全体を見回せば船団のリーダーとしては気を引き締めなければならない状況だった。護衛組のほうにこんなのは二度と嫌だなという空気も漂った。気が抜けて一気に疲労感が表に出て来たのだろう。
「第二層が開放されたあと、鍛冶のみなさんをはじまりの街まで送る予定なんですが、もしかして護衛のみなさん手伝ってくれないことになりますかね?」
「あ、わたしはやりますよ」
何人かが手を挙げた。鍛冶組の人達がどこか不安そうに見回したのでそれに答えておく。
「ああ、逆向きは行きほど人数要りませんから。今日トールバーナで待ってるうちのメンバーも逆向きは同行しますし」
まだ不安そうにしているのが数人。彼は肩をすくめてみせた。
「昨日のあなた方を減った人数で、となるとあれですけど、明日のあなた方の護衛ですから」
鍛冶組護衛組双方に苦笑が広がった。自覚はあるのだろう。護衛のされ方、というものがあることを皆で実感していたのだった。
体力はともかく、集中力のほうは回復するのに少し時間が掛かる。交替で休憩してから彼は言った。
「さて。気を引き締めていきましょうか。……まあ、僕もあらかた終わった気になってんですけどねえ」と首を振りつつおおげさに溜息をつく。
のってくれるのはシムラあたりかなと思っていたら、シムラには音沙汰が無かった。代わりに護衛の一人から、
「嫌なフラグ立てんなや。でも実際、こっから先なんもないだろ?」
「カメが道塞いで難渋してるところにクロヒョウが上から降って来るとかどうです? そういえば、似たようなことがついさっきありましたね」
「……マジやめろや」
まだ疲れた表情ながら立ち上がった護衛の顔は引き締まったのだが、代わりに鍛冶組の顔色がかげった。
「ああ、心配は要りません。そんな可能性がほとんどないから問題なんですけどね。トーチカがこっち向いて道塞いでるほうがありそうです」
「イナフかー、そっちは来るんじゃね、むしろ楽しみなんだけど」
「出て来ても困らないから出て来ても構わないっちゃ構わないんですが、僕としてはモンスターなんてもん、この先に一匹も居なくて良いんですけども」
「あんたの立場だとそーだろうなぁ」
彼はリアカーの把っ手を大事そうに抱えている戦う鍛冶屋の片割れ、セドに向き直った。リアカーもここから先は不要になる。
「リアカー捨てましょうか」
「せっかくここまで持ってきたんだ、もったいないから引いてく」
シムラのほうは変わらずリアカーの上でダウンしていて返事がない。このままリアカーで引かれていくつもりだろうか。別に怪我したとかではないので、戦闘は無理でも鍛冶屋待遇で歩いてもらうぶんには問題ないはずである。
「……いや、いいんですけど、本気で?」
死んだ魚のシムラに助けを求める。シムラが仰向けにねっころがったまま顔を少し上げた。
「そもそも俺達は鍛冶屋だ。戦闘能力に期待しちゃいけねーんだぞ? 分かってっか?」
「いやあ、その節は大変御世話になりました」
「……てめーこそ、よくこんなもん引いて歩いてまわる気になったな? 酔狂通り越してバカだと思う」
「あー、体験学習というやつですか。まだ貧乏してた時に《鼠》さんに売る実験データ作りで持ち歩いてたやつですから、酔狂というか、死に物狂いの部類ですね」
「そういうことか。宝くじ当ててウハウハかと思ってたが、最初はそれなりに苦労したんかね。俺も《
寝返りして俯せにべったりとリアカーに伏せた後、彼はのっそりと起き上がった。リアカーを捨てる案に賛成したということかと思ったが、セドには何も言わず、彼もそのまま引いてくるつもりのようだった。しっかりと把っ手を胸に抱えたまま立ち上がる。キタローと目が合って、ふたりでしょうがないなという顔をした。
シムラが最後尾でリアカーを引くセドから離れて先頭のアーランに近寄って来た。
「率直に訊くんだが、あんたが育てた鍛冶屋ってどいつ?」
その瞬間、ほとんど全員の耳がこちらにむいたような気配があった。
「率直に答えると、黙秘させていただきます」
「うん、まあ、そうなんだろうけど。あのヘタレ野郎でないことは分かっているんだが」
「最初から囲われてますもんね」
「ヘタレ野郎で分かってしまうのはリーダーとしてまずくないかい?」
「おお、失言でした。忘れてください」
「俺たちでもない」
「あなたの知らないうちに足長おじさんやってたかもしれませんが?」
「あれ、俺たちのデータじゃねーよ」
「そうですか」
重大な示唆が含まれている発言だった。シムラのこれまでの言動と合わせてみる。
「戦う鍛冶屋さん……か。戦うほうも大したものでしたが、鍛冶の力量のほうも大したものなのでしょうね?」
「おう、相当なもんだと思うぜ?」
ホラという顔ではないんだよなと思いつつ、彼は後ろを振り返って、手を上げた。
「この人が鍛冶ナンバーワンだと思う人、手を挙げていただけますかー」
誰も挙げなかった。
「ノリ悪いな、クッソ!」
言葉のわりに楽しそうにアーランの上にかぶさるように乗っかった。
「いや、わりとマジで止めて。警戒中なんで」
左右に離れてガードに当たっている数人もやや非難の目付きを強めてシムラを睨む。
「おう、すまん」
シムラも少し離れて落ち着く。
「実のところ、どいつかは分かってんだけどな」
「そうですか。出来れば黙秘でお願いします」
リズベットの言動にアーランは一々チェックを入れていない。そんなことをすれば彼の挙動でバレる。だから彼女のほうで何かしら証拠になるようなものがあっても彼には分からない。
「そこは、ほう誰だか言ってみろ、じゃねーの?」
「その必要はないでしょう」
彼は固い表情で答えた。シムラが自分も NPC 鍛冶のラインを越えたと暗黙のうちにアーランに告げ、アーランも彼に素晴らしい鍛冶屋がここにも、と驚いてあげた。これが誤解でないのならライン越えを自力で達成した彼らに賞讃は惜しまない。ただし、リズベットのためなら彼、もしくは彼らを生贄に差し出すことを厭うつもりはなかった。
そこに威嚇を感じたかどうか、シムラは少しだけ大人しくなった。ただ、こういう男が哀愁に満ちた顔をしていてもアーランとしてはあまり同情する気にならない。守るものがある時は特に。
「黙っててやるから、もひとついいか……?」
「なんでしょう?」
「丁寧語キモい。ふつーに喋れね?」
困惑気味に見回すと結構な人数が頷いていた。率直に話を聞いた戦う鍛冶屋シムラとセドのコンビはともかく、丁寧に話を通していたはずの前線組まで頷いていたことにショックを覚える。
「正直、あんたの戦闘指揮に期待してた奴は居ないだろ。前線に出入りしてたっつっても商人やってただけだし。企画したあんたを尊重はする、という程度のまとまりでもトールバーナにたどり着くくらいならなんとか、という計算が出来た奴しかここには居ないんじゃないか」
数人がそっぽを向いた。護衛組のサーシャという女性が「そういうのは違いますよ」と怒っていたくらい。彼は思う。「尊重」まで持っていければ勝ちなのだ。なにしろ目の前にぶらさげられた経験値稼ぎの機会を奪い取ることになるたびに戦々恐々としている身である。フラットカンデリア戦の撤収指示がついに出来なかったくらいだ。
「ぐだぐだになってねーの、そろそろ誇ってもいいんじゃねえかな」
鍛冶組に指一本触れさせていないことは誇れるかもしれないが、それくらいである。期待値の低さにアーランは眉を上げた。
「攻略組の人相手に指揮するのって恐いんですよ? タメ口とか無理ですって」
「うそつけ。あの《鼠》相手に五分以上の立ち回りって本人泣いてたぞ。泣きまねだったけど」
「片側だけの証言を採用するのは公平を欠くと思うんですが」
前線から来た一人が横から口を挟んだ。
「うん、まあ、あの《鼠》が冗談半分にせよ泣き言を洩らしたってところが君を信頼する根拠の一つになったことは間違いない。バラバラの二十人を引き連れて歩くんだ、それくらいの肝っ玉は欲しい。どんな暴虐野郎かと思っていたら、これだからちょっとびっくりしている」
男は目を細めた。
「しかし、自覚はあるんだね。驚いてない」
そう言いながらも彼の目は笑って、非難はなかった。アーランも失敗は認めるとする。肩をすくめて、
「驚いててもこんなもんですけどね。向こうに失言があったので、それで情報をおもいっきり値切っただけなんですが、アルゴは何て言ってました?」
「ちょっと図に乗ったら大口取り引きで八割引きさせられたと言っていたな」
「八割……も、行ったかな? その後も普通につき合い続いてるんですよ。そこまでやられたら敬遠するんじゃないですかね」
「《鼠》がそういう嘘をつくとは思わないな。そうだな、八割引きの大損はそれとして、その後にあるていど取り返したとかそんなんじゃないか?」
「うん、それはあるかもですね。コネが無くなるのは恐かったから、わりと大盤振る舞いした自覚はあります」
「なるほどね。で、善処してくれるかな」
「話戻しますか。……善処しましょう。善処するさ? 善処するよ?」
語句に混乱したアーランを、皆は少し笑った。
とはいえ、前線組に対してにせよ、鍛冶組に対してにせよ、そうそう変わるものではなかった。鍛冶組に対しては守るべき客であるという意識があって丁寧になるし、前線組に対しては自然に敬意が出たからである。
その後、十分もたずにシムラはふたたびリアカーの上の人になっていた。やはり怪我ではない。
「あいつヤベぇ……このしうち……」
気安く右に左にと振りまわされての連戦の精神疲労である。抗議の声さえ弱々しい。
「タメ口でレスポンスが上がったのかと思ったが、そういえば君達も守られる側から守る側になったんだな。そりゃ楽になる」
イタチを蹴り飛ばしながら、わははと笑うキタロー。似たような感じで《鼠》もやられたんじゃないかね、と続けた。
「あの男に皆が従う理由の二つ目、これで君も実感したわけだ」
「そーゆーのは先に言ってくださいよ……」
飛んで来たイタチをポリゴンに変え、リアカーの横で息を整えたサーシャがフォローに回った。
「でも格好良かったですよ、戦う鍛冶屋さん」
「そらー、目の前に次から次へとモンスター出るんだもんよ……わりと必死。あれって予測とか出来るもんなんですか?」
「君から見るとそう見えるか。あれ、陣に穴が開いたところに君を回してるだけだぞ……まあ、わざわざ遠くから走らされてるのは同情せざるをえない」
わざとらしく首を横に振った。しかし振り回されたシムラに同情的なプレイヤーは少ない。うざいプレイヤーを静かにさせておこうとアーランが思うのも仕方あるまい、というものが多い。よせあつめの指示系統のひ弱さは誰もが思っていることだ。
「経験値稼ぎにもなったじゃないか」
キタローはリアカーの柵を軽く叩いた。それが理由でアーランの指示を断らなかったシムラは黙った。そのまま水から煮られたカエルになるとは思わなかったのである。休憩を指示されるまで当人だけが嵌められたことに気付いていなかった。
「君の場合、地道にレベル上げもだな。消耗が早すぎる。先々辛いぞ。攻略組に来るんだろう?」
丘のすそを進んでいた道がやや右に折れて丘を登りはじめるようになって風景が一変した。アーランは確認のためにもう一度セドに尋ねた。
「やっぱり、まだリアカー持ってくの?」
「うん」
「でもさ、両手塞がってるだろ? 上からが厳しくないかい?」
アーランがティクルとリアカーを引きながら来た時は二人で引いて、二人とも片手を空けて対処した。両手が塞がっていると上からの奇襲を見逃した時が恐い。シムラに目で頼むと彼もおとなしくリアカーを引くのに回った。
ここからは千枚田もとい千枚沼とでも呼ぶべき湿地帯である。ゆるやかな傾斜地にあちらこちらと広葉樹が生えており、道は左右にうねりながら所々でちょっとした林の中を突っ切っていた。道を外れた脇に、妙に平らな丸い草地が見えることもあって、それは沼に水草がみっしりと生えた姿である。踏み込めば腰まで沈むし、中にはレベル 1 相当とはいえ半水棲のモンスターもいて数も多い。沼と沼の間の傾斜地の部分には、沼同士を繋ぐような形に細い小川・水路も見ることができた。
モンスターの主要なものとしてはシャドウイーター。姿・動きともクロヒョウに近い。普通に道などにポップするもの以外に、樹木の上に隠れて待ち構えているものもいた。このモンスターには、周囲から暗いところに入ると、たとえば樹木の繁みの中とか人の影に入ると、主なスペックが三割ほど上昇するという特徴があった。パーティで固まっているところに飛び込まれ、人影から人影へと飛び移るようにして次々にプレイヤーへ攻撃を加えられて撤退をよぎなくされたパーティは多い。ベータテスト時代は一割程度のアップだったこともあって、元ベータテスターも速度の変化に慣れるのに苦労することになった。
頭上からの急襲は対処が難しく、多くの被害者を出したあとに道を避けて草地を進むことも試みられた。現在この湿地帯が通りぬけられるのは、この方向の研究の成果である。一種の迷宮・迷路なのではないかと人々が思うようになったのは、こういったルートが幾つか開拓された後のことであった。
「怪我人も居ないんで、普通に途中で少し道を外れる標準コースで行きます」
標準コースというのは、道の両側から枝が伸びて来る領域を徹底的に回避して何度か草地を回るルートである。かなりの遠回りだが、このほうが楽なので今はルートとして標準化した。
リアカーを草地で転がすのは難しく、道なりに行って上からの襲撃をケアするか、さもなくば草地はリアカーを持ち上げてもらうかの二択だったが、アーランは後者を選んだ。もちろん素直に捨ててもらうのが一番楽だし、音を上げて諦めてくれれば角も立たない。何も言わないのにオマケ二人組がリアカーを支えてあげているのは、まあ、むしろ空気読めとか思ってしまうが、彼が何か言うところではなかった。
標準ルートなら上からの襲撃を強く気にすることもない。中央に鍛冶組を置いて周囲に護衛組という工夫も何にもない構成で事足りて、皆も余裕があった。鍛冶組がちゃんとモンスターを恐がって身をすくませてくれるので面倒が見やすいということもある。護衛組の表情から刺々しさが抜け落ちて自然に雑談も増えた。
「な、なんかポチャって飛んだっ」
「ああ、スワンプピラニアです。食べると美味しいらしいですが……ルファーさんのパーティとか、いっぱい持っていたり?」
パーティが固まって長く、蓄積物資が多そうな派遣組の一人に尋ねてみた。
「おう、山ほどストックがあるぞ……当分、魚には困らんな。リトルタータスもあるぞ」
リトルタータスも沼のモンスターで、六本足の小さなカメ。レベル 1 未満で攻撃能力は誰にとっても脅威ではないものの、甲羅を踏みつけて足を滑らせたところをピラニアに襲われかねないというトラップ代わりのモンスターである。ホルンカとトロンダの間は、こういった組で脅威となるモンスターが多い。
「た、食べるんだ」
「レストラン持ち込みで調理してくれるらしいな」
「料理スキル持ってる人少ないから自前ではな……アーラン、今度は料理スキル持ちを育成してみないか。第二第三の育成本を出版するんだ。さあ早く」
「キタローさん詳しそうですね。言い出しっぺということでよろしく」
「うちのリーダーそういうの認めてくれなくて」
しゅん、とするキタロー。そりゃあそうだろうよ、という声があちこちから上がった。まだ少し判断材料が足りないか、とアーランは思った。彼のリーダーのキバオウ氏が知られた顔なのか、それとも今上がった声が常識的判断なのか。キバオウ氏の人となりはメッセージでいくらかやりとりした以上のことを知らない。攻略に邁進するだけというタイプには見えた。
「そういやカメってったら、フライングアーケロンっての、ここに居るよな?」
高レベルになるとレベル上げが難しくなってくる。ラージネペントのような設定上は地雷モンスターを狩ってレベリングということになるのだが、フライングアーケロンもその一つだった。まだシムラは狩ったことがないらしい。護衛組の一人がぼやいた。
「あれを相手にしてると虚しくなってくるとゆーか、なあ?」
「ん? なんでです?」
レベリングした時も船団の下見でぐるっと狩ってみた時もアーランは別にそんなことは思わなかった。ジャンプする筋力のわりに手足細いなぁと思った程度である。
「ほら、このあたりのは敏捷性に振ると勝てそうじゃん」
「あー、アーケロン堅いから」
「そう、経験値の方向性がちょっと違うんだよ、あれ。苦し紛れにレベリングはしたんだけどさー」
その時、つんつん、とアーランの裾を誰かががつついた。振り返るとリズベットである。
「アーケロンって、カメよね?」
「ここから道をちょい向こうに外れた先の沼に居るカメですね」
「あんなの?」
脇をペタッペタッと這っているカメを彼女は指差した。リトルタータスである。十センチほどで小さいほうだ。誰も狩ろうともしていない。
「あれのざっと三十倍くらいの大きさです」
「でかっ! って、フライングってそんなのが空飛ぶのよね?」
「飛ぶっていうか、三回転半ジャンプみたいな捻りいれて跳ねてきます」
「あー、なんかあったわね、そういうの」
「ええ、まあ、そのイメージで合ってます。三メートルの巨体がブンっとうなりあげて飛んでくるのはなかなか恐いですよ」
「うむ、あれは恐いな。しかも剣が通らない」
「そーそー、そう聞いたがどーやんのそれ」
「シムラさんなら、砲丸投げで飛んできた砲丸をバットで大根切りするみたいな感じでメイスでブンなぐればいけるんじゃないかなー」
戦闘状況を想像しつつそう言えば、彼はアーランをまじまじと見つめて、
「うん、しばらく止めとくわ。無理」
黙りこんだシムラを横目で見て、オマケの片割れのギルガメッシュが、
「なあ、俺らは?」
「剣使いが倒す手順は攻略本に載ってるよ。君らならもう普通にいけそうだ……ちょっと」
道を逸れ掛けたギルガメッシュの首ねっこをキタローが掴む。
「こらこら、今から抜けようとしてるんじゃない」
「ソロでいけるとは言ってないから。ちゃんとパーティでやってよ?」
「いやいや、フリだから、フリ」
引きずられながら彼は降参とばかりに両手を上げた。
「さて、丘の上に出ます。トロンダ、トールバーナが見えますよ」
湿地帯を抜け稜線に立ち、大きく伸びをした。
「ああ、良い天気だ」
直径 10 キロの箱庭がほぼ一望できた。丘陵の北側はまた風景が一変し、岩や石ころが目立つ荒涼とした草原が現れる。そして浅い谷間地形の向こうの斜面にトロンダの村がみえる。トロンダは全体として南斜面の牧草地になっており、その稜線から少し右奥、とても目立つ太い迷宮区タワーの手前にトールバーナの白い城壁も見えた。あと 3 キロである。トロンダとの間の微かな谷筋を左に追っていくと、鬱葱とした西の森最奥部をかすめ、これまで通ってきた道筋に並行して南に下り、ホルンカ、その左奥に第一層最大の街、はじまりの街が広がっている。
迷宮タワーから右は陽の下で土地の色が灰色になってせりあがる。はじまりの街よりも広い鉱山区であり、その頂上は今いる丘よりもやや高い。ここから見ると天井までもう一声、というくらい。鉱山区を除けばこのあたりは第一層で一番高いのだろう。開けた北側のうねった丘陵地、西の森、南の街、東の鉱山、いずれも壮観な眺めだった。
そしてすぐに気持ちが萎んでいく。
茅場明彦は他人にソードアート・オンラインの
ソードアート・オンラインに閉じ込められた被害者達は茅場明彦を憎むのだろう。彼も憎む。ただ、そのベクトルはほんの僅かずれている自覚があった。
最後尾のリアカーのガタガタという音を耳にしてすこし脇に避けると、
「そっか」
リアカーを引いて登りきったセドが困惑したようにアーランを見上げた。はて、と前方と彼を見比べると、そういえば風で飛んできたのか道の上も砂利や石ころだらけだった。リアカーを転がすにはちょっと厳しいかもしれなかった。
ただ、この厳しさは護衛任務とは一切関係ない。本来の運搬クエストとしてもそのあたりをクリアしてこそだからとアーランは思い、これまでとは一転して彼は励ました。
「あとちょっとだから頑張ってみたら」
「……うん」
「てめー、俺の時と愛想がぜんぜん違うじゃねーか」
からんできたシムラに、すました顔で答えた。
「分割して統治せよってやつですね」
この北斜面にはモンスターは主要な、と言えるようなものはない。それほどレベルは高くないかわり、尖った能力をもつさまざまなモンスターがポップする地域である。一瞬でモンスターを見極め、適切な方法で討伐することが要求されていた。
が、今の派遣組にとっては、もはやどれがどれと区別するまでもなく物理でぶんなぐるだけの話であった。ここからトロンダ入りするまででいちばん苦労したのはセドであろう。
そしてトールバーナへの道筋。彼らは大型モンスターに全く出会わなかった。自力でトロンダまではたどり着いていたシムラはトールバーナの城門を見上げて呆然としていた。
「俺ら、ただ歩けばトールバーナに入れたんじゃ……」
全員が拍子ぬけしていたし、アーランも感謝感動を通り越して謝罪したくなるレベルに入っていた。キバオウ氏の素晴らしい仕事ぶりだったが、そんな彼らからメンバーを一人引っこ抜いたことになる。最初にキバオウ氏が禁じていたように、キタローさんにはお帰りねがって彼らには迷宮区踏破に専念してもらうべきだったろうか。
それと、シムラには訂正をいれておく。トールバーナの城門前に時々ポップするでかいのは、まだ彼の手にあまるだろう。城門に詰めて待ち構えていたプレイヤーが喜々として討伐してしまうこともあるが、不在なら自力で倒さなくてはならない。トールバーナのプレイヤーにコネを持たない当時のシムラ達では荒地に立往生ということになりかねないのだ。
物珍しそうに見物客が取り巻いている中、船団はトールバーナの広場で解散した。別れを惜しみつつ感謝の挨拶をしたあと、鍛冶の数名は地理が分からないということでティクルに連れられて確保してあった宿に向かった。護衛組も広場から消えた頃、アーランは無事終了のメールを幾つか送る。メニューを閉じ、
「終わったー」
ぐてっと彼はベンチにもたれ掛かった。
贅沢になったと思う。解散の別れ際に、わたしたち婚約しましたみたいな顔をして挨拶に来たところが二組。遅い昼食に誘われたが、まだ仕事があると断った。ひいき八百長出来レースと思われるのもつまらなかったからだが、前線組の食事の誘いとか昔なら間違いなくついて行っただろう。
彼は鍛冶師をトールバーナに連れてくるにあたり、トールバーナの地図を配布しなかった。それくらい現地で買う努力してくれ、というのもないではないが、せっかくだからとトールバーナ在住プレイヤーと入植プレイヤーを繋ぐ象徴になるよとスカウトさん達に耳打ちしておいたものである。ティクルについて行った鍛冶屋が少なかったのは、だいたいはトールバーナの地図について便宜を諮ってくれるような友人が出来たということである。先の二組は極端としても、計画は全体としても成功の部類と言えた。前半ドタバタしたあたりで吊橋効果もけっこうあったかもしれないが、
「別にそんなことを期待していたわけではないぞ」
なんとなく言い訳してみた。
ところで、彼はリズベットにトールバーナの地図を渡していない。最初から余裕をもっているとコネがバレるから、と彼は説明して彼女も頷いたのだが、その後のコピーさせてくれる奴が居なかったらティクルにコピーさせてもらえ、というのは余計な一言だったらしく、彼女に胸ぐらを掴まれて彼は男性にもハラスメント警告バルーンが出ることを知った。ティクルについて行かなかったところをみると彼女も無事コピーさせてくれた友人が出来たようである。貰ってないけど意地を張って道具屋を探しまわるという可能性もないではないが、そこまで嫌われてはいないと思いたい。
「眠たい。転移結晶ほしー」
首が折れて顔が上を向く。はじまりの街やホルンカと同じ青い空の映像だ。しばらくぼーっと眺めていると、メッセージの着信が入った。キバオウからだった。眠い頭のまま開く。大規模掃討感謝に対する返事で、レイド統率なんぞしとらんわ、というものだった。謙遜を受け取る気分でもなく、彼はメニューをそっと閉じた。
しばらくして今度は、腰を落ち着けたらしい船団メンバーからのメッセージに紛れるようにキタローとアルゴからメールが届く。短文のみのインスタントメッセージでなく長文可能なフレンドメッセージのほうである。アルゴのほうは内容に心当たりがあるので、先にキタローのほうを開いた。長文で読むの面倒だなぁと思いつつ文面を追う。だいぶ目が滑ったが、どうやら彼のリーダーから聞いた話を整理したものだった。
十秒ほどかかって内容が頭に浸透し、彼は身体を起こした。
本当にキバオウは掃討隊を募集したわけでも率いていたわけでもないらしい。追伸にリーダーにはタコ殴りにあったわははなどとあったがそれはスルーで良いだろう。掃討には彼らのパーティ以外に多数のパーティが参加していたとのこと。見掛けたと言う顔ぶれにはアーランの知らないプレイヤーやパーティもあった。
護送船団の到着時刻は別に隠してはいないがアナウンスしてまわったわけでもないから、一次ソースとしては護衛を派遣してきたパーティくらいなものだ、そう思って彼らに話した先を訊けば、これまた結構な数のプレイヤーに話していた。彼は頭を抱えた。
いくつか問い合わせているとティクルが戻って来て、ベンチの隣に座った。
「何かありました?」
説明すると、彼は少し考えてから昨日今日のトールバーナの空気について話した。そして、それは一種の祭だろうと。アーランは舌打ちした。
「迷宮区に入った時と出て来た時で人数違ってちゃびびるか……」
キャンプしているフィールドで人が死んでも分かるのは周囲にいる人達だけだが、人が滞留しているトールバーナでは朝と夕でパーティの人数が変われば分かってしまう。人が死んでいるのを、黒鉄宮まで見に行くまでもなく容易に実感できるのだった。
「具体的にはどれくらい?」
「日に十人くらい」
「死にすぎだろ。身体の面倒みてる看護士の士気まで落ちるだろうに」
ティクルも、あ、という顔をした。分かっていなかったらしい。そっちで出来ることはないから、と言っておく。
しかし、なるほどそれだけ亡くなればどれほどぼけっとしていても死者が見える。雰囲気が悪くなるのも当然だった。
「それで祭、か」
迷宮区攻略から目をそらす明るい話題が欲しかったということか。連れて来た鍛冶師がどれくらい攻略に役に立つかどうかはともかく。そういえばアルゴも迷宮区に話が移るとどんよりとしていたなあと。
彼は掃討参加者全員に直接感謝を告げるのを諦め、名前の挙がってきたパーティ及びソロ、それにトールバーナ在住が確定している知り合いに感謝メールを送る。力及ばず感謝メッセージが届いていない人もいるだろうから、心当たりがあれば伝えておいてほしいと言い添えた。
「あと、これボスの昼メシっす。食いっぱぐれたでしょう?」
アーランはティクルからサンドイッチの包みを受け取った。
「おお、ありがとう」
サンドイッチを一口かじって頭を切り換えて、アルゴからのメールがあったことを思い出す。内容をざっと見てティクルとタスタスに転送した。エギルのパーティについての最終報告である。
ティクルが開いて、アーランに尋ねた。
「なんすか、これ」
「とりあえず一緒にレベリングしないか提案してみようかと」
「あー、例の人達」
「やっぱ裏切られる心配しなくて良いってのは大きいから。ちょっと考えておいてみてくれ。僕はホルンカ行ってくる」
「いってらっさい」
アーランは走り出した。彼はこれからホルンカをもう一往復する。タスタスを迎えに行くためである。