王子様に、憧れてた。
あーしを知ってる人間が聞いたら笑うだろう。信じられない、と驚くだろう。馬鹿にされるかもしれない。
でもあーしはずっと、格好良くて、優しくて、困ってたら助けてくれる。そんなものに憧れてた。理由はよく覚えていない。昔見てたアニメに影響されたとか、絵本の王子様に憧れたとか、多分そんなとこだと思う。
だから隼人を見た時、「見つけた」と思った。格好良くて頭が良くて、いつもみんなのことを考えてて、優しい。そんな隼人に、『王子様』にあーしは夢中になった。
そんな隼人の周りには当然、たくさんの女の子がいた。かわいい子もいた。頭がいい子もいた。優しい子もいた。
でもあーしは負ける気も、退く気もなかった。
隼人は多分、あーしの気持ちもわかってたと思う。だけどずっと、あーしは隼人の側に居られた。隼人はあーしを側においてくれた。
だからあーしは、少しは隼人の特別になってると思ってた。他の子より、隼人のことをわかってると思ってた。隼人はあーしのことを、他の子より考えてくれてると思ってた。
でも、その心地いい関係を、ぬるま湯みたいな関係を変えたくなった。隼人にもっと近づきたくなった。だからあーしは、隼人に告白した。好きって伝えた。
多分、断られるのはわかってた。隼人の側に居たからこそ、隼人があーしを見ていないことを、あーしは知ってた。
それでもいいと思った。今はこっちを見てくれなくても、その目にあーしが映ってなくても、いつかは――
あれ?
あーしは少し、自分自身を不思議に思う。
あーしなんで、急に隼人との関係を変えたくなったんだろう。
なんで、いつかは、なんて考えられるようになったんだろう。
最近は自分で自分がわからないことが多い。今日も朝から、あーしはおかしかった。
結衣と海老名と話してても、何でもない話がいつもよりずっと楽しかった。いつもはクソ生意気なだけの一色だって、差し入れとか雑用とかやってくれてんのが可愛い、とか思っちゃう。雪ノ下さんの料理の腕は本当に凄くて、あーしらしくなく素直に褒めちぎったりもした。
でも、あいつとだけは話せなかった。
つい、目で追っちゃってるのは自覚してた。あいつが一色のチョコ食ってるの見たときはムカついたし、海浜総合の女子とじゃれてるのは見てられなかった。うん、本当はわかってる。
あーしは多分、あいつのせいでおかしくなってる。
でも、もう決めた。あーしも、あいつも、決めた。言葉は足りなかったけど、あいつの言いたいことはなんとなくわかった。あいつもあーしも、筋の通らないことを許せないから。自分の気持ちに筋を通さないと気が済まないほど、バカだから。
だから、仕方ないんだ。もう、迷いたくないから。
「隼人」
だからこれを渡すのは、これを言うのは、今。皆が、ヒキオが見てる、今。
じゃないと、諦められないから。
あーしは横のヒキオを見ないように、隼人の前に立つ。
「これ、受け取って」
あーしはそのチョコを、わざとらしいほどピンク色で、アホらしいほどハート型の箱を、隼人に渡した。
「……これは、ただの試食かな?」
「ううん、違うし。わかってるでしょ?」
わかってるくせに、隼人はそういうことを言う。知ってる。隼人がそういう奴だってことも、知ってる。でも、そんなところだって許せる。そんなところもいいと思える。
あーしが隼人を好きなのも、きっと、本当。
だから驚くほど自然に、静かに、あーしは言えた。
「隼人、あーしと付き合って」
さっきまでざわついていた調理室から、音が消える。
そういえば修学旅行の時もこんな感じだったな。あの時はあーし、泣いたっけ。思い出し、つい乾いた笑いが漏れる。
今度は、多分泣かないで済む。それを考えれば、少し気が楽になる。隼人はため息を吐き、立ち上がる。
「出ようか」
「え、ちょっと、できればここで――」
しかしすぐに隼人に手を取られ、声が声にならない。隼人はあーしの耳元まで近づいて、静かに耳打ちする。
あーしにしか聞こえない声で、隼人は言った。
「俺を、君が諦める理由にしてもらっちゃ困るんだよ」
冷たい声。いつもの優しい隼人からは考えられない。そこに私が最初に好きになった隼人の要素はない。でも。
皮肉なことにその瞬間、一番隼人を近くに感じた。
「このへんでいいかな。さて優美子、続きを聞くよ」
調理室を出て、コミュニティセンターの外まで来た。隼人は入口前の段差に腰掛け、そっとハンカチを敷いてくれ、寒いからと言ってコーヒーを買ってきてくれた。
あーしは、隼人のこういう所を好きになったんだ。優しい隼人を好きになったんだ。
たとえその優しさの向かう先が、あーしだけじゃなくても。
だから、想いを言うことに後悔も、ためらいもない。
「さっき言った通りだし。あーしと付き合って、隼人」
「それは告白ということかな?」
「それ以外ある?」
「いや、あの時の君と随分違うから、ついね」
「……あの時?」
何を言っているんだろう。たまに隼人はよくわからないことを言う。バカなあーしとは頭の回転が違うからだと思うけど、ついていけないことがある。隼人は苛つくわけでもなく、優しく口を開く。
「ずっと前から好きでした」
呼吸が、止まった。
修学旅行の時の告白。あーしは必死だった。気持ちはぐちゃぐちゃで、想いはあふれてきて、言葉は全然纏められなかった。でも。
好き。その一言は、自然と出てきた。
「あの時はそう言ってくれたと思ったんだけど、今はそうじゃないということかな?」
「違う、そういうことじゃない。そんなこと隼人はもう知ってるから、今更言う必要も――」「そんなこと?今更?」
硬い声音に、つい体が揺れた。
「優美子にとって、それはそんなことで、今更なんだ」
「だから違うって言ってるし!そんなのただの揚げ足取りで、全然隼人らしくない!」
「そこまで言うなら、優美子は言える?もう一回」
今度こそ隼人は優しく、いつものように柔らかい声で訊く。
「本当に俺に、好きって言えるの?」
「そんなの当たり前じゃん、あーしは隼人のことが――」
あれ?
言葉が出てこない。
好き。一言じゃん。あの時は勝手に出てきた言葉だ。それ以前だって、確かに隼人に対してあーしはそう思ってた。その気持ちは嘘じゃない。
なのになんで、なんで、なんで、なんで今は。
あの顔が、猫背が、腐った目が、ちらつく。
またあいつが、あーしの邪魔をする。
「言えない?」
「そ、そんなことっ!」
でも、どうしてもその先が出てこない。あーしはバカだ。なんで前はできたことができないの。そんなの簡単なことで、当たり前のことなのに。隼人が好きな気持ちは、本物なのに。
どうしても、言えない。
隼人はあーしの顔を見て目を丸くし、バツが悪そうに頭を掻く。
「いや、僕が悪かった。もういいよ。えーっと、ハンカチは使っちゃってるから……」
隼人はポケットからティッシュを出す。
「はい。使って。泣かせるつもりはなかったんだ」
え。
目に手をやると、確かに濡れてる。泣かないと思ってたのに。今日はフラれても泣けないと、そう確信してたのに。
隼人は優しくあーしの背中を撫で、少し落ち着くと、なぜかため息を吐いた。
「ったく比企谷、本当にどうしようもないな君は……」
「え?なに?」
そのつぶやきは小さすぎて聞こえなかった。あーしが聞き返したことに気づかなかったのか、隼人は今度こそいつもの優しい笑みを浮かべる。
「優美子。やっぱりチョコは受け取れないよ。告白も受け入れられない」
「なんで。あーし、本当に――」「待って。聞いてくれ」
隼人はあーしを短く遮る。
「優美子は勘違いしているかもしれないけど、俺も君のことが嫌いなわけじゃない。いや、好きか嫌いかで言えば、だいぶ好きなほうだろう」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
「……え、ええ!?そうなの?」
「自分で告白しといて、その反応はどうなんだ……」
「だ、だって隼人は、絶対あーしのことなんて見てないと思ってたから……」
「そんなことはないさ。特に、最近はね」
隼人は横並びで座っていた段差から立ち上がり、あーしを見つめる。
「だから俺は、本当は君の告白を受け入れても構わない」
その言葉は、予想もしてなかった。
「なぜそこで止まるのかな、優美子」
何も言えないあーしに、隼人は厳しい目を向ける。でもあーしは、何も言えない。あーしにだってわからないから。
隼人が好きって言ってくれた。それはすごい嬉しいことのはずなのに。
なぜか、胸が痛い。
「本当は告白したくなかったように、僕には見えるんだよね」
違う。そんなことない。またとってつけた言い訳が出てきそうになるけど、いい加減こらえる。あーしはそんな安っぽい言葉を言いたいわけじゃない。そんな言い訳を重ねるために、あーしは隼人に告白したわけじゃないはずだ。
あーしには隼人に言うべきことがある。そのためにここにいるはず。そしてそれは、告白以外にないはずだ。
なのに、なんで。
「答えられないよね。そんな状態で、君に答えを返すわけにはいかない」
隼人はその視線を下に向け、今度は座ったままのあーしの横に立つ。
「優美子、ここが最後だ。ここで君は決めるんだ。さっきも言ったように、俺は優美子のことが好きだ。特にここ最近の……彼と関わるようになってからの君は、俺にはとても好ましく映る。その必死さも、素直さも、弱さも、強さも」
隼人はあーしが思ってるより、あーしのことを見てくれてたんだ。あーしはぼんやりと、そんなことを思う。
「でもそう思ってるのは、きっと俺だけじゃない」
またあいつの顔が浮かぶ。どこまでもあーしの邪魔をする。
「優美子、選んでくれ。考えてくれ。本当は誰にその言葉を伝えたいか。その結果が俺なら、その時は君の告白を断る理由も、俺にはない」
突き放すようなその言い方は今までの隼人とはとても遠くて、見たことがなくて、冷たかった。
「俺は、待ってるよ」
通り過ぎる隼人を、あーしは呼び止めることができなかった。