はくのんとクリスの感覚共有デート。
>>無名都市 エディのアジト
「――冗談じゃねぇぞ」
仮想ドラッグの香り漂う淀んだ空気の中、青くぼうっと光るディスプレイを前にして、エディはどこか呆けた様子で呟いた。
門倉中尉とハクノがドレクスラーのアジトから持ち帰ったデータを受け取った彼は、情報の交換を信頼のおける同業者と行っていた。その後いくつかのサーバを経由して、とあるネットワークへと忍び込んだ彼は、極めて堅固なプロテクトが掛けられたストレージを発見する。彼はそこでドミニオンの機密情報を手にしたのだった。
「くそっ……」
引き際を誤ってしまったとエディはデスクを叩き、舌打ちする。
ハッキングの際は、データを迅速にコンポートする必要がある。接続を長く続けてしまうほど、メモリの使用率などの些細な情報から、管理者にこちらの存在を気取られ、ひいてはIPを特定される恐れが高まるためだ。そのため本来ならデータの入手は何回かに分けて行うのが望ましい。
だが、彼は全てのデータを一度に手にするというあまりにも愚かな行動をした。何故そんなことをしでかしたのかと問われれば、気になったからだと彼は答えるだろう。好奇心は猫を殺す――そんなことは分かり切っていたはずなのだがこれも情報屋のサガか。
結論から言えば、こちらの素性は完全に割れ、
――どうする?
エディは自問した。
軽はずみな行為をしてしまったのは分かっている。だが、それでも俺は絶対に死にたくねえ。
ドミニオンに目を付けられた以上、彼らのメッカである
生きたいのであれば、一刻も早く清城市を脱出する必要があった。
――誰に協力を求める?
最低限、ドミニオンの襲撃を躱せるだけの武力を保持し、かつ清城市の外へと俺を連れ出せる存在……。
六条クリスは駄目だ。
あいつはドミニオンを相手にすれば十中八九、迎え撃ちましょうとか言って頭のイカれた選択をする。見た目からは想像できないが一時期、”教団殺し”と海外で名を馳せていた奴だ。ドミニオン絡みの案件で正常な判断を期待することはできない……。
となれば門倉甲はどうか。
中尉には優秀な相棒がいると聞いたことがある。そいつの助けがあれば無事に脱出できる可能性も十分に高まるのではないか。
元を辿ればこの件は、中尉からの依頼でもある。情報の引き渡しの条件を俺の清城市脱出に設定すれば奴も引き受けざるをえないはずだ。
方針は決まった――時間は限られている。
ならば早速と、俺は中尉へと連絡を取った。
コール音が鳴る僅かな合間――エディの脳裏に過ったのは一週間程前に出会ったばかりの少女、岸波ハクノのことだった。
正直なところ、彼女に別れも告げずに失踪するのは申し訳ないと思う。だがその一方で、ここまで深く接しすぎたとも感じる。そもそも、情報屋なんてろくでもない仕事に彼女を付き合わせる必要など微塵もなかったのだ。
怪我の治療のお礼に隠れ家を提供し、あとのことは彼女の自己責任にする。――いや、あのまま彼女を無視した方が遥かに俺らしい選択だと言えた。
なのに、俺は彼女と出会ったあの日、何故子供の口約束以下の取引にもなっていない交換条件を受け入れたのか。
信頼など欠片も存在しない腐りきった清城市で、何故俺は彼女の手を取る選択をしたのか。
――一番は、涙、流してたから。
――……それが、助けた理由。
彼女の言葉を思い出す。
――アホらしい。笑うしかない。
あまりにも善良すぎたその言葉。
だから、――その純粋な言葉こそ、たまらなく眩しいものに見えた。
彼女の手を取れば、腐り切っている俺の中身がどこか変わるのではないかとどこかで錯覚した。結果としてクソな中身は何一つ変わっていない、錯覚は錯覚のままだ。
けれど――まあ、彼女と過ごした時間は少しだけ、愉快だったさ。
「よぉ、中尉。俺だよ俺」
ハクノに会うことはもう二度とないだろう。
彼女の隣には六条クリスがいる。性格に難はあるが、昨日の会話をみたところ彼女たちの相性は決して悪くはないはずだ。六条の個人情報も傭兵斡旋組合やIDから鑑みて信頼性が高いものだと判断できる。彼女が俺のハッキング技術を遥かに上回っているのなら偽の情報を掴ませることも可能だろうが、そんな情報は聞いたことが無いし、
ともかく――彼女たちなら大丈夫だろう。
◆◆◆◆◆◆◆
>>清城市 スラム
迷路のようなスラム街を俺はレインと駆け抜けていた。
ついさっき、情報屋のエディから切羽詰まった連絡を受けた俺たちはすぐさま装備を整え、
数分後、今にも倒れそうな雑居ビルの地下にあった扉を、俺は何回か叩く。
「居るか、エディ? 門倉だ、入っていいか?」
待つことしばらく、返事が聞こえてきた。
「……中尉か? 誰か仲間を連れて来ているのかよ?」
「……ああ。安心しろ、中に入るのは俺一人だ」
それからまたしばらくして、扉のロックが解除された。
俺は乱雑なアジトへと足を踏み入れる。
「よく来たな、中尉」
エディは落ち着きなく銃を握っている。強張った表情をした彼は、しきりにドアと付近の壁の方を気にしていた。こんなエディは初めて見る。
「その様子じゃ、よほど凄い情報が手に入ったらしいな」
軽口を叩くと、彼は露骨に顔を歪めた。
「やべぇってもんじゃねえよ。ハァ、……まず最初に、ドレクスラーの連中を匿っていた議員は阿南よしおだった。あいつの周りは以前から怪しすぎたからな」
「ふん、なるほどな」
清城市市長の阿南よしお――スラム街での密造ナノ取引をCDFに摘発させることもなく、ただただ黙認している男。不明瞭な資金巡りを挙げればキリがない――市長になる以前から黒い噂が絶えなかった、まさに悪徳政治家の鏡といえる男だ。
「あまり驚かないところを見ると中尉も予想の範疇だったか。阿南は以前から
「阿南はドレクスラー機関の学者を使って密造ナノを造らせたわけだな」
そして、その利益を掠め取っていた……なんとも小さな男だ。
「ほら、中尉が先日潜入した構造体。あそこでな」
「――しかし、連中が造っていたのは密造ナノだけじゃなかったわけだ……」
灰色のクリスマスを引き起こした次世代型ナノマシン――アセンブラ。奴らのアジトで見た情報には、確かにその名称があった。
俺は言葉を続ける。
「阿南よしおは普通の人間だ。社会的地位もある。
「ご明察。学者連中にアセンブラを造らせていたのはドミニオン。その目的は――ドミニオンの主導による、超大規模な同時多発テロの計画……汎用ナノマシンにアセンブラを紛れ込ませて世界中にばら撒き、ある日、一斉に発動させるって魂胆さ」
そんなことが起きれば間違いなく、灰色のクリスマスを超える惨劇になるだろう。
「……最悪だな」
「ああ、まったくだ。それを知った阿南の野郎はぶったまげただろうぜ――真っ先にドレクスラーの連中を消そうとしたはずだ」
「なるほど、それでアジトで
狐面の巫女との戦闘の際、あちこちにドミニオンの機体の残骸が転がっていたのはそのためか。
「結局、科学者どもの取り合いになったらしい。んで、ドミニオンの連中が科学者を強奪。阿南の側は、証拠隠滅のために……」
「自爆を仕掛けた、か」
「そんで、こっからが本題なんだが、……中尉から貰ったデータを利用したんだが、結果としてドミニオンのアジト……、今、研究者どもがいる構造体の場所が分かったのさ」
「そりゃ凄い!」
「――ただ、そのついでに狂信者に俺の存在が割れちまった。で、俺もここらが仕事の仕舞い時だと思ってよ。街を出るまで中尉に護衛を頼みたいのよ」
「連中のアジトの情報と引き換えだな」
「話が早くて助かるぜ。まぁ、いくらか色を付けてくれても一向に構わねえが」
「はっ、ぬかせ」
話がひと段落し――場の空気が少しだけ弛緩したその一瞬。
(中尉っ、気を付けてください!)
部屋の奥の扉がいきなり開かれ、銃を片手に握った黒衣の男が乱入した。考える間もなく俺たちはその場から飛び退く。
間髪入れずの弾丸の雨を物陰でやり過ごした俺は銃を引き抜くが、同時に一発の銃声が部屋に鳴り響いた。見ると、襲撃者の胸部に風穴が空いていた。
「はは――マジに正夢かよ」
エディの細腕に握られた小銃からはゆらゆらと硝煙があがっていた。言葉の意味は分からないが彼が射撃したのは間違いないだろう。目標に当てられるだけの技量を彼が持っていたことに俺は驚く。だが、特筆すべきは彼の正確な行動だろう――まるで、これからどこに銃が向けられるのかを知っていたかのような動きだった。
慌てた様子でレインが部屋に飛び込んでくる。
「申し訳ありません! アクティブステルス……
「細かい話は後だ――」
俺は倒れた賊に近付く。そいつの二の腕には逆十字の刺青が刻まれていた。エディが危惧したとおり、やはり襲撃を仕掛けたのはドミニオンの信者か。
「ぐ……うぅ……」
苦悶する襲撃者の襟を俺は掴みあげる。
「諦めろ、下手に動こうとすると死ぬぞ」
「……神父様、真世界へ参りますことお許しくださいッ!」
襲撃者はいきなり歯を食いしばると、同時に吐血した。くそっ、毒物を仕込んでいたか。
「即効性の毒かよ、狂信者め」
痙攣する賊の死体から俺は手を離した。
「中尉――早く出ようぜ」
顔を青ざめさせたエディがこちらに顔を向ける。
そうだな――ここに留まっていてもいいことはない。
「――……!」
その時。
視界の隅で何かが舞った。
放物線を描く、筒状をした脅威。
あれは――スタングレネード!
いち早くそれに気付いたレインはすぐさま俺に飛び付き、床へと押し倒す。一拍置いて閃光が炸裂し、爆音が狭い部屋を蹂躙し尽くした。
永遠にも感じられた意識の途切れ。徐々に回復していく視界に、こちらを心配そうに見つめるレインの姿があった。鼓膜が麻痺しているのか耳鳴りがする。会話を
(レイン、ありがとう)
感謝の言葉にレインは首を振る。
(当然のことです。しかし――)
彼女の視線の先に顔を向けると、エディが力無く倒れているのが目に入った。俺たちが行動不能になっている間に、銃撃されたのだろう。彼の腹部と胸部は赤く染まっており、床を血で濡らしていた。
俺はすぐさま起き上がりエディに駆けよる。
(おい、しっかりしろ!)
(中尉、か? くそ何も見えねぇ……。畜生――どうあれ……俺はここを越えられないのか……)
途切れ途切れの苦しげな声。彼の表情は苦痛で歪んでいた。
(レイン、手当てしてやれ)
(
恐らくは助かるまい。だが、このままにはしておけなかった。
情報屋の手が、苦しげに俺の軍服を掴む。
(中尉……最後のサービスだ)
(……)
(
(巫女……ドミニオンの巫女か)
ドレクスラーアジトで遭遇した妖精のようなシュミクラムを思い出す。
(そいつが、あんたの探してるもんを……あとは……俺の……チップ)
エディは苦しげに自分の頭を指差して、そのまま、がくっと脱力する。
(……? どうやら仮想に
俺は溜め息を吐く。
仮想へ意識を逃しても、
だが――
「ありがとう、エディ……」
俺は出来るだけ優しく彼の身体を
「――中尉、警戒を」
レインの言葉で瞬時に意識を切り替える。
開け放たれた扉――廊下の奥の方から足音が徐々に近付いているのが聴こえる。スタングレネードを部屋に投げ込み、エディを射殺した奴か? 馬鹿な、何故戻ってきた……。
俺たちは扉の奥に照準を合わせ、賊を待ち構える。
数秒後、ゆらりと姿を現した黒衣の女。反射的に引き金を引こうとしたレインを俺は片手で制した。なにやら様子がおかしい。
ふらついた様子の彼女の足元には血がぼたぼたと滴り、ナメクジの這った跡のように赤い血だまりが部屋の外へと続いていた。
「――な」
絶句した瞬間、銃声と共に賊の側頭部が吹き飛ぶ。
――新手の敵か?! 警戒し、銃を構え直す。
力なく膝をつき、崩れ落ちる賊の背後から――パーティに遅れてやってきた主賓のように堂々と、軍服を着た銀髪の女が姿を現した。氷のような青色の眼をしたその女は賊の死体目をくれることもなく、醒めた視線をこちらへと向けた。
レインが声を挙げた。
「
「……誰かと思えば。灰色のクリスマス以来ね、桐島レインさん。あれからお父様と仲直りできたのかしら」
「くっ……」
「ふふ、まだのようね」
顔をしかめるレインの反応を見て、楽しそうに薄らと笑う六条という女。
(レイン、この女は誰だ)
(六条クリス――
鳳翔学園。厳しい校則と保守的な気風が売りの、以前レインが在籍していた学園だ。俺がいた星修学園とはまた対照的な校風だったのを覚えている。あのジルベルトもいた学園だ――とはいえ灰色のクリスマスでどちらの学園も吹き飛んでしまったのだが。
(は、ジルベルトの元締めというわけか)
(気を付けてください、彼女は学園生時代にジルベルトを半殺しにしています。白兵戦では私も不覚を取るかもしれません)
(――冗談だろう?)
デザイナーズチャイルドの多くは遺伝子改造で肉体強化が施されている。勿論、ジルベルトもその例に漏れない輩だ。しかし、目の前の女はそれを圧倒したのだという。
「――内緒話は終わった?」
悠然と立っている六条――だがそこに一切の隙は存在しない。その目はずっと引き金に掛けられた俺とレインの指を見ていた。敵対行動を少しでも見せればすぐさまここは戦場になるだろう。数の有利はあるが、これからのことを考えると今手傷を負うのは避けたい。
俺は考えを巡らす。
「あんたの所属は。……ここに来た目的はなんだ」
「階級は中尉でただの傭兵よ、目的なんて特にないわ。けれど、しいて言うなら――」
彼女はそこで言葉を切り、ニコリと笑った。
「
彼女がドブネズミと称した賊の死体を見れば全身の至る所に銃創があった。そのどれもが致命傷となる部位を外されている。
六条は狙ってそれを行ったのだ。
なんのために? それは分からない。けれど、想像することは出来る。
賊を甚振り、ここに追い詰めた彼女は今――微笑んでいる。
「なんてことを!」
レインが責めるように言う。六条は首を少し傾げた。銀髪が一房、肩に垂れる。
「……ああ――そんなに怒らないで。彼らを見るとどうにも抑えられないのよ。――けれど。狂信者達のために怒れるなんて、あなたは優しいのね、それとも
煽るような口調に、レインの視線が絶対零度にまで冷え込む。六条もそれに応えるように顎を上げて目を細めた。
部屋に渦巻いていく戦意、爆発はもう避けられない――誰もがそう思った時。すっ、と六条の表情が哀しげなものに変わった。
「そう、死んだのね――オルドラ」
視線を移すとエディは既に息をしていなかった。
安らかに――エディ。
俺は彼に祈りを捧げ、六条に尋ねた。
「知り合いだったのか?」
彼女の好戦的な態度は既にどこかへと消えていた。
「彼は情報屋、そして私は傭兵――導き出せる答えなんて限られているでしょう。まぁ、彼には感謝しているわ」
そう言うと彼女は不思議な頬笑みを浮かべた。その表情には先程まで見え隠れしていた残虐性など微塵もなく、そこに俺は彼女の二面性を感じたのだった。
「さて。もう用はないわ。――さよなら」
エディの亡骸を最後に一瞥すると、六条はそのまま踵を返し、呆気なく姿を消した。
最期まで警戒していたレインが銃を下ろし溜め息を吐いた。
「相変わらず、掴めない人です」
それには俺も同意だが、いつまでも気を取られているわけにはいかない。エディが残した言葉に従って、俺はジャックを死体に繋いだ。
「レイン、警戒していてくれ。俺はエディの脳内チップをサルベージする」
「
幾つかのデータが入ってくるが、そのどれもがガチガチにロックされている。ふっ、いかにもあいつらしいことだ。
「中尉! ドミニオンのシュミクラムが接近!」
「な――あいつら」
エディだけでなくチップに残された情報までも消去する気か?!
データを引き上げるには時間がいる。誰かが仮想で奴らを足止めする必要がある!
「クソッ、レイン、あとを頼む!」
俺は、今までにサルベージしたデータをレインに渡すとネットにダイブした。
◇◇◇◇◇◇◇
それは虫の報せとしか言いようがなかった。
ざわつく心に戸惑いながらも私はベッドの上でゆっくりと目を開ける。
クリスと感覚共有し、街をしばらく眺めてから、喫茶店でお茶を楽しんだり都市内部を散策する楽しい時間はあっという間に過ぎた。その後、クリスにさよならを告げた私は感覚の接続を切り、疲れを取るために隠れ家でちょっとした仮眠を取っていた。
――何か嫌な予感がした。
ベッドから起き上がり、床に立つ。衣装は巫女――寝巻にするとちょうど良い――そのまま、身だしなみを気にすることなく私はエディのアジトへと転移した。
悪い予感は当たり前のように的中していた。
彼のアジトで私を出迎えたのは充満する血の匂いだった。昨日、クリスとじゃれ合っていたソファが今はこんなにも赤く血で染まっている。満身創痍の彼はソファに横たわったままこちらを流し見た。
「ハ――粋な……客が来た、もんだ」
苦しげに笑うエディに私はすぐさま駆け寄って治癒を施す。周囲の警戒に探知系コードキャストも瞬時に展開した。
どうしてこんな――。
……いや、理由は後回しだ、今は助ける!
「heal(32)! ……heal(64)!」
私は高位のコードキャストを繰り返す。けれど――
「……なんで!」
彼の腹部や胸部に空いた銃創は一向に塞がらない。
冷や汗が顔に滲む。手をこまねいている間にも、彼の意識がここではないどこかへと引き寄せられていくようで。
――エディが唐突に死ぬ? 昨日まで元気にしていた彼が? そんなのは嫌だ! 彼と初めて会った時のことが頭を過る。あの日もエディは血だらけだった。
あのときは治療出来たはずなのにどうして。
「……。
――。
振り絞るようなエディの言葉に一拍置いて私の理解が及んだ。
コードキャストとはつまるところハッキング――仮想の
仮想で腕を生やしても、
仮想ならやり様はあるが、
彼の生命――鼓動を刻む心の臓は結局のところ現実にある。クリスの手を借りてようやく現実に触れる事が許される私に、現実の
私はこんなにも無力だったのか。
死にゆく彼の手をぎゅっと握る事しか出来ない歯がゆさ――行き場のない感情に私はどうにかなりそうだった。エディの肌の冷たさは目前に迫る死を約束するものだった。
彼がぽつりと言葉を漏らす。
「――夢を、見ていた。繰り返し、……俺が殺される夢を何度も、だ。少しだけ足掻いてみたが、……ハァ、駄目だった。多分、無理なんだろう、な……。」
途切れ途切れの口調から彼の死がもう覆らないことを私は悟る。
「エディ……逝かないで」
それは届かぬ願い。
「……。死ぬ瞬間を俺は何度も体験したよ。そのどれもが後悔、絶望に染まったものでな……ははっ。けれど、今は悪かねぇ」
エディがこちらを見つめて少し笑った。
「死に目に泣いてくれる奴がいるってのはいいもんだな」
いつの間にか、私の頬は濡れてしまっていた。
「……涙――?」
「それだけで、いいな。――ああ、暖かい……これ以上はない」
命の灯が消えかけているのが分かった。
……これだけは最期に伝えておかなければ。
「ありがとう……エディ。あなたがいてくれて良かった」
「ああ――お前らしく、な……、ハクノ」
それを最後に彼は呼吸を止めた。
しばらくして私は、エディの開かれた瞼を片手で伏せる。
悲しみがあった。
憤りも勿論ある。
けれど、それでも前に進まなきゃ。
それがきっと私だから。
――見ていてね、エディ。
私は必ず――。
……。
必ず――なんだったか。
「く……っ!」
脳天に稲光が落ちたかのような酷い激痛。
あ――ああッ!
堪らず両手で頭を抑える。
これは……!
――記■は基本的に感情と結びつくもの。その振れ幅が大きいものほど鮮烈な■■として脳に刻まれる。悲しい、辛い、楽しい。そのような強い感情を人が抱いたとき、それに呼応して記憶が蘇る事もあるだろう――
来る。
繋がる。
混ざる。
私はふら付きながら立ち上がった。
脳が分裂するような鈍い痛み。
それに呼応して視界が二重に滲む。激しい眩暈。現実と虚構がお互いに浸食し合って、なんとも気持ち悪い……。
そして。
私はその光景を見る。
エディの姿が黒衣の青年と重なる。
彼はこちらを見て静かに口を開く――。
◇
――白野……?
泣いて……いるのか。オレのために……。
そうか。そんなものでも、美しく見える時が、あるのか。
自分のために流される涙と……いう、の……は――
◇
「……うぁッ!」
チャンネルを変えるように視界がエディのアジトへと戻る。
今のは、私の記憶……? あれは誰……いや、知っている。
まだ分からない。けれど確かに近付いている。
深層へ。
私がここにいる理由へと。
頭が割れそうだ。見えていないだけで実は後頭部が吹っ飛んでいるんじゃないだろうか。前の記憶遡行とは明らかに桁が違う。
前回がネズミのかじった穴からの水漏れだとすれば今回はダムの放水だ。意識を保つだけでもこんなに苦しい。落ち着いていればこの無遠慮なデータの放流にも耐えられるのかもしれないが、状況はそれを許してくれそうにない。
悪いことは重なる。
仕掛けていた周囲探索コードキャストが
「こんなときに――」
転がるようにアジトを飛び出した私は仮想の空を見上げた。数にしておよそ20の光芒が空間を裂きながら転移してくるのが分かる。シュミクラムの腕部には特徴的な逆十字――狂信者ドミニオンだ。
彼らは着地と同時に銃口をこちらへと向けた。
回線が開き、特徴のない男の声が届く。
「女神に感謝します。――使徒よ、どうか我らとともに」
「……なぜここが」
私は訝しんだ。昨日、遭遇したドミニオンから情報が漏れた……? 外部と通信する様子はなかったはずだけど。
「賊の排除を」
機体のカメラアイがエディのアジトへと繋がる電子体用の扉に向けられる。その意味を考え、すぐに察する。
そうか――エディはドミニオンに殺されたのか。
次第に激しさを増す頭痛に侵されながらも私は彼らに言葉を投げかける。
「彼は死んだ」
「データを全て破壊します」
「――ッ。私はあなた達を恨まない。……けれど、死者を辱める行為は絶対に、許さない」
「抵抗もまた啓示の一つ」
対峙する。シュミクラムの分隊と生身の私。
子供でも分かる天秤の行方。私に単独で彼らを相手取る実力はない。けれど――。
「ゲヘナ……!」
白い機体の名を私は叫ぶ。
それはこの窮地を打開する一手になるはずだった。
だが。
「ああぁッ!」
その瞬間身体はさらなる激痛に襲われた。
来ない。呼べない。届かない。
――どうして?
私は耐えきれずその場にしゃがみ込む。
速度が足りない。
処理力が足りない。
容量も足りない。
「どうかそのままで」
シュミクラムの手が私を捕まえようと迫る。
為す術はない。
ゲヘナは呼べない。
指先一つすら動かない。
彼らに捕まれば八つ裂きにされる。
終わる?
ここで私は終わるのか?
そんなのは認められない。
私は右手に全神経を投入する。
そこに刻まれた三画の赤い紋様。
これが何かは分からない。
振り返れば私には分からないことだらけだ。
それでも――歩むことはできる。
だから。
――使うよ。
なけなしの意識さえ、データの奔流にのみ込まれそうな極限の刹那。
意識の混濁。
二重になった曖昧な世界の中、波間に揺蕩う
私は握る!
「月の
右手の甲が燦然と赤く輝いた。
「権能――限定解除!」
瞬間、意識が完全に途絶えた。
◇◇◇
故郷とは――生まれた場所、育った場所、馴染みのある場所のこと。
私の場合は、一体どこになるのだろう。
最初の記憶――。私の原景。赤い衣を纏う少女との出会い。美しい記述。涙を流す少女。悲しみの記憶。
この世界には繋がりがある。無意識の海底にある孔が月の海へと開いている事を私は知っている。
そこが私の生まれ故郷――?
ああ、それは違うだろう。
私は私であって私ではなく。
私は私のままに私を求める。
遥か彼方の
明け方の霧に隠れた薄い影。
その輪郭はつねにぼやけていて判然としない。
私はあちらに帰れない。
それでも――
◇◇◇
その時――仮想が揺れた。
階位の隔たりが情報同士の軋轢を生み、その処理に仮想の運営が追い付かない程の
唐突に天の底が抜け――稲妻を上回る速さで虹色の光が地に落ちた。この世ならざる収束された光はまさに天界の奇跡の具現。ならばその中心にいる少女はいかにして表現されるべきか。
距離を取ったドミニオンが、恍惚とした様子で声を漏らす。
「――真の光」
教義のものとは明らかに異なる存在。だが、その中身は明らかに別次元のものだった。情報の密度がまるで違う。
異質がそこに存在していた。
爆心地の少女はゆるりと立ち上がる。頭痛で苦しむ様子はすでにない。彼女はふっとドミニオンの分隊を一瞥した後、塞がりつつある空の孔を見上げた。瞳が一瞬若草色に揺らめく。
「ああ――」
そういうことか。今この場においてのみ、彼女は全てを理解していた。
ここにいる理由、生まれた意味、成すべき事――。けれど、それらは些事だった。今の彼女が優先すべきことは、ハクノが情報を処理するまでの自己保存――脅威の排除。
いつのまにか手にしていた赤い剣を彼女は宙へと放る。それは、重力に逆らうかのように真っ直ぐに天へ。放った手をそのままぎゅっと握ると剣はシュミクラムの三倍はあろうかという大きさに拡大し空に縫われ、さらにもう何振りかが展開される。
本来の彼女にこんなことは出来ない。だが、
――刀身が励起し、ぼうっと赤い炎を纏う。
この剣群が落ちればきっと一帯はひとたまりもないだろう。
それは生身の彼女にとっても同様だった。このままでは間違いなく肉塊に成り果てるに違いない。
――だから。
「
コマンドが実行、当たり前のようにハクノの身体が機械に置き換わっていく。その姿は瞬きの合間に
「弔砲を放つ」
声は高らかに。
号令を拝聴した剣が一斉に反転し、眼下のシュミクラムへと向く。
今、天幕が落ちる。
MATERIAL
>>教団殺し
灰色のクリスマス後に出現した、ドミニオンのシュミクラムを数十機単独撃破した赤いシュミクラムの通り名。名が売れてしばらくして目撃情報はめっきり減った。
その正体は六条クリスだが、これを知る者は少ない。
>>桐島レインの家族事情
父はGOAT長官の桐島勲。彼は仕事一筋で、家族を顧みなかったために妻は病み、そこをドミニオンにつけ込まれ洗脳され集団自殺に巻き込まれた。
六条クリスの"親近感でも感じる?"という言葉はタチの悪い煽り。
>>原初の火
空気の読める赤い宝剣。
>>BALDR BRINGER
歴史あるBALDRシリーズの新作として、その世界観を受け継ぎ紡がれる物語。シリーズの最終作。発売日は2017年10月27日。予約受付中。