修学旅行最終日。
皆にとって楽しかったであろう修学旅行も、残すところは新幹線で帰るだけとなった。俺にとってはそうでない出来事も多かったわけだが。…まあ歴代の修学旅行と比べれば、楽しくないこともなかった、のか。
フェンス越しに京都の街並みを見下ろす。現在は新幹線が来るまでの待ち時間であり、自由時間だ。多くの同級生は土産物屋を冷かしていることだろう。しかし俺は一人京都駅の屋上にいた。それもこれもある人物にここに来るように言われたからだが――
「はろはろー。お待たせしちゃったかな」
素っ頓狂な声に、俺は振り返る。
屋上に続く扉の前には今回の依頼人の一人、海老名姫菜がいた。
「…うす」
俺は彼女を見ることができず、下を向いて短く挨拶を返す。
「どしたの、ヒキタニ君。後ろめたいような顔しちゃって。…もしかして、メンズたちでやましいことでもあったのかな?」
彼女はいつもの腐った笑いを俺に向ける。いや、怖えよ。
俺は彼女の発言にいつも通りの寒気を感じつつ、何とか口を開く。
「いやそういうことじゃなくてだな…依頼については、何の解決もできなかった」
「ああ、そのこと…いいよ、もう」
彼女はいつも通りに笑う。なにも気にしていないのか。少なくとも俺の目にはそうは見えなかった。いつも寸分の狂いもない笑みは、いつもより少し歪んでいた。良いことか悪いことかはわからない。しかし、彼女のそれは確かに変わっていた。その瞳は果たして何を見ているのか。
「今日呼んだのはそのことじゃなくて、昨日のことでヒキタニ君に聞きたいことがあったからなの」
「俺に答えられることならな」
「うん、それは間違いない。っていうかむしろ君にしかわからないよ」
彼女は暗い瞳を俺に向ける。
「あの時戸部っちの後ろに来て、何をするつもりだったの?」
大体わかるけどねー。彼女はそう続け、横目で俺を見る。彼女なら、そうかもしれない。だが。
「なぜそんなことを聞く?」
昨日までの彼女なら、そんなことは気にしなかっただろう。彼女は切り捨てると思っていた。少なくとも、三浦の告白の前の彼女であれば。
「起こりうるはずだった別の未来も聞きたくなったんだよ。それっておかしいことかな?…だってヒキタニ君、私の依頼の意味、分かってたでしょ?」
彼女は俺の目をのぞき込む。
「…まあ、本来なら戸部は告白できなかっただろうな」
黒い瞳から目をそらし、柄にもなく俺は彼女の質問に応じる。依頼を果たせなかった借りがある。この程度は答えてもいいだろう。
彼女は俺の言葉を聞き、声を出して笑う。
「そっかそっか。…ヒキタニ君となら、私うまく付き合えるかもね」
しかし、彼女の笑みには今度こそ一寸の狂いもない。
「…冗談でもやめてくれ。うっかりほれそうになる」
俺は彼女から目をそらす。そう。
昨晩。海老名姫菜は戸部からの告白を断った。
「ごめんなさい。私今は誰とも付き合う気がないの。誰に告白されてもそれは変わらないよ」
俺はそれを予感していた。だから彼の告白を阻止しようとした。
「話はもう終わりかな?」
海老名さんは戸部に問いかける。その声に一切温度はなかった。彼女と彼の間には一本の線が入り、それをまたぐことは到底かなわない。最も、それは元からのことだったのかもしれない。
戸部はあっけにとられたように海老名さんを見る。彼は何も答えることができない。別に彼女が明確に彼を拒絶したわけではない。彼女は彼だけではなく、すべてを拒絶したのだ。
しかし、三浦がその海老名さんの声を遮る。
「海老名、まだあーしの話が終わってないんだけど」
「…その話、私に何か関係があるのかな?」
海老名さんは突然の横やりに一瞬瞠目するが、すぐにいつもの笑みに戻る。
色のない表情を浮かべる彼女に、三浦は余裕の笑みで返す。
「友達の恋愛事に興味もないっての?あんたは」
…むちゃくちゃだ。理由にすらなっていない。
そう思ったのは海老名さんも同じだったのだろうか。目を見開き、今度こそ三浦をまっすぐに見つめる。
「…わかった」
海老名さんはそれだけを口にする。
彼女がそこにいることを確認した三浦は、短く息を吐き、震える声で葉山に尋ねる。
「で、は、隼人。返事は?」
その瞳からはさっきまでの鋭い光は消え失せ、純粋な不安と期待だけが透けて見えた。
彼の答えは。
「…すまない。優美子とはこれからも友達でいたい」
三浦から目をそらしながらも、その声にブレは無かった。
何に対して謝ったのだろう。三浦に対してか、海老名さんに対してか、それとも戸部に対してか。
彼女は彼の答えを聞き、言葉を失う。
しかししばらくして「そっか」と漏らし、うつむく。
どのくらいそうしていたのだろうか。うつむき押し黙る彼女に、その場にいる誰もが身動きが取れない。そして、彼らは。
海老名さんは彼女をただ、見つめている。その瞳からは何も推し量ることができない。
戸部はこの後どういう行動をとればいいのかわからないのか、すがるような視線を同じ境遇である三浦に送っている。
由比ヶ浜は心配そうに彼女を見ている。彼女は三浦を心から案じているように俺には見える。
葉山グループの面々は予想外の展開にあっけにとられている。それはそうだろう。誰だって驚く。しかしそこには、振られた女王がどうするか、若干の好奇の色が混じっていたように見えたのは、俺の悪癖のせいだろうか。
雪ノ下も三浦を見ていた。少しまぶしそうに、悲しそうに、彼女を見ていた。雪ノ下の気持ちが俺にはわかる気がした。
そして三浦優美子は。
うつむいていた彼女は、いきなり前を向いた。
その瞳には一杯に雫がたまり、唇は必死に噛まれていた。しかしその雫が涙となって落ちることはなかった。
「わかった。…隼人」
彼女は彼を呼ぶ。彼はその呼びかけに、小さくうん、とだけ答える。
「隼人の気持ちはわかった。でも、あーしの隼人への気持ちは、たぶん誰にも負けない。そこら辺の奴らより、絶対隼人のことが好きで、一番近くで見てきた自信がある。だから…」
彼女は続く言葉を口にしようとする。しかし、気のせいだろうか。その一言を言うときの彼女は、告白するときよりもよほど勇気を出しているように見えた。
「だから、これからも、好きでいてもいい?」
彼女は彼をまっすぐに見つめ、ようやくそう言った。
そんな彼女の言葉を彼はどうとっただろう。彼は珍しく視線を泳がせる。
しかし結局、彼は哀しげな笑顔を浮かべた。
「ああ。それは優美子の自由だよ」
その笑顔は、いつもより数段優しかった。
気づけばなぜか俺の拳は固く握られていた。彼がそう答えることはわかっていた。大体、彼が望んだことに、「変わりたくない」という答えに、俺は賛同した。一方で彼女の望んだことを、俺は受け入れることができなかった。
しかし、今俺は。
うまく言葉にできない。自らの思考の流れがなぜか把握できない。今までさんざん人の思考を先回りした。心情を読んで行動してきた。そして、それは大抵当たっていた。今も周りの人間の思考は想像できる。だが、
俺は今、自分のそれを理解できない。
「わかった。…じゃあ、これからもよろしくね!隼人」
アイメイクが崩れた顔で、彼女自身「葉山だけには見せられない」と言ったその顔で、三浦優美子は彼の目を見て笑った。
俺はその三浦優美子を、やはりかわいいと思った。
「え、海老名さん!」
今度は戸部が叫ぶ。彼のその顔は、さっきとは違った。そこにはまだ迷いはあったが、それでもその目はまっすぐに海老名さんに向けられていた。
三浦を見ていた海老名さんは、彼のほうを向く。三浦の言葉を聞いた彼女の顔には、今度は表情がついている気がした。
「俺も、海老名さんのことが、その…す、好きです。だから…えーっと、な、なんていえばいんだろ、こんな時」
彼はこの期に及んで視線を泳がせる。やはりヘタレである。
泳いでいた彼の視線が俺とぶつかる。俺はいつもの表情を浮かべていられるだろうか。
彼は俺を少し見つめ、視線をまた海老名さんに向ける。「やっぱ諦めらんないっしょ」小さくそう聞こえた気がした。
「だ、だから、俺もこれからも海老名さんのこと好きでいていい?」
何とか、戸部は言い切った。
海老名さんはまた三浦を見る。視線の先にいる三浦は、アイメイクの崩れたひどい顔で、それでも笑っているように見えた。
「…うん、いいよ。これからもよろしくね」
彼女も葉山と同じ答えを出した。その言葉に込められた意味まで同じだったか。俺にはわからない。
海老名さんは戸部に小さく微笑むと、踵を返した。来た道を彼女は歩いていった。一人で。
答えを聞いた戸部の顔には笑顔が戻っていた。その瞬間、葉山グループのニ人が戸部のもとに駆け寄った。面白がっているのか、慰めようとしているのか。だが少なくともここで戸部に声をかけるのは、俺の仕事ではない。
「いやー、あの答えワンチャンあるべ!」
戸部の後ろから離れる俺に、彼の声が耳につく。脳内お花畑でよかったですね。ワンちゃんとそこで一生遊んでいてくれ。
だが。最後の海老名姫菜の微笑みを思い出し、俺は思う。案外、間違っていないのかもしれない。
海老名さんがいなくなり、由比ヶ浜も三浦のもとに駆け寄る。由比ヶ浜はいつも通り笑おうとしていた。その笑顔を見て、今三浦の近くにいるべきなのは彼女だと俺は思った。
雪ノ下は俺の横で腕を組んでいる。その目は鋭く俺に向けられる。
「…戸部君の横にあのタイミングで出て行って、いったい何をしようとしたのかしら」
こ、怖い怖い怖い。俺が悪かったです。だからその目はやめてください。
俺は彼女から視線をそらし、照らされた竹林を眺める。わぁ、とってもきれいだなぁ。
何も答えようとしない俺に、彼女はため息をつき、こめかみに指をあてる。
「もういいわ。どうせろくなことではないだろうし。でも」
彼女は俺と同じように遠い目で竹林を眺める。
「これでよかったのかしらね」
その言葉は、純粋な疑問だったと思う。彼女にはわからなかったのだ。三浦の、葉山の、海老名さんの気持ちが。
「別にいいだろ。当初奉仕部が請け負った依頼は達成されている。『戸部の告白の手助けをする。』そこから先は気持ちの問題だ。俺たちが踏み込めることじゃない」
よくそんなことが言えたものだ。俺は言ってからそう思う。気持ちをなかったようにしようとしたのは、俺ではなかったか。
だが、三浦と海老名さんの笑顔を見た今。この俺の言葉は嘘じゃないと思う。
しかし、雪ノ下からの返答はない。
何か言ってくれてもいいのでは。そう思い横を向くと、彼女は眼を見開いて俺を見ていた。…そんなにおかしなこと言いましたか。
少し頬が熱い。ガシガシと頭をかく。
「あー、それに、あれだ。探偵とかも、報酬は労働自体に対して支払われるだろうが。その結果が依頼人の満足いくものじゃなくても、働きはしたんだから問題ねえよ」
「浮気調査をしてくれ」と言われても、調査対象がそもそも浮気をしていなかったらその依頼は真の意味では達成できない。海老名姫菜には戸部に対する気持ちがもともとなかった。それだけの話だ。
仕事観を披露した俺を、彼女はクスクスと笑う。ぐ。焦って出てきただけに、かなり苦しくはあったが。
「まあいいわ。そういうことにしておきましょう。…少なくとも、戸部君は後悔していないようだしね」
友人とはしゃぐ戸部を眺め、彼女は微笑む。確かに俺にも彼の顔からは後悔は感じられない。だとすれば、それは何のおかげか。誰のおかげか。
「ちょ、結衣、あ、あーしもしかして今顔…」
由比ヶ浜とじゃれあっていた、というより一方的にじゃれつかれていた三浦は、自らの涙に気が付いたのか、顔を指さして青ざめる。
ええ。それはもう。とっても言いづらいけどあえて一言でいうならば、パンダ、ですかね。
由比ヶ浜は苦笑を浮かべる。はっきりとものを言いなさい。俺は心の中で一喝する。言われたくないことを言わないのが真のやさしさではありません。気分は道徳の先生。さわやか三組。
俺より数段道徳心の強い雪ノ下は、焦る三浦に無言で手鏡を差し出す。
「あ、ありがと、雪ノ下さん」
少したじろいで三浦は礼を言う。
「いえ、これくらい同じ女子として大したことではないわ」
雪ノ下は今迄に向けたことのないような笑顔を浮かべる。…本当にいい性格してますね、雪ノ下さん。
三浦は恐る恐る手鏡を覗く。次の瞬間。
「ギャーーー!ちょ、ありえないし!…だ、誰も見んな!」
そう言ってホテルに続く道を走り去っていった。さすが元テニス部。速い。
由比ヶ浜は突然走っていった三浦をあたふたと追いかけ、雪ノ下も手鏡を持ったままの三浦を追いかける。高級そうだったしな、あれ。
気づくとその場には俺と葉山だけがいた。葉山グループの面々はすでに姿を消していた。さすがに今女王を振ったばかりの葉山と、振られたばかりの戸部は一緒には帰れなかったのか。それとも、彼が自らの意志で残ったのか。
目が合うと、彼は苦笑を浮かべる。
「してやられたよ。この旅行の前から、旅行中も少し様子がおかしいとは思っていたんだ。…だけど優美子にあそこまでの覚悟があったとは思わなかった」
「ああ」
俺もうなずく。してやられた。彼にとってそうなったのは結果論だが、俺は間違いなくしてやられた。 結局あの時のコンビニでの会話が、俺が何かするということを彼女に悟らせ、そして覚悟を決めせてしまったのかもしれない。
「まあ、よかったんじゃねえか。…あれのおかげで少なくともきまずくはならんだろ。お前らのグループも」
彼女があのタイミングで告白したのは、どういった意味を持つだろう。
一つは戸部の気持ちを彼自身に海老名さんに伝えさせること。恐らく三浦は戸部に自分を重ねていた。だからあそこで俺の横やりが入ることを恐れた。
そしてもう一つ。グループで色恋があってもよいと認知させ、それをオープンにさせること。グループのリーダー的存在の三浦が、戸部と一緒に盛大に振られた。そして彼女は葉山を諦めないと言った。これにより戸部もグループ内での色恋を公に認められるようになり、大っぴらに好きだと言えるようになった。
よって少なくとも海老名さんと戸部の件でグループが決まずくなる可能性は減っただろう。だから彼は仲間とあの後に笑い合うことができた。言ってみれば「赤信号みんなで渡れば怖くない」理論だが、赤信号を三浦が真っ先にわたっていったら、ついていく者もいるということだ。俺は死にたくないんで行きません。交通ルールは守ろうね。
「…そうだな」
彼は俺に笑いかける。
「でも俺と姫菜の思惑が外れたことで、少し安心もしてるんだ。君が戸部の横に立って口を開きかけたとき、俺は君が何をしようとしているか分かった気がした。…いや、この言い方は卑怯だな」
その笑みは、自嘲的なものになる。
「具体的にはわからなくても、俺は君がどういう方法をとるかはわかっていた。君はそのやり方しか知らないと知っていたから。そしてそれは俺にはできないことだ。だから、君に頼んだ。」
「別に、お前が俺に対して悪いと思うことなんて一個もねえだろ。俺は結局お前の依頼も、海老名さんの依頼も達成できなかった。むしろ謝るとしたら俺のほうだ」
俺の言葉を聞き、彼はまた苦笑する。
「そもそも、依頼が達成できなかったのは俺たちのグループ自身の、優美子の行動があったからだけどね」
まあ、そのとおりではある。
葉山と海老名さんの依頼は「戸部の告白を防ぐこと」だったか。
それは単なる手段だ。本質は「今の関係を変えたくない」ということだ。そして戸部の告白によって、グループの関係性が変わってしまうことを恐れた。だから俺は戸部の告白を未然に防ぎ、海老名さんの意志を間接的に戸部に気づかせようとした。
しかし、三浦が葉山に告白したあの瞬間。もはやその解消法は意味を失っていたのだ。三浦によってすでにグループの関係性は変わってしまった。だから今更俺がそれをする意味も、理由もなくなった。
…こう考えてみるとなんと不利な対図だろう。彼女が変わりたいと言い、行動した時点ですでに俺は敗北していたのだ。
俺は何をまちがえた。自らの行動と思考をかんがみる。
要するに、俺はもっと気持ちの問題を大切にすべきだった。どこかで彼女のことを甘く見ていた。気づけはしない、行動はできない。彼女の気持ちから目をそむけた結果がこれだ。
いや。そもそも反省も後悔も、もう必要ない。解はすでに出てしまっている。問題はそこで終わっている。
首を振り、葉山に問う。
「で、お前はこれからどうするんだ」
彼は俺からの質問が意外だったのか、物珍し気な視線を向ける。俺だってこんなことを聞くのは柄ではないことは分かっている。しかし。
俺の脳裏に彼女の涙がよぎる。聞かずにはいられなかった。
「…やっぱりか」
葉山は下を向き、何かをつぶやく。しかしそれは俺の耳には届かない。
「どうするもこうするも、いつも通りさ。それが、俺だ」
だろうな。俺はその答えもわかっていた。彼はどこまでも変わらない。わかっていたことだ。
「わかった。じゃあな」
俺は短く言い残し、帰路へと向かう。そう、わかっていたことなのだ。
「俺からも、一ついいかな」
背中を向けた俺に、葉山は声をかける。
「…なんだ」
「そんな嫌そうな顔をしなくても」
俺を見て彼は苦笑を漏らす。彼は俺の質問に答えた。ならば俺も答えなければならないわけだが、正直、嫌だ。
「まあいいか。じゃあ俺からも同じ質問を」
彼は俺をまっすぐに見る。
「君は、これからどうするんだ?」
彼が何について言っているのか、わかりたくなかった。自分でもよくわからない思考を、心情を、それ以外の俺のなにかを、彼に見抜かれている気がした。だから嫌だったのだ。
「別にどうもしねえよ。これまでのぼっちの生活に戻るだけだ」
俺はそれだけ言って、今度こそ彼に背を向ける。
「そうか…」
つぶやく彼の顔が、目に浮かぶ。
「変わらないな。…君も、俺も」
一緒にするんじゃねえよ。クソリア充。
「ヒキタニ君」
フェンス越しに町を見下ろしながら、海老名さんは俺を呼ぶ。
「…私たち、変わっちゃったのかな」
そのつぶやきはいつもの明るい調子でも、底知れないものでもなく、俺と同じ高校生のものに聞こえた。
「変わらないものなんてないだろ。形あるものはいつか壊れるし、形がないものは元々の形を誰も知らない。そのままの形で保管することなんてできねえよ」
俺はまた白々しく言う。変わらないようにしても、誰かが変えようとした瞬間にそれはもう変わってしまっている。重要なのは関係でも結果でもなく、それ以前の気持ちなのかもしれない。今回それがよくわかった。
「…そうだね」
彼女も珍しく神妙にうなずく。その彼女の顔を見て、俺は金髪の彼を思う。
変わらないのは、お前だけかもな。
「ねえ、ちょっと」
突然後ろから声がかかる。振り向いた先には。
「海老名、そろそろ集合時間だから早く来な。…あとヒキオも」
なびく金髪をいじる三浦優美子がいた。
「あ、うん」
海老名さんは彼女の呼びかけに答え、三浦のもとへ向かう。俺は当然動かない。だ、だって一緒について言って「キモッ、なについてきてんの。いたからついでに呼んだだけですけど」とか言われたら八幡生きていけない。
「ヒキオ、あんた何やってんの。耳ついてないの?集合時間だっての」
言葉こそいつも通り荒いが、三浦は心底不思議そうに俺に問う。だからこの女王様は…
海老名さんはアハハ、とから笑いを浮かべる。うん、そうだよね。あなたなら俺の気持ちはわかるよね。
「別に問題ない。なんなら別の新幹線で一人で帰ったほうが気が楽だ」
俺はそっぽを向く。あれ、というか行きの新幹線の席順を踏襲する雰囲気になってたら、帰りでもあの地獄を味わうことになるの?…これは本格的に一人で帰るまでありますね。
「はぁ?何言ってんの」
俺の言葉を無視し、彼女は笑いかける。彼女が俺に笑顔を向けるとき。…いやな予感しかしない。
「あんたのせいであーし隼人に振られたんだけど」
「は?」
いつもながらの話の飛躍に、俺はついていけない。見れば海老名さんも唖然としている。
「だから」
彼女はガシガシと金髪をかく。
「あんた昨日戸部の横に行った時、なにしようとした?」
だから、その質問には答えたくないと何度言えば。俺はいい加減、昨日の雪ノ下から始まった同じ質問に辟易とする。
心の声が言葉に出ていたのだろうか。反対に彼女の笑みは深まる。
「コンビニでのこと考えれば、どうせ言えないようなことっしょ?あの時あんたが戸部と海老名のところに歩いて行ったの見て…」
しかし、続く言葉が出てこない。彼女は珍しく顎に手を当て、悩むポーズをとる。
「な、なに。よくわっかんないけど…体が勝手に動いた、っていうか。
…なに、その馬鹿にしたような目は。ヒキオのくせに。…あ、海老名までなに見下してんだし!?
と、とにかく、あんたのせいでしょ。好き勝手動けると思うなっての」
笑みとは裏腹に、彼女の声は震える。その行動原理はとても彼女らしい、が。
海老名さんと目が合い、お互いに苦笑が漏れる。まさかそんな理由ともつかない理由で、三者の思惑がぶち壊されるとは。
「そっか。優美子はやっぱり気づいてたんだね」
何に気づいていたか。海老名さんは言わなかった。ただ優しく三浦に笑いかけた。
「ふ、ふん。あーしにあんたのことでわからないことがあると思ってんの?」
彼女は腰に手を当て、いつも通り豊かな胸を張る。
「とにかくあんたのせいだから、ヒキオ」
三浦は俺を指さす。
「あーし言ったっしょ。これから覚悟しなって。勝手に逃げれると思うなし」
彼女はその指を海老名さんにも向ける。はぁ…。勝ち誇ったように笑われてもなぁ。
視界の端には額に手を当てた海老名さんが映る。
同感である。さしあたっては。
波乱に満ちていそうな帰りの車内を思い、俺は神に願う。
帰りは戸塚と隣がいいなぁ。