある?」

 

 ――ないです。

 私はきっぱりと断言する。まさか、そんな古典的な変態が背後に迫っていたとはぞっとしない話だ。

 

「そ、ならさっさと行くわよ。これからは現地集合なんて馬鹿なことを言い出さないこと」

 

 こういうことになりかねないから――彼女は私の返事を待つことなく、街路をさっさと歩きだした。行き先の見当が彼女には付いているようだった。

 置いていかれないように私はその後を追う。

 

 

 ◇

 

「あそこが入口ね」

 

 ドミニオンの拠点に繋がっている転送門(ゲート)があると思われる薄汚れたビルの前には、ガラの悪そうな男が一人煙草をふかしながら立っていた。門番をしている彼の背後には地下へと続く階段がみえる。

 中に入るにはどうにかしてあそこを突破しなくてはならない。悩んでいるとクリスがさらっととんでもない提案をした。

 

「カップルを装えばいいわ」

 

 ほお、カップルね……え、カップル?

 

「ここの住人と同じように振る舞えば問題ない」

 

 なうほどと私は頷く。木の葉を隠すなら森の中、ということか。構造体内部には快楽を追求するための様々な施設が開放されていると聞く。カップルを演じれば怪しまれる事はない……いや、むしろ一人では入場を断られる可能性が高いということか。

 ――でも女性同士だと、おかしくないだろうか。

 そんな疑問にクリスは目を尖らせた。

 

「同性愛なんて今時珍しくもないわ。もしかして抵抗あるの?」

 

 私は慌てて首を振る。

 そういう偏見を持っているわけではない――。

 クリスは美人だから、普通すぎる私とだと不釣り合いではないかと思っただけ。そこを不審がられれば本末転倒だ。

 クリスは目を丸くしてから、心底おかしそうに笑い出した。

 

「バカ。――貴女は傍にいて」

 

 ……一瞬、彼女は柔らかく微笑んだ。その笑顔はまるで幼い子供が浮かべるような――なんの虚飾も感じさせないただただ純粋なものに見えたが、すぐにその表情は朝霧のように掻き消えた。

 

 ともあれ、先に進もう。

 対案を持ち合わせていない以上、クリスの意見を無碍にする理由は無い。それにこう見えても演技には自信がある。

 覚悟を決めたハクノは気合を入れて両頬を叩いた。

 ――よしやるぞ。

 

 ハクノとクリスは、カップルを装い手を絡めてビルへと向かった。

 門番の若い男が視線をこちらへと向ける。素通り出来ればいいのだが、残念ながらそう上手くはいかないらしい。

 クリスが耳元で任せてと言い、手を放し男に歩み寄っていく。

 

「……お前ら、見ない顔だな」

 

 不審げに睨みつける男の視線をクリスは余裕の表情で受け流し、わざとらしく肩を竦めた。

 

「もしかして入れないの?」

 

「同好の士なら歓迎、と言いたいが……最近変なのが湧く。GOATやら自警軍(CDF)の連中が好色家を装ってな――」

 

 言外に懐疑を匂わせる男に対してクリスは呆れ気味に鼻で笑った。

 

「へえ……この子が軍人に見えるってわけ」

 

 ハクノは男の視線に怯える気弱な女の子を演じている。彼には彼女が訓練を積んだ軍人には見えなかった――事実そうでないのだから当然ではある。正直なところ彼女の演技の必要性は皆無であった。

 だが、男の直感は彼女たちが普通の客ではない事を敏感に感じ取っていた。

 

「いや……。だが、少し若すぎ――」

 

 時間を引き延ばそうとする男の言葉が最後まで紡がれる事は無かった。クリスは一瞬で距離を詰め、男の右手首を取り捻る。その時点で完全に重心が崩れた男の身体はクリスの意図したとおり、勢いよく汚い壁面へと激突した。壁とキスを交わした男は苦悶を上げた。

 

 

 突然の彼女の行動に混乱する男。彼の耳元でクリスはハクノに聴こえないほどの小さな声で冷たく言い放つ。

 

「――形骸化したルールを語るな。ここは人身売買さえも許されている場だ」

 

「てめぇッ――」

 

 抵抗しようとする男の顔を素早く二回、玉突きのように壁に叩きつける。力を失う男の身体を強引に支え彼女は男の耳元に改めて唇を寄せる。

 

「知らないようだから言っておく。私はその糞ったれなビジネスに一口噛ませてもらっているんだよ」

 

 男の身体がびくりと震えた。

 

「何も知らない哀れな少女たちを甘言でかどわかすのが私の役目だ。彼女たちは同性の言葉に騙されやすい――そこの少女はとくに簡単だった」

 

 男は恐怖を感じながらも言葉を捻りだす。

 

「……攫うならここを通る必要はない、関係者用の座標(アドレス)に飛べばいいだろう!」

 

 クリスは呆れ果てたように溜め息を吐いた。

 

「――たかが呼子風情に全てを話す義務があると思うか? どうやらお前はこの先に私を入れさせたくないようにみえる。怪しい者を通そうとしないその意識は褒めたい。ただ、相手の立場を見定める眼が決定的に足りなかったな。……私を知らない、ということがお前を破滅させるんだ」

 

 クリスは注意を促す事もなく突然に彼の小指をへし折った。男は悲鳴を上げようとするが壁面に胸部を圧迫されていたためひゅーっと掠れた息を吐く事しか許されない。

 

「男の子なら我慢しろ――。お前は今組織の根幹にかかわる仕事を妨害している、その自覚はあるか? もしこれがボスに知れたら……お前はどうなると思う? 無能で物分かりの悪い木っ端野郎の代わりなど、いくらでも立てられる。所詮、ここは無名都市。愚か者が迎える末路なんて言わなくても分かるはずだ――」

 

 クリスに薬指を優しく撫でられた男は戦慄し唇を震わせた。

 

「お前が屑ではないというなら、態度を示せ」

 

 それを最後にクリスは男から離れた。

 

 

 そんな恫喝に近い会話が交わされているとは全く知らないハクノはアセアセしながらその様子を見つめていた。カップルらしく振る舞おうとした矢先に、連れがいきなり暴力沙汰を起こすとは、想定もしていない。

 これは、カップル作戦失敗か?!

 流石に声をかけようかと思い近付くと、その前に俯き気味の男が無言のまま階段への道を開けた。

 

「入ってもいいのね?」

 

 クリスの問いかけに男は目を伏せたまま頷く。

 その様子はまるで嵐が通り過ぎるのを待つ哀れな村人のようだった。

 

 

 

 クリスと私は地下へと続く長い階段を下りていく。

 一体何があったのかを尋ねるとクリスは少し唸ってから答えた。

 

「余計な時間を食いそうだったから手早く脅したわ」

 

 な、なんとも豪気である。道理で、彼はあんな表情を浮かべていたのか。

 しかし、通常の脅迫では意味を為すとは思えない。私がこんにゃろめと脅したところで “は?” と威圧され内部の人間に連絡、そのまま仲間を呼ばれて囚われるだけだろう。

 

「私を幹部だと勝手に勘違いしたようね。ここの内情に少しだけ嘘を混ぜた話を彼は本気にしたみたい」

 

 なるほど――エディの遺した情報をそんな風に活かせるなんてクリスは機転が利く。私にはきっとできないよ。

 その言葉に彼女は曖昧な表情を浮かべた。

 

「……そうね。――彼はいい仕事をしたわ」

 

 

 ◇

 

 

 長い階段を降り電子体専用入り口の扉を潜った私たちを迎えたのは、明かりが絞られた大きな空間だった。

 至る所から響く嬌声、薄暗いため全てを確認できないが多くの人々がここにいることは分かる。覆いかぶさり、跨りながら快楽を追求する彼ら――そんな彼らを私はバラバラの存在のはずなのに目的を同じくして蠢動する一つの生命のように見紛ってしまった。

 

 

 ここは明るい場所での行為に苦手意識を持つ人達――どちらかといえば初心者向けの空間なのだとクリスが説明する。ぼんやりとした暗闇の中、他人の存在を周りに感じながら交合することは極めて性感を高めるそうなのだが、理解することは難しい。

 口に出す事すら憚れるアブノーマルな趣味を持つ人のために用意された場もこの奥にあるらしいが、興味は無い。

 

 正直なところ、視線をどこにやればいいか困った私は天井の方をぼんやりと見上げていた。そんな不甲斐ない私の手を取りクリスは広間の奥へとどんどん誘導してくれる。

 心強いなと思う。一人ではここまで来る事も難しかっただろう。そんな彼女になんとか報いたい……。

 

 そう考えながら広間の中ほどにまで来た時、突然私はクリスに押し倒された。

 いきなりのことで息が止まる。抗議しようとしたがその前に彼女の手が私の口を塞いでいた。そのまま耳元に口を寄せられた私は、思わず身を硬くする。

 

「静かに――見回りがいる」

 

 銃を持った女が巡回しているのが肩越しに確認できた。

 そういえば――さっきの男が口にしていた。GOATやCDFがこの構造体を密かに嗅ぎまわっていると。彼らを警戒し、構造体の内部に警備員を配置するのは当然だ――しかし、こんなプレイルームにまで傭兵を配置するとは余程のことだ。

 

 ――view map()

 

 私はコードキャストを用いて、この構造体の地図情報を網膜に展開する。――無作為に増築を重ねた不細工な構造体が複数の階層にわたって存在している。先日エディの依頼で潜入した企業の構造体よりは幾分か広いだろう。

 構造体は大きく二つの用途に分けられていた。愛と快楽のフォーラムの住人に解放されたプレイエリアと、関係者以外立ち入り禁止となっているエリア。面積の約3/4を占める後者の構造体の端には行き先が不明な怪しい転送門(ゲート)がいくつか存在していた。恐らくそれがドミニオンの拠点に繋がっていると思われる。

 また、至る所に巡回や防壁(ICE)が用意されていた。多くのセキュリティを避けながら複数の転送門(ゲート)を探るのは現実的ではない――いくつかに絞るかあるいは手分けをして探る必要があるだろう。

 転送したマップ情報に目を通したクリスが私へと直接通話(チャント)を繋ぐ。

 

(クロークから裏に回りましょう。二人でいれば見つかったとしても迷い込んだ客だと言い訳も効く)

 

 異論は無い。けど、さっきは思い切り怪しまれたような……。

 

(その時は柔軟に対処するまで。それより――あなたの情報集積速度はやっぱり異常だわ。AIへの命令(プログラム)を極端に短くする特級プログラマ(ウィザード)とは訳が違う。貴女の中にはその命令すらないみたい)

 

 ……術式(命令)はあるけれど?

 

(その中身をきちんと把握してる?)

 

 ――それ、は。

 ……思い返してみればコード自体に目を向けたことはなかった。術式(コードキャスト)はそれを走らせれば半自動的にその効果を発揮する。あまりにも当たり前すぎて疑問に思う事など――。

 私は術式のプログラムコードを参照する。だが、そのアクセスは強い力で拒否された。直ちに私は防壁の突破を試みるが、破壊した端から凄まじい速度で新たに防壁群が構築されるため取っ掛かりを掴む事すらできない。

 ――私の中にあるデータを私が閲覧できないという不条理。これは一体何を示しているのだろう……。

 

 私は分からないことをクリスに伝えた。すると彼女は僅かに思案した後、口を開いた。

 

(やっぱり、貴女は――)

 

 その言葉の途中。

 ふと、周囲に目をやった私は先程の巡回が近くにまで迫っている事に気付いた。

 プレイエリアで行為に及ばず、(はた)から見ればただ見つめ合っているだけのカップルなど目立つってしょうがなにのだろう。このままでは面倒くさいことになるのは必至だった。

 私は何も言わずにクリスを抱きしめた。

 

(え?! いきなり何――)

 

 突然の奇行にクリスは少し慌てたが、すぐに何が起きているのかを察してくれた。

 ――さて、抱きしめたはいいがこれからどうしよう。抱擁だけで見回りが誤魔化されるとするのは楽観が過ぎる。

 ならば、と私は咄嗟に行動を起こす。広間の端にあるいくつかの扉をハックし、それら全てに異常振動を感知させた。これで、巡回はそちらに行かざるを得なくなるはずだ。

 秒を置かずにエラー通知が届いたのか男は扉の方に視線を向ける。だが、こちらも気になっているのかその場に留まり迷っている様子だ――くそう、どうすれば。

 

 その時、首筋におかしな刺激が走り思わず意識が乱れた。見るとクリスが私の首に噛みついていた。未知の感覚に襲われた私は身体を捩り、逃げようとするが腕を抑えつけられてうまくいかない。それはまるで先日のソファでの意趣返しのように私は感じた――。

 戸惑っている間にも片方の白い手はシャツの下へと滑り込み、彼女のしなやかな指が私の臍の周りを撫で、さらに鳩尾へと差し込まれる。自分の身体が優しく壊されていくような恐怖。また、それに相反する何か。思わず声をあげてしまいそうになるが私は唇を噛んで必死に我慢する。

 巡回を誤魔化すための演技だという事は分かっている。だが、これはあまりにも危険だ。このままだとおかしくなってしまう。クリスの指の動きはますます遠慮が無くなっているし、唇はいつの間にか外耳を甘く噛んでいる。

 私の素の反応が説得力になるということは理解しているが――っ?! おっと、やばいそこはやばいよ! 演技でもそこは駄目だよ? ちょっと、ええ! 早く行っておくれ、巡回の人――!

 

 切なる願いが聞き届けられたのか男は私たちから視線を切り、扉の方へと走り去っていった。

 荒い息を整えた私はクリスを半眼で睨む。彼女はこめかみを軽くさすってから若干申し訳なさそうに笑った。

 

(あまりにも反応がよかったから、ね?)

 

 同意を求めることでもないだろう、困ってしまう。

 ――そんなことより。頭を切り替えよう。広間を巡回していた人員がこの場を離れている今がチャンスだ。私は服を整えながら立ち上がる。目的はこの奥にあるのだから立ち止まっているわけにはいかない。

 

(了解。――それにしても誤作動を引き起こすなんて小狡い手を考えたものね)

 

 小走りでクロークへ向かいながら私たちはやり取りを交わす。

 ――そうかな、常套手段だと思う。けれどクリスも何か考えていたよね。

 

(もちろん)

 

 その言葉と同時に彼女からアイテム付きのメールが届く。

 これは……。

 

(媚薬よ)

 

 び……?! 確かに前の日に用意するとは言っていたが……え、これをどう使う気だったの。私は背筋に冷や汗をかく。

 

(知りたい?)

 

 彼女の眼が怪しく光った。

 私はぶんぶんと音が鳴るほど首を振る。聞いたところで一文の得にもならなさそうだ。

 

 やがて私たちは薄暗い広間を抜けた。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 クリスとハクノが立入禁止区画に侵入してからしばらく――別の区画を歩いている二人の人間がいた。門倉甲ともぐりの医者ノイである。

 

 愛と快楽のフォーラムを偵察の目的で来ていた門倉甲は、仇敵のジルベルトがこの施設に入るのを目撃し、偶然にもそこで出会ったシゼル少佐とノイ先生に連れられここに入場した。

 そして、甲はジルベルトが阿南市長の依頼でドミニオンの巫女の拉致を企んでいる事を盗み聞く。巫女が統合軍との取引材料に使えると聞いた甲は、彼女の何が取引材料になるのか、また彼女が何を知っているのかを疑問に思い、この施設にいるという彼女を探すことにしたのだった。

 

 

 取りとめのない話をしながら回廊を進んでいると、複数の足音が遠くから荒々しく迫ってくるのが聞こえた。

 

「早く見つけろ! まだこの辺りにいるはずだっ!」

 

 怒声が響き、俺は慌ててノイの腕を掴み物陰へと引っ張り込んだ。

 

(先生、隠れて!)

 

(あっ!)

 

 気付けば、俺はノイが乗っ取ったNPCの肉体を抱きしめていた。

 

(嬉しいぞ、やっとその気になってくれたのか?)

 

(この状況でふざけないでください! 足音が聞こえないんですか?!)

 

 殺気だった人の気配があちこちからする。その状況に流石のノイも表情を引き締めた。

 

(冗談だ。まさか、もう我々の行為が発覚したのか?)

 

(いや、どうやら違うみたいですね……)

 

 やがて、通路の奥からポニーテールの女の姿が現れた。

 

(あれは千夏……?!)

 

 彼女の足元には血が点々と滴っていた。顔もコートも真っ赤に染まっている。けれど、彼女の敏捷な動きは彼女が無傷だということを雄弁に物語っていた――それが意味するところは……。

 

(なんだ、知り合いか? どうやら、真っ当な客では無さそうだが……)

 

 ノイの流し目に俺は頷くしかない。

 

(カタギじゃないのは俺でも分かりますよ――)

 

 千夏もどこかの組織に所属し、何か思惑があってここに入り込んできたのか? 考えもまとまらないうちに施設全体へと警戒警報(ワーニング)が鳴り出した。

 

「ちっ……!」

 

 舌打ちと共に千夏は走り去っていく。

 

(なんだ、この警戒警報(ワーニング)は?! 中尉、何かしたのか?!)

 

 急なシゼル少佐の大声に俺も負けじと大声を返す。

 

(俺じゃありません! 我々と別口で侵入していた者が居るようで……!)

 

 同時に機械音声が回廊に流れ出した。

 

『施設内で侵入者との戦闘発生。戦闘要員はシュミクラムへと移行し、直ちに現場へ急行せよ』

 

 遠くからは、銃声と爆発音が聞こえ始めた。

 

(大事になりつつあるようだな)

 

 ノイは緊張感のない間延びした声で言うとぱたぱたと通路の奥へと走り出した。もう、こそこそする必要がないからと言っても無謀に過ぎる。

 

「なんて無茶な医者なんだ……!」

 

 俺もノイの後を追って走り出した。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 突如として響く警戒警報(ワーニング)に耳を疑う。

 ここに至るまで細心の注意を払ってセキュリティを避けて進んで来たはずだが――。

 

『施設内で侵入者との戦闘発生。戦闘要員はシュミクラムへと移行し、直ちに現場へ急行せよ』

 

 二人は機械音声に大体の事情を察する。

 

「間抜けな侵入者がいたようね」

 

 クリスは後ろを振り返り、呆れるように吐き捨てた。遠くから複数のシュミクラムが姿勢制御装置(バーニア)を噴かせて迫っているのが見えた。

 

移行(シフト)

 

 小さな呟きと共に彼女の身体が鋼鉄へと変わっていく、数秒も経たぬうちに真紅の機械鎧がその場に姿を現した。

 私は反対方向からも敵機がいくらか迫っているのを確認する。運の悪いことにどうやらここは通行の要所らしい。

 

 ――来て、ゲヘナ!

 

 私の呼びかけに灰の機械鎧が空間の裂け目から雷音と共に登場する。

 呼べたことに僅かの安堵があった。

 ――前回は確か……。

 ズキン、と。思い出そうとすると頭が少し痛んだ。

 ここで考える必要はない――今は目の前の敵に集中すべき時だ。全ては状況を突破してから考える!

 

「なんだあれ――」

「電子戦要員からの連絡が無いぞ!」

「邪魔するってことは敵だ、別動隊だっ!」

 

 通信を盗み聞く限り、相手は統制のとれていない烏合の衆のようだった。

 

 ――行ける、クリス?

 

 私の問いに彼女は獰猛に笑い得物のチェーンソーを回転させる。

 

「ええ、血祭りにしてあげるわ」

 

 

 程ほどにね……。

 機械音声が脳内で開幕を告げた。

 

 ――戦闘開始(オープンコンバット)

 

 

 


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