「け、結構スリルありましたね…」
ジェットコースターから降りた一色は頭を押さえ、青い顔をしている。足取りも若干危ない気がするが、どうやらいつもの計算込みのあざとさではなく素のようだ。そんな彼女を案じた三浦が一色に水を渡すと、一色は礼を言って受け取る。やっぱりお母さんじゃねえか。
「そうね、こんな危険なものに子供を乗せる親御さんの気が知れないわ」
そこまで言いますか?雪ノ下は一色の震える声に激しくうなずく。文句を続けようとする雪ノ下を由比ヶ浜がまあまあ、となだめる。
「ほ、ほらほらゆきのん、次はパンさんのアトラクションだからさっ」
「…別に私は全然楽しみといわけではないのだけれど。ただ由比ヶ浜さんが行きたいというから…」
雪ノ下は少し頬を染めぼそぼそと何かつぶやき、由比ヶ浜が困ったように笑う。しかし横からえー、と間延びした声が聞こえた瞬間、雪ノ下は顔を上げた
「パンさんてかわいくなくない?あーしおしゃまキャットメリーちゃんのいきたいんだけどー」
命知らずの声の持ち主は言うまでもなく三浦である。はわわわ…雪ノ下のパンさん好きを知る俺と由比ヶ浜は口に手を当てて戦慄する。雪ノ下の猫とパンさんへの愛は由比ヶ浜をして測りがたい。案の定すぐに雪ノ下は三浦に噛みつこうとする。しかし。
「ちょっと、三浦さ――」「――えー、そうですか?私も好きですけどね、パンさん。ほら、かわいく見せようとしてないところがかわいいっていうか。ね、葉山せーんぱい」
「…うん、そうだね」
あざとくアピールする一色にさえぎられた。この一色の言葉にはさすがの葉山も苦笑いで返すしかなかった。『かわいく見せようとしてないところがかわいいっていうか』。お前、鏡の前でもう一度言ってみろ。おそらく全員の胸に去来した思いだったと思うが、雪ノ下はどうやら一色の言葉で機嫌を直したようだ。うん、うんとしきりに頷いている。…いいのか?それで。
パンさんのアトラクションから降り、そこで土産を見ているとすでに昼食をとるにはかなり遅い時間になっていた。まあ時間がかかったのは土産物屋でいつまでも目を輝かせながらお土産を吟味していた人間がいたからだが。雪ノ下さん、いくらなんでも小町くらいあるパンさん人形は流石に持って帰れないと思うの。はしゃぎ回る雪ノ下を前に、一緒に小町へのお土産を選んでいた由比ヶ浜が苦笑いを浮かべる。
「あはは…ゆきのんほんとに楽しそうだね」
「まあ、いくら何でもはしゃぎ過ぎだとは思うが…」
きょろきょろと周りを見渡し、おもむろにレジ横のパンさん等身大?人形と一人自撮りを撮る雪ノ下を眺め、俺はため息を吐く。それを見て流石の由比ヶ浜も頬を引きつらせる。
「た、楽しそうでいいじゃん。こんな楽しそうなゆきのん見るの初めてだし」
「確かに楽しそうではあるな」
はじめから、不自然なほど。俺は心の中でそう付け足す。最初雪ノ下がディスティニーの回り方を提案した時から覚えていた違和感。俺はここではっきりと確信する。これは俺の知っている雪ノ下雪乃ではない。長く奉仕部での彼女を見ていたから昔に比べ多少素を見せることに慣れてはいたが、今は葉山たちもいる。にもかかわらず彼女は年相応にはしゃぎ、葉山の意見を素直に聞き、彼らのグループとも普通に話している。それは俺の知る雪ノ下雪乃像ではない。いつでも一人凛と立ち、よりどころを求めない。それが俺の知る雪ノ下雪乃だ。俺の言葉に含むところを感じたのか、由比ヶ浜は遠い目で雪ノ下を見る。
「たぶん、ゆきのんは気づいたんじゃないかな。あの選挙で」
「…何にだ」
俺は少し声を固くして尋ねた。あの選挙の話をされるのはいい加減辟易していたから。それもある。しかしそれ以上に、あの選挙で雪ノ下が生徒たちの支持を下げるような演説をした理由が未だにわかっていなかったから。同じ空間で同じ時間を過ごしていたはずの由比ヶ浜だけが雪ノ下の思惑、その心の内に触れているように感じたから。俺だけ、そこから置いて行かれているように感じたから。自然と声が低くなった。由比ヶ浜は彼女らしくもなく、カラカラと見透かしたように笑った。
「へへ、ヒッキーでもわかんないことあるんだね」
「何を言っている。俺にはあっちもこっちも、わからないことだらけだ。まずこんな時期に俺がなんでこんな所にいるのか、意味が分からん」
「えー、いいじゃん。人一杯いるのもクリスマスって感じして楽しいし!」
「由比ヶ浜、それは前提がおかしい。なんでクリスマス=楽しいっていう方程式が成り立っちゃってんだよ。俺を論破しようとするならまずその方程式の証明からにしろ」
俺の至極もっともな問いに、由比ヶ浜は呆れたように首をひねる。俺にとってクリスマスとは別に特別な日ではないし、楽しいという思い出もない。だからそんなかわいそうな者を見る目で見ないでください。彼女は少しだけ思案し、はしゃぎ回る雪ノ下、葉山を間に挟む三浦と一色、別々のお土産を見ているにもかかわらず、なぜか同様にテンションマックスの海老名さんと戸部を眺め、ポンと手を打つ。
「ほら、こんな楽しそうな皆、普段なら見れないじゃん」
俺が言い返すことのできる言葉はない。なによりも先ほどまで話にあった雪ノ下を見ればそれは証明されている。彼女のらしくないはしゃぎっぷりは、クリスマスの熱に浮かされているものなのだろうか。ううむ、やはり策士、由比ヶ浜結衣。予想以上に難解な答えが由比ヶ浜から返ってきたことに戸惑いつつ、少し考えを深める。黙った俺を見て由比ヶ浜は勝ち誇ったように笑う。
「やーっぱり、ヒッキーよりはあたしのほうがわかってるみたいだね!ゆきのんのことと、それにゆみ…」
何か言いかけ、由比ヶ浜は口をつぐむ。しかしすぐにこちらに笑顔を向ける。
「優美子も、いつもより楽しそうだし。ほら皆楽しいんだよ!」
「結局ゴリ押しじゃねえか…それに三浦なら葉山さえいれば場所とか時間なんて何でも…」
「ううん」
彼女の短い否定に、俺の言葉は最後まで続かなかった。
「優美子、いつもより楽しそうだよ。…やっぱりヒッキーにはわかんないかもね」
「わからなくて結構。あのわがまま娘の気分に振り回されたいとも思わねえよ」
「バーカ」
由比ヶ浜はベー、と舌を出す。バカにバカ呼ばわりされるとは、これいかに。しかし確かに俺には分かっていないことを見透かしているような余裕の由比ヶ浜に、俺は返すことのできる言葉を持ち合わせていなかった。
その後昼食を取ろうと座れる場所を探したが、レストランやフードコート系の施設はどこも人で溢れかえっており、入った瞬間雪ノ下が卒倒しそうだったので却下となった。しばし雪ノ下はベンチで休み、戸部が屋台で買ってきたホットドッグやらチュロスやらを食した。うむ、うまい。やはり戸部は基本的にいいやつだ。うざいけど。
そしてパレードの時間も迫ってきた夕刻。俺と雪ノ下はほかのメンバーと別行動をし、現在はジェットコースターの列に並んでいた。というのもあるアトラクションに並ぼうとしたところパレードの通路確保のロープに遮られ、由比ヶ浜たちと分断されてしまった。そのためアトラクションには別々に並ぶことになった。パレードが近いこともあり待ち時間自体は30分程度で、もうこのままジェットコースターに乗ってしまった方が早そうではあった。そう雪ノ下に言うと、雪ノ下は上ずった声で何度かうなずく。しかしジェットコースターが近づくにつれ顔を青くする雪ノ下に、俺は嫌な予感を覚える。そう言えばこいつ、スぺマン乗ったときも「こんなものに子供を乗せる親の気が知れない」とか言ってたよな…。
「雪ノ下、一つ確認していいか?」
「なにかしら」
雪ノ下はいつもの毅然とした態度で俺に問い返す。俺も彼女の反応を見逃さないように雪ノ下の目を見る。
「もしかしてお前、こういうの苦手?」
「…苦手、というわけではないけれど」
雪ノ下はあっていた視線をフイと下に外しうつむく。あー、これはあれですね。最近よく見るダメな方のゆきのんですね。だめのんの方のパターンですね。彼女の様子を見て俺は出口に目を向ける。
「お前、そういうの先に言えよ。…出るぞ」
「べ、別に乗れないというわけではないわ。大丈夫よ」
「得意じゃないんだろ?」
俺がそう問いかけると、彼女は眉根を寄せ、少し語調を荒げる。
「大丈夫だと言っているでしょう。乗りましょう」
「あほか。そんな意地張るようなことでもねえだろ」
「…そういうことじゃないわ。本当に大丈夫だから」
そうつぶやいた彼女は。いつもの凛とした視線は虚空をさまよい、年相応の幼さを醸し出していた。
「由比ヶ浜さんと一緒の時は大丈夫だったし…それに、今日は決めてるから」
「何をだ?」
思わせぶりに言う彼女に俺は素直に問う。もしかしたら少しおかしい今日の彼女を知ることができるかもしれない。少しの希望を抱いて尋ねた俺に、彼女は当然のように答える。
「好きなものは好きだし嫌いなものは嫌い。ただそれだけよ。だからジェットコースターも嫌いということにはならないわ。私が乗りたいと言っているのだから」
「…」
明らかに彼女らしからぬ言葉。しかしその笑顔は不思議と不自然ではなかった。
「…おい、大丈夫か?」
ジェットコースターに乗ると横に座る雪ノ下の顔がとうとう今まで見たことのないほどに青くなる。いや、こいつ絶対ジェットコースター苦手でしょ…。俺は改めてそう思う。彼女はそれを隠す余裕もないのか、乗る前までの態度とは一変、すぐに俺の言葉に首肯する。
「本当にこういうの得意じゃないんだな」
「ええ…昔ちょっと姉さんがね」
「またあの魔王の仕業か…」
俺はかつて雪ノ下がされたであろう悪戯、からかいを想像する。彼女もそれを思い出しているのか、青い顔をさらに真っ青にする。
「小さい頃、こういうところに来ると姉さんすごく楽しそうに私にちょっかいを出してきたわ。大人から見たらその姿は天真爛漫にしか映らないでしょうね…」
「妹から見たらどうだったんだろうな」
俺の言葉を聞き、雪ノ下はふふっ、と笑みをこぼす。
「そうね。今でこそ、その頃の思い出がマイナス方面に増長されて苦手だけど、その時の私は本気で姉さんの悪戯を嫌がっているわけではなかったのでしょうね」
「…Mのん?」
「今何か言ったかしら?」
「何でもありません」
氷点下の視線をこちらに向ける雪ノ下に、俺は口笛で返す。さっきまでの大人しさはどこ行ったんですか。俺が目を合わせないようにすると、雪ノ下は深くため息を吐くと、小さく、普通ならば聞き逃してしまうほどかすかにつぶやく。
「姉さんはいつもそう…」
そのつぶやきは何を指していたのだろうか。先ほどまでの彼女の変調の理由さえわからなかった俺に、それを知る術はもちろんない。また返す言葉を失った俺に、雪ノ下は笑って続ける。
「だからね、比企谷君。私、今度は決めているのよ」
「何を?」
反射で聞き返す俺に、雪ノ下はいたずらっぽい微笑みで返す。彼女らしくない子供っぽい笑みになぜか背筋が凍った。
「今度万が一姉さんと一緒にディスティニーに来たら、トラウマが残るくらい一緒に楽しんであげようと」
「…あの人にその手の勝負で勝てると思ってるのか?」
「問題ないわ」
外面完璧な癖に中身は子供でスペックは雪ノ下と同等以上。おまけに体力無尽蔵。チートもいいところだ。返り討ちに遭うであろう雪ノ下の姿を想像して訊き返す俺に、雪ノ下は前を向き一言だけつぶやいた。
「今日も楽しくないことはないもの」
視界が開ける。眼前には人で溢れたディスティニーランドと満点の星空が広がる。浮遊感を覚えコースターが下を向く瞬間、袖口を握られた気がした。思わず横を見る。
彼女は泣きそうな顔で笑っていた。
「お前、本当に大丈夫か?」
ジェットコースターから降りた後、あからさまに顔色が悪くなった雪ノ下にジュースを渡す。雪ノ下は礼を言いながら値段を尋ねる。
「いや、いい。病人から金を巻き上げるのは気が引ける。救急車は料金取らねえだろ」
「救急隊員だって正当な報酬を…」
呆れた様子で言いかけながら、雪ノ下は笑いを漏らす。
「そういえば前にもこんなことあったわね」
「そうだったか?」
「店員に取ってもらったぬいぐるみ。どちらが受け取るかで口論した」
「…ああ」
確か初めて陽乃さんと会った時だ。雪ノ下も同じことを思いだしたのか、少し苦々し気に続ける。
「あなた、初めて会っていきなり姉さんのことを言い当てるから驚いたわ」
「ただなんとなく思ったことを言っただけだ。それにあの人見透かされても取り繕わないしな」
「…そうね。そんなところも姉さんの魅力なんだと思う。誰もがあの人を誉めそやす。その裏で私は愛想がない、可愛げがない…いろいろ言われていたこと、知ってるの」
雪ノ下は少し視線を落とす。その言葉は俺に向けられたものなのか、自身に向けられたものなのか、それとも別の誰かか。彼女の伏せられた目からそれを推しはかることはできない。
しかし、俺はすでに知っている。彼女は強かで、一人凛と立ち、よりどころを求めない。そんな俺の幻想のような脆い存在じゃない。姉に憧れ、親の期待に応えようと努力し、そして自らの周囲の人間を守ろうと必死に手を伸ばす。そんな不完全で、不確かで、だからこそ俺では届かない、そんな女の子だ。彼女は妥協を許さず、ベターエンドもハッピーエンドも必要としない。トゥルーエンドのみを愚直に求め続ける。その姿は全員のバッドエンドが全体の幸福だと信じていた、今でもそう思っている俺と鏡写しのように重なった。だから俺は彼女に問わずにはいられない。
「今でもああなりたいのか?」
「いいえ」
予想に反してその返答はすぐに出た。いつの間にか雪ノ下は落とした視線をまっすぐにこちらに向けていた。
「私はああはなれない。あんな風に周りのすべてを欺いて、自分すら騙して、それでも自分の信念を貫く。そんなに強く生きることはできない。あなたみたいにすべてを助けようとすることだってできない。…親の望む「私」にだって、ならない。あの選挙で、彼女と一緒にいてそれがわかったわ」
絞るように声を紡ぐ彼女は、俺の知っている雪ノ下雪乃ではなかった。弱く、拙く、小さく儚い。そして彼女はそんな自分を誇っている。そう俺には見えた。雪ノ下は笑って続ける。
「あの選挙で私は負けた。あなたと、彼女に負けた。…あなたはなんで私があんな生徒たちに反発されかねないことを言ったか、不思議に思っていたのではないかしら」
俺はあの選挙を思い出す。忘れるわけがない。彼女は言った。自分がすべての相談に乗る。そのうえでそれぞれが自らで自らの問題を解決できる。そんな学校づくりを自分ならできる。自分にはその能力がある。だから自分に投票しろ。彼女は短い言葉で全校生徒に言った。その真意は俺にはつかむことができなかった。平塚先生も、由比ヶ浜も雪ノ下の発言の意図を掴んでいた。しかし俺にはわからなかった。
「人ごとこの世界を変える」
彼女は戸惑う俺に短く言う。忘れもしない。雪ノ下雪乃と会ったばかりの時、俺がまだ彼女と友達になれると思っていた時。彼女が俺に言った言葉。その時の彼女のその言葉はどこまでも頑なで誰も寄せ付けず、だからこそ脆い。俺はそう思った。
「彼女は…いえ、三浦さんは、確かに私たちの周りを変えた。彼女を見て私は、私がしたかったことを思い出したの。だからそれを言っただけ」
「…勝ち戦を落としてでもか」
「ええ、その通り」
俺の問いに彼女は当然のように答える。その答えには一片の淀みも迷いもなかった。
「だって仕方ないじゃない。それが私が本当に言いたかったことなのだから。本心をぶつけて、その結果が敗北ならそれは仕方ない。…自らを偽って勝つことに意味などないのだから」
何も言えなかった。彼女は誰よりも勝ちたがった。姉に追い付くため、期待に応えるため、自分を偽ってでも勝ちたがった。ルールは守る、正攻法を使う。それは周囲に自らの存在を余すことなく認めさせるため。しかし、今彼女は。
「最善を尽くして、それでも生徒たちのニーズにより合致したのが彼女とあなたの演説だった。ただそれだけよ。だから…次は勝つわ。私、意外と負けず嫌いでわがままなのよ」
今度はいたずらっぽい笑みを浮かべる。それに対する返答はすでに確定していた。
「いや、それは知ってる」
「でしょうね。…あなたは、これからどうするのかしら」
彼女から漏れた小さなつぶやきは、俺の耳に入るには小さすぎた。問いに対する答えを持たない俺は、そう思うことにした。スマホのコールが鳴る。
「そろそろ由比ヶ浜たちと合流するか」
「ええ、そうね。いつまでも待たせるわけにもいかないし」
抑えきれない敗北感となぜか納得している自分。それすらみない振りをして、俺は雪ノ下の後に続いた。