名無しのマスター 1
夢を見ていた。
遠く遥か昔の話だ。俺はただ一心に走っていた。前だけを見て、己が目指す道をひたすらに。
後方を気にする必要は無かった。俺の後ろにはたくさんの仲間がいたから。彼らは皆、俺の友だ。俺の信念に同調したやつ、感動したやつ、尊敬してくれるやつ。まぁいろいろなやつがいたが、彼らは皆、揃って俺のことを信じてくれていた。
俺が最高の指示者だと、信じて疑わず、俺と共に歩み続けてくれたのだ。
それなのに、俺はどこかでしくじった。してはならないミスを犯した。
ゆっくりと全てを失った俺は、己に問うた。
___俺は、一体何になりたかったのか。
その日の俺は、もう独りだった。
仲間はいない。
己一人。
こんな世界で、俺は生きていかなければならないのか。そう思うと、少しだけ苦痛で、あの日の選択を後悔する羽目になった。俺は一体何を目指して走っていたのだろうか。そんなものは、もう覚えてはいなかった。全て忘れたのだ。
_______
意識が覚醒すると、瞼を上げるよりも先に、鈍い頭痛がした。
身体が重い。あちこちで打ち付けたような痛みが走っている。
それでもなんとか瞼を上げ、入り込んできた眩しい白い光に思わず顔をしかめた。
しかしそれにもすぐに慣れ、視界が明瞭になっていく。随分久しぶりに太陽を見た気がした。
萌ゆる緑色の葉が揺れている。
寝転んだまま、首を振って周囲の状況を確認。
どちらを向いても、木と草しかない。地べたに転がっているが、それも少しは気持ちよかった。
「んんっ、何だ、森か......?」
声が枯れている。喉に痰が絡んでいるようだ。
痛む身体をゆっくり持ち上げ、何度か咳き込んで痰を吐き出す。
肩を回したり首を鳴らしたりと、身体の感覚を取り戻す。
案外、思っていたよりも怪我をしている所はないようだ。
立ち上がってジャンプしてみる。
身体のあちこちがギシギシしている気がするが、多分大丈夫だ。
「ふぅ。で、ここは何処なんだ......?」
割と深い森のようで、どちらを向いても出口は見えない。太陽は丁度真上に上がっている。ということは、正午くらいか。
あたり一面、緑一色の森。
余りにもヒントが少なすぎて、場所の当たりのつけようがない。
大体、自分はどうしてこんな所にいるんだ。森の中で昼寝とか、いくら何でも趣味が悪いだろうに......。
こんな所に来るような用に心当たりはない。
それに、自分の家の近くに森なんて......。
あっただろうか。
いや、あったか?
ない?
「あれ......?」
森どうこうよりも、重大な問題に気が付いてしまう。
そうだ。
「俺は......どこに住んでたっけ......いや、それどころじゃない! 俺は、俺は、......誰だ?」
名前が、年齢が、住所が、思い出せない。
何も、思い出せない。
記憶が全て消えていた。
『俺』は茫然と立ち尽くすしかない。
最初から、あまりにも詰んでいるではないか。
ここからどうしろって言うんだ。助けて、と叫んでも誰も来ないだろう。そう思える程にここは森の深いところだ。
仕方なく空を見上げると、太陽は鬱陶しいくらいに眩しい。こんなに眩しかっただろうか。それも、覚えていなかった。本当に何も覚えていない。どうしようか。このままでは間違いなくバッドエンドルート直行である。
眩しさに耐えられず、白い太陽に右手をかざす。そこで『俺』は一つ大きな発見をした。
「......ん? なんだ、これ?」
右手の甲に、何か文様のような、赤い印が刻まれている。
タトゥーだろうか。手の甲にタトゥーとは中々いい趣味をしているではないか。
いや、違う。これは。
「これは......令呪?」
自分の口から出たその言葉に驚いた。
令呪。
そうだ。覚えているじゃないか。
ぐるぐると、頭の中で僅かな知識が回り始める。
「聖杯戦争」
聖杯を巡り、魔術師たちが命を削り合う戦争。一人の勝利者のみが聖杯を手に入れることができる。
「聖杯」
それを手にしたものは、己の願いを成就させることができる万能の器。
「令呪」
それは聖杯戦争におけるマスターの証。一人に三画与えられ、その一角を消費することでサーヴァントに強制命令をかけられる。サーヴァントを使役する権利そのもの。
「サーヴァント」
聖杯戦争でマスターが使役する最高クラスの使い魔。英霊とよばれ、伝説上、神話上の英雄たちがその器を連ねる。
「……」
それだけだった。どれだけ頭をひねくっても、それ以上の知識は出そうにない。
しかし、聖杯戦争の知識があると言うことは、『俺』は魔術師だったのだろうか。箒に乗って空を飛んだりしていたのか。
僅かな進歩だけれど、これで少しだけ状況が掴めてきた。
『俺』は現在進行形で聖杯戦争に参加しているのだ。どういう経緯であれ、魔術師の殺し合いに巻き込まれている。
「それはそれで絶望的じゃねぇか……っと、何だ!?」
『俺』の背後、そのずっと奥の方で何か爆発するような大きな音がした。それは何回も連続して轟き、『俺』の立っている地点まで地響きを鳴らす。
「冗談じゃねぇ……」
ザワザワと木々が揺れているのは、おそらく単なる衝撃だけではないだろう。そう感じるようなナニカがここら一帯には漂っている。異様な雰囲気。
『俺』はただ息を飲んで向こうの木々が荒れ狂うように揺れているのをただ見ている。
マスターか、サーヴァントか、もしくは両方がいるはずだ。
あそこに行けば、何らかの手掛かりは掴めるだろう。
しかし、サーヴァント無しに敵地に突っ込んでいくほど『俺』は愚かではなかった。
禍々しい光景から目を背け、その真反対へ一目散に駆け出した。
「……逃げるのが1番正解に決まってるだろ!」
そうだ。大体自分のサーヴァントはどこにいる?
記憶を失う前の自分はサーヴァント無しに聖杯戦争に参加するほど馬鹿だったのか?
そんなはずは無い。それはただの自殺行為だ。
「……ない、よな?」
いかせん自信がない。
サーヴァントが既にやられている可能性もあるのだ。
けれど、それにしては、令呪を一画も使っていないというのはおかしな話だ。
「ここまで来れば……取り敢えずは大丈夫だろ……」
とにかく疲れた。
軋む身体を悼みながらゆっくりと地に尻をつけ、座り込む。
一度状況を整理して、今後の方針をきちんと立てる必要がある。
ここはどこか、だとか、自分は一体誰だ、などということはこの際全て後回しだ。
その前に『俺』は死ぬ。
自分が何者かなんて、その内思い出すだろう。
今はそう思うことにした。
重大なのは、ここが、聖杯戦争だということ。それだけ己に言い聞かせれば十分だ。死にたくない。今はそれだけでいい。
「って言っても、何もかも絶望的なんだけどな……」
まずはやはりサーヴァントだ。彼らは聖杯戦争を生き残るには必須の存在。このまま単身無防備で何処かに潜み続けるのはいいが、絶対にサーヴァントに見つかる。優秀なマスターでもいい。
だからこの選択は正解じゃない。
どうにかして、サーヴァントを見つけられたのならそれで良い。考えるべきは、残念ながらサーヴァントが見つからなかったパターンだ。
聖杯戦争はマスター七人にサーヴァント七人で行われると記憶している。
なら自分を除いた六人のマスターの誰かに同盟を持ち込むのはどうだろう。
「いや、それは正解じゃないな……」
まず、『俺』に協力したところで何の利益も生まれない。ていうか殺される。聖杯戦争に参加するようなマスターはそこまで善人ではない。記憶がそう言った。
ならどうする?
このまま黙って死ぬのか?
自分が何者かも分からぬままに。無様に殺されろというのか?
瞼を閉じると、迫り来る未来がありありと見えた。
『俺』は何者かに追い立てられている。
その何者かは、死神を思わせる巨大な鎌を振り上げている。『俺』は対抗などできるはずもなく、無様に悲鳴を撒き散らして地を這い逃げ惑う。
死神の鎌を必死に避けたところで、目の前に誰かの足首が映った。
顔上げると、卑屈に口を歪めた魔女の姿があった。
『俺』は蹴飛ばされ、魔女は『俺』に右腕をかざす。
それだけで、俺の首は容易に弾けとんだ___
「ああッ……!!」
失敗した。
余計な想像だった。
しかし、これが1番近い未来なのだ。やはり、着実にバッドエンドルートに入ろうとしている。
「何とか、しねぇと……」
ルート変更が出来なくなるのはそう遠くない。だから早く打開策を見つけないと。しかし、その時だった。
がさ、と森の奥で音がした。
「おいマジかよ」
考えるより先に跳ねるように立ち上がる。
もう、バレたのか。
森のすぐ側にサーヴァントかマスターか。自分の命を狙う死神がいる。足音が聞こえる!
逃げなければ。
早く、一刻も早くここを去らないと。
けれど、震え上がって動けない。
動け、逃げろ、死ぬぞ!
心の中でそう叫ぶも、それでも金縛りにあったように、機能停止してしまっている。
さっきはあれやこれやと強がって賢そうに思考していたが、あんなものは実体のない虚勢だ。
自分が聖杯戦争に参加していると知った時点で。
それがどういう意味か理解してしまった時に既に、心はボロボロになっていた。
やがて、すぐ側の木が揺れる。
死が現れた。