リボン・オブ・ザ・デプス   作:アザトリデ

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第10章 7

 第10章 牢獄都市 潮打ち 7

 「おぼぼっ」

 敵は既に不死人を発見していたようであった。口元から泡を溢れさせ、こちらの準備が整うより先に鎌を振り下ろし、黒い塊を放つ。

 長く尾を引きながら黒い塊は不死人へ迫りつつあり、だがそれを避けること自体はさして困難ではない。決め兼ねているのはこれを躱した後のことで、現時点で既に黒い塊を放たれているため詠唱を行う暇が無く、前回の戦いで切り札にした、一時的な平和を接近してから浴びせる、という流れを作り出すことが出来ない。

 しかしそうして逡巡している間にも時は流れており、黒い塊が至近となったため、不死人は地面を転がりこれを回避、そして前転から立ち上がりながら聖職者のウォーハンマーを握り締め、一時的な平和の詠唱を行おうかという矢先、牢獄都市の看守が先に詠唱を始め、口元が泡立つと黒い塊が発射される。

 今の半端な距離のままで居た場合、牢獄都市の看守の詠唱は不死人の行使可能な術の詠唱にいずれも速度が勝っているため、魔法合戦とはならず、ただ一方的に攻撃されることになるだろう。そして飛んでくる黒い塊を必ず避けられるとは限らず、ごく些細なミスが窮地に繋がり易い状況でもある。

 引くべきか出るべきか。どちらにせよ今の位置から移動しなければならず、よって不死人はやや強引ではあるものの踏み込むことに決め、黒い塊を前転で回避した直後に駆け出し、牢獄都市の看守へ向かって行く。

 敵が不死人の手の届く範囲に入り、いざ攻撃を仕掛けようとウォーハンマーを大きく振り上げ、だがその姿勢を取った直後に大股一歩分の距離を後ろに飛ぶと、機を同じくして牢獄都市の看守は鎌を持った方の手首を軽く捻り、身体の中心から黒い球体の膜を出現させた。

 球体は触れた者に重力による拘束効果を発揮するが、今回は被害者が居なかった。敵のカウンターを見切ることに成功した不死人は、球体が完全に消失したのを見届けてから左足を軸に右足から踏み込み、体重を乗せた聖職者のウォーハンマーの一振りを看守の頭部目掛けて放った。

 「ぼっ!」

 固めた呼気を吐き出す音は、泡が噴き出す様子も相まっておぞましく、しかし翻る鎌の舞いはまるで人の剣術のように洗練されていた。煌きの鋭さとは裏腹にフジツボだらけの鈍い刃がウォーハンマーの一撃より何倍も早く不死人に迫り、胸元を浅く切り裂いて攻撃の姿勢を潰す。

 単純な攻撃速度で負けてしまっていた。血が胸から数滴落ち、軽くたたらを踏んだ不死人は後ろに下がろうとするが、再び迫る牢獄都市の看守の武器がそれを許さなかった。

 あたかも複雑な文字を一瞬で書くが如く、牢獄都市の看守は鎌で不死人の胸元を素早く何度も斬り付ける。描かれたそれぞれの裂傷は浅いものの、攻撃の回数が多いために溢れた血は多く、何とか後ろに下がって距離を取る頃には、瀕死に近い状態に陥っていた。

 回復して仕切り直さなければ後が無い状態で戦うことになるため、この情勢では更なる後退が必定だが、その考えは急にこちらに向かって駆け出しながら鎌を振り上げる看守を前にしては改めざるを得なかった。下がったところで危うい。

 まだ新鮮な胸元の傷口を狙って牢獄都市の看守は鎌を振るい、その動作に呼吸を合わせて不死人は塔のカイトシールドを打ち当てる。腕に走った衝撃が身体にまで伝わり、一瞬全身が硬直するが、敵はこちら以上に武器を弾き返された反動で姿勢を崩していた。

 聖職者のウォーハンマーが看守の腹を打ち抜く。これによって敵が身体を折り曲げると、不死人は下がってきた相手の頭部を左手で掴み、振り下ろしたウォーハンマーで頭を殴って地面に押し倒した上、馬乗りになりながら両手で構え直した武器を、牢獄都市の看守の顔面に叩き付けた。

 膿のような液体が大きな目玉から飛び散り、牢獄都市の看守は最後に痙攣したきり動かなくなる。

 この敵は魔法に優れるばかりか、剣術の使い手としても長けており、一度はそれにしてやられたが、二度目は見切ることが出来たようだ。エスト瓶で身体の傷を癒しながら戦いで帯びた熱を冷ましていく。

 念のため他に敵が居ないか周囲を見回し、すると敵ではないがその場から見える牢の一つで亡者が鉄の棒に張り付き、こちらに笑みを向けながらじっと見詰めていた。狂っている、そう直感する。この地では無理からぬことだ。

 「ああ、この世で一番暗い場所はどこだか、知っているかい? 夜の森? それは朝を待てばいいだろう。洞窟の中? 火を持ち込めばなんとかなるさ。正解は海の底だよ。昼夜を通し、火を灯せず、海の底は永遠に暗いのさ」

 暗喩と思しき亡者の言葉は具体的な意味を伴ってはいないのだろう。しかし偶然かもしれないが彼の言葉はこの地に蔓延る影を想起させるものであり、不死人はそれを迂遠な忠告の一つと捉え、返事はせずにその場を後にする。

 地下二階に降りたばかりのこの場所は通路を前進しようとその逆を行こうと、両端に柵が設置されているため探索出来る場所が限られていた。またこれまでのように下に降りるための階段も無いが、代わりにずっと上へ高く続く梯子が一つ、不死人のすぐ近くに架けられていた。

 梯子に近付き、上を眺める。それは現在地である地下二階から始まり、地下一階を跨ぎ、その上の一階すら通り越して上へ向かって伸びているらしい。他に行く道も無く、不死人はこの梯子に手足を乗せ、上へと登っていく。

 一人分の体重が掛かった程度では金属製の梯子が揺れることはなかったが、海草とフジツボはここにも版図を広げているため、決して安全に使用出来るものではない。従って登るには時間を掛ける必要があり、だが幸いにして無防備な最中に敵がどこかから出現することもなく長い梯子は終わる。

 牢獄都市入り口と同じ階層よりも少し上となるこの場には、壁の横から生えているかのような木の板が数十枚と組み合わさることによって道が造られ、それは左右へ激しく曲がりくねりながらもどこかへ続いるようであった。

 はじめに梯子から木の板の道へ移り、そこへ足を乗せて感触を確かめる。多湿な環境のせいか、木の板もそれを支える壁から伸びた鉄の支柱なども不死人の体重が乗ったとして埃が落ちることはなく、あまり音も鳴らないようだ。

 思いがけず隠密に行動出来るのは僥倖であり、不死人は木の板で出来た道を進むべくそこから一歩を踏み出そうとすると、そのとき道の先の暗闇で耳に覚えのある音が微かに響く。鉄の鎖が絡み合い、或いは引き摺られるその物音は、つまりそこに牢獄都市の看守が居る証であった。

 この木の板で出来た道は狭い。こちらに向かって飛んでくる黒い塊を避けるにしても、接近した際に瞬時に展開される黒い球体の膜を躱すにしても、また鎌の連撃に対処するにせよ、いずれに置いても不利であった。だが戻ろうにも引き返すには梯子を使わなければならず、今からこれを降りようものなら無防備なところを黒い塊で撃たれ、遠く下の地面に向かって落下してしまうだろう。

 「んぼぼぼぼっ」

 不死人を発見した牢獄都市の看守は溺れる者のような声を発し、早速詠唱を始めたようだ。執拗に遠距離魔法を放つのがこの敵の特徴とは言え、こちらの準備が全く整っていない状態でもそうするのは流石に容赦が無い。

 黒い塊が生まれ、こちらに向かって伸びていた。これを不死人は前後には移動せずその場で待ってからタイミングを合わせ、木の板の上で前転してやり過ごすと、すぐさま詠唱するために武器で構えてはみるが、牢獄都市の看守は既に次の詠唱を開始していた。この状態で詠唱の速度を競っては大差をつけて敗北し、次に迫る黒い塊は詠唱中の身に直撃することとなるだろう。

 構えを解き、回避のための姿勢を取りつつ敵に勝つための算段を立て始める。

 最たる問題は詠唱を行い、得物に付与を行う時間が無いことである。牢獄都市の看守は接近された際の迎撃にも優れているため、何らかの備えを携えてから挑まなければならないが、間断なく迫る黒い塊がそれを許さないだろう。確かに、向こうは乱発しているだけで勝てる見込みが高い。

 最初に出会った看守のように、油断してこちらを嘲りでもすれば、その隙に詠唱の時間を確保出来そうなものだが、この相手はそういった素振りを見せない。

 時間を作りだせるか否か、この一点で勝敗は決する。飛来する黒い塊を躱しながら、より焦点を絞って思考を深めていく。


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