今回のお話は、至って健全な内容に仕上がっております。が、連想してしまう方は純狐曰く「穢れたもの」を連想してしまうかもしれません。そういうのも無理、という方は、読むのを控えて下さった方がよろしいかと思います。本当に心が純粋な方なら、読んでも大丈夫なはずです。
むかしあるところに、神子さまという大変高貴な身分の娘さんがいらっしゃった。だいたい、娘さんという言葉づかいが間違っているというか、より経緯を表したいのなら、せめてお嬢様とでも言ったらどうなのかと思うけれど、まあ前回「娘さん」という言い方をすでに使ってしまっているのだし、それじゃあ「娘さん」で妥協しようじゃないの。
今回は、神子さまが成人の儀を迎えた少し後のお話。一応年齢上は大人でありつつも、まだどことなく子どもの無邪気さと無知と純粋さをかねそなえた、魅力たっぷりな神子さまを、どうかお楽しみくださいませね?
真っ暗な室内。何も見えない、普通の人間が聞くことのできる程度の「音」も聞こえない。ただ、何者かが神子さまの口元に、それを押しつけていた。
分かっていた。それを受け入れなければ、彼女は大人になることはできないのだと。
そっと口を開き、おそるおそる舌を伸ばす。若々しさ溢れる、みずみずしくて美しい桃色の唇の間から、震える舌がそっと覗いた…が、部屋は真っ暗だったため、誰も彼女の舌も、その悩ましげな表情も、恐れから思わず涙を溢れさせる瞳も、見ることはできなかった。
「…どうしました、神子さま。ささ、早くこれを口に入れるのです。」
そう言う男の声は、普通の人間からしても少し楽しそうに聞こえた。そして、今やすっかり人の欲を知ることのできる能力を持った神子さまには、なおさら男の意地の悪い喜びが読み取れるのだった。
しかもそのような神子さまを見て楽しんでいる人間は、一人ではなかった。その真っ暗な部屋には、何人もの男たちが、余興を楽しむようににやにや笑いながら座っているのであった。
「どっ…どうしても、ですか…?」
涙を浮かべ男を見上げる神子さまの顔は、やはりそれを見ることができる者がいたのなら、扇情的だと言われたかもしれない。
「はい。これを成し遂げられねば、神子さまは永遠に子どものままですぞ。大人にはなれませんぞ。」
それなら私は一生子どものままでいい…そう神子さまは思ったが、とても口に出すことなどできなかった。
「どうしても口に入れられないというのなら、せめて舐めることだけでもなさってくださいませ。」
「…本当に、舐めるだけ…ですよ…?一瞬でもいいですか?」
「…仕方ありません、まずは一瞬だけから始めましょう。なぁに、徐々に慣れていきますよ。」
そう言われ、神子さまは先程ひっこめた舌を再びそれに伸ばし…
「けっ…けしからん!なんだこの内容は!布都!いつの間にこんなものを書き加えた!二つ目の話にしてこんなのなんて、とても偉業集とは言えぬではないか!!」
「ああ、屠自古さま?おこんにちは。それを書きましたのは、私ですのよ。」
「げげ、青娥!?…どの。…青娥どのがこれを書いた、のですか?」
「ああ!我が少し二話目の構想を考えていたら、青娥どのに声を掛けられてな。いい『あいであ』があるというので、試しに書かせてみたら、思いのほか面白いものができたのだ!」
「こっ…こんな…こんなのが面白いというのか布都!悪趣味だ!悪趣味にもほどがある!だいたい、こんな…こんな…神子さまは…」
「あらあら屠自古さま、お顔が真っ赤ですわよ?どうかなさいましたのかしら、ねぇ、布都さま?」
「本当だぞ、屠自古どの。熱…なわけないな、お化けだし。」
「お化け言うな!…ではなくな、この話はあんまりではないか?だいたいこの偉業集は子どもから大人まで、あらゆる人間が読めるように作ると決めたではないか。」
「…ああ、屠自古どのはもしかすると、このような経験を子どもの頃にしていないのか?我はちゃんと子どもの頃に経験済みだから、ひどくも何ともないように思うのだが…」
「私も幼い頃に経験いたしましたわ。」
「ふっ…布都!?青娥はともかく、お前までそんなっ…!」
「ああ、今分かりましたわ。布都さま、屠自古さまは何やら勘違いなさっているようですわよ。これがどのような場面なのか、説明して差し上げて下さらないかしら?」
「む?屠自古どのがどのような勘違いをしているのか分からないが…一応説明するなら、神子さまが無理矢理…」
「いいっ!わざわざそんな口にするでないアホ布都っ!」
「あほ言うでない!」
「神子さまが無理矢理口の中に大嫌いなにんじんをねじこまれる場面を描いたものですのよ。」
「…え。」
「本当は我もこの話を入れるべきか迷ったのだがな。そもそも神子さまに嫌いな食べ物があったかどうか知らないし。でも、青娥どのが『好き嫌いを克服すると偉くなれるという教訓になる』と言うから、採用したのだ。最初は子ども向けの話だと思ったのだが、最近では大人も結構好き嫌いをするようになったと聞いて、ますます入れねばと思ってな。」
「…青娥どの。だが、この描写は少しばかり悪意がありはせぬか。」
「どこがですの?」
「確かに無理矢理嫌いな食べ物を食べさせられるのはかわいそうな話だが、小さい頃に直しておかねば大人になってからもっと大変な目に遭うからな。」
「…。」
「ねえ、屠自古さま?宜しかったら、この描写のどこが、どういうふうに、どうして悪意があるように見えたのか、教えて下さらないかしら?今後の参考にもなりますしね、うふふ。」
「…布都どの。どうして青娥どのを巻き込んだ。」
「?」
それでもなおもそれを拒み続ける神子さまに、流石に男たちも折れ、とうとう部屋に明かりを灯した。
にんじんなんぞ見ただけでも鳥肌が立つくらいに大嫌いだった神子さまは、目の前にそれがあるのを見て、「ひえっ」と情けない声を上げてのけぞった。それから、大勢の臣下の目の前にいることを思い出して、慌てて咳払いをして落ち着いたような顔をしてみせた。
だが、やはりにんじんは嫌いであった。
「やれやれ、神子さまのにんじん嫌いには困りましたなぁ。にんじんが見えない真っ暗闇の中で食べさせれば、あるいはと思ったものですが。」
「いやいや、目に見えないほど細かく刻んでも食べられなかったのですよ。それくらいのにんじん嫌いが、たかが真っ暗作戦程度で食べられるようになるとは思えない。やはりそなたの頭はがっかりのようですのぉ。」
「なんじゃと!」
「そうおっしゃるそなたの『すりつぶして果汁に混ぜれば大丈夫作戦』だって失敗したではないか。」
「そなた、わしを馬鹿にしておるか。何も作戦を考えず、ただ文句ばかりつけるだけのそなたが。」
「そなたこそ馬鹿にしておろう?」
「そなた、やる気か?」
「喧嘩なら、上品に買おうかの。」
ああ、たかが好き嫌いのせいで。自分の好き嫌いの話程度で、臣下の間にまで何やら不穏な空気が漂っている。大変よろしくない。
「あなたたち、少し頭を冷やしていらっしゃい。私も冷やして参ります。」
盛大な溜め息と共に、神子さまは部下をたしなめた。
神子さまのお声の効果は、いつだって抜群だった。この時も、その悩ましげな響きに、それまでぴりぴりしていた部屋の空気は一瞬で澄み渡り、静まり返り、臣下たちの顔は反省色に染まった。
部屋を出て、神子さまは自室へと向かわれた。そうしてまた、悩ましげな溜め息をつきながら、そっと庭に目をやった。
すると、いつもの庭と少しばかり様子が違うのが、すぐに分かった。
見知らぬ白いうさぎが、いた。
その毛皮は可哀相なことにずたずたに引き裂かれており、息も絶え絶えであった。
「うさぎ…?いったいどうしてこのようになったのですか?」
「別にわにをからかったわけじゃないうさ。あんたの臣下が意味もなく私をいじめたんだうさ。私は偉いうさぎうさ。このまんまじゃ死んじゃううさ。あと、なんか天罰下るうさ。さあ、どうするうさ?」
神子さまは瞬時にうさぎの欲を読み取った。
うさぎの欲は、「にんじん食べたい」だった。
「怪我を治すのには、何よりもまず、栄養をつけねばなりませんね。確かうさぎはにんじんが好物だったと聞きます。それににんじんには栄養もある。あなた、にんじんを食べるくらいの体力はありますか。」
「あるうさ!」
うさぎはとても元気そうに言った。ただし、怪我は本物である。別に神子さまを騙していたわけではないのである。
うさぎににんじんを与えると、うさぎは美味しそうにもぐもぐと食べ始めた。ただ、怪我がすぐに治るわけではない。うさぎは長期間に渡って神子さまのお庭に居座り続けた。その間毎日毎日にんじんを食べ続けた。美味しそうに美味しそうに、にんじんを食べ続けた。
うさぎが居座り続けてから数か月後。すっかり傷も癒えたうさぎは、ある日神子さまにこう言った。
「神子、私はもう元気になったうさ。もうそろそろこんなところおさらばしたいうさ。その前に、一つお前に幸せをあげるうさ。何を隠そう私は幸せを運ぶうさぎだったのうさ。神子。お前はもう、にんじんが食べられるようになっているうさ。」
そう言ってうさぎはおもむろに、手元に置いてあったうさぎ用のにんじん入れかごから一本にんじんを取り出し、神子さまに手渡した。
「え…?」
そう言われて、神子さまは初めて気づいた。うさぎを最初に見た日ほど、にんじんに嫌な気持ちを抱かない。それどころか、なんだかそれがとても美味しそうなものに見える。
ぱくり。恐る恐るにんじんをかじってみる。少しばかりくせのある香りがしたが、想像していたものほどきつくない。根を食べる種類の野菜は土臭いという印象があったが、そちらのほうもごぼうなんかに比べると全然土臭くもない。そして何より、甘かった。にんじんが甘くてこんなに食べやすいものだなんて、知らなかった。
ああ、そうか。神子さまはやっと気づいた。毎日毎日うさぎが美味しそうににんじんを食べる姿を見て、少しずつだが、にんじんは美味しいのかもしれないと、無意識のうちに思い始めていたのだ。
「ありがとうございます…!」
神子さまがそう声に出して言った時には、すでにうさぎは姿を消していた。
その翌日のお食事の際に、神子さまが澄ました顔でにんじんを食べているのを見て、それまで神子さまににんじんを食べさせようと頑張っていた臣下たちは、皆ぽかんと口を開けた。
「み…神子さま、いつの間ににんじんが…!?」
「うさぎが私ににんじんの美味しさを教えてくれたのです。それに比べてあなた方は、何もできなかった。あなた方は動物以下の存在なのです。そのような何の仕事も出来ない人間が政に携わってよいことなどあるはずがありません。」
こうしてうさぎによって、心優しい神子さまはにんじん嫌いを克服し、性格が悪く世の中を悪い方向へと導いていた悪い臣下たちは、政治の場を追われたのであった。
めでたしめでたし。
例の物語プロジェクトに青娥どのが加わったという恐ろしい声を聞き、慌てて屠自古の部屋へとそっと忍び込み、例の本の隠し場所を探った。
考えていた通り、序盤はろくなことになっていなかったが、これでもまだ可愛らしい方だ。全然恐くない。何せ、青娥どのの本気と来たら…いや、思い出すだけでも恐ろしい。
読み進めてみて、ろくなことになっていないのは序盤だけではないということが分かった。何これ。期待して読み進めた書物が、最後は夢でしたとか、敵は皆爆発しましたとか、そんな手を抜いたような展開で唐突に終わってしまった時みたいな、正に、手抜き感。っていうか、はっきり言ってパクり。
つっこめるところも色々あるよ?当時の我が国ににんじんなんて、まだなかったからね?あと私、にんじん嫌いだった時期なんて一つもないよ?嫌いな食べ物とか、少しある程度で、例えば緑の…いや、やめておこう。
とにかく、序盤のあの描写のことを考えると、こんな書物を世間に広めるわけにはいかない。何よりも、私の名誉のために。そう思い、私は書物の二話目のページを全て破り取った。
ごめんなさい、布都。あなたは悪意があったわけではない。ただ人選が悪かっただけ。屠自古。あなたの抱いたちょっとけしからん欲は、見なかったことにしておいてあげます。青娥どの。あなただけは許したくないけど、あなたって悪気なく悪いことをする人だから、今回も悪意があってこれを書いたわけでもないから、きっと罪悪感もないのでしょうし、だから叱ったところで無駄になることは分かっています。
…結局損をしているのは私だけな気がしてきた。ああ、後はこの物語の「うさぎ」によく似ているあの妖怪も、少し損をしているような。でも、このうさぎ、中々に美味しい役な気もする。描写はアレだが。
ページを燃やしてしまうと、私はやっと安心したような気持ちになれた。ああ、これでいい。布都や屠自古には申し訳ないのだけれど、悪いけど、二話目はやはりなかったことにして、もう一度全く違う感じの話を作り上げて欲しい。青娥どののこれだけは、ダメだ。
その時だった。
「ふふ、残念でしたわね、神子さま。」
「!?」
慌てて振り返ると、そこにはふわふわと宙に浮く青娥がいた。あの、一見無邪気で純粋そうな笑み。嫌な予感がした。
青娥どのは普段、にやにやと何かを楽しんでいるような悪意ある笑みを浮かべることが多い。でも、そういう時は大抵被害は少なくて済む。逆に、こういういう純粋な笑顔を浮かべている時ほど被害が大きい時はない。…ああ、もう、最悪だ。
「すでに写しはとってありますのよ。それだけではありませんわ。すでに数名人里の者に見せて、感想を聞いておりますの。皆、大喜びで読んでおりましたわ。」
サーッと血の気が引く音が聞こえたとは、まさにこういう時のことを言うのだろう。
「大勢の紳士の集う場所、カフェーにも一冊、写しを置くように頼んでおきましたの。きっと良いコーヒーのお供になりますわ。それから、紅の館の図書館や森の蒐集家…そうそう、貸本屋にも置いておきましたのよ。営業って、案外楽しいお仕事ですのね。」
そう言って青娥どのは、とても穢れのなさそうな笑みを浮かべた。
…もう、最悪。
今回はコンセプトから話を広げたのではなく、先に話が湧いて出てきました。コンセプトは、強いて言うなら前回と同じ「ロリ神子」なのでしょうが、少し成長して、歳は十二~十四程度を想定。神子さまの昔のエピソードよりも、おまけ部分にあたるところで皆がわいわいやってるのを書きたかっただけな気がしてきたような…。