あーしさん√はまちがえられない。   作:あおだるま

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しかし彼らのバレンタインはビターである。

 

 バレンタイン。それは近年急速に市民権を得たハロウィンなるイベントとは一線を画し、ある程度定番のイベントとして日本人の意識に根付いた文化だ。一般には意中の男性に女性がチョコレートを贈る日とされているが、実際には女子同士のチョコレート交換の場となっているケースが多い。去年の今頃も大きな紙袋を抱えながら、クラス間を行き来する女子たちの姿を数多く目撃したものだ。

 そのおこぼれにあずかるのは、戸部のように軽いノリで女子にチョコをねだる人間だけであり、もはやチョコレートの数が男子のステイタスとなる時代は追憶の彼方へと消え去ったのである。よって俺のような女子とのかかわりを意図的に断つ人間がチョコレートをこの手にしないのは当然のことであり、決してもらえないというわけではない。貰えないかわいそうな男子ではない。チョコレートは製菓会社の陰謀である、というようなモテない中学二年生男子のようなセリフでさえ喜んで言っちゃうまである。資本主義の奴隷へ身をやつすことなかれ、モテない男子諸君。

 

「あー、つーか最近寒いしさー、cmとかでもよくやってるじゃん?ほら、あれよ、あれ。……おー、それでしょー、結衣!ほら、チョコね、チョコ。あーいうの見るとうまそうじゃん?つい食いたくなるっしょ。チョコとか、チョコとか……ほら、チョコとか。……ちょこっと、的な?」

 

 放課後の教室。俺がこんな益体もないことを徒然と考えてしまったのは、もちろんクラス一、いやさ学年一のうざさを誇るうざい戸部のうざい一言によってである。それは俺の高速の帰り支度さえも止める程度のうざさがあった。戸部の話を窓際の葉山グループご一行は笑って受け流しているが、ケータイをいじる一人の女王の額に青筋が立つ。

 

「あ?戸部、さっきからうっさいんだけど。つーかあーしがそんなのあげるわけないことあんただってわかってるっしょ。無駄なアピールはよそでやれし」

 

「あ、アピールって、そんなはっきり言うことないでしょ優美子……」

 

 およよ……と目頭を押さえる戸部を、大岡と大和が笑いながら慰める。何かと多忙な葉山はいないようだった。俺は手を止めたついでに彼らの話に耳を傾ける。決して先に生徒会室に行って一色と雪ノ下のやり取りに肝を冷やすのが怖かったわけでも、一色×雪ノ下の邪魔をしたかったわけでもない。一雪が至高、雪一はうまぶり。

 

「ていうか最初っから優美子に貰えるなんて思ってないって……で、でも結衣は、結衣はくれるっしょ!?」

 

 戸部は最後の希望を託すかのように由比ヶ浜へと懇願の視線を送る。あわあわと三浦をなだめる由比ヶ浜はくるりと戸部のほうを向き、満面の笑みを浮かべる。そのいつもの天真爛漫な笑みに男子三人は安堵から胸をなでおろす。

 

「うん、もちろんあげるよ!戸部っちにも大岡君にも大和君にも!」

 

 しかしてその笑みは、天使か悪魔か。

 

「うん、義理チョコなら、ギリギリあげるから楽しみにしててね!」

 

 子供の純粋さは得てしていともたやすく人を傷つける刃物になる。

 

 三人は由比ヶ浜の微笑み一発でいともたやすくコーナーマットに沈んだ。テンカウントはどう見ても必要ないだろう。その瞳に移るものは涙がそれとも心の汗か。あ、これどっちも涙だったね!

 

「そ、それでもありがたいっしょ!貰えるだけ……じゃ、じゃあ!」

 

 戸部はいつになく素早い立ち直りを見せる。というより由比ヶ浜への問いは前フリだったのだろう。彼は由比ヶ浜に向けていた体を、彼女の横で笑顔を張り付けていた海老名姫菜へと向け、下を向きながら小さく零す。

 

「……海老名さんは?」

 

 戸部翔の質問には情報量が圧倒的に欠けていた。しかし海老名姫菜には、自らをずるいと嘯く彼女にはその質問の意図は十二分に伝わっただろう。海老名姫菜はうーん……と顎に指を当て、そのまま人差し指をピンと立てて戸部翔に詰め寄る。

 

「そっか、戸部君やっぱり気になるんだ」

 

「なっ、そ、そりゃ気にならないわけないっしょ……」

 

「実はね、私も気になってて、悩んでることあるんだ」

 

「そ、それって……」

 

 ズイ、と海老名さんは戸部に体を寄せる。戸部の動揺がその赤く燃え上がった顔から、手に取るように伝わった。

 

 沈黙は数秒だった。

 

 そして、海老名姫奈は絶叫する。

 

「戸部君は葉山君とヒキタニ君、どっちにチョコあげるの!?」

 

「……へ?」

 

 疑問符しか浮かばないのは当然といえよう。

 

 しかし彼女はそんな彼にお構いなく続ける。

 

「ううん、わかる、わかるよ。恥ずかしいのはわかる。でもね戸部君、昨今は『強敵』と書いて『ともチョコ』なんていう男同士でのバレンタインが流行ってるし、実は全然ありなんだよ!私的にじゃなくて、世間的にもありなの!ようやく時代が三人の間に……」

 

「海老名、ストップストップ!鼻血ふけし、鼻血!」

 

「あ、優美子ありがと~」 

 

 ぐ腐腐……またそんな腐った笑いが聞こえ、由比ヶ浜の苦笑いと三浦のため息が混じる。なお戸部大岡大和のずっこけ三人組はずっこけるどころか絶賛ドン引き中である。これに付き合うのは確かに大変だろう。がんばれ、戸部。

 

 海老名さんは鼻血を拭いて紅茶で唇を濡らし、ドン引き中の戸部にいたずらっぽく笑う。

 

「でも、もし欲しいって人がいるなら考えなくはないかな、私も」

 

「へ、それって……」

 

 これでも女の子だからね~。ひらひらと手を振りながら、彼女はティッシュを捨てにゴミ箱へ向かう。

 

 その頬が多少赤く見えたのは、気のせいだったのだろうか。

 

 そんな海老名さんをほほえまし気に、眩しそうに由比ヶ浜は見つめていた。彼女は三浦に向き直り、優しく問いかける。

 

「優美子は誰にもあげないの?戸部っちにあげないのはわかったけど」

 

 あ、結衣までそんなこというんかよー。今度は戸部の非難の声があがるが、彼女は由比ヶ浜はその声を笑いながら受け流し、あくまで三浦を見つめる。由比ヶ浜結衣は何かを三浦優美子に求めている。なんとなく、そう思った。

 

「……べ、別に誰にもやらんとはいってないし」

 

「へー、じゃあ優美子もあげる予定あるんだー」

 

「ぐ……う、うっさい!なら結衣は、結衣は誰かにあげる予定でもあんの?義理以外のチョコを!」

 

 うむ、このポンコツ女王、見事に義理以外のチョコを自分が渡す予定があると自白している。由比ヶ浜が聞いたのはチョコを誰かにあげるかだけである。由比ヶ浜が策士なのか、はたまたこいつが残念なのか。恐らく両方だと思われる。

 

 由比ヶ浜は少し目を丸くし、顔を赤くする三浦をあやすように苦笑いを浮かべる。そして、静かに言う。

 

「あるよ、私も。チョコ、あげる予定」

 

「え、結衣、それって……」

 

 由比ヶ浜の言葉に俺の思考も彼らに向く。由比ヶ浜の目は三浦越しに俺を捉えていた、気がした。

 

「だから覚悟しててね、二人とも」

 

 にっこりと、由比ヶ浜は笑った。なぜかその笑みにかの氷の女王を連想したのは俺だけではなかったらしい。三浦は気圧されたように、珍しく「ははは……」と乾いた笑いを漏らすのみである。

 

 俺は蛇ににらまれたカエルとはこんな気持ちなのかと、哀れな両生類への同情を禁じえなかった。

 

 

 

 

 

「先輩って甘いもの好きですかぁ?」

 

「葉山なら何でも喜んで食うと思うぞ」

 

 放課後の生徒会室。あざとく上目遣いで聞いてきた一色は一転、口をとがらせて机に突っ伏す。

 

「なんですかそのかわいげも何もない態度は……あの、先輩も健全な男子高校生ですよね?ならかわいい後輩にこんなかわいい質問されてる時くらい、照れるなり期待するなり面白い反応してくださいよ。まったく、だからモテないんですよ先輩……」

 

「それは因果関係が破綻しているな、一色。モテないからこういう態度しかとれねえんだよ。期待する余地がねえんだよ。取り違えるなよ」

 

「ああ、より重症でしたね……」

 

「ほっとけ」

 

 フン、と一色から目を逸らす。恐らく彼女もそうだろう。全く合わない。分かり合えない。なんなら俺がわかり合えたことがある人間など妹と戸塚以外にいないわけだが。最近は小町も「節操なさ過ぎだよお兄ちゃん……」などと俺に心底見下した目線を向けているが。お兄ちゃん悲しいが。

 

 しょっぱなから険悪な俺と一色の間を、いつものように由比ヶ浜が取り持つ。

 

「ま、まあまあ、いろはちゃんもこんなこと言ってるけどきっとくれるよ。何だかんだ細かいところに気が付いてくれるし」

 

「そーですねー、あげますよー、先輩にも。お世話になってる人たちにも!」

 

「ほ、ほら!」

 

 ね、と由比ヶ浜は俺の方を見るが、お前は学習が足りなさすぎる。一色は低い笑いを浮かべて続ける。

 

「その辺の売り物を適当にデコレーションして、頭悪そうなラッピングに『○○君へ♡』とか添えとけば、それだけで男受け間違いなしです!」

 

「……は、はは、ははは……いろはちゃんってば、ヤサシイナー」

 

「由比ヶ浜、あまり無理をするな。無茶をするな。そいつのフォローをするのは人類には早すぎる」

 

 俺と由比ヶ浜は目を合わせ、苦笑いというより空笑いをお互いに浮かべる。こいつ、本当に碌な死に方しねえだろうな。むしろ刺されろ。と、由比ヶ浜のジト目も言っていた気がする。

 

由比ヶ浜と一色のやり取りを眺めていた雪ノ下は文庫本を閉じ、紅茶に口をつける。

 

「ああ、そういえばもうそんな季節かしらね。バレンタイン。全く学生の本分は勉強だというのに、製菓会社の陰謀でしかないイベントに労力と財力を浪費し、あまつさえ一喜一憂するなんて……」

 

「ゆ、ゆきのん、それはそれでいろはちゃんとは違う意味で問題かも……」

 

「ですねー……なんかむしろ先輩が言いそうなセリフですし、それ。問題です」

 

「枯れてるな」

 

「何か言ったかしら?ゴミ谷君?」

 

「いえ何も」

 

 氷点下の瞳に一瞥され、俺はおとなしく両手を挙げる。悪いのは俺だけじゃない気がするんですけどね……。

 

 雪ノ下の言葉に、今まで興味なさそうにケータイをいじっていた三浦はそれを机に置き、みょんみょんとその巻いた黒髪を伸ばす。

 

「そういえば、雪ノ下さんは誰かにあげたりすんの?」

 

「……ええ。と言っても男女のものじゃなくて、普段お世話になってる人にあげるだけだけれど。それがなにか?」

 

 突然三浦に話を振られた雪ノ下はあからさまに警戒態勢を敷く。これまでの彼女たちの関係を考えれば当然のことではあるが、三浦はそんなことも忘れたのか、顔を伏せて問う。

 

「ふーん。それって売ってるやつ?それとも手作り?」

 

「いえ、手作りを嫌う人がいないことは把握しているから、作ろうとは思っているけれど……何のつもりでそんなことを聞くのかしら」

 

「別に何かってわけじゃないし。ただ雪ノ下さんがそういうの作れるのなんか意外っつーか……この世の甘いもんなんか全部消えろ!みたいなこと思ってそうだし」

 

 ヒクヒクと雪ノ下のこめかみが動いた気がした。こ、こわいよう……。こわのんだよぅ……。ほら、今も睨まれたし。エスパーかなにか?

 

「……あなたたちの中の私の人物像に限りなく誤解があるようだけれど、まあいいでしょう。料理もお菓子作りも本質的には変わらないわ。レシピ通りに作ればレシピ通りのものができる。科学の実験と何も変わらないの。ただお菓子作りの場合は、そのレシピ通りというのが料理よりもシビアなだけね」

 

「シ、シビア?なに?車?」

 

 そこで日産シルビアが出てくる方が、どう考えても女子高生らしからぬ発想である。雪ノ下は額を押さえて由比ヶ浜の素っ頓狂な質問に答える。

 

「……はぁ。シビア、つまり計量が細かいということ。『料理』は多少適当にやっても大雑把に同じものができるけれど、『お菓子作り』は計量を少し間違えるだけで大失敗なんてことになりかねないの。というか、それはあなただって経験済みでしょう」

 

「あ、そうだねぇ、楽しかったねー、お菓子作り!」

 

「もう二度とごめんだわ……」

 

「えー、何でよー、ゆきのん!そんなこと言わず今年もさ」

 

「絶対に嫌。絶対に」

 

「即答だ!?しかも二回絶対って言われた……」

 

 もう一年近く前の話になる。俺にとっては最初の依頼だった。俺も二度と試食係はごめんである。

 

「へ、へー、結衣もおかし作ったことあるんだ。じゃあ……一色は?」

 

 三浦は雪ノ下と由比ヶ浜のやり取りに口を挟み、ぽけーっとお茶を飲む一色に視線を向ける。

 

「あっ、あたしはこう見えてもお菓子作り得意ですからね。伊達に毎年数え切れないほどのチョコを配り歩いてませんよ!」

 

「自慢になってないわそれ……」

 

「はは……」

 

 雪ノ下がまたこめかみを押さえ、由比ヶ浜が苦笑いを浮かべる。しかし三浦優美子だけは思いつめたように下を向き、握り拳を作る。

 

 なんとなく、彼女の葛藤は分かる気がした。

 

 「そっか、皆チョコ、作れるんだ」

 三浦は彼女らのやり取りの一区切りに、意を決したように顔をあげ、口を開く。

 

「……じゃあ、よければあーしに、チョコの作り方――」「――失礼します」

 

 

 ノックと同時に入ってきたのは、青みがかった長髪をポニーテールにした、か…か…川越さん?違う、川上さんだったかな。いや、川谷だった気もするし……とにかくあれだ、川崎京華の姉だった。

 

「失礼します。……今、話いい?」

 

「……どうぞ」

 

 突然の来訪に若干ため息を漏らしつつ、雪ノ下は川なんとかさんを空いている席に促す。今やここは奉仕部ではなく生徒会ではあるが、今は差し迫ったイベントごとはない。多少の相談事程度はきくのも生徒会としてはあるべき姿なのだろう。

 

「えーっと、じゃあ……」

 

 川崎沙希は、少しバツが悪そうに話を切り出した。

 

 

 

 

 

 

 どうやら彼女の話をまとめると、京華にバレンタインに向けてのお菓子作りを教えてあげてほしいらしい。

 

「だからなんか子供でもできる簡単なお菓子とかないかな」

 

「とかいって、あんたが教えてほしいだけじゃないの?……あんたがチョコあげたい相手いるなんて想像できないけど」

 

「は?あんたと一緒にしないでくれる?そんなのあたしには……」

 

 川崎と目が合った気がする。

 

 速攻で目を逸らされる。童貞とは目も合わせたくないということなのか。ギャルってそういう人種なのか。

 

「とにかくあんたみたいな恋愛脳と一緒にされちゃ迷惑って言ってんの」

 

「は?誰が恋愛脳だって?いつあーしが好きな人間にあげたいって……」

 

 三浦と目が合った気がする。

 

 速攻で目を逸らされる。童貞とは目も合わせたくないということなのか。女王ってそういう人種なのか。

 

 一色はにやにやと三浦と俺、川なんとかさんを見比べる。

 

「あれあれ~?三浦先輩も誰かにチョコあげたいんですかぁ?」

 

「べ、別にあーしはそんなこと一言も」

 

「そういえば優美子さっき教室で本命あげるって言ってたね!」

 

「ばっ、ゆ、結衣!」

 

「まあまあ、わかってるからあたしには」

 

 突然の由比ヶ浜の援護射撃に一色はさらに図に乗る。

 

「三浦先輩、私もわかってますよ、ほんとは好きな人に手作りチョコをあげたい、でも恥ずかしいから言い出せない!そんな乙女心を、私だけは汲み取ってますよ」

 

「えっ、なんでわかって……じゃない!本当にそんなことないから……だからそのむかつくにやけ面やめろって言ってんだし!一色!」

 

 えー、照れなくてもいいのにぃ。まだにやけながら続ける一色に三浦は一通り憤り、一息つく。この場では分が悪いと悟ったのだろうか、早々に一色への追及を終え、咳ばらいを一つ、雪ノ下へと向き直る。

 

「ま、まあいいし。話す手間が省けたと思えば……雪ノ下さん」

 

 今度こそ、彼女と目が合っただろう。しかしそれはすぐに外され、三浦は雪ノ下に問いかけた。

 

「チョコの作り方、教えてくれない?」

 

 あんぐりと川崎が口を開け呆け、雪ノ下が目を丸くして三浦を見ていた。由比ヶ浜は微笑み、一色はやはりムカつくにやけ面を浮かべるだけだ。

 

 そして少し、期待してしている自分が恨めしかった。

 


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