>>無名都市 エディのアジト
来客用のソファ。
普段はあまり使われていない柔らかな黒革の上でいま、銀髪と栗髪の二人の少女が何やら取っ組みあっている。しばらくの攻防の後、予想を上回る力で組み伏せられた銀の少女は驚きで目を丸くした。
縺れ合った二人のシルエットはまるで扇情的な絵画のようだった。その界隈で売れば間違いなく高い値が付くことだろう。
押し倒されたクリスは、溜め息の後に口を小さく尖らせて言った。
「ダメよ、ハクノ。……私初めてなのに」
見つめ合う二人。ハクノのどこまでも優しげな瞳に耐えられなくなったクリスは思わず目を逸らそうとする。だが、彼女の顎をハクノは指でそっと押さえつけた。それは絶対に逃がさないという強い意志の表れだった。
「大丈夫、痛いのは最初だけ」
無責任な言葉にクリスの全身がびくりと震え、瞳が恐怖の色に染まる。彼女はそのままハクノの片腕に縋り、首を何度も左右に振った。彼女は目前に迫ろうとする人類滅亡もかくやな絶望を必死に拒絶する。
「絶対に、……いや!」
彼女の長いまつげには綺麗な水玉がうっすらと浮かんでいた。先のことを容易に想像できる聡いクリスは、数秒先の恐怖に身の毛がよだつ思いだった。
――どうしてこんなことに? このまま、私の身体は彼女に蹂躙されるというの? 小動物のような愛らしい見た目をしたこの彼女に私が?
――そんなことは、……駄目なのに。
湧きあがる倒錯的な昂ぶり、その矛盾にクリスの身体は甘く痺れた。
「怖がらないで。さあ、口をゆっくりと開けて」
「ひと思いにぶち込」
「shock ()」
野太い悲鳴とともに何者かが壁に吹き飛ぶ。品のない野次を飛ばせば処罰されるのは世の常だ。是非もなし。
ハクノは床に伸びたナマモノに構わず仕切り直した。
「怖がらないで、受け入れて」
これ以上抵抗すれば彼と同じ末路を辿るかもしれない。進むも地獄、退くも地獄。提示された究極の二択にクリスは、諦めて瞼を閉じ、ひな鳥のように口をハクノに預けた。
ハクノは慈愛に満ちた表情で微笑む。
――それでいい。
私はクリスのことが嫌いだからこんなことをしているんじゃない。むしろ可愛い子は大好きだ。
クリスの白い手が小さく震えている。ハクノは安心させるように指の一本一本を絡ませ、ぎゅっと握った。
――新しい世界を見せてあげる。
ハクノは彼女にそっと囁いた。
「入れるよ、力を抜いてね」
薄暗い照明。
ドラッグの甘い香り漂う淫靡なる二人の世界。
重なり合う二人が、ソファを小さく軋ませた。
◇
「あなた人間じゃないわ!」
両手を大きく広げて涙目で抗議するクリス。そんな彼女に対して私は何度も頭を下げた。
「ごめん。でもね――」
私はテーブルの上を指差して弁明する。
「こんなに美味しそう!」
そこに鎮座しているのはボコボコに煮立つ赤黒い麻婆豆腐。塊状溶岩も真っ青な粘度、刺激的に香り立つ山椒、恥ずかしがり屋な白いお豆腐さんがとつとつと湖面から顔を覗かせている……。見ているだけで、涎が止まらなくなる至高の一品がここにある。
青ざめたクリスは逆流しかけるナニカを手で抑えて首を振る。
「こんなの料理じゃない……」
――料理ではない、だとッ?! 私はカッと目を見開く。
それは暴論だ。確かに、その見た目から敬遠する人も僅かながらいるかもしれない。業腹ながら、それは認めよう。だが、痺れるような辛さと共に与えられる恩恵について私達はもっと知っておかなければならない。
例えば、唐辛子の辛さによる発汗は、肌の新陳代謝を活性化させる。それにより高まった保湿性と保油性は、肌を美しくさせる効果がある。また、長ネギ、にんにくなどの食材に含まれるアリシンなどの成分は抗酸化作用を持つため、生活習慣病の予防にもってこいである。もちろん説明はまだ序の口だが、麻婆豆腐が美容や健康に対する特効を持つ料理だという理由の一部は知る事が出来ただろう。
それでいて想像を絶するほどに美味しいのだから嬉し涙が止まる事を知らない。
と、私は心の中で興奮気味にまくし立てた。
実際は水を呷るように飲みながら、ひいひい舌を出して喘いでいるクリスを目の前にして、愚かなことをしてしまったと反省しているのだった。
あくまで親睦を深めるために麻婆豆腐を提供したのだけれど、どうやら彼女の口には合わなかったらしい。遠慮しているのかと思って
次第に落ち着きを取り戻しつつあるクリスに私はぺこりと頭を下げる。
「――改めてごめんね」
私の横に座ったクリスは手を左右にひらひらと振った。怜悧な表情を心がけてはいるが頬はまだ赤く、どこか色っぽかった。
「もとより怒ってなんかない。……けれど、よく平気な顔して食べられるわね。正直なところ地獄の直配かと思った」
あんまりな物言いにショックを受けた私はソファに深々ともたれかかり足をぶらつかせた。
けれどこのまま落ち込んでてはいられない。初対面で麻婆豆腐を振る舞ったことによる恨みが尾を引いて、重要な場面で背後から刺されることもあるかもしれない。それはおおいに困る。私はしばし悩んだ。
むう、辛いものが苦手なら、甘いものはどうかな。
「……これは、どう?」
私は覗きこむようにしてクリスと目を合わせ、片手にロールケーキを浮かせた。これと麻婆豆腐のストックに底がないのは大きな謎だった。
彼女は少し驚いた素振りをみせてから――
「いいわね」
そう言って、嬉しそうに顔をほころばせるのだった。余計な装飾のない無邪気な笑顔にこちらまで嬉しくなる。ああ――喜んでくれてよかった。
◇
――アリーナに乱入したドミニオン教徒の一人を撃破して数時間が経つ。あの後、私達はエディのアジトに戻り、それから適当にくつろいでいた。
先日のドレクスラーアジトでの戦いから清城市の大勢に変化はほぼない。
GOATは本格的に清城市に駐屯――アークの飼い犬フェンリルもどこかに潜伏――ドミニオンは相変わらず小規模なテロをあちこちで繰り返している。
GOATの目的はドミニオン教団の殲滅であることは周知の事実だ。また、反AI思想に偏った隊員が多い彼らはアーク社を目の敵にしているふしがある。何かの弾みで飛び火することを危険視したアークがGOATへの牽制のためにフェンリルを雇ったとみるのが妥当な線だろう。
ドミニオン……。彼らのことを真剣に考える意味は相当薄い。教義を礎にした彼らの突飛な行動を予測することは率直に言って難儀だ。はっきりしているのは、誰かれ構わず噛みつこうとする狂犬を好意的に捉える組織なんてどこにも存在しないということだけ。
嵐が訪れる――漠然とだがそんな確信があった。
全てを台無しにする引き金の存在を、とても近くに感じている。探している爆弾がずっとポケットの中にあったような簡単な見落とし。言葉では言い表せない焦燥感が積もっていくのが分かる。
けれど、今は。
今は、この時を享受していたい。
隣で笑うクリスを見て私は不思議とそんな気持ちになったのだ。
ロールケーキに舌鼓を打ったあと、二人で紅茶を飲んでいるとクリスが不意にしかめ面をした。
「それはそうと、ゴミみたいな部屋ね」
厳しい一言だが異論はない。このアジトは汚いし、衛生的でもない。来客用のテーブル周りはいつも私が綺麗にしているのだけど、エディの個人スペースは乱雑で目も当てられない惨状だ。注意はするのだが、彼はいつもなあなあで済ませようとしてくる。まったく困ったおじさんだ……。
家主を貶す呪詛の数々が部屋を満たしていくと、隅っこにいたナマモノが封印から目を覚ました。
「勝手なことを、居座ってんのはあんただろ……」
ぶつくさと文句を言いながら包帯まみれのマミィのようにのそりと立ち上がったのはなんとエディ。
――まったく、そんなところで寝ているなんて信じられない! 風邪を引いても知らないよ!
「お前は母親か! というか嬢ちゃんが俺にスタンをかましたんだろ!」
あれ、そうだっけ……あの時は私が私でなかったような感覚がして、えへへ。
「少女の会話に立ち入った罰にしては温いほうよ」
クリスは唇に人差し指をあて、悪戯っぽく微笑んだ。むむ、可愛いな。私も真似してみる。しかしエディはそんな彼女を笑い飛ばした。
「少女とかいう年齢かよ。片腹痛いわ」
「ハクノ」
「shock(16)」
以心伝心。どうやらエディはデリカシーを母の胎内に忘れてきたらしい。彼の身体はビリビリと痺れ、この世の終わりを体現したかのような雄叫びを彼があげる。
「~~ッ! ふう――次はもっと強めで頼む」
……。
泣きたい。
人知を超えたスタン耐性を見せたエディを横目にクリスはそう言えば、と切り出した。
「――ハクノ。明日の昼、空けておきなさい。いいものを見せてあげるわ」
なんだろう。想像がつかない。
さらにエディも何やら得意げに割り込んできた。
「夜にはまた集まってもらうぞ。
ドレクスラーアジトで私が得た情報から結構深いところまで遡れているらしい。さすがは情報屋だ。
ふふ、明日も忙しくなりそうだ。
それからしばらく談笑してその日は解散となった。
目覚めてから一週間ほど経つが、これまでで一番楽しい時間だと感じた。
◇◇◇◇◇◇◇
ベッドに横たわり、
目を瞑り、唾を呑み込む。
小さな呼吸を幾度か繰り返し、
そして。
浅瀬に笹の小船を浮かべるようにそっと、
ちっぽけな意識を大海へと手放す。
すーっと落ちていく。
どこまでも、深く、深く、深く。
若葉のような心地の良い深緑。
光の射し込む森に吹く穏やかな風。
翡翠色の螺旋の中を落ち続けていく。
――どこ?
尋ねると、
――こっち。
木々が謳う。
検索。
照合。
そこにいるのか。
ふわり。
沈む身体を抱えるように両腕を交差し、
彼方にある座標を、顎をあげて見据えた。
白野の茶色い瞳が僅かにオリーブ色を宿す。
遠い――途中には堅固な障壁が何層もある。
けれど。
それらに意味はない。
彼女にそれは通じない。
ばねを引き絞るように体勢を落とす。
溜めて、溜めて、溜める。
――解放。
波紋が生まれる。
処理速度を超えるために生じた虚数のクレバスの数々。
数秒遅れて木の葉がざっと舞い、エラーを覆い隠した。
情報の海を貫いた赤雷の螺旋流星。
瞬きの後、彼女の姿はすでに障壁の向こう側にあった。
セキュリティは反応したが、同時に彼女がそのシグナルを打ち消している。反動で障壁は全壊したが、瞬時に全修復した。ナノ秒間の間隙は誤魔化せないだろうが、システムに解決済みと定義したため問題はない。少なくとも今すぐに気付かれることはないはずだ。
ここは境界。現実とは時間経過が異なる位相空間――仮想と現実を繋ぐ場所であり、またそれだけに止まらない場所。大小様々な幾何学図形の結晶がいくつも飛び交い、螺旋の柱が縦横無尽に最果てまで続いている。
法則性もなく、絶えず組み合わせを変えて変質していくそれらの存在に、人は意味を感じることができない。もし理解したいのなら、現行の思考を根幹からすげ替えてヒトの形を捨てる必要があるだろう。
もちろん白野はこの空間の意味をほぼほぼ理解していない。ただ、こうすれば良いという最適な行動が頭に浮かびそれを行動に移した結果、ここを経由する羽目になっただけである。
そんな奇妙な空間を往く彼女の目的――
――それはクリスだった。
彼女から ”脳内チップに来て” という旨の連絡があったのは昼過ぎのことだった。座標が知れれば転移するだけでよい話なのだが、どうやら彼女はイヴの管轄する仮想の範囲外、または警備レベルの高い場所にいるようで単純な転移だと
そして、辿り着く。
狭間特有の曖昧な界ではなく、現実の
――小さな構造体だ。人の気配は感じられない。
目の前には分厚いシャッターが一つ。コードキャストで構造体の形を確認すると三つのシャッターを備えた長方体と円形のホールを組み合わせてできる”古風なカギ穴”のような形をしているのが分かった。
どうしたものかと、白野がシャッター前をうろついていると、轟音とともにそれが開いていく。
――招かれているのか。
白野はゲヘナを呼び出し、掌の上に乗る。クリスが何を考えているかは分からない。だが、脳内チップの内部に人を招くのはとても危険な行為だ。チップの内部にあるコアを破壊されれば人は脳死に陥る。そんな彼女の急所に私が呼び出された理由とは一体なんだろう……。
構造体の終点。
ゲヘナの掌から降りた私はホールの中央へと近づく。そこには高さ10mはあるだろう三角柱の水晶が鎮座していた。無防備に晒されたこれが、クリスの
……。
見上げれば仮想特有の
……なんだろう。
少し嫌な気配がしたのだけれど。
「へんたい」
耳元で突然声を掛けられた私は、情けない悲鳴をあげてばっと飛び退く。そこにははたしてクリスがいた。眼帯に覆われていないほうの瞳を彼女はじとーっと細める。
「あまりじろじろと人の心を見ないでくれる?」
出鼻でまさかの変態認定。私は愕然とした。呼んだのはクリスだというのにそれはあんまりだと思う。私は三角柱に興奮する特異な性癖など持ち合わせてなどいない。これでは悪質な風評被害である、速やかな謝罪と撤回を要求する!
「はいはい、悪かったわね。早速だけど――」
私の悪ふざけには取り合わずにさっさと本題に入るクリス。
彼女は頭上の接続点を指差した。
「この声があなたには聞こえる?」
言っている意味が良く分からなかった。
クリスの声は聞こえるけれど、彼女が伝えたいのはそういった意味ではないはずだ。指差す方向からから察するに、接続点から聞こえるであろう声……? しばらく耳を澄ませてみたけれど、私の鼓膜は何の音も拾わない。
それを察したのかクリスは残念そうな顔をした。
「あなたならもしかして、と思ったんだけどね」
なんだか申し訳ない気分になってくる。
「ついでだから気にしないで。本題はこっち」
彼女は私をホール中央にある水晶体へと誘導する。意図がさっぱり分からなくて少し不安だが、それを努めて表情に出さないように私は彼女に付いていった。
「手をかざして」
数瞬、躊躇うが、好奇心には抗えない。私はゆっくりと、右手を白光放つ水晶体へと近付けていく。
1m。
……50cm。
……30cm。
触れる直前に冷たい感触があった。
虚を衝かれる。
視線を下げれば、
水晶から
ぬるりと生えた白い腕が、
握っていた。
私の手をぎゅっと。
――あ。
背中に氷を入れられたような感覚。
抵抗する間もなく、引きずりこまれる。
最後にクリスの声が、
「――おいで」
内と外から二重に聞こえた。
◇◇◇
一瞬の浮遊感。
間を置かずに着地。
恐る恐る開けた瞼の向こうには漂白された世界。
曖昧な光が差し込む、終点の見えない回廊。
その両側面には前時代に役目を終えたネガフィルムが一面にばらまかれていた。
おかしな場所だ。
……私の認識が正しければここはクリスのコアの内部だろう。理屈は分からないが、水晶体から伸びた手に掴まれた私はそのまま中へと転移してしまったらしい。
振り返っても同じ景色。出口らしきものはどこにも見当たらない。
どうしたものか。唯一意味がありそうなものはネガフィルム。うーむ……気になる。ともかくまずは行動だ。手近なフィルムに私がそっと指を触れると、同時にネガが色付き途切れ気味の映像がゆっくりと再生され始めた。
◇
暗い教室で板書を見つめる幼児達。その中に幼いクリスはいた。ネガに紐付けられた情報が、抑揚のない彼女の声で読み上げられていく。
『私は■■■■・クリス。デザイナーズ・チャイルド。中欧のスラブ、マージャル系の遺伝子を組み合わせて設計・調整されたそうだけど詳しい事は知らないし、正直興味は無い。祖父はグレゴリー神父。私はドミニオン教団の未来のために日々厳しい教育を受けていた』
情景が変わる。幼いクリスが無表情で二振りのナイフを握っている。
『同じような境遇の子は何人もいた。私は彼らと切磋琢磨し様々な事を学んだ。それは座学だけには止まらず、近接格闘、
情景が変わる。直径数100mはありそうな巨大な円柱、黒光りしてそびえ立つ圧倒的無機質。
『これはバルドルマシン、人類の叡智の結晶――無限のライブラリと出力デバイスを兼ね備えた人工無脳。御祖父さまの言いつけどおりにそれと接続した私は、あっという間に昏睡状態に陥った』
再度、情景が変わる。薄暗い倉庫に押し込められた子供達。そこに銃を持った軍人が押し入る。現実味のない光景を、幼いクリスがぼうっと見つめていた。
『敵を作りすぎたドミニオンは崩壊した。自滅と言い換えても間違いではないだろう。GOATやフェンリルを相手に教団が生き残れる目は皆無だった……。祖父を亡くし、居場所を失った私は孤児としてアークの養護施設に預けられることになった』
無感情な声が途切れ、ネガが徐々に色を失っていく。
このネガでの再生はここまでのようだった。
今の映像はクリスの幼少時代の記憶……? 全てが事実なのだとしたら色々とびっくりだ。けれど言うほど私が驚いていないのは、先日の戦闘で彼女がドミニオンの兵士へ向けた憎悪の表情からある程度、因縁の存在を感じていたからだろう。
幼い頃に洗脳を施された彼女の気持ちを推し量ることなんて私にはとてもできない。ただ――彼女がドミニオンを悪と断じた理由が今なら少しだけ分かる気がした。
白野は歩みを進めて次のフィルムへと向かう。だが、すぐ目の前に出現したクリスがその道を塞いだ。
「――そこまでよ」
制止する彼女の冷たい声が回廊に響く。
立ち止まった白野は目の前のクリスをしばらく無言でじいっと見つめた。彼女の姿は水晶体の前で会話した時と少しも変わらない。
けれど――あの記憶の中の幼女に比べると随分と大きくなっていた。
白野はゆっくりとクリスに近付き、そして抱きしめた。
突然の奇行にクリスは目を白黒させる。
「は? ……ねぇ、……えぇ? なに!」
あれ、なんだろう。気が付いたら体が動いていた。彼女の境遇に心が動かされた? 多分、違う。けれど、この行為はごく自然なものだと私は感じていた。
「不自然よ!」
クリスがたまらず叫ぶ。
――だよね。
私は苦笑いを浮かべる。
彼女は私の両肩をつかんで離すと、溜め息をついて調子が狂うとぼやいた。
「あなたをここに引っ張り込んだのは私よ、それについてなにかないわけ?」
そりゃびっくりしたよ、あの腕が冷たくてもう。
「違う!」
クリスは私を一喝した。……少し怖い。
実害があったわけでもないし、出ようと思えばすぐに出れる自信もあるからから気にする必要もないと思う。けれど、彼女は聞いてほしいみたいだ。ならば、問うしかない。
――どうしてあなたのコアに私が招かれたの? 良いものを見せると言われたけど、それはさっきのクリスの記憶ではないよね?
「ええ、あれを見られたのは事故よ、むしろ見せたくなかった」
彼女は軽く応じながら、両の手を私の方に差し出した。
「握って」
私は頷いて、そっと手を重ねた。小さな手、伝わる仄かな熱。
未知はすぐに訪れた。二人の掌の触れ合った部分が何の抵抗もなく融け合う。それはまるで自分の境界を失っていく感覚、けれど境界をなくした先にあるのは暖かくて気持ちのいい場所――。次第に二人の手の形は原型すら消え、手首まで一つになっていった。
あわあわしている白野とは対照的に、落ち着いた様子のクリスは薄い唇をそっと開いて、単純化されたフレーズを何かに捧げるように諳んじる。
「調律、同調――……
言の葉が空気へと溶けゆく。
加速度的に身体が一つになっていくことに何の意味があるのか。
「基底感覚をあなたと同期する」
クリスの宣告と同時に、二人の姿は回廊から一瞬で消え失せていた。
◆◆◆
真っ! 暗! 闇!
世界が急に停電したかのような視界の変化に少し慌てたが種を知ればなんてことはなかった。身体の感覚からして、私はただ眼を閉じてどこかに座っているだけのようだ。ふう、安心した。
瞼がひとりでに開いていく。
射し込む白い光、俯き気味な瞳に映る白い手。
瞬きを何回か繰り返した後に、私は立ち上がり、ぐっと伸びをした。
不思議だ。
――どうして。
どうして身体が勝手に動いているのだろう。
身体が私の言うことを聞いてくれないのは何故なのか。
まるで幽霊に取り憑かれたような気分だ。
私が戸惑っている間にも身体は見覚えのない廊下の真ん中を進んでいく。動け、と念じても瞬き一つ思い通りにならない身体にちょっぴり泣いてしまいたくなる。
もし本当に幽霊に取り憑かれているとしたらならどうすればいいのだろう。まずはコミュニケーションか……?
混乱している影響か、頭の悪い考えがぽっと浮かんだ私は身体に話しかけるイメージで声を掛けた。
(幽霊さん、私の声が聞こえますか)
「……聞こえているわ」
私の口が勝手に動く。声帯を使われるような感覚にくすぐったくなった。
しかしなんてことだ、本当に幽霊がいるなんて聞いてない。助けてクリス!
むむ、そういえばクリスはどこへ? 今の状態と何かしら関連があるだろうさっきの現象について彼女に聞かなければいけない。瞬きの間に目の前から消え失せた彼女の行方をこの幽霊は知っているのだろうか。
(幽霊さん……銀髪で綺麗な女性を見かけませんでしたか?)
「……、綺麗かどうかは知らないけど」
身体が立ち止まり、視線が鏡のように磨かれた白亜の壁に向けられる。
「――こんな人?」
そこにはクリスがいた。軍服の上にファーのついたコートを羽織り、そのポケットへ無造作に手を突っ込むクールな佇まい。
――ん? んん?
私と壁の中の彼女の視線がかち合う。クリスがにこりと笑い、同時に私の表情筋もそのように動いたのが感じ取れる。
そこでようやく私は自分の認識に誤りがあることに気付いた。
つまり全てが逆で、私こそがクリスの身体に取り憑いている悪霊だったのだ!
……えっと、どうしてだろう?
なんでこんなことに!
回廊の突き当たりにあるドアの前で立ち止まる。監視カメラに視線が向けられ網膜スキャンをパスすると、電子錠が解除される音がした。破裂音と共にドアが勢いよく開く。
瞬間――冷たい風がびゅうっと強く吹きこんできた。
砂塵を防ぐように掌が目を覆う。
その刹那に、クリスが静かに私に告げた。
「感じてハクノ――
浮かんでいた疑問は、刺すような寒さに遮られた。冷え切って乾燥した空気に吐息が白く染まる。遮られた視界が一気に回復し、瞳に映ったのは曇天の空――次に、眼下に広がる広大な街の姿だった。大小様々なビルディングが無秩序に地平線の彼方まで林立している――その圧倒的な光景に私は興奮を覚えた。
これが――現実。
クリスが捕捉する。
「これがこの
絶景だ。
数百万の人が住む大都市、その全景の半分を私は今見下ろしている。
全てを見下ろせるこの建造物に私は心当たりがあった。清城市を一望できる超高層建築、高さ1000mからなる
(ミッドスパイア)
クリスは感心したように頷いた。
「博識ね。ここは上層の展望台よ」
彼女は強風で乱れる髪を撫でつけながら応えた。
一定の収入、社会的立場を持っている人物しか居住権を得られないミッドスパイア。その在り方に思うところはあるが、この光景は良いものだ。夜に訪れれば見事な夜景を眺める事も出来るのだろう。
薄い陽光に照らされる街並みを、私はクリスの目を通してしばらく見つめていた。
「楽しんでもらえたみたいね」
(分かるの?)
頷きを返したクリスは、絶壁の手すりに身を預けて空を見上げた。
「私たちは今、感覚を共有しているわ。脳内チップの機械的な繋がりより、深く内生的な繋がりがある」
視覚や聴覚などの限定共有ではなく、自らが肉体の主人と錯覚するほどの深い接続。
「表層的な五感だけでなくクオリアの一部すらさらけ出す
それはなんていうか素敵だけど――どこか怖い。けれど、そんな技術がこの時代にあるなんて知らなかった。
戸惑いが伝わったのかクリスが微笑して、片手を広げる。
「これは電脳症に侵された私だけの特質だから誰にでもできるわけじゃない。それに、私にも詳細は分からない。出来るものは出来るとしか言えないの」
……私が取り出せる歪な赤い剣と似ていると思った。理論が分からずとも、触れれば問答無用で管理者権限を書き換える炎を出す不可思議な剣。
彼女は電脳症に由来する性質を利用して、私との感覚共有を行ったという。けれど、私には彼女がそうするだけの理由が分からなかった。
(どうして?)
尋ねるとクリスは曖昧な表情を浮かべて、変哲もない雲に視線を移した。焦点をどこにも合わせずにしばらく思いを巡らし、ポツリと言葉を漏らす。
「――思考の起こりはどこにあると思う?」
突然の問いかけに私はシンプルに応えた。
(……脳)
「そうね。じゃあ自分の意識は?」
(同じ、かな)
クリスはさらに質問を重ねた。
「なら――思考の起こりは自意識にあるといえる?」
(……多分、違うと思う)
思考の根本は知識、経験、本性などが入り混じったもの――無意識に等しい。そこから表出したものが意味ある形に変換され意識へと浮かび上がる……。
「その淵源に異物が混じれば自意識はどうなるのでしょうね。自我が変質するならそれは異常と認識されうるのかしら」
(……異物?)
私は深く考えようとするが、クリスは首を振ってそれを遮った。
「脱線したわね……。ねえ、自我を形成するのはなんだと思う?」
(――記憶だよ)
私はそれを探し求めている。
失くした記憶が私には未だ多い――気がする。
この世界の人々の多くは現実で生きているというのに、現実とのリンクもなく仮想でしか生きていられない私は本当に生きているといえるのだろうか?
自分の存在の曖昧さが私の目下の悩みだ。記憶を取り戻せば何かが変わると私は信じている。
「そうね、自我は”考える私”の連続体に等しい。けれど、その解答はあまりにも過去に寄っているわ。もっと
どういう意味だろう。
クリスは空に手を伸ばした。
「今のあなたは何を感じている?」
彼女は問いを投げかけた。
彼女の感覚を通して現在を感じている私は――
(身体が冷えて、凍えそう)
身も蓋もない言葉にクリスは少し吹き出した。
「そう、それがあなたよ。外界の刺激に対する反応で成長し続けていくのが自我。自我を形作るのは過去だけど、その本質は記憶にはない。それは記憶が経年変化の性質とは切り離せない、とても曖昧なものだからよ」
段々と分かってきた気がする。
(クリス――私の記憶喪失、知ってたの?)
「……顔を見ればなんとなく分かるわ。過去に引きずられてそうだなって。――私も同じようなものだから」
(クリスも?)
「私の場合は声だけどね」
声……接続点直下でのことか。あれはなんだったのだろう、いつか彼女から教えてくれるといいな。
「結局のところ――あなたはこの時代を生きている、それを教えてあげたかった」
薄々分かっていた。彼女は私を心配してくれているんだ。
現在時刻を生きている実感が薄かった私に、本当の現実の感覚を教えてくれた。同じ感覚を得ているはずなのに、思うことが異なる不思議が心地いい。
(優しいね)
私は心からの言葉を伝えた。
「違うわ、忠告よ。そんな風に腑抜けた顔をしていたらもれなく命を散らすから」
(やっぱり優しいよ)
暖簾に腕押しの私の態度に唸り始めたクリスは無言で手の甲をぎりりとつねった。
待ってそんなことをしたら――
(痛い!)
激痛が走る。
馬鹿な――痛覚共有をしているからクリスにも痛みがいくはずなのに!
「ええ、私も痛いわ……けどね。不思議なの、あなたの苦悶を聞いてると、この痛みも悪くない気がしてくるのよ」
クリスは笑っていた。
傍から見れば自傷しながら笑みを浮かべる危ない人だが、他に人がいないことが幸いしたようだ。
(やっぱ意地悪だ!)
「バカね。――ほんと、今さらよ」
彼女は古いアルバムを見るような眼で静かに微笑んだ。
MATRIAL
>>深緑の位相空間
AI内部の量子通信を処理する空間。常人が接続すれば情報量の多さで脳が焼き切れるが、白野は肉体を持たないため問題が生じなかった。だが、理由はそれだけでは無さそうだ……。
>>接続点の声
クリスにだけ聞こえるという声。詳細は不明だが、白野もなにかしらの気配は感じた。
>>ミッドスパイア
清城市環境建築都市。内部は複層構造の階層都市であり、環境・物資・治安・人工陽光の存在といった要素が揃い踏みの理想的な近代都市。管理を行っているのはバルドル・システム。
AIネットワークから隔離されており、アクセスするには改造した端末が必要。
>>クリスの電脳症
生来的な電脳症ではあるが、ある時を境に悪化した。
仮想空間で対面した相手の無意識の声が不定期に聞こえてしまうのが彼女の主な症状。大抵の場合は意味のない言葉の叫びを不定期に受信するため彼女にとって大きな苦痛だった。
現在はコントロールが出来ているため、声を聞かないこともできる。これは相手との心の境界を操作する事が可能になったことを示している。捕虜数名で試し、操作の加減を覚えた。捕虜は全員脳死した。