早くも連載開始から一年が経ってしまいました。
可能であれば、今年には完結まで導きたいと思いますので、先年に引き続きお付き合いいただければと思います。
水面への落下の衝撃が、ダークドライブの防御性の許容を超え、エイジの臓腑を揺さぶる。息をすることさえ億劫になるほどの激痛が、温情なく体力を奪っていく。
泡がまとわりつく。
河川の激流が手足を拘束する。もつれ合う四肢が逆に枷となって、身じろぎすることさえ許さない。
それでも、せめて心だけでも。
彼はそう思って、手を伸ばす。否、伸ばそうとする。突っ張ったままのその手は、ただ痛みとともに流されるばかりだ。
誰か、誰か助けて。
最新鋭の鎧に護られているはずの英雄の中身は、今はただの無力な青年だった。
「この手を掴んで」
ふと、聞こえるはずのない声がした。
温かみのある、優しげな男の声音。
エイジはがむしゃらにその声の主を手探りし……暗く冷たい世界の中で、青い輝きと、硬い感触に行き当たった。
彼の手はぎゅっとエイジの手を握り返し、その肉体と精神を急浮上させていく……。
ハッとして、エイジはまぶたを上げた。
覚醒した彼の変身は、すでに解けていた。浅く呼吸をくり返す。急激に視界が鮮明さを取り戻していく。自身の頭上に、分厚い雲、その切れ目に覗く、星と月。薪の燃える音と臭いが、隣から流れてくる。指先には、川原の小石の丸い感触。
あれは夢だったのか。それとも今、自分の見ているものが、溺れる自分が見ている幻なのか。
「あ、気がついた?」
そのことを確かめるよりも先に、エスニックな服装の男が顔を覗き込んできた。人の好さそうな笑みを浮かべて、焚き木を背にしていた。その在りようは、俗世離れしていて、雲霞を食べて生きる仙人を思わせた。透明感のある声は、水中で聞いた声に似ている。
助けてくれたのはこの人か。そもそも誰なのか。
疑問は尽きないが、口にすることをエイジはためらった。
……何故か、パンツをくくりつけた枝が、傍に突き立ててあったから。
絶句するエイジの視線を、男も追った。
「あぁ、コレ? ただの荷物だから、気にしないで」
と言いかけた時、男の肘が枝に当たった。倒れた。
先端から落ちたパンツが、焚き火の中にダイブした。
パチリ、と火の粉が爆ぜる。
男は、キョトンとしてその様を見つめていた。
「あぁぁぁぁああ!?」
ワンテンポ遅れて、彼は悲鳴をあげた。
焚き火をかき分けたり、指でとろうとして熱さに悶絶したり、枝の先端で強引に引っ張り出そうとして、その狼狽ぶりを惜しみなく露呈させる。そうやって苦闘のあげくに手に入れたパンツは、もはや半分ほどしか形を留めていなかった。その穴から、彼の全財産らしき硬貨がすり落ちた。
「俺の明日がぁ〜……」
と、情けなく嘆いて項垂れる男に、エイジはため息をついた。
この人が助けてくれたか正体だとかよりも、気疲れの方が勝った。とにかく、関わってはいけないタイプの変人だ。
エイジは起き上がって彼に一礼すると、足早にその場を去ろうとした。
「泊エイジ君、だよね?」
その足は、名を呼ばれたことで止まった。
硬貨を一枚一枚拾い集め、それをパンツの残骸の上に置き、丁寧に折りたたんでいく。ズボンのポケットにしまう。
「叔父さんから聞いたよ。君、仮面ライダーだって?」
その横顔には、可笑しげな笑みが浮いていた。
何で知ってたのか、はなんとなく想像がついた。それでも、自分が仮面ライダーを名乗ることがそんなに笑えることなのか。エイジのムッとした顔に、男は軽く慌ててみせた。
「あぁ、ゴメンゴメン! 深い意味はないんだけど……偶然ってあるもんだなって」
しみじみと呟く彼の心底や背景は知りようもないが、そこにはエイジの邪推したような悪意は感じられない。
だが、この出会いが偶然ではないことは理解したから、エイジの声は強張ったままだった。
「叔父から頼まれたんですか」
「うん。剛君……君の叔父さんとは旅先で会ったんだ。お互い、似たような目的を持ってたから、それが縁で、気が合ったり情報を交換したりしてね」
「……ということは、貴方も」
大切な誰かを喪って、それを生き返らせようとしているのか。そう問おうとしたエイジに、男は複雑げに目を細めた。
「俺たちの場合、純粋に友達と呼び合えるような仲じゃないけど」
そして、彼は可能な限り、真摯な言葉で答えてみせた。
男は川べりに腰かけた。
「まぁ座りなよ」
エイジに、隣に座るように促す。
逡巡するエイジに、男は言った。
「まだ帰るつもり、ないでしょ。親と気まずい気持ち、俺にも分かるから」
彼の手つきや目は優しげではあったものの、反発しがたい力強さがあった。
ちょっとしたアクシデントがあって勢いは弱まったものの、火はまだ暖かく柔らかな光で辺りを包んでいる。
彼に従って隣に座る。ある程度の距離は保って。
だが、男はエイジに対し説得や説教はしなかった。ただ黙って、エイジが落ち着くまでニコニコとしながら見つめている。
次第に落ち着いていく、いやそう必死に念じたが、そもそもこうなったきっかけに立ち返ると、怒りと疑問もまた蘇ってくる。
長く続いた沈黙が、思わずその念を吐き出させた。
「……間違ってる……と思います」
「ん?」
「父さんも、叔父さんも……それに貴方も! 死んだ誰かにいつまでも縛られるなんて、間違ってる!」
父は、自分に死んだ『息子』の影を重ねている。代わりにしようとしている。そのくせ、彼が使っていた道具を用いることを許してくれない。
あまつさえ、叔父やこの人は、その相手を生き返らせようとしているという。それは、自然の道理に反する、ともすれば悪にもなりかねないではないか。
焚き火の音が弱くなってきた。風が強くなり、雲は再び星月を覆い隠す。
「……そうだね」
男は、エイジの主張に声を低めて頷いた。面と向かって否定自体は、しなかった。
「俺もさんざん悩んだ。君と同じことを、先輩に言われたこともある」
でも。
それでも。
彼は空へと右手を伸ばす。まるで、そこにある小さな何かを、掴むように、ぎゅっと指を折って握りしめる。
「あいつを生き返らせたいと思った。あいつがいたから、俺はまた旅に出られた。……過去にしがみつくんじゃなくて、明日へ進む力になるなら、誰かの死を抱えて生きることは悪くないと思う」
遠く天空へと視線を送る彼。その彼の横顔は、全てを受け入れれてもなお、自分の道を進まんとする確固たる信念に満ちていた。しかし同時に、危うさと儚さを併せ持っているようでもあった。
横顔を盗み見るエイジは、思わず彼の名を呼びそうになった。だが、この恩人の名を、エイジは今なお知らずにいる。
上から、エンジン音が流れ聞こえてきた。自分の真上で止まったその音は、クラクション音へと変化した。
顔を上げれば、心なしか見覚えのあるワゴン車が停まっていて、そこからふたりの男が出てきた。
顔までは確認できないが、叔父の好みの白いジャケットは、月の隠れた夜においてもよく目立つトレードマークだ。
「迎え、来たみたいだね」
火の始末をしながら立ち上がった男を、エイジは軽く睨んだ。
彼は人畜無害そうな表情で、飄々と小首をかしげた。
ひょっとして、今までのやりとりは叔父たちが来るまでの時間稼ぎだったのだろうか。だとしたら、温和そうな立ち振る舞いに反して、なかなかの食わせ者だ。
「じゃ、俺はもう行くから」
「待って!」
立ち去ろうとする彼を、今度はエイジが呼び止める番だった。
「名前、まだ聞いてなかったから、その……」
あどけなく振り返る彼に、タイミングを思い切り逃したエイジは言葉に詰まりながら尋ねた。
男は虚を突かれたように目を見開いたが、ふわりと微笑んでその質問を受け止めた。
そして、少しイタズラっぽく名乗った。
「俺も、エイジ。