一応今回からR15タグ付けます。
冷えた体を温める為温泉に浸かる。
疲れが抜けるようにため息を吐き出すヒロとは別に、未だに塞ぎこんでいる様子のアインハルト。
結局あの後彼女がヒロに何か言うことはなかった。ただ彼女が浴びてたシャワーが水だったこともあり、温泉に入れたのだ。
妹が何故いきなりあのようなことを言ったのか生憎ヒロにも分からない。アインハルトの前で気になる仕草や素振りをした覚えはない上、仕事が仕事故にそのようなことは常に気をつけている。
だからこそ何があったのかが余計に分からないのだ。
「……夢を、見たんです」
ヒロが頭を悩ませているとふいに呟くようにアインハルトが語り出した。
そこは何処か密閉された空間だった。
暗く、黒い空間に一人の少年がいた。歳は自分と同じか少し下くらい。黒い髪と瞳を持つその姿をアインハルトは見たことがあった。アインハルトが生まれるより前の家族で撮った写真に写っているその少年は、子どもの頃のヒロだった。
実物を見たことはないが何度も写真で見ている上、多少姿が変わろうとも最愛の兄を間違えるわけがなかった。
夢の中とはいえ、既に見れなくなったその姿を拝めたことに喜んでいると少し様子がおかしいことに気付いた。
子どものヒロはまるでアインハルトに気付いていないらしく、辺りをきょろきょろと見渡し始めたのだ。
まあ、夢だからこんなこともあるだろうと思っていると、その刹那--突如ヒロの腕が切り裂かれ夥しい量の血が噴き出した。
「……え?」
いきなりのことに頭が追い着かないアインハルトを他所に痛みのあまり叫ぶヒロ。
そしてそれが呼び水となったのか、今度は肩、脚、腹、背中と次々と傷ができ辺りは瞬く間に血の海に変わった。
激痛で悶え苦しむヒロ。止まれと叫んでも止まらず、寧ろ勢いは増し赤い光景だけが目に映る。
「ッ!? 兄さん!」
あまりのことで面を食らっていたアインハルトだったが、兄の一大事に体はすぐに動いた。原因は分からないがどうにか止めようと抱きしめようと……した瞬間アインハルトの体はすり抜けてしまった。
――え?
疑問符が浮かぶ中何度試してみても結果は同じ、ヒロには触れることができない。そのクセ血だけがべっとりと肌と服に張り付く。まるで何も出来ないことをしらしめるかのようなそれにアインハルトは唇を強く噛み締める。
沸騰しそうな頭を一度冷ますべく思いっきり自分の顔を殴る。すると予想通り痛くはない。
夢であることを再認識したアインハルトは必死に自身にそう言い聞かせる。
例え、すぐ傍で助けを呼ぶ悲痛な兄の声が聞こえようとも、目を瞑り、ただ暗示のように何度も、何度も……。
そうして数分が過ぎた頃、不意に水辺に何かが倒れるような音がした。
それが何か、予想はついている。だから振り向くなと言い聞かせるが、体はそちらの方に向き直る。
――ッ……!
息を呑む。そこにはやはり血まみれになった兄の姿があった。赤一色に染まり、訴えるように視線はアインハルトを凝視したまま死んだように固まっている。
言い知れぬ罪悪感が胸を締め付ける。夢の中とはいえ大好きな兄をこんな姿に変えてしまった自分が許せない。
今にも舌を噛み切りそうなアインハルトの目の前で更に変化は起きた。まるで逆再生でもするかのように傷が塞がっていくヒロ。一分もしない内には完治したのか意識を戻し、体を起こす。
良かった。夢とはいえあんな悲惨な光景を、しかも最も敬愛する兄の姿で行われては堪ったものではない。細かいことはともかく、戻ったのならばそれでいい……。
そう思い安堵したのも束の間、再びヒロの体から血が噴出した。
完全に油断し、気を緩めていたアインハルトの再度起きたそれに、ついに耐えることが出来ず吐いてしまった。
夢の中である為、あくまで「吐いた」感覚のみだが、しかしそれはアインハルトの精神を蝕んでいった。
……それから、一体どれだけの時間が経ったのだろうか?
ヒロは何度も傷付き何度も元に戻り、そしてまた傷付き倒れた。自動再生のように繰り返される、その度に呪詛とも思える叫びを吐き、最後は決まってアインハルトを睨んで死んだように固まる。
いつしか悲痛な叫びは二つになっていた。
一つは悶え苦しむヒロのもの。もう一つはそんな兄の姿を見せないでくれと懇願しているアインハルトのものだ。
夢と分かっていても、最愛の者がこのような扱いを受けることに耐えられるほど彼女の心は強くない。ましてやこれが一度や二度ならまだしも、既に数えるのが億劫になるほどなのだから、寧ろ未だに心が折れていない方が驚きだ。
しかしそれも限界に近付いていた。
既に立つ気力もなく、膝を抱えて座り、顔を埋めている。目は焦点を定めておらず、思考はただこの地獄のような夢から覚めることを望むばかりだった。
だからだろうか、ふとある時アインハルトは気付いた。今まで絶えることのなかった兄の叫びが聞こえなくなっていたことに。
ようやく止んだ呪詛、しかし気持ちが落ち着くことはなく、寧ろ不安だけが積もった。
もし顔を上げた先に兄が倒れていたら。そしてそのまま動くことなく「止まったまま」の姿でいたら……。
耐えられる自信はない。既にここはアインハルトにとって「夢」の一言では片付けられない程の苦痛に満ち溢れていた。
そんな世界で死んだ兄の姿を見て、もし受け入れてしまったらアインハルトの精神は本当に死んでしまう。
しかしこのまま塞ぎ込んだままでも現状は変わらない。何か行動を起こさなければ一生このままかもしれない、そう思ってしまうほど長い間夢に囚われていた。
だからよく思考を巡らせ、慎重に、かつ勇気を持って選択しなければいけない。
長い熟考の末、答えを出したアインハルト。
彼女はやはり顔を上げることにした。どんなに考えてもやはり自分がこれ以外の選択をする姿が見えなかった。
例え辛い光景が待ってようと、目を覆いたくなる景色が広がっていようと受け入れよう。それで一度は心が折れようとも必ず立ち上がって見せる。
そう自分を鼓舞し、アインハルトは顔を上げた。
その先には、しかし予想していたものはなく、寧ろ彼女の眼前には幽鬼の如く佇むヒロの姿があった。
頭のてっぺんから爪先まで血で染まった少年は、枯れ木のような腕を持ち上げ弱々しい手でアインハルトの首を締め付ける。そうして虚ろな目で実の妹を見据えると静かに口を開いた。
「殺してくれ」
憎悪も、怨嗟も、哀愁も、何も感情も籠もっていない声で少年は確かにそう告げた。
「そこで目が覚めたんです」
そう締め括ると目に涙を浮かべヒロに抱きついた。
「夢だというのは分かっています……でも、それでも怖かったんです……」
あの場所で見たヒロは今のヒロとはかけ離れた存在だった。血で汚され、苦痛に蝕まれ、狂気に犯される。目の前にいる優しい兄とは似ても似つかない雰囲気を持っていた。
しかし兄妹としての勘が告げている。あれは紛れもない兄なのだと……。
そんなはずはないと頭が否定しても本能が肯定してしまう。あり得ないものを認めてしまうという矛盾が一種のアイデンティティークライシスを起こしていた。
そうして泣き喚くしか出来なくなった妹にヒロがしてやれたことは、ただ『抱きしめる』という行為のみ。
「あ……」
しかしそれだけでアインハルトの気持ちを一気に静まっていった。
ヒロの体温が、鼓動が、吐息がはっきりとその身で感じ取ることができ、確かにその存在を認識する。「ここにいる」というただその事実だけで心から安心した。
「に、い……さん……」
そうなると自然と目蓋が重くなってきた。あの夢の所為で夜も明けぬ前に起き、また見るのではないかという恐怖から結局ずっと起き続けていた。それに加え、今は湯船に浸かっている為か体から力が抜ける。ほぐれたところに芯から温まる適度な温度がまるで子守唄のように夢の世界に誘い始めている。
手招きする睡魔に抗うことが出来ないアインハルトだったが、せめてこれだけはとゆっくりと言葉を口にする。
「一緒に……いて、くださ……」
最後は言の葉が途切れたが何を言いたかったのか理解したヒロは腕の中にいる妹の頭を優しく撫で、その想いに応えた。
温泉から上がり着替え終えたヒロは自室に戻っていた。ベットの上では未だに安らかな寝息を立てている妹の姿がある。
ある程度こちらの事情を知っているなのはに来てもらい、アインハルトを着替えさせた後連れてきたのだ。
朝食の時間になったが未だに起きる気配がない。あの夢のこともあり無理に起こすのは気が引けるヒロは、「自分達は遅れて食べる」と連絡を入れる。先の一件でも世話を掛けたなのはからは呆れられてしまったが仕方ない。
なにせアインハルトが見た夢の原因は自分にあるのだから――。
「う、うーん……」
呻くような声を上げながら、何かを求めるように宙を彷徨う妹の手をヒロは両手で包む。それだけでアインハルトの表情は穏やかになり、ヒロは幾分か救われた気持ちになった。
今回で当初予定していた合宿編でのイベントは終了です。
これまで出てきたフラグは回収できるよう努力します。