なぜこんなことになっているのだろうか。
「私、葉山先輩のことが好きです」
パレードを見る由比ヶ浜たちに駆け寄ろうとしたその瞬間。一色いろはの声が響いた。彼女らは由比ヶ浜達から離れたところにいて、俺はパレードを見る由比ヶ浜たちと合流する前にその現場に居合わせてしまった。雪ノ下はまだ気分が悪いと近くの手洗いに先に寄っており、遅れて合流することになっている。
一色は俺に気づいていないのか、返答のない相手に声を荒げる。
「聞いてますか?…三浦先輩に言ってるんですけど」
「…聞こえてるっての。あーしこそあんたにだから何?って聞きたいんだけど」
一色の告白の相手は、三浦だった。彼女たちは差し向いでにらみ合っていた。彼女たちの間を時折パレードのまばゆい光が通り抜ける。
「あんたが何言いたいのかわかんないけど、そんなことならあーし早く隼人のとこ戻りたいん――」「――それですよ」
一色は葉山の方を見る三浦に、更に声を荒げる。
「三浦先輩、本当に葉山先輩のこと好きなんですか?」
「は?」
三浦は一色の意図が読み取れないのか、素っ頓狂な声を出す。
「どういう意味?あんただって…修学旅行のこと知ってるっしょ?」
修学旅行。照明が足元を照らす竹林の中、三浦は葉山にフラれた。一色は一つうなずく。
「ああ、すみません。私の聞き方が悪かったですね。三浦先輩が葉山先輩のことが好きなのは知ってます。ただ…三浦先輩、葉山先輩よりも好きな人っていませんか?」
「…あーしやっぱ戻る」
「逃げないでくださいよ」
うつむきその場を離れようとする彼女の手を一色がつかむ。
「三浦先輩が目で追ってるのは誰でしょうか。一緒にいて落ち着くのは?今日は誰と話してる時が一番楽しかったですか?」
「…ねえ、一色。仮にそうだとして、なんであーしがあんたにそんなこと言わなきゃなんないわけ?」
「私も葉山先輩のことが好きだからです。たぶん…本気で。だから、答えてください」
一色の言葉は何も正しくはない。俺にも彼女の真意は分からなかった。彼女が三浦の何を知っていて、何の権利があってそこまで三浦に問いただすことができるのか。しかしその言葉を聞いた三浦の声は詰まる。
「じれったいですね。…はっきり、聞きます」
何かを迷い続ける三浦に一色は大きく息を吸い、パレードを見てはしゃぐ由比ヶ浜達を一瞥する。一色が三浦に視線を戻す瞬間、その瞳が俺に向けられた気がした。一色は三浦をまっすぐに見つめる。
「三浦先輩は、本当に葉山先輩が好きなんですか?もしもっと好きな人がいるなら、気持ちとか行動とか、もう少しだけ考えてくれませんか?私にも、葉山先輩にも、奉仕部の二人にも、今のままじゃ良くないと思うんです。うまく言えなくて申し訳ないんですけど。…三浦先輩は、誰が一番大事なんですか?」
「…」
まっすぐに見つめる一色の視線から逃れるように、三浦は顔を伏せる。今度こそ言いたいことは言い切ったのかうつむく彼女を急かすこともせず、一色は三浦からの返答を静かに待っていた。
そして俺は。その問いに対する彼女の答えを、聞きたいと思ってしまっていた。
三浦は何度か葉山と一色を見比べ、一色の視線を受けて小さく吐息を漏らす。数秒、三浦の目が閉じた。次の瞬間、彼女の口から出た言葉は。
しかし。
「比企谷君?何そんなところでぼーっと突っ立っているの?パレードの光はあなたには眩しすぎたかしら」
俺は思わず声のかかった方向に振り向く。手洗いから戻った雪ノ下はどこか呆れ顔でこちらを見ている。俺は早口に彼女に答える。
「その程度でノックアウトされるくらいならとっくに帰ってる。…もういいのか?」
「ええ。だいぶ気分もよくなったわ。早く由比ヶ浜さんたちと合流しましょう。由比ヶ浜さんも随分と楽しみにしていたようだし、パンさ…彼女の好きなキャラクターもパレードに出るそうよ」
「パンさんなら由比ヶ浜が写真撮ってくれてると思うけどな」
「…そう。別に私はどうでもいいのだけれど」
雪ノ下はあからさまに俺から目をそらし、由比ヶ浜たちの元へ駆け寄る。パンさんを好きなのは誰なんですかね。
俺も由比ヶ浜達に…いや、三浦と一色に視線を戻す。しかしすでに彼女たちは由比ヶ浜達のところに戻っていた。一色は葉山の隣で笑っている。そして。
三浦は一人、輝く行列を見つめていた。
「ヒッキー、あたしたちここで降りるね。優美子は…」
ディスティニーランドの帰りの電車。葉山たちはすでに電車から降り、残ったのは生徒会のメンバーのみとなった。何か言いかけた由比ヶ浜を遮り三浦は口を開く。
「あーしはもう一つ先で降りるからいい。結衣、今日は楽しかったし」
「…うん、あたしも楽しかった!またみんなで一緒にいこ!ね、ゆきのん」
「え、ええ。私も楽しくないことはなかったわ」
雪ノ下は満面の笑みを浮かべる由比ヶ浜から目をそらし、小さくこぼす。そんな雪ノ下を見て一色が意味深な笑みを浮かべる。
「またまたー、雪ノ下先輩あんなにはしゃいでたくせに、そんな素直じゃないこと…」
「一色さん?あなたにはクリスマスイベントで一番きつい仕事をしてもらおうかしら?」
静かな笑みを浮かべる雪ノ下を前に、一色は慌てて彼女の機嫌を取る。二人をなだめる由比ヶ浜が俺と三浦に別れの挨拶をしながらホームへ降りる。窓の外で雪ノ下にヘコヘコと頭を下げる一色と一瞬だけ目が合った。彼女は一瞬悪戯っぽい笑みを浮かべ、小さくウインクをしたように見えた。
「…」
残された電車。俺と三浦の間に沈黙が降りる。重ねて言うが俺と彼女の間での沈黙は珍しいことではない。しかし無意識に視線は横の三浦に向かってしまう。彼女は一色の問いに何と答えたのか。一色はその答えをどう受け止めたのか。なぜ三浦は一人でパレードを見ていたのか。そして…なぜ俺はそれを気にしてしまっているのか。
「ヒキオ」
「おう」
そろそろ降りる駅が近づいてきた。気づけば同じ車両に俺たち二人の他に乗客はいない。携帯をいじる三浦は、その視線を落としたまま口を開いた。
「今日、あんた楽しかった?」
「…は?」
おおよそ彼女らしくない言葉に俺は困惑した。他の人間がどう感じていようが自分のしたいことをし、自分の気持ちを通す。俺の知る三浦優美子はそういう人間だった、はずだ。彼女はパカパカと携帯をいじりながら続ける。
「あんた、今日ディスティニーランド行って楽しかったかって聞いてんだけど」
「人がごみのようにいて率直に言えば疲れた」
「そんだけ?」
「…まあ、小学校の修学旅行よりかはましだったか」
声を低くする三浦に、俺はつい本音が漏れる。はしゃぐ班員の3歩後ろを一人うつむき歩くディスティニーランド。小学校ではクラス替えが二年に一回だったため、六年生のクラスでは修学旅行時点で人間関係は完全に出来上がっており、俺がどうこうする余地はなかった。班員全員で取った写真で俺だけ完全に部外者のようになっていた過去はすでにデリート済みである。そんな過去を思い出したことが表情に出ていたのだろうか。彼女は口を歪める。
「あー、あんた小学校の時からぼっちだったん?」
「何言ってんだ。俺の魂はスモックを着こなす紅顔の美少年だった頃から孤高なんだよ」
「は?あんたこそ何言ってっかわかんないんだけど。キモ」
ぐさり。三浦の短い言葉がどこかに突き刺さる音がする。なんでだよ幼稚園児のスモック姿最高にかわいいだろうが。俺は今一度小町やけーちゃんのそれを思い出し、俺の幼稚園時時代を思い出す。…うん、かわいい女の子が着るからかわいいだけですね。はい。三浦はジトリとした視線を向けたまま独り言のように続ける。
「…でも今日はその小学校の時より楽しかったんっしょ?」
「楽しくないことはなかった、くらいだな。とにかく人が多すぎて疲れ――」「――それってさ」
ため息とともに出た俺の言葉は三浦に遮られる。俺は思わず横の彼女に視線を向ける。彼女と視線がぶつかった。その瞬間三浦は何かを迷うように目を泳がす。
ためらう彼女、他者の気持ちをうかがう彼女。らしくない三浦優美子を今日は随分とみている気がする。
そう。一度口にした言葉は、もう戻すことはできない。
「雪ノ下さんと結衣がいたからじゃないの」
彼女はもう俺を見てはいなかった。その目は窓のはるか向こうのどこか。視点の定まるところはわからない。俺も何とはなしに窓の外を見る。そこに映るのは何でもない、ただの暗闇。綺麗でも特別でもない。俺も、彼女も。
「結衣は、楽しそうだったし。あんたと雪ノ下さんと一緒にいて。あーしはあんな楽しそうな結衣をクラスでも外で遊んでても見たことない。雪ノ下さんもそう。あーしらみたいに、なんつーか…普通に?楽しそうな雪ノ下さん見たことなかった。そんで…あんたも、そうだったし」
問いにすらなっていない。俺は彼女のそれに対する言葉を持ち合わせていない。彼女よりも、誰よりも、その問題を無いものにしようとしていたのは俺だった。彼女たちと過ごした静かな部室。ともに依頼に当たった日々。横並びで歩いた修学旅行。代えられるべくもない。
しかしそこに、彼女はいない。
「あんたも楽しそうだった。クラスにいる時、あんたいっつも周り意識して、警戒して、誰と接してる時も…あーしと話してる時も、一線引いてるし。でもあの二人と一緒にいる時、あんたは」
「それがお前に」
何の関係がある。しかし続く言葉は出てこない。それはどこまでも正論だ。奉仕部で過ごした時間に彼女は何の関係もない。しかし、だからといって俺が三浦と居た時間が無くなるわけでもない。結局意味のないことだ。それはお互いにまったく交わらないし、その必要がない。自分と過ごした時間以上に楽しい時間を、その人間が他者と送っていないわけがない。それを俺は知っている。俺に優しい人間は誰にでも優しいし、それ以上にだれかを想っている。例えば彼女であれば、彼のことを。
「あーしは、楽しかったし」
「…は?」
俺の思考は彼女の言葉に遮られる。なぜならそれは俺にとっては当たり前だったから。そうだろう。彼女は楽しかったはずだ。彼と、葉山隼人とともに過ごす時間が三浦優美子にとってどういう意味を持つか、その気持ちを少しでも垣間見た俺がわからないわけがない。ただ。俺は少し恨めしく思う。
わからない振りくらい、許されないものだろうか。
「あーしは、楽しかった」
「はあ。何回も言わなくても知ってる。つーかその葉山とお前今回進展あったのか?どうでもいいがいつまでもお前の恋路に付き合わされるこっちの身にも――」「――そうじゃなくて」
俺のため息はまた彼女の言葉に遮られる。自分の発した言葉自体に驚いたのか、彼女は少し頬を染め、ブンブンと腕を振る。
「ほ、ほら、朝あんたに、その…た、助けられて?普段も色々隼人の事とか付き合わせてるし、なんつーか、生徒会にも道連れみたいに入らせたし、その、悪いと思ってないことはないって言うか、だからって言うか…」
「…はあ。だからなんだ。万が一お前が本当にそう思ってたとして、今そんなこと何の関係もねえだろ」
「だから!」
袖を引っ張られる。三浦の顔がすぐそこにあった。その長いまつげがパチパチと揺れる。何が起こったのか理解できなかった。それは彼女も同じだったのか、目を丸くしてこちらをじっと見る。
「だから、あーしは」
そのまま数秒。三浦は言うべきことを思い出したのか慌てて口を開きかける。しかし、その声は電車のアナウンスにかき消され、彼女は顔をあげる。三浦の降りる駅だ。
「…じゃ、あーしここだから」
「おう。ま、今度は絡まれないように気ぃ付けて帰ってくれ」
「うっさい。別にあんたに言われるまでもないっての。…ヒキオ」
電車が止まった。プシュー、と言う間の抜けた音とともにドアが開く。彼女は席を立ち、ホームに足を下す。その長髪をなびかせて最後にこちらを振り向いた。
「あーしも楽しくないことはなかったし。…あんたがいて」
またどこか抜けた音楽とともにドアが閉まる。三浦の顔がガラスの向こう側で歪んだ。彼女はでもね、と儚げに笑ったように見えた。
「あんたがいなかったら、こんなに考えなくて…」
バタン。
その声が俺に届く数瞬早く、列車は次の駅へと向かっていた。