「…どうぞ」
雪ノ下はドアの向こうの来訪者に声をかける。
「邪魔するぞ」
ドアが開け放たれる。そこには手を腰に当てた平塚先生がいた。
彼女は部室をうなずきながら見渡すが、三浦を見つけると口をぽかんとあける。
「…君はなぜここにいる」
直球で問われた三浦は、少しバツの悪そうな顔をする。確かに、彼女がここにいる理由はもはや俺にも明確ではない。しかし奉仕部という空間には彼女の存在はもはや当たり前だったためか、誰も口を開けない。
平塚先生は言いよどむ三浦を、ため息をつく雪ノ下を、苦笑いを浮かべる由比ヶ浜を、そして何も言えない俺を見渡し、さも愉快そうに笑う。
…うるせえ。理屈で説明できることだったら俺も苦労はない。
「依頼人の紹介に来たんだが、いいかね」
ひとしきり笑った平塚先生は一転真剣な面持ちとなる。
「内容と依頼人によります。私たちが力になれることで依頼人が望むのであれば、手を貸さない理由はありません」
雪ノ下は当然のことを告げる。
「ふ。相変わらずだな。…まあいい。おい、入ってきていいぞ」
平塚先生の呼び出しに応じて、ドアが開く。しつれいしまーす、というほんわかとした声が聞こえる。ひらがなでしつれいしまーす、な。おでこはつるりんと光り、前髪がピンでとめられた女生徒が教室に入る。
生徒会長の城廻めぐり先輩だ。
そして後ろからはもう一人見慣れない女生徒が。
「し、失礼しまーす…」
控えめに間延びした声。亜麻色の髪が揺れ、うるんだ瞳がこちらをとらえる。一瞬見慣れた視線をその少女から向けられるが、三浦を見て彼女の顔は歪む。
「げ、三浦先輩…」
「あ?あんたサッカー部のマネージャーの…一色だっけ。げ、ってなんだし」
三浦は彼女の言葉に食い掛る。まあ、一色なる人物の気持ちはよくわかる。俺も教室に入ってこいつがいたら同じ反応をするだろう。
「あ、えーと、確か三浦さん?三浦さんもこの部活入ったの?」
今日もほんわかオーラを隠しきれていないめぐり先輩は、三浦に不思議そうな顔を向ける。ああ…今日はめぐりんパワーを注入できたから、きっと頑張れる。八幡超元気。
「え、いや、えーと、別にあーし部員とかじゃないんだけど…」
そんな癒し系100%のめぐり先輩を前にし、三浦は顔を引きつらせて2、3歩後ずさる。羨望、嫉妬、畏敬、好意。そんな感情にさらされている女王も、めぐり先輩のゆるふわオーラとは相性が悪いらしい。
「そうなの?じゃあ遊びに来てるとか?」
めぐり先輩は顎に手を当てて三浦の顔をのぞき込む。そこにあるのは純粋な疑問だけで、なんの裏も感じ取れない。三浦は半歩詰め寄っためぐり先輩から、同じだけの距離をとる。
「あ、そうですよー。今からちょっとこの部への依頼についての話するんで、三浦先輩関係ないなら遠慮してもらえますかー?」
弱みを見せた三浦を前に、一色が満面の笑みを浮かべて追撃する。…いい性格してんなこいつ。
「そうだな。私も少々それについては気になっていたんだ。…君たちの席の並びを見る限り、どうも三浦が由比ヶ浜についてきて時間つぶし、というわけでもなさそうだ」
平塚先生は俺たちの椅子に目を光らせる。席順は長方形の机の両端に俺と雪ノ下。雪ノ下に寄って隣り合う由比ヶ浜。ここまではいつも通りだ。そして三浦は、俺の隣である。…いや、あのゆるゆり空間に入り込めないだけだと思うんだけど。
「そ、それは…」
三浦は今度は少し頬を染め、上目遣いで俺に視線を送る。ちょ、やめろ。俺を面倒に巻き込むな。
「あ、ほんとですね。三浦先輩ってこの冴えな…目つきの鋭い人と仲いいんですかー?」
一色がまたもニヤニヤと三浦を見る。おい、この子今冴えないって言いかけなかった?そのフォローで目つきの鋭い人って、目が腐ってると言われた方がまだましなんですけど。
俺は裏が見えすぎる裏表の激しい一色を前に辟易としつつ、大きくため息をつく。
「その辺にしておきませんか。さっさと依頼の内容を話してください。…残業代は出ないんですから」
壁にかけられた時計の長針は、すでに最終下刻時刻の30分ほど前を指していた。窓の外の景色は赤く燃え上がり、今にも夕闇が教室を飲み込もうとしている。
窓の外を見て吐き捨てた俺に、平塚先生は柔らかい瞳を向ける。
「ほう。…この空間にいる三浦は、君のサービス残業の結果じゃないのかね」
俺はその瞳を横目で見る。しかしそこからは裏も表も読み取れない。やはり、年季が違う。口には出さないが。
「…たまにはボランティアもしないと、部も名前負けしますよ」
「ふ。らしくなく殊勝なことだな」
平塚先生は笑いをかみ殺しながら、いつものように高飛車に言う。くそ。何も言い返す言葉が浮かばない。俺は三浦がここにいることに対する正当な理屈を持ち合わせていないのだ。
そもそも。俺は思い直す。どうして俺がここまで頭を悩ませなければならないのだ。今追及されるべきは三浦であって決して俺ではない。
恨めしい視線を三浦に向けると、顔を赤くした彼女と目が合う。
「あ…」
小さく一言発し、三浦は袖を握りしめてうつむいてしまう。そんな彼女を俺もそれ以上見ることはできず視線を逸らす。…やっぱこいつ打たれ弱すぎないか?
「むー…」
「…」
そんな俺たちを見比べてなぜか由比ヶ浜は頬を膨らませ、雪ノ下からは冷たい視線が刺さる。ちょっと、なんで俺が悪いみたいな雰囲気になってんだよ。俺は悪くない。三浦優美子が悪い。
「まあ、そろそろ本題と行こうか」
何が楽しいのかまだ笑っている平塚先生はちらりと時計を見てこちらに向き直る。だからさっさとそうしてくれと。
「話をまとめると」
平塚先生の話を聞き終え、雪ノ下が口を開く。
「不当に生徒会長に推薦された一色いろはさんが当選しないようにすればいい、ということですか?」
「まあ大まかなところはそう――」「――そうなんですー。ほら私ってそういう人前に立つのとか無理じゃないですかー」
平塚先生の言葉を一色が遮る。さえぎられた先生は「フ…」と笑い余裕を見せるが、その額に小さく立った青筋までは隠しきれていなかった。…この人も教師じゃなかったら一色みたいなタイプとは仲良くなれないんだろうなぁ。いや俺もですけどね。
「そうなると対抗候補を擁立するしかないわ。ただ…」
雪ノ下は言葉を濁す。その方法は正攻法で至極理に適っている。しかし。
「時間と人材がない。そもそも立候補するようなやる気のある奴がいるなら、もうしてないとおかしいだろ」
俺は彼女の言葉を引き取る。
「ではあなたにはほかにいい案があるというのかしら」
「ある」
少しいらだった雪ノ下の質問に俺は即答する。
「一色、推薦人の演説は誰がやるかは決まっているか?」
突然声をかけられ一色は一瞬肩をビクリと震わせる。…別に話しかけただけなんだが。
「いえ、まだ決まってないですよ。…そもそも私を推薦した連中がそんなことすると思いますか?」
一色は笑顔を崩さないが、厳しい目を俺に向ける。わかっているが一応の確認だ。
「なら話は早い。推薦人の応援演説で一色が落ちるように仕向ければいい。それなら一色へのダメージも少ないだ…」
「はあああ?」
俺が一息に言い切ろうとした瞬間、予期していた人物からの横やりが入る。
「あんた何勝手なこと言ってんの?なんで一色の問題を一色じゃない人間が背負わなきゃいけないわけ?それっておかしくない?」
部室に沈黙が降りる。誰も三浦優美子の言葉に反論できない。
三浦が言ったことはどこまでも正論であり、なによりも正しかった。はっきりとクラスで孤立しているわけではない、むしろ人気者の地位にいる一色がクラスの一部とはいえ、女子の集団からそこまでの恨みを買うのは正常ではない。皆彼女にも何かしら背負う責任があることは分かっているのだ。
しかしそれは普通言えるものではない。それを言ってしまえば一色を、依頼人を傷つけるかもしれない。正確に言うならば、自分が「傷つける役」を担わなければならなくなる。他人を助けるために自らが嫌われるのはわりに合わない。皆そう考える。
やはり似ているのかもしれない。
「魚を取ってあげるんじゃなくて、取り方を教える」
誰かがそう口にした。その誰かに皆の視線が集まる。
「ヒ、ヒッキー?」
「比企谷君…」
声の正体は俺だった。
そう。それが奉仕部のスローガンだったはず。基本理念だったはず。原則だったはずなのだ。しかし誰もがそれを忘れていた。いや、見ないようにしていた。やってみればわかる。実際に魚の取り方を教えるのは、魚を捕ってやることの何倍も難しく、何倍も面倒なことだった。
「な、なに?あーしなんかまちがったこと言った?」
三浦は周りの突然の注目に慌てる。
「いや、お前が正しい。一色にだって責任をとらせるべきだ」
つい笑いが込み上げる。俺たちが迷って、けん制し合うような事柄がこんなに簡単に片付いてしまうとは。こんな一言でわからされてしまうとは。
「そ?ならあーしとりあえず最初にやりたいことあんだけど」
「…い、一応聞くだけ聞いておこうかしら」
不敵に笑う三浦に対して、雪ノ下は震えた声で問う。
「まず手始めに」
気づけば全員の視線が三浦に集中していた。主導権を握れたと思ったのか、女王は満足そうに笑う。
「一色のクラス行きたいんだけど。あーしそういうインケンなの大っっっっ嫌いなんだよね」
残念なのは「陰険を」漢字で言えなかったところくらいだろうか。平塚先生は厄介事になる前に出て行ったのか、すでに部室から消えていた。…あの教師。
「ちょ、ちょーっと待って。優美子いったい何する気なの…?」
恐る恐る尋ねる由比ヶ浜に対して三浦は当然のように答える。
「殴り込み」
ひええええええええええ。
悲鳴は誰から聞こえてきたものだろうか。恐らく心の中では全員が思っただろう。
もちろん俺も例外ではない。
「邪魔するし。一色さんを会長に推薦した人たちってこの中にいるー?」
翌日。三浦由美子は一色のクラスを直接訪問した。もちろん俺を伴って。完全にとばっちりである。もう少し策を練ってから行くべきだと思うのだが、彼女の辞書に「精査」という二文字はない。
突然の女王の来訪にざわめいた一年生たちに三浦は優しく微笑みかける。
「何ビビってんの?安心しろし。別に取って食うわけじゃないって。ただあーしの男とろうとした一色のこともっと知りたいってだけ」
ヤンキーの唐突な優しさは人の心をほだす。詐欺師が詐欺の時に、不良がカツアゲの時に使うのと同じ手である。最初に脅し、後で優しさを見せる。その落差は高校生程度であれば簡単に落ちてしまう。そのヤンキーが、いやここではさらに上位の存在、女王が自分の味方になりそうなのであればなおさらである。
さらに言えば、三浦が葉山に告白したことはすでにかなりの範囲で知られているはずの事柄だし、由比ヶ浜によると一色が葉山を狙っているということはさらに広範囲に知られているという。三浦が一色を敵対視する一年生に協力を仰ぐのは何ら不自然ではない。
まだ警戒している様子の彼らに、三浦はとどめの一言を放つ。
「会長に無理やり一色を推薦してくれたの、ほんとありがたかったよ。その子たちと仲良くなりたいと思ってきただけだし」
普段の彼女からは考えられない猫撫で声に、思わず噴き出しそうになる。雪ノ下を連れてこなかった理由はこれか。
「あ、あの、私たち…」
5人ほどの女子のグループが三浦のもとに集まる。三浦は笑った。恐らく彼女たちにではない。ただ笑いたかったから、上機嫌だったから笑ったのだ。しかしその笑みは憐れな一年生たちには自分たちに微笑みかける聖母のように見えたことだろう。
「ねえ、あんたたち」
集まった一年生たちを眺め、三浦由美子は静かに口を開いた。
「一色を会長に推薦したやつほかにだれがいるか知らない?あーしも一色とはその…いろいろあってさ。教えてほしいんだけど」
そのあとは芋づる式だった。
「邪魔するし」
だから何なんだよその挨拶。部室に入ってきた三浦と俺に、奉仕部の二人と一色、平塚先生の視線が刺さる。
「はい雪ノ下さん、これ一色の推薦を根回しした人間たちのリスト…ヒキオが作ってくれたから」
「あ、ありがとう…」
文庫本を読んでいた雪ノ下は三浦を一瞥し短く礼を言う。さりげなくまた仕事をしてしまった。休ませろ。
「これ持って職員室行けばさすがに一色の会長への推薦は取り消しになるっしょ」
「確かにそうかもしれないわ。しかしそれでは…」
雪ノ下が言いかけて口を閉ざす。
そう。対立候補が擁立できていない現状、一色が選挙を降りるということは生徒会長候補が不在になってしまうということだ。しかしそれは建前上まちがったことではない。そもそも生徒会など生徒の自主性で発足すべきであり、やる気のない人間がなっても意味がない。しかしそうなると困る人間もいるのだ。
言いにくそうにしている雪ノ下の言葉を俺が引き取る。
「選挙までそう時間がない今、他の会長候補を立てるのは難しい。しかしそうなると生徒会選挙という行事自体が立ち行かなくなる。学校は伝統と形式美の塊だ。形だけの選挙でもなくなれば責任問題になる。…ですよね」
俺は横にいる平塚先生に目をやる。彼女の顔が渋くなった。
平塚先生は一色が生徒会長に不当に推薦された旨を話した時、俺たちに言った。「やらかした生徒はこちらで指導しておく」。いじめ問題には異常なほどデリケートな現在、そんなことをやらかせば普通は一色の立候補自体取り下げられるべきだろう。しかし彼女がまず提示したのは「一色を選挙で負けさせること」だった。
つまりどんな形でもいい。「生徒会長」となる人物が必要だったのだ。
彼女はらしくもなく目を伏せる。
「…ああ。私の都合で難題を押し付けてしまってすまない。しかし今年は会長候補が一色のほかにまったく現れそうもないのは事実だった。君たちならばなんとかしてくれるのではないかと頼ってしまった。…教師失格だな、私は。本当にすまなかった」
「そ、そんなことないですよ!悪いのは一色さんを推薦した人達ですし…」
頭を下げる平塚先生に由比ヶ浜がフォローを入れる。恐らく彼女も上の圧力に従わざるを得なかったのだろう。加えるなら伝統とやらを重んじる学校というシステム自体の圧力にも。彼女一人に責任を押し付けるのは確かに正しくない。
「しかし現実問題としてここで一色さんを生徒会長候補から降ろしてしまうと、生徒会選挙が立ち行かないのも事実よ。…どうしたものかしらね」
「あんたら何勝手に話進めてるし。解決方法なんて最初っから決まってんじゃん」
こめかみに指をあてる雪ノ下に、三浦は何でもないように言い放つ。
「へぇ…そう。そこまで言うからにはそこの男が提示しようとした愚策よりかはましなのでしょうね」
「当然っしょ」
彼女らは不敵に笑い合う。あなたたちの仲が悪いのはどうでもいいんですが、ついでのように俺をディスるのをやめてください。
「聞かせてもらおうかしら。その方法を」
改めて聞く雪ノ下に、三浦は当然のように言った。
「あーしが会長に立候補する」
部室にいる全員の目が点になったのは、言うまでもない。