修学旅行三日目。
今日は自由行動の日だ。自由行動だったら宿で寝ているのが正義だと思うのだが、由比ヶ浜にたたき起こされ、カフェで雪ノ下と由比ヶ浜と朝食を共にした。朝食時、今日回るルートの提案が雪ノ下からあった。伏見稲荷、東福寺、北野天満宮、嵐山という順に回る。ちなみに北野天満宮は俺の希望だ。…小町、俺はかわいい妹のために学問の神様のところには絶対に行くからな。安心してくれ。今の八幡的に超ポイント高い。
東福寺につくと、早々に雪ノ下は辟易としていた。紅葉のシーズンは外れているとはいえ、確かになかなかの込み具合である。 その人混みの中、俺は葉山ご一行の姿を見つけた。葉山、三浦、戸部、海老名さんの四人で行動しているようだ。彼らに由比ヶ浜も気づいたのか、苦笑いを浮かべる。
「…あれじゃいつもと変わんないね」
俺ももう一度彼らを見る。俺の目にはおちゃらけてカメラの前に立つ戸部、明後日の方向を向く海老名姫菜がいた。変えようとしていない人間がいるのだ。変わりようもない。
しかし、俺は違和感を覚える。そのカメラはなぜか三浦が持っていた。
「ちょ、あんたらもうちょっと近寄んなって。それじゃ映んないよ」
彼女は戸部と海老名の二人にそう声をかける。そして葉山はその彼女の様子を呆然と眺めている。確かにそれは本来この中では葉山の役割だろう。女王自らカメラマンなど。
虚をつかれた俺も、もう一度彼女を見る。彼女の顔はいつもと同じく憮然としていたが、その目は幾分いつもより暖かかった気がした。
「ほら、隼人も撮ろ」
一通り戸部と海老名さんの写真を撮った三浦は、少し頬を染め葉山を手招きする。
「…ああ、もちろん」
彼はいつもの笑顔で三浦に応じ、葉山と三浦は三浦の持つカメラで、紅葉をバックに写真を撮る。
俺はふと横にいるはずの由比ヶ浜に視線を向ける。こういった場で無言の彼女はそうみられるものではない。来たからにはきちんと楽しみ、周りも楽しませようとする。それが俺の知る由比ヶ浜結衣という女の子だ。
彼女は瞠目し、じっと三浦優美子を見つめる。いったい何を見ているのだろうか。何を推しはかろうとしているのだろうか。彼女の目に三浦優美子は、今どのように映っているのだろうか。俺の濁った目には彼女はまぶしすぎて、痛々しくて、その姿は正しく映らない。
「やあ」
少しぼーっとしてしまった。突然かけられた声に肩が震える。恐る恐る見る。そこには。
「君たちも来てたんだね。これからどこに行くんだい?」
いつもの微笑みを浮かべる葉山隼人がいた。横には寄り添うように立っている三浦優美子がいる。その目は鋭く光り、雪ノ下と俺に向けられていた。君たちの争いに俺まで巻き込まないでください。
最も葉山の近くにいた雪ノ下は、俺を見る。目線からして話しかけられたのはあなただと思うんですけど…
答えられない雪ノ下の代わりに、由比ヶ浜が答える。
「いやー、隼人君たちも来てたんだね。…隼人君たちは、これからどこ行くの?」
いや、葉山の質問には答えてなかった。由比ヶ浜、妙なところで策士である。
「俺たちはこれから嵐山行くんだけど…」
「あ、そうなんだ。あたしたちも、もうちょっとしたら行くんだ」
質問を質問で返されたことを気にする様子もなく、葉山はにこやかに答え、由比ヶ浜もそれにいつものように応じる。
平和だなぁ…俺は横と前から感じる絶対零度と獄炎の視線から目を背ける。三浦と雪ノ下はいつものようににらみ合っていた。そう簡単には仲良くはできないか。…修学旅行に来てまで戦争は勘弁してくれ。
俺は不穏な空気の雪ノ下と三浦に、心の中で願っていると暗い瞳と目が合う。
「ヒキタニ君」
海老名姫菜はそれだけ言い、ふい、と目をそらすと雑踏の中に溶け込んだ。彼女のその行動からある程度の意味は分かった。俺は彼女を追う。俺ほどのステルス能力ともなれば一日誰にも感知されないことも可能だが、あいにく彼女はそれを身に着けるためにはいささか器量がよすぎる。遠目で見ても、彼女が海老名姫菜だとわかる。…その恵まれた容姿は、彼女の望んだものではないだろうが。
「さて、ヒキタニ君」
少し離れて人通りの落ち着いた場所で、彼女はくるりと俺に振り向く。その笑顔は、いつもの海老名姫菜のものだった。
「相談、忘れてないよね?」
いつもと寸分たがわぬ彼女の笑顔に、俺は口を開けない。冗談で返すことすらできない。いつもと変わらない彼女の笑顔は、瞳だけが嫌に暗かった。
「どうどう?男の子同士、仲は睦まじい?」
しかし、次の瞬間には彼女の瞳はいつもの妖しげな光を取り戻す。そうだ。これは俺も、戸部も、皆が知っている海老名姫菜だ。
「べつに、んなことねえよ。…そっちのグループは、問題なく修学旅行回ってんのか?」
距離を詰め俺の顔をのぞき込む彼女に、俺は目をそらし、柄にもなく尋ねてしまう。お、女の子の目見るとか無理だし。
俺の質問に彼女は一瞬固まり、一瞬離れた場所にいる三浦たちを見るが、すぐに下を向く。
「そうだね…。みんな仲いいし、元気だよ。…いつもよりも」
その目は果たしてどこを見つめているのだろうか。彼女の長い黒髪が表情を隠す。
「でもね、私いつものみんなが好きなんだ。だから、ヒキタニ君」
彼女は言葉を切り、顔をあげる。
「よろしくね」
その言葉は俺の耳に重く残った。
その後は予定通り北野天満宮、嵐山に向かい、戸部の告白する場所は灯篭が足元を埋める嵐山の竹林となった。
そして現在。ホテルの部屋にいるわけだが、部屋では戸部が「っべー、っべーっしょこれ、まじで…」と珍しく青ざめた顔をしている。大和、大岡の二人がそれを面白そうに冷やかす。戸塚は戸部の緊張がうつったのか、表情はこわばっている。
そして、葉山は。
彼は事ここに至ってもこれまでと変わらず、いつもの微笑を浮かべている。しかしその目だけはどこか暗く、いつもと変わらぬ笑顔とは釣り合っていなかった。
彼は変わらない。変わることを望んでいない。わかっていたことだ。俺も、彼女も。…いや、彼女たちも。
葉山は狼狽する戸部に一声かけ、外に出た。俺もそんな彼に続いて外に出る。彼の様子から大体の予測は立っているが、それは予測でしかない。ここから先に俺が動くなら、彼女と対するなら、彼の気持ちを聞く必要がある。
目の前の川を見下ろす葉山隼人の背中に、俺は一声かける。
「やけに非協力的だな」
彼はこちらに振り向き、苦笑を浮かべる。
「別にそういうつもりじゃなかったんだけどな」
「じゃあどういうつもりだったんだよ」
俺は間髪入れずに問う。適切な受け答えを望んでいるわけではないが、適当な言葉は吐くものではない。
「俺は今が気にいってるんだ。戸部も、姫菜も、そして…優美子も。みんなでいる時間が好きなんだ」
臆面もなく、葉山はそう言う。そして俺を見据える。
「だから」
俺はその先の言葉は分かる気がした。
「それで変わるものなら、壊れるものなら、結局その程度のものなんじゃねえのか」
俺も臆面もなく、言う。言わなければならなかった。どの面下げて。自分でもそう思う。
俺には葉山の気持ちが痛いほどわかった。戸部のひたむきな気持ちを知っていた。海老名さんの暗い願いを覗いてしまった。…そして、三浦の瞳を見ることができなかった。
だから俺はこの言葉を、暗い瞳を俺に向けた二人に、それをわかってしまう俺に言わずにはいられなかった。
「…そうかもしれないな。でも、俺は失うのが怖い。そして、得てしまうのはもっと怖い。たぶん、姫菜も同じように考えていると思う。
でも、優美子は」
彼は自嘲するような微笑みを浮かべる。しかし、その瞳は俺を見ている。
「比企谷君。君の目に今の優美子はどう映る?」
彼は唐突に俺に問う。
新幹線での彼女が、暗闇での彼女が、涙する彼女が、脆く、どこまでも強い彼女が俺の脳裏に浮かぶ。…まったく関係のない話だろうが。
「今、俺たちはそんな話はしていない。俺とお前の前で今交わされるべき言葉は、戸部と海老名さんの依頼についてのことだろ」
「いいから、答えてくれ」
彼にしては珍しく、そこには正当性が欠如していた。いつも正しく、中立であろうとする彼らしくない言葉に、俺は少し虚をつかれる。…正しい、とは違うかもしれない。彼はまちがうのが怖いのだ。それを必死に避けている。
「そうだな…。まあ、いつも通りわがままだわな」
俺は少しおどけて答える。その声色は、いつもの低さを出せていただろうか。
「…そうか」
彼は俺から視線を外し、小さく息を吐く。
「俺は、何も変えたくない。変わりたくない。これからも、これまでの日常を大切にしたい。…失わないことは何よりも大切だと俺は思う」
彼の目は暗い水面を見つめていた。そこには何一つ見えるものなどなかった。
「お前の言いたいことは分かった。だが、それなら戸部の気持ちはどうなる」
そして、三浦の気持ちは。
言いかけてやめた。俺が今放った言葉は、依頼を受けた奉仕部としての言葉だ。そこにほかの要素はいらない。今そう言ったのは俺だ。
「何度か諦めるようにはいったんだ。今の姫菜が戸部に…いや、誰かに心を許すとは思えなかったから」
うつむく彼に、俺はこぶしを握る。彼の言っていることはたぶん正しいのだろう。俺が、葉山が海老名さんの気持ちを完全に知るすべはないが、少なくとも彼女が今戸部に心を許すとは俺も思えない。そんなことは分かっている。俺も、彼も、彼女も。
だから俺は次の言葉を止められない。
「海老名さんの気持ちはわかるんだな、お前は。
…じゃあお前はお前の気持ちと、お前に向けられた気持ちはわかるのか」
彼女はそれもわかっていて、なお踏み出すことを望んだ。では、彼は。
葉山は目を見開いて俺を見る。しかし、すぐに諦めたような笑みを浮かべた。
「ああ、わかってる。…それでも俺は変わりたくない。失いたくない」
彼は俺を見て言いきる。その瞳を見て、まっすぐに俺と彼と彼女を見る瞳を思い出す。
ああ。やはり俺は。
この意見に賛同する。
「わかった」
一言だけつぶやいた。
おぼつかない足元を灯篭がまぶしく、どこか儚げに照らす。視界いっぱいに移る竹はまばゆく照らされ、そこには日中とは違った風情が宿っている。
海老名さんと三浦を除く葉山グループ、そして奉仕部の面々は、戸部に呼び出された海老名さんの登場を待っている。彼女が来たらこの舞台の幕は開く。
誰かが少しずつ嘘をついた。由比ヶ浜はどうにかして海老名さんをここに呼び出したのだろう。そして三浦が部屋にいるように取り計らってもいるかもしれない。
三浦は彼の、彼女の気持ちに気が付いている。しかしこの三日間、表向きはそれに気が付かないふりをした。
大岡と大和は友を心配する表情を見せているが、そこには面白がる気持ちが混在し、それを押さえようと神妙な表情をしている。
一人だけなんの嘘もついていない雪ノ下は何を思っているだろうか。皮肉だ。俺は自嘲する。嘘をついている者の気持ちは推しはかれても、まっすぐに前を見る者を俺は見ることができない。その気持ちがたとえわかっても、納得も賛同もできない。
だから俺は戸部に声をかけた。
「おい」
「ヒ、ヒキタニ君!?ちょ、マジやばいわー。これかなりきてるわ」
彼の表情は部屋で見たときと同じくぎこちない。
「お前、ふられたらどうする」
「告白する前からそんなこと思ってるようじゃ、もともとやんないっしょ」
戸部はあきれ顔で答える。そりゃそうだ。でも最終確認だ。
「でも」
戸部は俺をまっすぐに見る。
「諦めらんないっしょ。俺こんな感じで適当な性格だから、今まで適当にしか付き合ったことなかったんだわ。けど今回はまじっつーか」
彼は頬をかきながらも、その目は竹林の先に向けられる。
「…そうか。なら最後まで頑張れよ」
俺は本心から、それだけ言って踵を返した。
背中からは戸部の俺に対する「いいやつじゃん、ヒキタニ君」という声がきこえ、眼前からは由比ヶ浜の「ヒッキーいいとこあるね」という笑顔があった。雪ノ下も微笑を浮かべる。しかし、そういうことじゃない。本当に違うのだ。見て推しはかれないなら、それに確信が持てないなら、聞くしかない。そして受け入れるしかない。それだけの話だ。
俺は戸部が振られる、という予感を二人に話した。予感というよりそれは確定している未来だと俺は思う。二人も予想はついていたのか、俺の言葉にうなずく。
「一応、丸く収める方法はある」
俺は下を向いてそう言った。彼女たちは微笑をたたえながら、俺に任せると言ってくれた。なにも聞かれなくてよかった。俺は心中胸をなでおろす。聞かれたい方法ではない。
彼女の登場を待ちながら、反面俺はその瞬間が一生来なければいいとも思う。
戸部は間違いなく振られる。そしてその先に待っているものはいったい何だろうか。誰かが誰かに気をつかいながらの会話。悟られないための笑顔。楽しい日常はだんだんと歪みが浮き彫りになり、そしてそれが迎える未来は。
だが。俺は自分に言い聞かせる。ここを変えれば、未来は分からないかもしれない。彼女の気持ちが今は彼に向いていなくても、先の気持ちまでは今は分からない。だから彼はこれを回避しようとした。未来のことは分からない、と先延ばしにしようとした。彼女はあんな依頼をした。
集約される願いは一つだ。彼らは手放したくないのだ。その手につかんでおきたいのだ。
俺の脳裏に、まっすぐに俺を見る彼女の瞳がうつる。だが、彼女は違った。変わってもいいと言った。今ある日常を放り投げて、先に進もうとした。彼らが守りたかったものは、彼女にとっても大切なものだ。しかしそれをなげうってでも、欲しいものがあるといった。
だから。それでも。俺にはこの方法しか思い浮かばない。
そしてその瞬間はやってくる。
竹林の先からいつもの微笑みをたたえた彼女が歩いてくる。その表情から、俺はすでに未来がわかった。彼女が変わることはなかった。
「おれさ、その」
戸部は首に手を当て、何とか海老名さんの方を向く。彼女は戸部にいつもの笑顔を浮かべている。いつもと寸分たがわぬ微笑みが、そこにはあった。
戸部を振られないようにし、かつ海老名さんとグループとの関係も良好にする。
俺にはやはりこの方法しか思い浮かばなかった。
「あ、あのさ」
戸部が何とか続く言葉を口にする。間に合うだろうか。
海老名さんの肩が震える。
戸部と彼女が見つめ合う。
残る距離は、数十歩。
海老名さんの視線が下を向く。
いうなら、今だ。
「ずっと前から好きでした」
海老名さんは目を丸くする。
当然だ。誰だって驚く。
戸部も驚いていた。奉仕部も、葉山グループの面々も。そして。
葉山でさえも。
「ずっと前から好きでした。…あーしと、付き合ってください」
三浦優美子は俺に、海老名さんに、その場にいた全員に聞こえる声で、葉山隼人にそう告げた。
葉山はそんな彼女を凝視している。何を見ようとしているのか、何を言おうとしているのか。
良いざまだ。俺は思惑を外されたこととは裏腹に、そう思っていた。今まで逃げてきたツケが、この期に及んで先伸ばそうとした罰が、今来たのだ。俺も、お前も。
何も言えない葉山を尻目に、三浦優美子の声が飛ぶ。
「戸部、あんたもなんか言いたいことあったんじゃないの?」
しかし彼女のその目は、俺に向かっていた。戸部の半歩後ろに立つ、俺に向かっていた。乞うような、祈るような、そして有無を言わせない瞳が俺に向けられていた。
皮肉なことに、真っ向からぶつかった俺たちがとった行動は、その見た目からすれば似たものだった。俺は海老名姫菜に告白しようとした。それで戸部にわからせようとした。避けようとした。先伸ばそうとした。
しかし、その行動の中身は対立していた。真実を告げる三浦優美子。嘘でしかない比企谷八幡。彼女はどこまでも気持ちを見ていて、俺はどこまでもそれを置き去りにした、その先を見ていた。
「あ、ああ」
我に返った戸部は、もう一度海老名姫菜を見る。海老名さんはまだ驚いた表情で口を開けている。
三浦はその間も、俺を見ていた。見据えていた。射据えていた。その彼女に、俺も目を離すことができなかった。渦の中心に目がいってしまうように。どこまでも強い彼女から今度は目をそらせなかった。逸らしたら、間違っていることを認めてしまうことになると思った。
「い、いや、俺こんなんじゃん?本気で人を好きになったこととかなかったんだよね。
でも、さ。いつも優しく笑ってて、なのにたまに何言ってるかわかんなくて、暴走して、…んでもって、いっつもどこ見てるかよくわかんない海老名さんのこと」
戸部は言葉を切る。大きく、深く、長く息を吸う。それと一緒に彼は一息に次の言葉を吐き出す。
俺は彼を遮ることができない。葉山が望んでも、海老名さんが願っても、三浦優美子だけがそれを許さなかった。
「いつの間にか好きになってました。俺と付き合ってください」
直球に、戸部翔は想いを伝えた。
なるほど。
所詮、小賢しいことだったのかもしれない。
想いを伝えた彼の顔を見て、俺は初めて自らのそれに気がついた気がした。