1年の終を告げる除夜の鐘の音が、遠くの空から風に乗り、微かに響いている。
テレビでは、紅白歌合戦で、今年が最後の出演と言われている超大物歌手が華々しくトリを飾る姿を映し出し、大団円を迎えたところだ。
そんな中私はと言うと、黙々と初詣に向けた準備を進めていた。
――懐中電灯、よし。カイロは今ポッケに入れた。運動に適した靴はちゃんと持ってきてるし、適度な防寒具もある。
先日怪我した右足のテーピングはガチガチに固めてあるし、デールの厚いタイツを履いてきたから、咲にはきっとバレていない。
さっさと準備を済ませてしまった咲が、急かすようにこちらをじっと見つめているが、そんなに急かさなくてもいいじゃないかとほんのちょっと思ってしまう。
――あぁ、もしもの時の救急セットも必要やな……。
どこに何があるのかとっくにわかるようになってしまった彼女の家。救急箱はたしかキッチンの上の棚だったはず。
――あかん、ギリギリ届かんなぁ。いや、ジャンプすればいけるかな?
棚は、身長の低い私には高く、つま先立ちして手を伸ばしても届かない。
無理につま先立ちしているせいで右足が悲鳴を上げているが、咲にバレるわけにはいかない。
ならばと覚悟を決め、左足だけに体重をかけ、ジャンプしようとすると、その前に咲がサッと救急箱を取ってしまう。8cmの身長差は、無いようで大きい。
「届かないのに、無茶しないでください」
そう言った咲の顔はさっきよりも不機嫌で、一瞬バレたんじゃないかと焦ったが、深く追求してこないので、そういうわけじゃなさそうだ。
「ええやん、ジャンプすれば届くし。……なんや、こういう時に限って身長自慢か?」
一応、誤魔化すためにそんな軽口を叩く。まあ、うらやましいのも少しあるけど……。
「……怪我したらどうするんですか」
「するわけないやろ、咲じゃあるまいし」
「……そうですか」
「ほら、準備できたし、行こか」
心配してくれている咲には悪いが、悟られるわけにはいかないから、私はいつだって平穏を装う。
大晦日だというのに、実家に帰らず、私の家にいる恭子さんを見ると、恭子さんのご両親に申し訳なさが湧いてくる。
恭子さんは「すぐ会えるから大丈夫」なんて言ってた。けど、一人暮らしを始めた娘が、年末年始帰ってこないって、悲しいだろうなって子供がいない私でも思う。今度会った時に謝らなきゃ。
恭子さんが、私を第一に考えてくれているのはずっとわかっている。
――でも、私も恭子さんのことを一番に考えてること、恭子さんはわかってますか?
知ってますよ?バイトの入れすぎで、授業中よく寝てること。単位落としたらどうするんですか。クリスマスの時、帰りの新幹線乗り過ごしたらしいですね。真瀬さんが新神戸まで迎えに行かされたって嘆いてました。ちゃんと言ってください。お礼ができないじゃないですか。
恭子さんは、私に隠せていると思ってるんだろうなぁ。そんなわけないのに、なんでそう思ってるんだろう。
クリスマスの時に言っておけばよかったかな。
あの時は言えなかったこと、今日、言わなきゃ、だね。
「恭子さん、やっぱり行くのやめましょう」
「は?」
恭子さんが玄関で、靴を履き始めたタイミングを狙って、そう切り出す。ポカンとしてる顔、かわいい。いや、そうじゃなくて。
「右足、痛いんでしょう?」
ちゃんと私は知ってますよ?一昨日、部屋の掃除中に本が雪崩れてきたこと、右足が下敷きになったこと、そのあと痛すぎて歩けなかったこと、そして、今日来るのをお医者さんに止められたこと。
ストーカーみたいって思われてもいい。あながち間違いじゃないくらい、隠れて真瀬さんと連絡取ってるしね。
真瀬さん本人も私も、恭子さんが何かあったらとりあえず真瀬さんを頼るのを知っている。
真瀬さんにはちゃんと「咲には言わないで」と釘を刺してるらしいですね?でも、真瀬さん、聞いたらすぐ答えてくれますよ?さっき言ったようにたまに私のところに愚痴が飛んできますし。あ、でも、真瀬さんを怒らないであげてください。私が今までちゃんと伝えきれなかったのがいけないんだから。
普段はあまり好まない厚めのタイツを履いてるのも、寒いからじゃなくて包帯を隠すためなことも、いつものようにベッドでごろごろしてるように見せて、足に負担の無いように過ごしていたことも。
「みんなみんな知ってますから。強がるのは終りにしましょう?私ってそんなに頼りないですか?」
恭子さんの目を、その奥の心を、まっすぐと見つめて私の気持ちを思いっきりぶつける。届くだろうか?届いてほしいな。
一切合切、バレているなんて思ってなかった。いや、正しくは、バレていると思いたくなかった。
だって、もし失望されてしまったら、私はどうしたらいいのだろうか。
だって、そもそもが釣り合ってないんだから。
咲は、牌に愛された子と呼ばれる、麻雀界の未来を担う数少ない人間の1人だ。これから、沢山の経験をして心身ともに大きく成長して、私の手には届かないところに行ってしまう。けど、今は、今の間は咲は私の隣にいてくれる。だから、私がいくら無理したってしょうがないじゃないか。
「いつか手放さなくちゃいけないなら、せめて手放すまでは、少しでも一緒にいたい」
この私の思いは、咲に伝わるだろうか。何も持っていない私が、唯一持ったこの思い、届け。
「……恭子さんは、私がいなくなってもいいんですか?」
お互いの思いがぶつかり合った室内は、まるで冷凍庫のように底冷えしてしまった。どちらもが、声を発することも、息をする息づかいの音さえも許されない。
そんな中、先に沈黙を破る。
だって、これは絶対に聞かなきゃいけない。
「いや」
「え?」
返ってきた恭子さんの言葉は、耳を澄まさなければ聞こえないくらい小さくて、思わず聞き返してしまう。
「嫌に決まっとるやん!!絶対に手放したくない!!」
再度返ってきた答えは、私の胸にズシンと刺さる。そもそも、2か月前に、私の未来を持って行ったのは貴女でしょう?そのくせ、今更やめるなんて、許すわけないじゃないですか。
「じゃあ、手放さないで、ください。ずっと、恭子さんの横に、私を、置いといてくださいっ」
あれ、おかしいな。恭子さんが歪んで見える。それに、頬が冷たい。私、泣いてる?おかしいな、そんなつもりなかったのに。これじゃ、ずるい女みたい。
その瞬間、体全体が、温かい何かに包まれる。
「ごめんな。本当に、ごめん」
「ばかっ、ほんとに、ほんとに、ばかあぁぁ」
すれ違いの間に、とっくに年は越してしまって、新しい1年の始まりが、この号泣だと思うと、少し恥ずかしいけど、恭子さんに抱きしめられて始まった1年だと思うと、がんばれる気がする。
――今は貴女の胸の中で――
咲の涙を見て、自分の自信の無さとか、今までの考えとか、全部馬鹿馬鹿しくなって、私のことを思って、彼女が泣いている。その事実だけで、 私はここに、咲の隣にいていいんだと、思わせてくれる。
2か月前の誓いを、こんなに早く、しかもまだあの日の約束果たせて無いのに、破りそうになるとは……。
今年は、心を入れ替えて、咲の隣にふさわしい人に、ならなきゃな。
――抱きしめた温かさを己を縛る鎖にして――
「抱きしめられてるのに、目の前がよく見えます」
「やめてっ、身長の話で攻撃するのはやめてっ」
しばらく咲のご機嫌とらなあかんな、これ。