冤罪、という言葉がある。
重犯罪から軽犯罪まで、昔からその存在は問題とされ、現在では裁判所、警察でさまざまな改善が図られている。
しかしそのような現状においても、主に男にとって世にも恐ろしく、そして身近な冤罪がある。そう、痴漢冤罪である。この冤罪の厄介なところは、多くの場合証拠が残らず、セクハラのようにある程度受け手の印象で話が進んでしまうことだ。
「…ヒッキー、パンツって、なんのこと、かな?」
放課後の廊下。先に飛び出していってしまった三浦を追い、俺と由比ヶ浜は生徒会室に向かった。が、その道中。俺は由比ヶ浜から尋問を受けていた。ちらりと横を見ると、由比ヶ浜が光を失った目でじっと、穴が空くほどこちらを見つめている。ひっ。思わず出かけた悲鳴を必死に抑え、俺はなんとか口を開く。
「いや、そのだな…なんつーか…不可抗力っつーか、そもそも見たくて見たわけじゃねえし…」
「ねえ、そんなの当たり前じゃない?ていうか見たくて見てたら、今頃こんなふうにヒッキーはあたしとおしゃべりできてないよね?ゴタイマンゾクであたしの前にいないよね?ね?」
怖い怖い怖い怖い怖い。え、ガハマさん急にどうしちゃったんですかなんですかそのハイライトの一切ない瞳は。恐怖から思わずゴクリと喉が鳴る。もう一度だけ由比ヶ浜を見ると、少し落ち着いたのか顔付きが柔らかくなっていた。ここだ。俺は観念して両手をあげる。
「…はぁ。本当にただの事故で、それだけだ。他意はない。それにその件については一応三浦と話はついてる」
ため息まじりに言う。三浦が奉仕部に入り浸る前。ベストプレイスで、三浦はまっすぐに俺に尋ねてきた。葉山隼人を知ろうとしていた。ほんの数ヶ月前のことだが、今となってははるか昔のことのようだ。…あれ、実際二年近く前のことのような気が…。
どこからか無言の圧力を感じ、俺は背筋を震わせる。由比ヶ浜は俺の言葉に納得がいったのかいかなかったのか、何度か首を捻りながらも、うんうんと頷く。
「ま、それはいいや。いいってことにしとく。…ううん、ていうか本当はそんなこと聞きたかったわけじゃないんだ」
それにしては見たことない目になっていたけどね。ガハマさんじゃなくて、某ガハラさんみたいになっていたけどね!
しかしそれを言葉に出すほど、俺も愚かではない。由比ヶ浜は立ち止まり、逡巡するように窓の外を眺める。おとなしく続く言葉を待った。
「あたし、羨ましいなって思って」
「……なにがだ」
「わかってるんじゃないの?ほんとは」
下手なことは言うわけにはいかない。うつむいて声を絞り出す由比ヶ浜に、俺はなぜかそう思った。彼女の視線がまた迷うように虚空をさまよう。
「優美子、さっき言ってたよね。えーっと…『卑屈で、パンツ勝手に見てきて、上から目線でロリコンで、誕生日忘れられてて、打たれ弱くて、きもい』」
「うっ…」
指を折りながら由比ヶ浜は一つ一つ先ほどの三浦の発言を復唱する。なんかこう、全部ただの事実であることが単純にきつい。今一度思った以上のダメージを受ける俺を由比ヶ浜は笑う。
「ゆきのんみたいに正しいわけじゃなくて、ヒッキーみたいな変な説得力もなくて、…あたしみたいに、合わせてるわけじゃない。でも自分の思ってることをまっすぐに言えちゃうのがさ」
由比ヶ浜は、廊下の先の虚空を見つめる。
「羨ましいよ」
その顔は何を表していたのだろうか。意図的に背けられるように、横を歩く彼女の表情をその茶髪が隠す。
羨ましい。由比ヶ浜はそういった。その言葉はどこか彼女との出会いを思い出させる。何にでも合わせ、全てに迎合する。俺はそれを悪いとは思わなかったが、彼女はそんな自分を変えようとしていたのだろうか。その時の俺には判断がつかなかった。
しかし、俺は由比ヶ浜結衣という女の子を、今は少しだけ知っている。周囲に合わせて、空気を読んで、自分よりも周りの調和を優先し、そして何よりも自分の気持ちを大切にする。優しいだけではない。暖かく、芯の強い女の子。
だから、自然と口は開いた。
「羨む必要なんてないだろ。あの生徒会長はこの学校の誰よりも正しくねえよ。さっきもなんか知らんけど無駄に俺が傷ついたし」
「あはは。確かにそうかもね。…優美子は多分正しくない。あたしだって、正直そう思うよ。あたしは大岡君と大和君を止めようとしたから。『正しく』止めようとしたから、あたしは。
でもね、ヒッキー」
由比ヶ浜はふっ吐息を漏らし、うつむけた顔をこちらに向けた。
「正論って、全然正しくないんだよ。たぶん」
言葉に詰まった。
本当にこれは由比ヶ浜結衣なのだろうか。俺は自問自答する。いや、これが由比ヶ浜結衣なのだろう。彼女は優しいだけではない。
「あたしは多分、大和君たちよりはヒッキーのこと知ってる。だから、違うよって言いたかった。あたしが知ってるヒッキーはそんなんじゃない。大して知らないくせに勝手に決めつけないでって。
でもさ、あたしが何を言ってもそれはどこにも届かなくて、多分…その…「結衣は優しいね」で終わったの、きっと」
由比ヶ浜はぎこちなくも続ける。多分そうなるだろうなと俺も思う。彼女は優しいだけではないが、しかし確かに優しい。それは俺でも知っている。
「だから、ね。思っちゃったんだ。正しくないことでも言えちゃう優美子が、羨ましくって眩しくって、それで」
いつの間にか生徒会室の前まで来ていた。扉の前で何かを逡巡する由比ヶ浜は、俺の方を見ることはなく、扉に手をかけた。
「ずるいなって」
その目は誰よりも強く、前を見据えていた。
各々雪ノ下へ誕生日プレゼントを渡し、ケーキを切り、そこそこに仕事をして生徒会の業務が終了した。奉仕部の時から変わらぬ風習として、雪ノ下と由比ヶ浜は二人で職員室まで鍵を返しに行った。一色はどこかぎこちない俺と三浦をさも愉快そうに眺めていたが、下校を告げる鐘が鳴った瞬間に生徒会室を飛び出していった。
そして現在、昇降口にて。
「げ。ヒキオ」
「人の顔見るなり随分な挨拶だな。…じゃ」
いそいそと靴をひっかけ、俺は極力三浦の方を見ずに昇降口を後にする。彼女とは生徒会室でも会話をしていなかった。平常心。平常心である。あの教室での三浦の文句はただの俺への罵倒であり、罵倒されることならば雪ノ下で充分に耐性はついている。いつかは絶対に許さないリスト常連の雪ノ下に復讐をしなければならないとは思ってはいるが、今はとにかくこの場をどうにか…
「ちょっと待てし」
「ぐえ」
流れるように帰宅する俺の首根っこを後ろから捕まれた。ゲホゲホとせき込みながらも恨めしい目をそちらに向けると…目は、合わなかった。
「…あっ、ご、ごめ…そんな締まるとは思ってなかったっていうか…その、だいじょぶ?」
くるくると髪をいじり、三浦の視線は地面に落ちる。昇降口の明かりに照らされたその顔は寒いというのにほんのり赤い。思わず俺の言葉もどもる。
「…あー、そ、その、なんだ…なんか用、きゃ?」
なんか用か?陽キャ?陰キャですけど?震える声が変にかすれちゃっただけですけどそれがなにか?盛大に噛んだことに軽く死にたくなりながら三浦を見ると、余裕を取り戻したのか彼女はバカにしたように鼻で笑う。
「変なとこで噛むなし…ぷっ」
「仕方ねえだろ。普段人間と話さねえから口周りの筋肉が退化してんだよ」
「…それ言ってて自分で悲しくならない?」
「会話を必要としない究極の自己完結。何なら誇るまである」
「反省する気ゼロだし…ちょっとは反省してくれないと困るんだけど」
三浦は今度は視線を合わせ、非難するような目で俺を見る。
「いや、そうは言われても別にお前に迷惑かけてるわけじゃねえしな…」
「は?」
思わず口を開く俺を、彼女は短く威圧する。
「…アレが、迷惑じゃなかったらなんだっての」
アレ。その一言でわかってしまう。彼女は言った。「一面だけ見て決めつける方がダサい」そして彼女は長々と俺に対する文句と不満を口にした。それは裏を返せばつまり、三浦優美子は俺のことを多少なりとも知っているということであり…いや、そういうことではなく、彼女はただ…。
「と、とにかく!」
おかしな方向に行きかけた俺の思考が、彼女のはじける声で戻される。
「あんたはあーしと違って舐められてんだから、ちょっとは周りのことも気にしろってこと。…一応あんたも生徒会なんだから」
「…へいへい。せいぜい足引っ張らないようにしますよ」
「ちが…いや、そうだけどそうじゃないっつーか…」
なんもわかってねーしこいつ。小さくそう聞こえた気がするが、これ以上の罵倒は御免こうむる。そそくさと立ち去ろうとする俺に、後ろから声がかかる。
「あー、そうだ。…あんたは、どっちにする?」
「は?」
何のことだ。俺は言外にそう尋ねると、三浦は少し苛立たし気に続ける。
「文理選択。放課後もみんな話してたじゃん」
「あいにく俺はその「みんな」とやらに含まれていない」
「だーーーから、すぐそうやって話逸らすなっての。いまあーしは、あんたに聞いてんの」
緑がかった瞳が昇降口の明かりに照らされる。その目は確かにこちらを見ていた。
「他人に言うようなことじゃねえし、大体…俺に選択肢がないことくらい知ってんだろ」
「何回言えばわかんだし。そんなことは今関係ない。…それとも言わない理由があるわけ?あんたに」
三浦は厳しい目をこちらに向ける。まあ、実際俺には葉山と違って進路を隠す理由もない。ついでにこれ以上女王様の機嫌を損ねる必要もない。…怖いわけでは、断じてない。
「…はぁ。ま、文系しかねえよ俺には」
「そ。ま、どーでもいいけど」
なら聞くんじゃねえよ。ちょっとキレてるかと思ってビビっちゃったじゃねえか。
思わず恨めし気に三浦を見てしまう。しかし当の本人はどこ吹く風なのか、のんきに星が出てきた空を見上げている。この女、いつか痛い目に合うべきだと八幡思います。
しかし、その視線はすぐにため息とともに地面に落ちる。
「…隼人は、やっぱり教えてくれなかったな」
小さく漏れたギリギリ聞こえる程度のつぶやき。彼は答えないし、応えない。彼女は知っていたはずだ。そして、それでも彼女は彼に求める。俺はそれを知っていたはずだった。
納得できるかは、知ったことではないが。
「知りたいか?」
「…うん」
「どうしても、か?」
「そう、だと思う」
何が、とはお互い口にしなかった。なぜだろうか。慣れ合うことは、誤魔化すことはお互いによしとする性格ではない。そのくらいは知っているつもりだった。
ならば、なぜそれを口に出すのを避けるのだろうか。まったくわからなかった。
だから、俺の口は勝手に動いた。
「本人にきいても仕方ないなら、別のアプローチを試せばいい。同級生で弱いならもう少し上の立場の人間に聞いてみる手もあるだろう。雪ノ下姉でもいいし、なんなら平塚先生に聞いてもいい。あの人は生徒会の顧問もやってるからいつでも聞けるし、担任だ。妙に口が軽いところがあるから俺からでも聞けば案外すんなり…」
「…ッッッ!そんなこと!」
普段ではないほど滑らかに動く口に反して、俺の顔は下を向いていたらしい。突然上がった声に顔をあげると、そこにいる彼女は。
「そんなこと、いつあんたに頼んだ?」
何の表情もなかった。
「あーし、今あんたにどうにかしてなんて頼んでない」
「…そうだな。すまん」
なぜか腹が立っていた。確かに彼女から今、明確に何かを頼まれたわけではない。事は将来に関わることだ。軽々しく、勝手に踏み込んでいいことではない。わかるつもりになるのは傲慢というものだ。
素直に謝るが、反対に彼女は語気を強める。
「なんで謝んだし」
「いや、なんでって、見るからに腹立てて…」
「ほら」
彼女は昇降口に落ちていた石を強く蹴る。俺たち以外いない空間に硬質な音が響く。
「なんであーしが苛ついてるか、全然わかってない。あんたは」
「…お前もわかってねえだろ」
「あ?」
差し向かいでにらみ合う。彼女はいつでも人の目をまっすぐに見る。いつもはその視線に耐えきれないが、今は自然と見ることができた。激情のこもった瞳に、やはり俺は腹が立った。求める彼女に、応えない彼に、そして苛立っている自分自身に。
「帰る。お疲れさん」
「ちょ、話はまだ終わってな…」
呼び止める彼女を無視し、俺は駐輪場へ向かった。下校時刻を過ぎた駐輪場は不気味なほど静かで、最近調子の悪い自転車からは錆びたような音が耳に付いた。
やはり、余計に腹が立った。