門倉中尉はゲヘナと対面し、言葉を交わすがその存在は謎めくばかりだった。
一方、ハクノはムーンセルに久利原直樹と言う男が出現した記憶を再生していた。
久利原直樹と言う男は自ら学者と名乗るだけあって、未知への好奇心が人一倍のようだった。
彼からの質問――現在の地上はどうなっているのか、ムーンセルとは何か、SE.RA.PHを構成する人々の出自はどこか――といったものに私は出来るだけ丁寧に答えていく。
私にも分からないことがあるため、やむを得ずところどころ穴のある説明になってしまったが、彼はそれでも興味深そうに最後まで耳を傾けてくれた。
「――自らの目的を探すNPC、か」
話が一段落し、聖堂内部に僅かに沈黙が落ちたあと、久利原直樹がポツリと呟く。
私は彼にさっき話した内容を思い返す。
以前までのSE.RA.PHの運営方針において、NPCは消費されていると言えた。それは『役割を果たした者は消去し、次の役割に作り替える』という条項があった為だ。だが、聖杯戦争終結時にそれが削除されたことによりムーンセルの判断に次のような変化が生じた。
『役割を果たした者は次の役割を探す。目的の為に生活する事と生存するための目的を同位とする』。――これによりNPCは自由意志を獲得したのだった。
彼らのとる行動は様々だった。旅に出る者もいれば、店舗を開く者もいる、けれど一方で以前の役割に固執し続ける人たちも少なからずいた。多種多様な今だが、それこそが自然なのだと私は思う。
成長もないまま、スペック通りの役を演じていたNPC達が、己の白紙の未来に思い悩むことは新しいSE.RA.PHを発展させることに繋がるはずだ。
――話を戻そう。彼はなぜ、NPCに言及したのだろうか。久利原は静かに語り出した。
「私の知っているNPCは、チューリング・テストをするまでもなく知性、心といったものがないと判断できる代物だった。――仮想空間を運営するコンピュータの演算力に大きな隔たりがあるのだろう。NPCの性質もまた同様だ、実在の人物を再現し、自由意思を備えさせるなどもはや未知の領域だ。ムーンセルが常軌を逸した存在だという事を改めて感じるよ」
少し聞き逃せない事があったのだ。
仮想空間の運営……彼の知っているNPC……? 何を言っているのだろう。
現在の地上に広がりのある仮想空間はない。オンラインゲーム用に整備されたものは確かにあるが、目の前の学者が、遊戯用にチューニングされたNPCとムーンセルのNPCを同位に論じるとは思えない。レオを失って混乱する西欧財閥、またそれに乗じて攻勢に出るレジスタンス――彼らが今のタイミングで仮想空間を運営する理由はないのだ。
となると――語る技術水準に違和を感じさせる彼は、一体どこから来たというのか。
久利原は出来のいい生徒に向けるような微笑を浮かべた。
「意外と巡りが早いな白野君。……どうやら私は未来に存在する人物の再現――即ちNPCのようだ」
私は僅かに息を呑む。
基本的にNPCは過去の人物の再現である。その理由の一つは、未来の知識を持つNPCが起こすかもしれないパラドクスの排除だ。ムーンセルは人の活動を記録するものであり、人の歴史に介入するものでは決してない。無用の混乱を起こす引き金を自ら引くことはまずありえない。
だが、彼が未来の人物の再現だというのなら彼の記憶の混乱の理由もある程度は想像できる。イレギュラーなNPCであるがゆえに不具合が出たのか、それとも単純にムーンセルの措置で未来の知識を剥奪されたのが原因か。
しかし、ムーンセルが未来の人間をSE.RA.PHに再現する理由がやはり不明だ。超然たるムーンセルに突如表出した気味の悪い矛盾から、私は嫌な予兆を敏感に感じ取った。
原因を知らなければならないと思った。
そのためには、彼の事をもっと教えてもらう必要があるだろう。彼がSE.RA.PHに現れた理由も、きっとそこにあるはずだ。
「聞いても面白くないとは思うが、いいかね?」
私は頷いた。話す過程で彼の記憶が回復する可能性も少なからずある。
そんな私の意図も察したのか、彼は懐かしい場所を思うような眼差しで、彼の半生を語り始めた。
「――私の故郷はね、いいところだった。環境再生地区の長閑な農村で、私は8人家族の次男だった。貧乏人の子沢山、貧しいながらも幸せな生活、という奴だった。……だが、その幸せは前世紀の負の遺産によって突然奪われた」
そこで言葉を切ると彼は悲しい微笑を浮かべた。
「何者かが遥か昔に投棄した有害物質……それが地中に沁み出し、ゆっくりと家族の身体を蝕んだのだ。その後、私以外の家族は皆、命を落とした。独りぼっちになったあと、私の故郷が焼却処分されたことを聞いたよ」
なんて、酷い。私は唇を噛んだ。
「悲しいが、そんなことはありふれている時代だった。幸せな時期があっただけ私はまだマシと言う物だ。度重なる大戦の影響でこの星は酷い有り様だった……。そんな劣悪な環境を次の世代に残すわけにはいかないだろう? ――……だから私は、――――ああ、思い出した。アセンブラの研究に命を捧げたのだ」
彼の額にはじわりと汗が浮かんでいた。記憶の戻りに連動して僅かに頭が痛むようだった。
アセンブラ……聞いたことのない単語だ。
「簡単に言えば環境を汚染している物質などを選択的に有用な物質に置き換える事の出来るナノマシンの集合体、といったところだ。例えば、ダイオキシンに汚染された土壌を有機肥料に満ちた肥沃な大地にしたり、汚染された水源を清水にすることもできる」
すごい……夢のような技術だ。それさえあれば地球を生まれ変わらせる事だって出来るだろう。
だが、危険性も高いように思えた。もし兵器として悪用されればその高い性能は人類に牙をむくことだろう。
「理解が早いね。……確かに解決すべき問題は多かった。だが、シミュレーションと実験を繰り返した我々は、着実にアセンブラの完成に近づいていたのだ。……なのに」
そこで言葉を切ると彼は忌々しげに顔を歪めた。
「
彼は俯いて髪を掻き毟り始める。様子がおかしい。
もしかして――彼は記録を取り戻すと同時に、当時の感情までをも呼び起こしてしまっているのか?
私は彼をなだめようと近付こうとするが、その間も彼は熱にうかされたように呟き続けた。
「時間が無かった私は……そう、知識を求めたのだ。かの狂気の科学者ノインツェーンの遺産。彼が愛用した究極の人工無脳――バルドルマシンに収蔵された情報を目的に、私は、それと接続した。そして―――――――――――」
彼はしばらく押し黙った。
近付いた私が肩を叩こうとした瞬間――彼は勢いよく顔を上げた。漆黒に乾ききった瞳孔をした彼は邪気無く笑った。
私はその表情に狂気を感じる。
「とうとう完成したアセンブラを、私はあのクリスマスの日に起動させた。爆発的に自己増殖をしたナノマシンは
……もはや話についていけそうにない。
少年時代の思い出を話していた彼と今の彼ではまるで別人だ。狂的な表情を浮かべた彼は悪霊にでも取り憑かれたというのか。
錯乱した人を落ち着かせる方法を私は必死に思い出す。
そうだ――猫だましはどうだろう。以前、しゃっくりの止まらなくなったキャスターに試したところ効果覿面だったはずだ。致命的に間違っているような気もするがどうにかしなければと焦る私の脳内には既に猫だまししかなかった。私はその勢いで彼の眼前で思い切り手を叩く。
――落ち着け!
目の前で炸裂する衝撃と突然の破裂音に、彼は目を白黒させる。
どうやら幾分か落ち着きを取り戻したようだった。
「……っと。すまない、自我の境界を見失っていたようだ。――これはモデルとなっていた
彼は合点がいったように頷く。良かった、猫だましは凄いな。
「ありがとう白野君、おかげで分かったよ。私の目的は……」
彼はにっこりと笑って言った。
「――ムーンセル」
瞬間、前触れもなく視界が赤く染まった。頭上のオクルスを見上げれば、そこからは血のように真っ赤に濁った空が覗いていた。
一体何が起こっている?!
久利原は何がおかしいのかげらげらと笑い始める。
「理由は分からない――けれど、そうしなければならないことは分かる……。ははっ、消えてくれたまえ白野君、人類の未来のために!」
錯乱した久利原はこちらに腕を伸ばし、それを白野は危なげなく避ける。
さっぱり状況は掴めないが、乞われるままに死ぬつもりはない! 彼の様子から対話は難しいと判断した白野は、ひとまずここを出ようと距離を取ろうとする。だが、彼女の目が捉えたのは彼の予想だにしない姿だった。
上下太刀の構え――その二本の日本刀はどこから。
「避けてみたまえ」
軽い調子で言い放ちながら右足を一気に踏み込む久利原。瞬時の判断で床に飛び込んだ白野は振り下ろされる斬撃を無理やり避ける。だが、その一回で奇跡は使い果たされた。
顔を上げれば、眼前に迫るのはもう一振りの太刀。彼は最短で白野を仕留めにかかっている。もう令呪も何もかもが間に合わない。眼前に迫る運命を彼女は睨みつけた――。
永遠のような一瞬。生と死の狭間の微睡み。額から爪の先ほどの位置にて震える刀。その鍔の先に――理智を僅かに灯す瞳が朧げに揺れていた。
「――逃げろ、白野君。私の理性は、もう……」
……! やはり彼の身には何かが起こっている、意思を歪ませる何かが彼を浸食している。そう悟るが今はそれどころではない。
彼が稼いだ刹那で彼女は体勢を整え後ろに飛び退くが、それを追う狂気の久利原はあまりにも迅かった。瞬時に裏返った瞳を向けた彼は、白野の心臓目がけて勢いよく刺突を繰り出す。
が――その寸前に赤い疾風が彼らの間に割り込んだ。
間を置かずに繰り出される鮮やかな連撃、先手を打たれた久利原は成す術もなく、聖堂の壁へとピンボールのように吹き飛ばされる。炸裂音とともに、石壁が吹き飛んだ。
闖入者は舞台の主役のようにくるりとこちらに振り向き――
「――無事だな、奏者!」
心に沁み入るような真っ直ぐで凛とした声を私に投げかけた。
――彼女こそ私のセイバー。共に聖杯戦争を駆け抜けた心強い相棒だ。
私は彼女の横に並び立つ。
崩れた壁の向こう、立ち込める煙の上方に目をやると世界の終わりを連想させる気色の悪い真っ赤な空が広がっていた。その禍々しさはまるで、聖杯戦争決着時に勝者と敗者を隔てた防壁のようだった――。
この大規模な異変――まさか何者かが悪意を持ってSE.RA.PH……いや、ムーンセルに攻撃を仕掛けているのか? しかし、どうやって。地上の文明レベルではそもそもそんなことはできない。となると遊星ヴェルバー本体から分かたれた新たな星舟の襲来か――?
分からない。だが、久利原直樹の変貌とSE.RA.PHの異変はほぼ同時に起こったことから彼が何かしら関わっているの確実だった。
私は思考を回す。
変貌する前の彼が言っていた――私は未来の人間だ、と。精緻な仮想空間――SE.RA.PH自体に彼は何の驚きも抱いていなかった。それは仮想空間が未来では当たり前のようにあるからではないだろうか。だとすれば、その精緻な仮想空間を演算するコンピュータが未来には必ず存在するという事になる。
それが彼の言っていた究極の人工無脳、バルドル――? 不明だ。だが仮想空間の再現でムーンセルに迫れるのなら、その他にもきっと再現できる何かがあるはずだ。
ヴェルバー事変を思い出せ――そうだ、最初期に私は異なる世界の記憶を受け取った。それは記憶と言うにはあまりにも断片的な欠片だったが、どこかの世界の私が経験したかけがえのない思い出の残照――。それを手にした私たちは、アルキメデスの企てを破る第一歩を踏み出したのだ。
注目したいのは、ムーンセルのシステム管理者の権限を悪用していたアルキメデスが、利用した
異なる世界線に移動することのできる、その技術に近いものが未来で再現できるのだとしたら――。
――未来の平行世界の人間が、ムーンセルに攻撃を仕掛けることも可能か?
荒唐無稽。穿ち過ぎて笑ってしまうくらいに、穴だらけの推論だ。
だけど否定する材料も今のところ見当たらない。
考えの海に浸っていると隣のセイバーが口を開いた。
「狸寝入りが趣味か、下郎」
呼応するように瓦礫が音を立てた。
「――歴史を枕にするのも乙なものだよ」
スーツに付着した煤を掃いながら、久利原が白煙の影からぬっと姿を現す。傷を負っている様子は微塵も無い。セイバーが放った斬撃を、彼自ら吹き飛び力を分散させたことで、衝撃を軽減したのか。サーヴァントの一撃をいなす実力――人間離れしているとしか言いようがない。
……はたして、ただの学者にそんな芸当が可能なのか?
セイバーが静かに真紅の剣を久利原へと向ける。彼女は目を細めて静かに問う。
「市民の異変も貴様の仕業だな」
彼は笑顔のまま飄々と答えた。
「ああ、そうかもしれないね」
「――傀儡か。もう良い、貴様は雨露に溶けろ」
問答を一方的に打ち切った彼女は剣を携え一気に突進を仕掛け、久利原もそれに応える。二人はぶつかり合い、激しい剣戟が繰り広げられた。だが、その趨勢は明らかだった。久利原は防御一辺倒、セイバーは一気呵成に攻め立てる。NPCがサーヴァントと戦闘して無事でいられるはずがないのだ。
数秒後、静まり返った聖堂に残ったのは、折れた刀を持って跪く久利原の姿だった。
予定調和の光景なのだが、私は無性に嫌な予感がした。
セイバーは彼の喉に剣を突き付けて、冷たく言い放つ。
「今際の言葉はあるか?」
死を目の前にして久利原の表情は能面を張り付けたように生気を失った。
と同時に突然、彼の頭上に光輪が現れ、彼を
これはまさか――情報の更新?
理由は分からないが、彼の情報強度がどんどん増していく。
――離れて、セイバー!
私の叫びと同時に、久利原が纏った光が解け、彼は静かに
「―――
瞬間、彼の身体が機械へと置き換わっていく。ムーンセルを侵そうと、未来からの尖兵が顕現しようとしている。
紫電を奔らせて巻き起こる風に思わず私は身を伏せた。だが視線は逸らさない。そんな私が嵐の中心に見たのは――鎧武者のような風貌をした人型機甲。頭部のカメラアイが無機質にこちらを睥睨していた。
私は知識を総動員して目の前のそれを理解しようとする。
ヴェルバー事変に出現した攻性プログラムに似ている。だが、目の前の鎧武者にはその上位種のアグレッサーとはけた違いの威圧感があった。
それは当然だろう。アグレッサーは自我や知能を持たない目的遂行のための兵士だが、目の前の鎧武者は間違いなく自我がある。その自我の持ち主は恐らく久利原直樹。脅威度の比較はするだけ虚しいだろう。
鎧武者は刀身にのたうつ青い雷光を払いながら宙を斬る。すると斬圧で聖堂の天井が消し飛んだ。
セイバーがぽつりと声を漏らす。
「なんと面妖な――」
その声を合図に鎧武者が二刀を持ちて構える。それは先程の久利原直樹の構えと同一だった。やはり、この鎧武者は久利原直樹の変生した姿なのか!
「では――
大地を蹴った彼は瞬きの間にセイバーの目前へと迫り、すぐさま二刀を振り下ろす。質量と速さを兼ね備えた一撃、これをまともに受ければセイバーだってどうなるか分からない!
――
――
私は魔力を回して、セイバーに術式を二段掛けする。
「はあああッ!」
「おおおおッ!」
裂帛の気合とともにセイバーは暴虐を受け止め、同時に彼女の足元が勢いよく陥没する。均衡し、ぶつかり合う刃の中心から衝撃波が発生し周囲の瓦礫をおしなべて潰していく。
数瞬の膠着を破ったのはセイバーだった。筋力を収斂させたセイバーは相手の刃先を地へと向けさせ、そのまま刀の峰にとんと跳躍。峰を足場にした彼女はさらに鎧武者の喉笛へと吶喊する。類稀なる戦闘センス、これが彼女の真骨頂。
鎧武者は回避しようと身体を捩じるが、
「遅い!」
斬りざまにセイバーは叫んだ。だが――
「硬――」
装甲には一切の傷が付いていなかった。
「痒い」
久利原は吐き捨てると、着地寸前のセイバーをそのまま斬り上げた。彼女の体は聖堂の壁をぶち抜き、数十メートル先まで吹き飛ばされる。
「運動エネルギーを定めるのは質量と速さだ、幼い子供も知っている」
片やサーヴァントといえど小柄な少女、片や重さ数トンと推定される
視界の中心で彼女はゆっくりと立ち上がろうとしている。無傷とは言えないが、彼女の眼は決して曇らず、むしろ煌々と輝いているように見えた。彼女は高らかに言い放った。
「余はそれに奏者への愛を掛けよう!」
鎧武者は動きを止め、僅かに沈黙し、そして考え込み。
「――――訳が分からない」
理解することを諦めた。
そんなやり取りの最中、白野はセイバーの戦闘の邪魔にならないよう、少し離れた位置に移動していた。距離をとると改めて分かるが、機械鎧とセイバーの身長差は成人と赤子を連想させる程だ。あれでは攻撃が急所に届かない。そもそも急所があるかどうかすら分からないが……。
さて、巨体に見合わない速さも兼ね備えた彼に、私たちはどう対応していくべきか。
あごに手をあて考えていると、僅かに地が揺れるのを私は感じた。
じっとしていると振動がますます大きくなっていくのが分かる。まさか……これは足音?
疑問が確信に変わった瞬間。聖堂で唯一壁を保っていた部分が爆発し、そこから新たな機械鎧が白煙を纏って飛び出してきた。
――彼の仲間か?!
ここではもうこれ以上の戦力には対応しきれない。私はセイバーに退避を命じようする。だが、その前に新たな機械鎧がその手に持つ二台のボウガンで武者鎧に攻撃を仕掛けていた。
ボウガンから矢継ぎ早に放たれる赤い弧状の衝撃波。不規則に回転しながら迫るそれを、不意打ちにもかかわらず鎧武者は神速で全て斬り砕いていく。
そして、最後の一つを粉砕した鎧武者が芝居がかった調子で叫んだ。
「千客万来! 誰だ君は!」
乱入した白い機体はそれに応えることなくボウガンを構え、更に撃ち放った。
目の前で突如として繰り広げられるロボット大戦――いよいよ私は混乱し始めていた。
◇◇◇◇◇◇◇
予兆があった。
夢、現実、あるいは記憶。その閲覧期間が終わろうとしている。
いやだ、と思う。
まだ見ていたい、と思う。
だって、わたしは二人のその先に興味があるから。
彼女がこれからどうなってしまうのか、気になって仕方がない。
なのに。
その感情は不適切。
その願望は不適切。
その存在は不適切。
いや――それでも――わたしは消えたくない。
◇◇◇◇◇
目が覚める。
違和感を覚え、目じりに人差し指を伸ばすと水の滴に触れた。
涙。けれど――その理由は既に私の中から消え失せていた。
天井を見つめながら先程まで見ていた記録を思い返す。
セイバーと白野のベッドシーンは置いておくとして、ムーンセルに明らかな異変が起きていた。ここに私がいる理由には間違いなくそれが関わっているのだろう。
寝起きの頭を目覚めさせて考えていく。
SE.RA.PHに現れた、本来存在するはずのなかった二機の
ただ、久利原直樹の変貌、SE.RA.PHの変色した空、セイバーの口走った市民の異変――これは外的要因のように思える。それを未来からの攻撃だと夢の中の私は推論していた。
久利原直樹――彼の皮を被った何らかの意思はムーンセルが狙いなのだと言っていた。ならばわざわざ過去に手を出さなくてもその世界のムーンセルに攻撃を仕掛ければ良いのではないだろうか。
違う。……恐らく、その世界にはムーンセルが無いのだ。考えてみれば私もこちらに来てからムーンセルにアクセスできていない。だから彼はあのムーンセルを狙っていた。その理由はろくでもない事だろうから捨ておくとして……。
ムーンセルに出現した久利原直樹という存在は、この世界では灰色のクリスマスを引き起こした首謀者として指名手配されている。彼がSE.RA.PHで語っていたアセンブラ流出の内容から考えればそれは間違いなさそうだ。
もし仮にこの世界の彼が
だからムーンセルへの襲撃を無かったことにすることは出来ない。
だからといって何もしないのは、どうにも性に合わない。
幸いあちらも私を探しているようだし、都合がいい。
思考に一区切りつけて網膜にツールを展開するとエディからの新着メッセージがあった。彼が死んだら自動送信されるようになっていたらしい。例によってガチガチのセキュリティが仕掛けられていたが、数秒で解析を完了させ中身へと目を通していく。
これは……なるほど。NPC密造業者とドミニオンの繋がりを示すもの――ありがとうエディ、確かに受け取ったよ。
そうして私はふと気付く。
――昨日の私はどうやってここへ帰ってきたのだろうか。
エディが死んだあと、ドミニオンが襲来し、そして………………。
頭が割れるように痛かった気はするけれど、そこから先をいまいち思い出すことができない。
なんだか気持ち悪いけど、記憶が虫食いなのは今さらだ……。ふとした時に思い出すだろう――。
溜め息をつきながら寝返りを打つと、誰もいないはずの部屋に人影があった。
息を呑む私が見たのは――ベッド脇の椅子に腰かけ、こちらを見つめるクリスだった。
「――――え」
ここにいるはずのない彼女に私は目を見開く。
まさか、幻覚?
「そんなに目を丸くして、まるでリスみたいね」
彼女は悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべて、片手を顔の横でひらひらと振った。
――どうして彼女がいるんだ。
ここはエディのセーフハウス。
「あなたが案内してくれたのに、忘れたの?」
クリスは首を傾けた。
私は頭を抱える。全く覚えていないぞ……。彼女は安堵したように溜め息をついた。
「オルドラのことで心配だったけど――問題ないようね」
え――心配してくれたんだ。私はベッドから身体を起こし、彼女と向かい合う。
「当たり前よ。悲しみに沈んでいても結局は時勢に置いていかれるだけ。そんなことを彼が望むと思う?」
……その言い方は卑怯だ。けれど私に発破をかけたいのは分かる。その優しさが私のためなのか、彼女の目的のためなのかは判別できないけれど――。
私は彼女と見つめ合う。そして――今日の彼女は眼帯を付けてないことに気付いた。
よく見ると彼女の虹彩は左右で色が異なっていた。どちらも翡翠なのだが、いつも隠しているほうだけ色素が薄い。それは雨にぬれた新緑のような瑞々しさを感じさせて――
「――綺麗」
思わず漏れた私の言葉に血相を変えた彼女は慌てて片目を手で覆った。それを外すと既に目は眼帯で隠されていた。
クリスは私から目を逸らして自嘲気味に口元を歪めた。
「……やめて。これは灰色のクリスマスの――私の、
言葉を失う。そんな感情を抱いているとは露知らず、軽はずみな発言で彼女を傷つけてしまったことを、私は後悔する。
――ごめん。
うなだれた私を見て、クリスは静かに横に首を振った。
「迂闊に見せた私の過失よ――それより、これからの話をしましょう」
その切り替えの早さは彼女が軍人だからだろうか――それもあるだろうが私はそこに彼女の優しさを感じた。
私は首肯し、エディから託されたデータの一部を彼女と共有した。
「ドミニオンとNPC密造業者の繋がり――教団の本部への直通のゲートを密造業者は保有している、か」
私はそこから本部に潜入し、ドミニオンの首領であるグレゴリー神父あるいはドレクスラー機関の長である久利原直樹を捜索しようと思っていた。前者は明らかに私を狙っているし、後者もムーンセルに出現する何かしらの因果を持っているに違いないと考えられるからだ。
けれど、クリスはそれでもいいのだろうか。彼女は私の勝手に巻き込まれるような形になってしまうが……。
問いかけると彼女はそれを鼻で笑った。
「問題ないわ。私の目的はドミニオンの殲滅だから」
そ、そうなんだ。
「半分冗談よ」
彼女は意味深に微笑んだ。
……半分は本当なのか。けれど、先日垣間見た彼女の記憶を考えればそれは当然の思いなのかもしれない。
「それで、NPC密造業者の拠点はどこ?」
とうとう……その質問が来てしまったか。私は頬をかきながら俯き気味に答えた。
――あ、愛と快楽のフォーラム……です。
正直に言えば、あまり近づきたくない領域だ。名称だけでヤバい事が分かる。
クリスは唇を真一文字にしたかと思うとぷっと笑った。
「――そう。媚薬は用意しておくわね」
ん?
えっ……どういうこと?!
>>MATERIAL
>>ノインツェーン
今世紀最大のマッドサイエンティストと呼ばれる天才科学者。第二世代やアセンブラなどの多くの技術の土台を作った人物。バルドルに接続し、頭を焼かれ自殺という壮絶な最期を迎える。
以降の情報を閲覧する権限はまだ与えられていない。
>>情報強度
未来の可能性である久利原直樹はその不定さゆえに存在の根拠が曖昧だったが、何らかの要因で根拠が確立、さらに補強を繰り返し戦闘用電子体の戦闘力は並みのサーヴァントを超えるものとなった。
白野はそれを情報強度が増したと表現した。
>>セイバーの運動エネルギー
1/2*質量*速度^2*奏者への愛(=∞)